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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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漂流民―水相におけるイグニスからネメス―
  ―2―


 2.

 未来からの手紙を頼りに、ウラルタは旅を続けた。真水の管理が杜撰な町では、出稼ぎ労働者に紛れて真水を得る事ができた。それができない時には、雨水を貯めた。幸い雨は多く、反面、それゆえ海上で危険に遭う日も多かった。
 船がひどく揺れる時には、無人の海堡に点る青い誘導灯が、手招く亡霊のように見えた。その向こうの黒く聳える町へ、船は溺れる人のように進んだ。

 船が町に着いても、ウラルタはなかなか降りなかった。小型船用の駅に船が繋がれた後も、体が上下左右に激しく揺さぶられる感覚が続き、ウラルタは木の椅子に腰かけて、背を丸め目を閉じていた。背後では、先ほどまで波に洗われていた窓が、今は雨に洗われている。その音に無言で耳を傾けていると、誰かが船内に戻って来て、前に立った。
 吐き気を堪えて目を開けると、人の手が、目の前に差し出された。
 僅かでも口を開けば吐きそうだった。ウラルタは無言で、差し出された手を握ろうとしたが、驚きに打たれ硬直した。
 差し出された手はつるつるで、木目があった。球体の関節が指を動かし、おいでと合図をくれている。顔を上げた。それは木彫りの人形で、顔には目と口の代わりに、穴が三つ開いていた。
 右目の穴から、一匹の蜂が橙色の顔を覗かせた。蜂は探るように短い触角をそよがせて、黒い大きな複眼でウラルタを凝視した。そのまま後ずさり、穴の中に戻った。木人形がどのような魔術に操られているのかは知らないが、敵意はないようだ。ウラルタが立ち上がると、ゆっくり後ろを向き、先導した。木人形が纏う外套は臭く、カビが生えていた。
 船を下りても、体が揺れている感覚は消えなかった。つんのめって這いつくばり、暗い屋根の下で、床から海に首を突き出して胃液を吐いた。
 木人形はその間、動かず待っていた。右目から、蜂が、身を乗り出して見ていた。心配しているようにも、動けぬほど弱ったら刺してやろうと目論んでいるようにも見えた。
 ウラルタは屋根がない場所に力なく歩いて行き、雨水を溜めるべく、水筒の蓋を外し置いた。海に向かってよろめいた時には、木人形はウラルタの服をそっと引き、支えてくれた。
 木人形が駅舎の戸を開いた。温かい空気が顔に触れた。駅舎の中にはストーブがあり、火に当たることが許されていた。
「……ありがとう」
 木人形は駅舎に入って来なかった。本当は人々の輪に交じって服を乾かしたかったが、隅のベンチに腰掛けるだけで満足する事にした。
「あんた、あれを見るのは初めてか?」
 ストーブの前に座る白髪頭の老人が、ウラルタを見て尋ねた。ウラルタは青白い顔のまま「はい」と応じた。
 会話は続かなかった。皆無言で雨が弱まるのを待っていた。雨音に、甲高い泣き声のような、不気味な声音が混じった。死者だ。一定周期で近くなったり遠くなったりする。駅の上を回っているのだ。
「去らんな」
 誰かが呟く。
「人を探しているのかもしれん」
 私のおじいちゃんは、あんな風に泣かなかったとウラルタは思い返す。あの日、おじいちゃんが迎えに来た時、私は。私は。
「早く夜に行けばいいのにねぇ。ここには何もない」
 老婆が憐れむように言った。
「どうしてあいつらは夜に行くんだ?」
「夜にはネメスがある」
 ウラルタの心臓が強く脈打った。
「ネメスの大聖堂図書館には、腐術の魔女が住んでおる。その魔女のところに行くという」
「作り話じゃねえか。ばあさん、それ、古い劇のお話だぜ。本当の事じゃない」
 若い男の言葉に、老婆は一旦黙った。死者は空で泣き続けていた。また吐きそうになった。頼むから、死者に黙っていてほしかった。
「よほどの未練があるんだねぇ」
 老婆が言う。
「自殺者かもしれんねぇ」
 自殺。その一言が、重く心にのしかかった。
 水相では、自ら命を絶った人間は、また人間としてこの水相に生まれてくる。何度も輪廻を繰り返すのだ。ただ漂流するだけの人生を。夜から逃げるだけの人生を。死なないように生きるだけの人生を。
 生への未練から。やり遂げられなかった事への未練から。
 未練。
 ウラルタは腕を抱き、その腕に爪を立てる。私に未練はない。家族もいない。友もいない。希望もない。
 それでも、自ら命を絶てば必ず、未練からこの世界に再度生まれるという。
 何への未練だというのだろう。それでも、何かをする為に、もう一度生まれたいと願うのなら、それは何なのだろう。ウラルタには不思議だった。
 生きる意味があるなら。私たちが、何かをするために生まれてきたというのなら。間違って生まれてきたのではないのなら。ただ産み落とされたのではないのなら。どこか高い世界から、落ちてきたのではないのなら。
 私は希望を探さなければならない。
「ネメスには死者を慰める術や、木を操る術があった。死者たちが滅亡したネメスを目指しているとしても、おかしくはなかろう」
 と、別の老人。
「木を操る術?」
「外の人形を見ただろう。あれだ」
「ネメスが滅んだのは陸が消えてすぐだと聞くぜ。そんな昔からあれが動いてるって?」
「そうだ」
 老人のしゃがれた声を、ウラルタは耳に意識を集中して聞いた。
「ネメスは木を操る術で栄えた。木は四六時中働いた。木は戦争にも行った。木は人間がわけもなく虐げ、壊しても、人間に尽くした」
 誰かが駅舎の戸を叩いた。部屋中が沈黙した。
 また叩いた。
 死者の泣き声が、その音に紛れて聞こえた。
「生きている人間なら、勝手に入ってくる」
 老人は、震える声で言った。
 ウラルタは静かに立ち上がった。誰もが背を丸めている。戸を開けた。木人形が虚ろな目と虚ろな口を開けて立っていた。
 駅舎を出て、後ろ手で戸を閉めた。
「どうしたの」
 木人形は静かに踵を返し、ウラルタを、彼女が水筒を置いた方に導いた。屋根と床の間に、雨音が響いていた。白い息を吐きながら、ウラルタは水筒を置いた場所にたどり着いた。
「溜まってないじゃない」
 水筒を拾い上げる。木人形は別の方向を見ていた。腕を上げ、暗がりを指さした。
 ウラルタは目を凝らした。目が慣れるまでに時間がかかった。
 木人形は、駅と町の入り口を繋ぐ桟橋を指していた。
 あっ、と声をあげた。
 桟橋の手すりとなっている片側のロープが、切れて海の中に消えていた。橋自体が斜めになっている。駅と桟橋は今にも分離しそうだ。
 ウラルタは今すぐにでも、自分だけ走って町に逃げこみたかった。その衝動を堪えて駅舎の戸を開けた。
「出てください」
 何人かが顔を上げた。
「桟橋が壊れそうです。危険です」
 そして耐えきれず、我先に桟橋まで走った。
 壊れていない方の手すりを両手で掴んだ。恐る恐る橋に足をかけると、予想よりはしっかりした支えが橋の下にあるのを感じたが、ウラルタの体重で手すりは海に向かって大きく傾き、心細かった。
 横歩きで町に向かって歩き出すと、何人かが事態を把握して、同じように桟橋を渡ってきた。桟橋がさらに、海に向かって大きく傾いた。
 幸いにも桟橋は短かった。ウラルタはすぐに町にたどり着いた。しっかりした床に立つと、恐怖で体中の力が抜け、四つん這いで水辺から離れた。
 駅舎を出た人々が、二人、三人と、次々に町に到達する。十人ほどがまだ駅に取り残されていた。
 その人々が、ほとんど間隔を開けず桟橋を渡り始めた。床板が、耐えきれず、大きく傾いた。人々の足が海に接し、皆大声をあげ、古いロープにしがみついた。
 ロープが切れた。
 悲鳴があがった。
 何人かは自力で町に泳ぎ着いた。先に町に避難していた人々が、彼らに手を貸して引き揚げた。
 ウラルタはまだ呆然とし、動けなかった。
 大波が来て、海に浮く人々の頭を洗った。海藻交じりの、緑色で、臭いにおいがする波だった。その波はウラルタにも飛沫を浴びせた。
 町から分離した駅が、波に乗って揺れて、為す術なく流されてゆく。
 駅が遠ざかった為に、遮られていた外の光が届き、視界が明るくなった。
 駅の縁に、あの木人形が立っていた。
 まだ海に浮く人々に、先に避難した人々が備え付けの浮き輪を投げる様子を、立って見ていた。
 木人形の目から蜂が出てきた。蜂は活路を探すように、ぶんぶんと飛んだ。けれど、大粒の雨と風にさらされて、すぐに木人形の目に戻った。
 木人形と蜂は、ウラルタを見つめ続けた。
 遠ざかってゆく。
 ウラルタも見つめ返した。
 駅舎が折り重なる雲と黒い海が接する彼方に吸いこまれ、ただの黒い点になり、ついに見えなくなってしまっても、まだ見つめ返していた。

 ※

 その後、雨脚はますます強くなっていった。ウラルタは防水マントを体に巻き、フードを目深にかぶって町を歩いた。大雨は、全ての町が頼りない船に過ぎない事を思い出させた。あちこちで、町がぎしぎしと音を立て、板張りの街路には苔が生えている。顔に雨がかからぬよううなだれて歩いていたが、周りの様子を確かめるべく、上目遣いに視線を上げた。
 白く霞む視界の向こう、この道の先で交差する別の通りを、一列になって歩く人々の姿が見えた。五、六人ほどだろうか。ウラルタは目を細めた。建物の陰に入り、消えてゆく。旅人だろうか。だとしたら一晩雨を凌げる場所を知っているかもしれない。ウラルタは走り出した。
「待って!」
 通りが交差する場所に出た。
 人々が消えていった方を見る。雨に紛れて、列の最後の一人が、奇妙に揺れながら、ゆっくり歩いているのが見えた。
「待ってください!」
 ウラルタが走り、靴底を街路に叩きつける度、水しぶきが弾ける。顔に風が当たり、フードが脱げた。視界が広くなった。最後尾の人が振り返った。
 その人は雨具を着ていなかった。
 近付けば、衣服さえ身に着けていない。
 体がやけに大きい。そして、全身が真っ赤だった。顔はパンパンに膨れ、目玉が飛び出している。舌が、固い棒のように、開ききった口から突き出ていた。
 死者だ。
 水死者。
 靴底で、水を吸いきった木の道が滑った。バランスを崩す。転ぶまいとして真横にあった民家の塀に手をついた。その塀は予想に反して、ウラルタが加えた力に耐えきれず、奥方向に動いた。そこだけ戸になっていたのだ。
 戸の先は暗い階段だった。
 ウラルタは声もなく、通りに手を伸ばしながら、階段を転落する。

「死してなおこの世を彷徨う屍になりたいか!」
 火の精霊王を祀るイグニスの寺院に、高等神官の低い声が響く。高等神官は老いており、しゃがれた声はどこか邪悪な響きに聞こえた。
「いいえ!」
 聴衆が唱和する。
 みんな老いているわ。ウラルタは思った。神官も、聴衆も。寺院に集まる人間は、老いているか、病んでいるか、幼すぎるかだ。そうでない人間は僅かな日銭を得る為に働いている。ウラルタもだ。祖父から継いだイグニスの侍祭の法衣はウラルタには大きすぎた。
「腐乱し、悪臭を撒き散らしたいか。その姿を晒し、隣人によって石つぶてを投げつけられたいか。魔よけの護符で以って、家族によって家から閉め出されたいか!」
「いいえ! 神の代理人よ! いいえ!」
「死後の彷徨は忌むべき結末である」
 早く大人にならなければならない。ウラルタは説教の間も、その事ばかり考えた。大きくならなければ。この法衣は体に合わなすぎる。ウラルタなりに、体に合うよう縫い直したのだが、それでも余分の布が邪魔で仕方がない。侍祭の地位を世襲したものの、その地位の象徴である法衣を高等神官に返上し、自分の体に合う法衣を授かるには、ウラルタの予想を上回る金が必要だった。
 あと何年、何か月、何日我慢を続ければ、大人になれるだろうか。その間、何年、何か月、何日も、本当にこの説教と祭祀の時間を耐えなければならないのだろうか。そうだ。父も祖父もそうして来た。先祖たちはそうして来た。陸を失ってから。
「汝ら永遠(とわ)に呪われて、この水相をあてどなく彷徨い歩くを望むか。汝の父、母、汝の子らがその定めを歩むを望むか!」
「いいえ! 決して!」
 しばし、高等神官も聴衆も口をつぐむ。蝋燭の灯と香炉の煙が揺れ動き、高い天井に吸いこまれてゆく。
 天井には、失われて久しい青空が描かれていた。
 空が青いなどと、ウラルタには信じられない。
「我らは罰を受けた」
 高等神官の一転して静かな声もまた、偽りの空に吸い上げられてゆく。
「我らは虚飾の罰を受けた。我らは不義と不貞の罰を受けた。我らは過ぎたる享楽、過ぎたる屠殺、過ぎたる怠惰の罰を受けた。我らは嫉妬と強欲で自らを貶めた。我らは憤怒と傲慢で自らを失った」
 罰。ああ。ウラルタは天井を仰ぐ。
「神は我らに罰を与えたもうた。その罰を全うすることで我らを赦したもうと約束された。汝らはそれを疑うか!」
「いいえ!」
「罰とは漂流であり、この水相を生きる事である!」
 ウラルタは、くらくらと眩暈を感じ、目を閉じて俯いた。
「神は水相から陸地を奪いたもうた。しかし慈悲を下さった――世界各地でこのような町を形成し、漂流の準備にかかる猶予を下さったのだ。そして、罰を信じた民のみが、生き延び、罰を受ける事を許された。汝ら、神の大いなる御業を疑うなかれ――」
 ウラルタは口を開け、喘ぐように呼吸をした。
 生きる事が、生まれた事が、罰。罰を途中で放棄するならば――即ち自ら命を絶つならば――もう一度はじめから、罰を受け直さなければならない――この水相で、輪廻転生を繰り返すことで――。
 ああ、そのように信じていなければ、町が、水相の全ての町が、共同体を維持できなくなる。
 まっすぐ立っていられないほど具合が悪くなってきて、ウラルタは背後の側廊まで後ずさった。
「死後彷徨う者は、神を疑いし者である。罰された理由を理解せず、嘘をつき、不義不貞を働いた貪欲の輩である。神の光に背を向け、傲慢、憤怒、怠惰、強欲と手を結びし者である。して、彼の者らは死後、転生を待つ間、更に過酷な生を送らなければならぬ。呪われし者に災いあれ――我ら敬虔なる神の子羊に幸いあれ――」
 ウラルタはよたよたと側廊を通り抜け、奥の扉を音を立てずにくぐった。そして、裏口から寺院を出た。
 この人生は罰。生きている事が罰。死ぬまで逃れられない。
「嫌だ」
 ウラルタは涙を堪え、家へと走り出す。
「嫌だ!」
 私は、それを信じて大人になりたくない。
 下級神官の簡素な法衣が風を含み、ばたばたと音を立てた。不変の夕闇が、空を支配していた。
 家に帰りついた。
 戸に封筒が挟まれていた。
 ウラルタは一瞬冷静になり、封筒を戸から抜いた。
 差出人は自分の名前だった。
 出された町の名前はネメスとなっている。
 そして、消印は、未来の日付だった。

 香の匂いが鼻に満ちた。ウラルタは目を開けた。やけに高い天井だ。温かい。目線を下に落とす。毛布が見えた。宿をとった覚えはなかった。呆然としながら記憶をたどった。
 階段から落ちたのだ。死者たちを追いかけて。次第に周りを見回す余裕が出てきた。ウラルタの左右にもベッドがあり、人が横たわっていた。どちらの人も老いていた。そしてベッドの列は、長かった。
 尼僧が歩いて来たので施療院だとわかった。尼僧はウラルタが目を開けている事に気付くと、歩いて来て、枕もとのベルを鳴らした。そして、無言で去った。
 間もなく下級神官が来て、
「君は誰だ?」
 立ったまま尋ねた。
「どこから来た?」
 ウラルタは具合が良くないふりをして答えない。神官は呆れたように溜め息をついた。
「イグニスのウラルタ。侍祭を務めている。そうだな」
「……何故それを?」
 だが、答えられなくてもわかった。旅券だ。下級神官は威圧的な口調のまま質問を重ねた。
「歳は」
「十四歳」
「イグニスから何をしに来た?」
 ウラルタは答えない。下級神官は首を横に振った。
「町に帰りなさい。子供とはいえ、民の務めを放棄した罪は重い」
「民……」
 ウラルタは、まだ眠い、ぼんやりした声で反発した。
「私たちに国はないわ。陸地が消えたこの世界で、私たちを庇護する国はない。あるのは、私一人いなくなったところで誰も困らない、小さな町だけ……」
「そのような事は関係ない。私たちは、ただ神の為にある民だ」
「何故そのような民が生まれたの」
 ああ、私は、何故、生まれたの。
「神を奉じる為だ」
 下級神官はウラルタの無知を憐れむように、膝を屈め声を落とした。
「神は我らに生きる事を許し、恵みを与えてくださるが、奉じる者がいなければ神ではなくなってしまう。我々は生きていけなくなる」
「生きていけなく――」
 ウラルタは弱弱しく呟いた。
「ただ生まれ……ただ生きて……ただ神の為に生きて……それが何になるというの……」
「何になるかは問題ではない。我々には信仰が必要なのだ」
 下級神官は、腰の飾り帯から鍵束を取った。そして、一本の太い針金を緩く、しかし決して抜けないように手首に巻き、先端をよじった。
「大人になりたまえ」
 針金には護送票が通されていた。
 護送票の宛先は、イグニスとなっていた。

 
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