ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
春告ぐ蝶と嵐の行方 3
幸運なことに、わたしとシリカちゃんは殆ど敵とまみえることなく《フローリア》までの帰路を消化した。
「えっと……三十五層に行けばよかったんだよね」
無事に帰りついたことに安堵の息を吐きながら、メール受信トレイに表示された一通のインスタントメール――送り先の名前が判っていて、かつその相手が同じ層にいる場合にのみ送ることができる簡易メールのことだ――の内容を、言葉に出して確認する。マサキ君から送られてきたそれには、『三十五層の転移門前で合流しよう』とだけ書かれていた。
「うん、オッケー。――転移!」
転移門前でおなじみの呪文を唱えると、いつものように白い光と軽い浮遊感とに全身を包まれた。一呼吸おくと、浮遊感が消え、同時に石畳の硬い感触がブーツを通して伝わってくる。
間髪入れずに視界が開ける。青々と覆い茂った冬を感じさせない草原と、その草を食む動物たち、牧歌的な雰囲気の建物が印象的な、第三十五層主街区だ。日中フィールドへ出ていたプレイヤーたちが帰路につく時間帯と重なったため、行き交う人の量はそれなりに多く見える。
「えっと、マサキ君は……」
「――あ、いました! あそこです!」
辺りをキョロキョロと見回してマサキ君を探していると、シリカちゃんが広場の出入り口付近を指差して声を上げた。遅れてわたしがその指の先に、広場入り口のアーチに背を預けているワイシャツとスラックス姿を見つけ、た時には既に、シリカちゃんは人ごみをかき分けてそちらへ向かっていた。マサキ君の姿を見失わないように注意しながら、その後を追う。
「悪かったな、途中で抜けて」
シリカちゃんからほんの少し遅れてマサキ君のもとに着くと、彼はアーチから背中を離し、初めて見たときから全く変化のない事務的な口調と表情で開口一番にそう言った。
「いえ、全然大丈夫です! 帰りは敵とも殆ど戦いませんでしたし」
「マサキ君の用事は、もう終わったの?」
わたしが尋ねると、マサキ君は小さく頷く。
「ああ。それじゃ、早速ピナを蘇らせ……ると言っても、これだけ人が多いとな。部屋に戻ってからにするか」
「はい! そうと決まれば、早く帰っちゃいましょう!!」
元気な声と満面の笑顔でシリカちゃんは答えると、そのまま早足で歩き始めた。今にも走り出してしまいそうなのを必死に堪えている後ろ姿が微笑ましくて、思わずクスリと笑いながら追いかける。
……けれど、そんな表情とは裏腹に、わたしの足取りは重かった。だって、ピナを蘇らせることは、同時にこの冒険の終わりとわたしたちの別れとを意味してしまうから。
――この三日間の冒険は、今までの中で、わたしにとって一際特別なものだった。今まで作り上げてきた《エミ》が、意識的に作り上げてきた虚構だと知ってなお、一緒にいてくれた二人。他人と同じ部屋で夜遅くまでお喋りしたり、お茶を飲んだりしたことなんて、この世界に囚われて以降初めてのことで、とても楽しかった。だからこそ、ピナは絶対に助けたいと思ったし、無事にプネウマの花を入手できたことは、自分のことのように嬉しかった。
でも……。
「エミさーん! 早く早く! おいてっちゃいますよー!」
その声にはっとしていつの間にか地面に落ちていた視線を上げると、二人はもう一つ先の曲がり角に差し掛かっていた。
「あ、ごめんなさい!」
「いえいえ。さあ、もうすぐです! 行きましょう!」
急いで駆け寄ると、シリカちゃんは楽しそうに宿の方向を指差して歩き出した。
ずんずんと進んでいくシリカちゃんの背中。わたしの視線と思考は、すぐに元の場所へ戻ってしまう。
これで、わたしたちは解散することになる。そうなれば、わたしはまた独りだ。
今までは、中層の人たちに恩を押し売り歩き、代わりに寂しさを誤魔化させていた。けど、結局、わたしが独りなのは変わらなくて。……そのことに気付いてしまった今、わたしは以前みたいに笑っていられるだろうか?
「……無理、だよね」
声と言うより、息遣いに近い音で呟く。そもそも、わたしは自分のエゴのために偽善を押し付けていたのだ。それをこのまま、孤独から必死に目を背けて作り笑いを浮かべ続けることは、今更かもしれないけれど、できそうにない。
でもだからといって、他に何をするあてがあるわけてもなく。徒に恐怖感だけが膨れ上がり、思考は袋小路へ迷い込む。
結局、その後わたしたちが五分ほどの時間をかけて《風見鶏亭》へ到着しても、わたしの思念は先の見えない迷路から抜け出すことはできなかった。
見上げると、見事な茜色に染め上げられた空と風見鶏亭の二階部分とが目に映る。何の変哲もない建物が、今のわたしには魔王の城より恐ろしく見えた。
「ピナ……もうすぐ、生き返らせてあげるからね……!」
シリカちゃんが、小さいながらも歓喜と希望に溢れた声で呟いて意気揚々と宿に乗り込み、マサキ君が無言で続く。最後にわたしが、胸の奥まったところをピアノ線でキリキリと締め付けられるような苦しさを感じながら、鉛の塊を引き摺るような足運びで建物に入った。
その時。
「あの、すみません。……エミさん、ですよね?」
唐突に背後から声を浴びせられた。振り返ると、少し気の弱そうな細面の男性と、ダークブラウンの髪を背中まで伸ばした優しそうな女性の二人が立っていた。歳は大体二十台後半辺りだろうか。男性はわたしの顔を見て、ほっと表情を緩めた。
「ああ、良かった。ずっとお礼が言いたかったんです。……僕のこと、覚えてますか?」
「え? えっと……」
突然の質問に若干戸惑いつつも、わたしは男性の顔を記憶の中で捜し始めた。確かに言われて見れば、どこかで会ったような気もする。それも、かなり最近に――。
「――あ、ひょっとして……」
「思い出してもらえましたか」
わたしが口走ると、男性は柔らかく目を細めた。そうだ、前回会った時とは顔色が全くと言っていいほど違っていたために気付かなかったが、確かにこの顔と声には覚えがある。
「――その節は、本当にお世話になりました」
そう言って、二日前にわたしが転移結晶を渡した男性は、隣の女性と共に深々と頭を下げた。
「あの、どうぞ」
「ありがとうございます」
二人から「少し話がしたい」と持ちかけられたわたしは、階段脇で待っていてくれたシリカちゃんとマサキ君に先に行ってもらい、二人と自室に入っていた。わたしがソファを勧めると、二人は一言礼を返してわたしの対面に座り、おもむろに口を開いた。
「突然おしかけてしまってすみません。私はウォルニオンと言います。こっちは、妻のタカミです」
「タカミです。先日は主人の危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
「あ、いえ、そんな……」
再び深く頭を下げた二人につられて軽く会釈を返しながら、わたしは《ウォルニオン》と名乗った男性が発した「妻」という単語に驚きを隠せないでいた。
SAOに存在する、システム上で規定されているプレイヤー同士の関係性は四種類だ。すなわち、無関係の他人、フレンド、ギルドメンバー、そして結婚。だが実際にこの世界で結ばれている婚姻の数は、その前三つと比べ著しく少ない。
なぜなら、このSAOでの“結婚”というものは、文字通り自分の全てを相手と共有するものであるからだ。
具体的には、プレイヤー同士が婚姻関係を結んだ瞬間、その二人のコルと全アイテムは同ストレージ内に共有化され、この世界では一番の生命線であるステータス画面までもお互い自由に閲覧することが可能になる。SAOには恋人同士のプレイヤーもある程度存在するが、そのあまりにも巨大なリスクのせいで、結婚にまで至るカップルは殆どいない。かくいうわたしも、実際に結婚している人を目にするのはこれが初めてだった。
二人は顔を上げると、呆けているわたしを見ながら、穏やかな口調で話し始める。
「僕が彼女と出会ったのは、九層のNPCレストランでした。そこでウェイトレスとしてアルバイトしていた彼女に、一目惚れしたんです。ライバルも多かったんですけど……何とか、競り勝つことができました」
「彼、凄かったんですよ。コーヒー一杯で、三時間も粘った日もあったんです」
微笑みながらタカミさんが言うと、ウォルニオンさんは恥ずかしそうに首の後ろを掻きながら頭を前に倒した。そんな和やかな雰囲気で、話は進む。
ウォルニオンさんの話によれば、タカミさんはアルバイトで資金と料理スキルとをコツコツ貯め、最近遂に自分の店を開業したと言う。そしてそれを聞いたウォルニオンさんが、一世一代の賭けでタカミさんにプロポーズ。しかし、「店を買うときに借金をしたから」という理由であえなく断られてしまった。
ならばその借金を自分が返してやろうと思い立ち、中層プレイヤーの中ではそれなりに腕に覚えのあったウォルニオンさんは、単身最前線へ向かったのだが……。
「ご存知の通り、結果は散々でした。借金を返すどころか、ポーション代に結晶代を考えると完全に赤字で……もう、ダメだなって、落ち込みながら彼女の店に向かいました。そしたら、ドアを開けた途端にタカミがすっ飛んで来て、泣きながら詰め寄られました」
「いきなり何も言わずにいなくなって、帰って来たと思ったらボロボロなんですもの。そりゃ、そうもなります」
少し強く言われ、ウォルニオンさんは困ったように笑う。
「目に涙を溜めながら、「どうしたの、大丈夫なの」って聞いてくる彼女を見たら、それだけ愛されていることが嬉しいやら、情けないやらで……僕も泣きながら、その日したことを話して……」
その言葉を、タカミさんが引き継ぐ。その目が、温かく細められた。
「――その後、私から言ったんです。「結婚してください」って。私には、この人がいないとダメなんだって、よく分かりましたから」
幸せそうに笑うタカミさん。ウォルニオンさんが、恥ずかしそうに照れ笑いを滲ませた。
「そう……なんですか……」
いい夫婦だな、って、素直に思う。
「それで……お二人はどうして、わたしがここにいるって分かったんですか?」
ふと、それと同時に思い浮かんだ疑問を訊ねてみると、二人は一瞬目を見合わせ、笑いながら答えた。
「それが、昨日の夜、三本ヒゲのペイントをした情報屋さんがウチの店を訪ねてきて言ったんです。『《モノクロームの天使》ニ、礼を言いたいことがあるそうだナ』って。なんでも、素直になれない刀使いさんからの依頼だとか」
「……素直になれない、刀使い……?」
一体誰のことなのだろう、というか、その情報屋、どこかで聞いたことのあるような……? とわたしが首を捻っていると、ウォルニオンさんは少し左手を宙に浮かせて逡巡し、その手を膝に置かれていたタカミさんの手に重ねた。
「あの時、僕が生きて帰れたことも、タカミと一緒になれたことも。全部、エミさんのおかげです。本当に、ありがとうございました」
そしてまた、二人して頭を下げられる。わたしは慌てて立ち上がると、手を振りながらそんな二人を止めようとする。
「そ、そんな! わたしが勝手にしたことですし……それなのに、こんなところまで訪ねてきていただいて……むしろ、余計なことをしちゃったんじゃ……」
言いながら、わたしの思考は先ほどまで頭の大部分を占領していた一つの悩みにぶつかって、口から発せられる声は、徐々に小さく掠れていった。それを見て、対面の二人は驚いたように顔を見合わせる。
俯きながら、ソファに腰を下ろす。膝の上で、衝撃に備えるように、両手と両目をぎゅっと瞑った。
何をしてきたのかは、分かっていたつもりだった。それなのに、次にぶつけられる言葉が、怖くて怖くて仕方がなかった。
――しかし。
「……いいえ。そんなことはありません」
次に聞こえてきたタカミさんの声は、驚いてしまうくらいに滑らかだった。びっくりして顔を上げると、わたしを見つめていた二人の顔には、さっきまでと何にも変わらない、穏やかな笑顔が浮かんでいて。
「エミさんが一体何を悩んでらっしゃるのかは、私たちには分かりません。でも……私は、エミさんのおかげで、つまらない意地を捨てて、愛する人と一緒になれたんです。だから、受け取ってください。『自分の本心をちゃんと相手に伝えることが、何よりも大切なんだ』って、今回のことで、痛感しましたから。……本当に、ありがとうございました」
そう言って、優しく微笑みかけてくれた。
――「本当に、ありがとうございました」。
タカミさんの言葉が、何度も何度も繰り返されながら、まるで最初からわたしの身体の一部だったかのようにわたしの胸へ染みこんできて、そしてその一番奥で、心全体を温かく包み込んだ。
嬉しかった。わたしを、わたしの行動を、許容してくれたことが。感謝してくれたことが。
壊死していた体の一部に再び血が通い出したかの如く、身体じゅうをじんわりとした温かさが伝わっていくのが自分でも分かる。気付けば、受け止め切れなかった感情と言う名の温かさが、瞳から雫となって溢れ出していた。
「エミさん? 大丈夫ですか?」
そんなわたしを気遣ってか、ウォルニオンさんの心配そうな声が耳に届く。
わたしは人差し指で目尻を拭い、笑って答えた。今まで浮かべた中で、一番自然な笑みだった。
「いえ……何でも。何でもないんです。ありがとうございました」
後書き
この前のあとがきで「次が最後だよ!」と抜かしておきながらまだ続いてしまうと言うこの計画性のなさよ。本当に、本当に申し訳ございません。……あ、あと一話だから! 本当だから! すぐ更新するから!!
なお、今回の話にチラッと出てきたNPCレストランでのアルバイトシステムは、深夜にふと思い浮かんだ独自要素だったりします。以下、ちょっとした解説。
アルバイトシステム
SAO内のレストランやショップ等で、アルバイトができるシステム。仕事内容は誰でもできるものと特定のスキル値が一定以上でないとできないものがあり、当然後者の方が待遇はいい。必要なスキル、スキルレベルは職種や階層、そして個々の店ごとで変化する。
とまあ、こんな感じです。元は中層の料理や裁縫系の生産職プレイヤーが戦闘に出ずとも身銭を稼ぐ方法はないかな、と考え出したのがきっかけです。毎度の如く設定に難はあると思いますが、ご容赦くださいませ。
そして、今回何と名前&奥さん付きで再登場のウォルニオンさん。彼等はプロットすら書かない拙作では珍しく設定を保存してあるキャラだったりします。が……まあ、多分それが公開される日が来ることはないでしょう。モブだし。
一応、見たい! という物好きな感想があれば対応する予定です。
では、次回。本当の本当に、シリカ編(と言うなのエミ編)完結です。
ご意見、ご感想等、ドシドシどうぞ。
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