Lirica(リリカ)
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漂流民―水相におけるイグニスからネメス―
―1―
1.
すべての町の大砲が、霧に煙る夕闇の空に向けられている。たまに砲門からすすり泣きが聞こえるのは、陸地があった時代の古い亡霊たちが、漂流によってしか戦争を終わらせられなかった事を悔いているからだという。
町を囲む鉄壁には、絶えず波が押し寄せて、小さな門に小さな船を送りこんでいた。
「声がするわ」
鋭く鳴る風に耳を傾けて、甲板で少女が尋ねた。
「何と言っているの?」
少女の隣では、老人が背もたれのない椅子に腰をかけ、白い髭に覆われた顔で霧の向こうの夕闇を見ていた。少女が待っていると、老人は仕方がなさそうに、ひび割れた唇を開いて、一語ずつゆっくりと答えた。
「聞こえては、いけない。声など聞こえてはならんのだ」
波と潮風が少しずつ、町を死で洗う。両脇に並び立つ家々の壁も、行き交う船もこの甲板も、いつも不気味に濡れていた。少女は今しがた通り抜けてきた、後方に聳える黒い鉄の壁を向き、目を細めた。
「あんた、誰だったかね」
「ウラルタ」
「耳を澄ませとるんじゃないだろうね」
少女ウラルタは濁った目を老人に戻す。
「声には気をつけなさい、ウラルタ。何と言ってるかわかっちまったら、あんたは死ぬまで眠れない」
ウラルタはその顔に失望を湛え、老人から目をそらした。大砲に撃ち落とされなかった死者が、一体、翼を広げて頭上を飛んでゆく。
沈む太陽を追って、すべての家は果てしなき夕闇を漂流している。
町と呼ばれるものは、この星のどことも知れぬ場所に浮かぶ朽ちかけた流木に過ぎない。
かつて世界には陸地があったと祖父は言った。
陸の上で人は、床下を打つ波の音とも、恐ろしい時化とも、時折海から這い上がり、バルコニーを彷徨う死者たちとも無縁に生きていたという。
真水蒸留施設の大きな影の中を、船は駅と呼ばれる係留所まで、波任せに進んだ。水路沿いに木造道路が延びている。町の人々が火の供給を待つ列を成している。この先に広場があるのだろう。カンテラを手に、皆一様にうなだれている。誰もが脂ぎって傷んだ髪や、頭からかぶったショールで、顔を隠していた。
真水と火は、町ごとの役所が厳重に管理している。真水は欠乏によって、火は拡大によって、町を滅ぼす脅威を抱えている。自分もかつてあのように、火と真水を求めて並んだ事を少女は思い出した。そう遠い過去ではない。
「それであんたは、どこに行こうとしてるんだね?」
ウラルタは聞こえないふりをした。老人は、船が蒸留施設の影を脱するまでしつこく待っていたが、負けて、
「言いたくないなら構わんよ」
と呟く。
西日が射し、顔を灼いた。水路を抜け湾に出たのだ。町と町を行き交う貨物船や漁船が、濃霧の中から現れて、また濃霧へと消えてゆく。
あの霧の彼方には、多くの哀れな家々を飲みこんだ夜が控えている。
「陸地があった時代には、夜が人を食することはなかったって」老人を振り返ることなく問う。「私のおじいちゃんが言ってたわ。本当なの?」
答えを待つ間、ウラルタは祖父の教えを一つずつ思い返した。
人間が現実として認識できる領域は〈相〉と呼ばれ、世界は幾つもの相が集合することで成り立っている。ごく少数の高位の魔術師のみ相を跨ぐ事ができるが、一般人がそうした術の恩恵を得る事はない。
水相と呼ばれるこの現実は、かつて他の相を支配するほど強力であった。全ての陸地を失い、没落するまでは。
相を移動する為のエネルギーを得るには、何かを犠牲にしなければならなかった。
何かを。
その最もわかりやすい形が、この相においては、陸だったそうだ。
大人たちは、この漂流は罰だという。
他の相を支配した罰。
罰を受けてなお、滅びを受け入れず、漂流を選んだ罰。
即ち、水相に生を受け、生きる事も、死ぬ事も、罰に他ならないと。
本当にそうなのだろうか。
大人たちはみな、本気でその教えを受け入れて、生きているというのか。
「ねえ」
胸に焦燥の火花が散り、衝動的に振り返った。
暗い。
船はとうに駅に係留されていた。
老人は椅子に座ったままだ。垂れ下がった手と頭と、輪を描いて群がる蠅を見て、ウラルタは、老人がとうに死んでいた事を悟った。
声を失っている間に、港の係員が甲板に上がってきた。彼らは無言で老人を白い袋に詰め始めた。二人が死体袋を運び、一人が椅子を運んで去る一部始終を、ウラルタはただ見た。
※
四肢をだらりと下げて飛ぶ死者は良き死者。立った姿勢で飛ぶのは憎悪を抱えた死者。空を、何もないのにやたら折れ曲がりながら飛ぶ青白い光があれば、それは死者の憎悪である。
一枚の絨毯のように、鳥たちが羽ばたいてゆく。
死へ向かう一つの強固な意志を見せつけるかのように、霧の先の夜へと。
空には病んだ太陽が垂れ流す血のような夕闇が広がるのみとなった。
死者たちの翼を作る技術で栄えるこの町も、下町に広がる光景は他と変わらない。父親たちは戻る保証のない漁に出て、やがて墓碑に名を刻まれる。母親たちは工場で、通りに聞こえるほどの大声で罵倒される。路上で遊ぶ子供たちは皆、文字が読めない。
ウラルタは板張りの道を歩み、町を囲む防波壁にたどり着いた。壁に取りつけられた、常に日陰の、寒い風が吹きすさぶ、錆びてぎしぎし軋む陰鬱な階段を上って、その壁の天辺に立った。
それからウラルタは、単眼鏡を覗いてどこかに大きな建物がないか探したが、赤く色づいた乳白色の闇の中には、何も見出せなかった。
何人かの男達が、胸壁に凭れて海を見ていた。誰もが老いて見える。彼らが海と霧に何を探しているのかは知る由もない。ただ、伝説を聞いた事がある。夜に呑まれ瓦解したセルセトの都より、古き魔術師の霊が白い光となりて現れ、真水に関する術法を授かり金持ちになった人が昔いたのだと。同じ事が自分の身にも起こらぬかと、期待しているのだろうか。
ウラルタは肩掛け鞄に手を入れ、薄い紙束を掴んで出した。糊で補修された大判の冊子である。
演劇のパンフレットだ。
歌劇に違いない。
『どの相からも見えるものがただ一つある』
かつて祖父は語った。
『歌劇場だ。水相が栄華を極めた頃からの言い伝えだ。遠くで幻のように揺らぎ、誰もたどり着けない。この相で言うなら、ここより北のネメス……そこから今も見える』
水に濡れ、乾かされ、幾度となく折り畳まれたせいでボロボロになったパンフレットから、ウラルタは何がしかの真実を見出そうと目を凝らす。黒字に白く浮き上がる――歌劇場。
祖父は絵を描いてくれたことがあった。古い伝承に残る歌劇場。祖父自身も昔、幼い頃に見た本の挿絵として描かれていたというその外観を。
「……同じ」
ウラルタはパンフレットを抱きしめ、離した。鞄にしまい、今度は封筒の束を取り出す。
その差出人の名が自分の名であり、変わっていない事を、ウラルタは確かめた。
そしてそれらの封筒が、自宅に届いた順に並べられており、捺された消印の日付がまだ来ぬ年月である事を確かめた。
一番初めに来た封筒の消印は、三十年後の未来、ネメスから。
それから順に、消印の日付は近い未来になり、捺印された都市の名も、少女の家があるイグニスの町に近づいてくる。
ウラルタは、このありえなさが消えてしまう事を恐れていた。ある時ふと見たら、差出人の名が自分の名ではなくなってしまっていないか。その消印の日付が過ぎたる過去の日付になっていないか。都市の名が、今は滅びたるネメスの名ではなく、卑近な、例えばこのような、どこにでもある貧しい町の名になっていたら。
どうして何の希望もなく、つまらぬ日々に戻れるだろう。
少女の心は信じた。
この手紙が来た道を遡れば、そこに未来の私がいるのよ。滅びたネメスに。あるいは、もしかしたら……ネメスから見えるという歌劇場に。
そこに理由があるの。
私たちの漂流を納得させる理由があるの。でなければ、何故、何に、私が呼ばれているというの。
ウラルタは歩き出すための希望と確信を得た。
水筒を確かめた。真水はまだある。携行食料もある。歩き出した時、海の上、視界の端で、青い誘導灯を点す海堡の砲門が、唐突に火を噴いた。
立った姿勢で飛ぶ悪しき死者の姿が弾け、撃ち落とされた。
光る物が飛んできた。
それはウラルタの背後に落ちて、金属が砕ける音を立てた。
ウラルタは振り向き、確かめた。男たちが胸壁から離れ、ウラルタの後ろで、落ちてきた何かに集った。
「こりゃあ、……さんの娘さんのペンダントじゃねえか」
潮風に痛めつけられた老人の喉が掠れた声を出す。
「こんな事、……さんにどう言えば」
「言わんでいい。何も言う必要はねぇんだ」
そして空を、翼工場から解き放たれた新しき良き死者たちが、手足をだらりと下げて飛び去っていった。
※
その日は霧が濃かった。目覚めた時既に、窓の向こうには霧以外の何も見えなかった。板張りの道も、向かいのあばらやも、その隣のあばらやも、ウラルタの家もまたあばらやであることを証す、形ばかりの低い垣根も。みな、冷たい白い炎の中で、燃え揺らいでいるかのようだった。むしろ家の中に霧が存在せず、この室内が明瞭に見える事のほうが不思議に思われた。
とりわけ明瞭に見えたものが祖父の死だった。
白布で仕切られた祖父の部屋へ行き、ただ一人の家族が冷たい骸となりて横たわる様子を見た時、ああ、死んだ、と、ウラルタは何となく思った。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
ウラルタは突っ立ったまま祖父を凝視した。
悲しくはなかった。
私は薄情だ。きっと本当は人間ではないと、そう思った。
ふと思いついて、祖父が横たわるベッドにそっと腰掛け、また凝視した。
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。口を閉ざしてやらねばならぬ。いつまでもみっともない表情では、祖父がかわいそうだ。
葬儀をせねばならぬ。
人を集めなければ。
人が集まってくる前に、祖父の口を閉じさせようとウラルタは考える。しかし実際には、指一本動かない。口くらい自分で閉じればいいんだ。
「おじいちゃん」
起こせば自分で口を閉じるだろうとウラルタは考える。
「ねえ」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
わかっている。わかっている。そんな様子を何度も観察して何になる? 何かを、何かをしなければならぬ。
何かを。
そうだ。
葬儀を。
人を呼びに行くなら、その前に家をきれいにしなければならない。
ウラルタは昨日食事をしてそのままの食器を、潮水を溜めた桶に運んだ。それから箒をとり、床を掃き始めた。部屋の片隅を僅かに掃いただけで、その動作を止めた。
こんな事をしている場合じゃない。何か。何か。もっと重要な事をしなければならぬはずだ。
箒を片付け、困惑して祖父の部屋に戻った。
「おじいちゃん」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
いやいやいや。いや、違う。それは何度も確かめた。問題なのはそこじゃない。だけどそれは何か、何か何か、自分が思うより重大な事であるはずだ。祖父が死んだという事は。
祖父は死んだ。死んだ。死んだ。
頭の中で何度か繰り返してみた。死んだ。死んだ。
それはどういう事で……祖父にもう会えない……一人きりになった。
それはどういう事なのだ?
突如として怒りが腹の底から湧き、炎となって頭頂まで立ちのぼった。ウラルタは透明な炎が己の身を焦がし、天井にぶつかり、天井をなめて広がり、四方の壁を伝い、床に降りてなお止まらず、足許に達する様子を見た。癇癪を起こして金切り声で叫んだ。
叫びながら、垂れ下がる白布をひっぺがし、くしゃくしゃに丸め、床に叩きつけた。椅子を蹴り倒した。桶から食器を一つずつ取り上げ、壁に投げつけて割った。
「何よ」更に叫んだ。「何よ」
この世で自分一人だけに理不尽な出来事が集中しているような気がしてならず、腹立たしかった。自分の部屋に駆けこみ、毛布にくるまった。そのままベッドを何度も殴り、それに飽きたらず、跳ね起きると、毛布を床に引きずり落として踏みつけ、枕を部屋の戸に投げつけた。
誰かが来ると思った。あの尊大で、それでいて卑屈で、押しつけがましく物を言う事に関しては天賦の才を持つ大人達の内の誰かが、声を聞きつけて来ると思った。そうあれと願った。大人達が正しいなら。大人達がその尊大な態度に見合う秘められた知恵を持っていて、祖父と自分をどうにかしてくれるなら。そうあれ。
誰も来なかった。
ウラルタはまた、自分の狂乱を冷静に観察している内なる自分を意識していた。冷静な自分は、狂乱が高まるほど冷静に、冷酷になっていった。そしてある瞬間、ウラルタは凍りついた。
祖父は死んだ。
葬儀をしなければならない。
自分の認識が間違っていないことを確かめるべく、もう一度祖父の部屋に行った。
どう見ても死んでいた。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。ウラルタは祖父に失望した。死んだからだ。
しかし、誰かにそれを伝えに行く気にはなれなかった。それをしたら取り返しがつかなくなると思った。人を呼ぶより、葬儀を行うより、何か良い手があるのではないか。何か。
何も思いつかず、ウラルタは部屋に戻り、毛布も枕も直さずに、ベッドに横たわった。霧よりほか、見える物はなかった。
急にひどく眠くなった。ウラルタはそのままうとうとし始めた。半ば眠りながら、どうしたら祖父の死を悼む事ができるだろうと考えた。自分は間違っているのではないか。何か重大な勘違いをしているのではないか。祖父の死が悲しくないのは、それが祖父の死ではないからではないか。祖父の部屋に行って確かめてみようか。いいや。今更確かめなくてもわかる。痩せていて、目を閉じ、口を開けているのだ。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えているのだ。
寝ている場合ではない。何かをしなければ。
けれど眠くて動けない。
ウラルタは眠気と自己嫌悪を払う物を求めて、ラジオに手を伸ばした。ダイヤルを回すと、潮の音が流れてきて部屋に満ちた。やがて声が聞こえてきた。
『――とりわけ私は一族の中でも早くに死んだため、腐乱の度合いときたらそれはもう……惨めな有様でございます。こうして家族で漂っていれば、そりゃあどこかの船団が、私たちを痛ましく思って拾って下さるかもしれません。しかし、私の夫や子供が船に引き上げられることがあっても、私はもうこの通り、触れるもの全てを死と腐敗で蝕む有様ですから、誰からも忌避されて、やがては潮流のゴミ溜まりに行きつくしかないのは自明の事でございます――』
嫌な気分になってダイヤルを回す。ノイズの後、また声が聞こえるようになった。
『――僕はたくさんのお魚達に食べられながら、ずっとおうちに帰りたいと願い続けました。僕は真っ暗で、いろんな物が漂っていて、寒くてゴォゴォうるさい音がする水の中で、家はどの辺りかなぁ、どれくらい流されたのかなぁって考えていました。すると、僕を食べたお魚達が、引き網漁の大きな網にさらわれていきました。もしかしたら、僕は僕の食べられたところだけ、お店を通じておうちに帰れたかもしれません――』
また暴れだしたくなった。生きている者の声を求めて、ノイズと潮の音だけが響くダイヤルを無為に回す。かちり。かちり。
『――すると間もなく舅が海面から顔を出しますから、私は櫂を振り下ろして、舅の頭に精一杯の力で叩きつけたのです。櫂が深く沈み、割れた果実の汁のように、血やよくわからない液体が潮の泡を染めました。私は舅を恐れておりましたから、とにかく夢中で櫂を振りました。我に返った時には、海面に舅の髪と背中が浮いており、舅は赤く染まる泡と共に流されていくところでした――』
ウラルタは腹を立て、ラジオを切り、ベッドから払い落とした。
祖父が翼を得て空を安らかに飛ぶ事はないとウラルタは知っていた。そんな正式な葬儀をしてやれる金はない。祖父は海を漂うことになる。
ああ。嫌だ。嫌だ。
ウラルタは顔を両手で覆い、胎児のように背中を丸めてすすり泣いた。ウラルタは十三歳だった。浅はかな少女だった。これからどう生きていけば良いのかまるで見当がつかなかった。何故生きていかなければならないのか。
ウラルタは、もはや顔も覚えていない、イグニスの侍祭でありながらある日首に縄をかけて寺院の裏にぶら下がっていたという父のことを思った。呆然と暮らし、ある日夫を迎えに行くと言って家を出そのまま帰ってこなかった母を思った。
両親は、生きている必要がない事を知ったから死んだに違いない。ならば私も死のう。
ああ、それにしてもそれにしても、この世界が生きる必要のない世界なら、あるいは私に生きる価値がないのなら、一体どうして、何の間違いで生まれてきたのだろう。
間違いで、生まれてきた。
世界に希望がないのなら、そう認めなければならない。
嫌だ!
ウラルタは胎児の姿勢のまま、前髪を掴んで思い切り引っ張った。波が床下を打ち、その音は部屋から逃げ出そうとして、窓にぶつかり、霧に阻まれて、部屋に閉じこめられ木霊する。
波が怖かった。
ウラルタは逃げようと思った。
起きて、外套をまとった。風が強かった。木の道を、深い霧の中、風に外套をはためかせて歩いていると、何とも言えぬ壮絶な気分になった。
葬儀局にたどり着いた。
「来てください」
黒い門に取りつけられた呼び鈴を鳴らし、返事も待たず言った。
「祖父が死にました」
眠った。それから眠り続けた。眠りながら葬儀に出た。眠りながら弔辞を述べた。眠りながら各種手続きをした。眠りながら、祖父を乗せた戸板が潮流に乗って夜に向かって流されていくのを、葬儀船から見た。眠りながら家に帰った。眠りながら、更なる眠りにつくべく横たわった。
永遠に目覚めぬ事を望んだが、目を開ける時が来た。霧が晴れていた。そういえば葬儀の時にはもう霧が晴れていたような気がするが覚えていない。
終わらない夕闇の中で、青白い光が、何もないのにやたら折れ曲がりながら空に留まっている。
誰かが、道を歩いてくる。
まだ姿も見えないし、足音も聞こえない。でも気配がわかる。何故わかるのかわからない。けれど確かにわかった。
果たして誰かが、ドン、ドンと、家の戸をゆっくり叩いた。ウラルタは目を開けたまま、茜に染まる天井を見ていた。
ドン、ドンとまた音がした。ウラルタは瞬きした。人が訪ねてくるような心当たりはなかった。誰かが自分の思い違いを正しに来たのかもしれなかった。あの飛んでいるのは、お前の祖父だよ、悪しき死者になって飛んでいるのだよと教えに来たのかもしれない。
ウラルタはのろのろと起きあがって、ガウンを羽織った。何が来たとしても、それを受け入れよう。そうするしかないのだから。
「はい」
台所を横切りながら、掠れた声で答えた。返事はなかった。ウラルタは鍵を外し、ドアノブに手をかけた。
ぬるい風とともに、吐き気を催す潮の香と腐臭が入ってきた。
夕闇に背を向けて、全身から海草を垂らし、青緑色に腐敗した死者が戸口に立っていた。
ウラルタの口が、勝手に動き、「おじいちゃん」、その死者を呼んだ。
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