青い春を生きる君たちへ
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第9話 ゼロ距離の彼岸
前書き
まだ書いてませんでしたが、世界観は前作『真鉄のその艦、日の本に』と同じで、前作の5・6年前という時系列です。
キツい。久しぶりに、本気でそう思った。これまでも、深夜にいきなり叩き起こされて山の中を走り回らされたり、自分の体が自分ではないように思われるほど疲弊したり、そういう事はたくさんあった。しかし、今回は、それらを含めても、かなり上位に入るキツさだ。気を抜くと、背中に背負った相棒もろとも、その場に崩れ落ちてしまうのは間違いがない。自分は特別で、余程な事が無いと死ぬ事は無い。その確信が多少揺らぐほど、これはキツかった。歯を食いしばりすぎて、口の中が切れたのか、さっきからやけに血の味がする。それほど早く歩いている訳でもないのに、息切れがして、少し目も回っているようだった。ダメだ、集中しないと……いくら思っても、もどかしさが募るばかりだった。
「……何でだよォ……何でこんな、こんな役立たずの俺を助けるんだ……」
華奢な自分の体に背負われた相棒は、シクシクと泣いていた。ぼんやりした頭の中に、少しの苛立ちが芽生える。泣かないでよ……せっかく、なけなしの水をあなたに与えたというのに。余計に水分を浪費しないで……
「……殺してくれ……殺してくれよォ……」
「……ダメよ。絶対にダメ。任務は、二人で生還、だから」
それに……あなたを見捨てて、殺してしまうと、それを後悔せずに居られる自信が、私にはない。最後の一言は声に発する事なく、一歩、また一歩と、気の遠くなる道程を歩んだ。
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「俺が、高田の家にこれ届けるんですか?」
「ああ、そうだ。お前、帰宅部だろ?時間あるよな?これ、住所だから」
放課後の社会科職員室。葉鳥に手渡されたファイルの中には、ここ数日のHRで配られるはずだったプリントと、高田の家の住所が書かれたメモが入っていた。それを確認するにはしたが、小倉は納得がいかない顔で葉鳥を見た。
「……別に、また来た時に渡せば良くないですか?勝手に生徒の住所まで教えて……ダメでしょこんなの」
「意外と固い事言うんだなお前」
「個人情報は慎重に取り扱うのが当たり前でしょ。先生、前も田中と高田に俺の住所教えてましたし」
「あ?バレてた?」
葉鳥は悪戯っぽく笑っていた。保護者によってはクレームをつけられてもおかしくない事をしてるのに、余裕な態度をとってるのは、それは小倉が保護者に相談する事なんてありえない、と踏んでいるからだろうか。しかし、「お前なんてぼっちだから、いくら本音を聞かせたって問題ない」という趣旨の事を言った日のその夕方に、田中と高田を差し向けるなど、所々詰めが甘い所があるのが畜生の割には可愛げがある。
「……高田もお前も、だいたい一人ぼっちだ。そりゃ、まぁ、孤独な人間同士が必ず分かり合えるとは思ってないが、でも、お前くらいなんだぜ?高田とあんなに話が続くのは」
「……?俺、そんなにあいつと喋ってないですよ。それこそ数えるくらいしか」
「文化祭の日、2人で居たろう?あんな冷たい態度の奴と2人で居れるのはお前くらいなんだよ。俺だって、あいつとの面談は苦手なんだ。俺のボケ全く拾ってくれんし……」
個人的な恨み節が混ざってしまった葉鳥は、調子を整えるように咳払いし、ビシッとキレのある動きで小倉を指差した。
「とにかく、これを届けに行って、高田が何か手伝って欲しそうなら、手を貸してやるんだ!一人暮らしで病気するのは、結構メンタル削られるんだぞ?部屋に篭ってると、世界中の誰もが自分なんかの事、気にもかけてくれないんだって、そんな事考えちまう。一人でも見舞いにくりゃ救われるもんだ。もう3日も休んでるんだ、さっさと行ってやれ!」
「……必要とは思えませんけどね……あと、部屋に籠っての下り、先生の体験談ですか?意外と可愛いところありますね……一人で病んでるとか……」
「うるせーよ!まったく、口が減らねえなぁ!」
小倉は頭をはたかれ、追い立てられるように職員室を出て行った。10月も半ば、いよいよ季節は移ろい始める。夏の暑さはどこかへと消え失せ、冬の足音が聞こえる中、秋真っ盛りの微妙なバランスが保たれていた。
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《久しぶりに仕事を頼んだけど、どうだったかしら?》
「……いえ、それほど特別何かを感じた訳では……予定通り、手順通りにこなしただけですし……」
秋の風に吹かれながら、高田は街を歩いていた。電話越しに、「あの人」の声がする。ハキハキとして、張りのある、活力に満ちた声だ。聞くたび、こうなれたら良いのにな、そういう気分にさせられる。訓練によって、自分のボソボソとした語り口も多少改善されたが、それでも「あの人」に比べたら、暗くて無機質だ。そもそも、人としてのつくりが違うのだと思う。埋まらない差が、そこにはある。
《……嘘。少し手が震えていたわよ。やっぱり、手を下すのは辛い?》
「……それは……いつもながら、細かく見てますね……大丈夫です、平気です。何もない日常に慣れたせいで、緊張しただけで……甘えた事言ってられないのは、分かってますし……」
《そんなに否定しなくっても。あなたまだ、16歳なんだし。》
「……やっぱり、私に気を遣って、こういう立場に置いて下さっているんですよね。申し訳ありません……私が頼りないから……」
《そんなに気負わなくて大丈夫よ。今でも十分、役に立ってるわ。あなたに助けられてる部分は確かにあるんだから、もっと自信つけてちょうだい》
高田は唇を噛んだ。「あの人」と話す度に、自分の小ささを痛感する。大事に大事に守られているだけの、まだ何者にもなり切れていない中途半端な自分。もどかしさが募った。
《それはそうとね?》
「はい、何でしょう」
《あなたにお客さんが来てるわよ。青葉松陽高校2年F組の小倉くん。》
「えっ?……彼が一体、何の用事で……」
《さぁね?学級通信でも運んできたんじゃない?》
スマホを耳に当てて歩きながら、高田は小倉の顔を思い出した。坊主が少し伸びたような髪、眼鏡をかけているが、理知的な雰囲気や根暗な感じよりは、その目つきの悪さも手伝って、やや厳つい印象が勝る。退屈で緩やかな時間が流れている分、かえって自分に焦りを抱かせる、あの学校での日常の中で、唯一マトモに言葉を交わした少年。他の生徒が、恋愛や、趣味嗜好や、部活動や、とにかく身近な人の事ばかり考えている中で、一歩引いた所からそれらを冷ややかに批評してばかりの、捻くれた少年。高田にとっては、どちらも"身近な人の事を考えている"という点では同じに見えるのだけど……
《……よく相手してあげなさいよ》
「……どういう意味でしょう?」
《あなたの事を心配して来てくれたんでしょう?"風邪"で3日休んだあなたの事をね。無下にしちゃいけないって言ってるのよ。私達は、あなたに"悪人になれ"と言った覚えはないわよ。むしろその逆。道徳的で、良い人間でありなさい。その上で、やるべき事を躊躇いなく実行しなさい》
「……」
《分かった?じゃ、切るわよ》
「あの人」からの電話が切れる。高田はため息をつく。別に、悪人になろうとしてる訳じゃない。周りの人間を見下してるから、無愛想になったんじゃないのに……そういう弁解が全て虚しい事を自覚してのため息だった。
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(……しかし、俺はともかく、あんな小娘を高校生のうちから一人暮らしさせるなんて、親は一体何を考えてんだか。乱れだな、乱れ。自由の普及のし過ぎだ)
葉鳥から渡されたメモの住所を頼りに、小倉は高田の部屋の前までやって来ていた。ごく普通のマンションだが、オートロックの玄関でも無いし、女子高生が一人で住むのにはやや、不用心な感も否めない。自分などに興味を持つ奴はそうそう居ないだろうが、あれだけ綺麗で華奢な高田には、悪い虫は山ほど寄ってくるだろうに。小倉はやや呆れながら、呼び鈴のボタンを押した。しばらく待っても、返事は無かった。
(……留守か)
留守ならば、手元のファイルをレターボックスに押し込んで帰るだけである。一人で出歩けるような状態だと言うのなら、看病も必要あるまい。いや、待て、本気で看病するつもりで居たのか?高田を?……小倉は息をつきながら、ふと横に目をやった。
「……!?高田……」
「何の用かしら?」
自分の横に、高田がいつもの無表情で立っていた。ベージュのチノパンの上に、チェック柄のシャツとスウェットを重ね着している。制服姿しか見た事が無かった小倉は、高田の、やや地味ながらもキチンと着こなした私服姿にも驚いたが、それ以上に、ここまで近づかれているのに気づかなかった事にも驚いた。何で気配が消えていたんだ。こいつ、忍者かよ。
「……風邪引いてたんじゃなかったのか。ズル休みか?」
「午前中には良くなったから、外に出てみただけよ」
「出てみるなよ。養生してろ」
呆れながら小倉は言うが、本当のところ、高田は風邪など引いていない。そう思った。何故だか、華奢で小柄なのに、高田が病気するというのが想像できなかった。一方、勝手に学校休むのは容易に想像できる。チャラチャラ遊ぶためのズル休みではなく、もっとこう、普通の高校生の思考の枠に収まらないような、そんな判断で。
「これ、中にプリント入ってる。ちゃんと確認しとけよ」
「ありがとう」
「じゃ、治ったんなら明日は学校来いよ。……俺が言うことでもないけど」
どちらにせよ、現状元気なんだったら、自分に手伝う事も無いし、これで仕事は終わりだ。小倉はそう考えて、高田の手の中にファイルを押し込み、踵を返した。すると、小さな手がするすると伸びてきて、小倉の手をきゅっと掴んだ。
「何だよ、いきなり掴んだりして」
「……どうせなら、上がってお茶でもしていって」
「いや、良いよそんなの。先生に頼まれて来ただけなんだし」
「この後、用事も無いんでしょ?」
高田はサッと、重力をまるで感じていないような軽やかな身のこなしで小倉の正面に回った。まっすぐに自分の目を見てくる、その視線に小倉は捉えられる。高田がこんなに、他人に構おうとする態度は初めてだ。これまで2回話したのは、どちらも田中の関係した用事のついでだった。今の高田は、自分から他人に関わろうとしている。珍しい光景だった。
「……分かったよ」
滅多にない事だ。何か理由があるのだろう。思うところがあるんだったら、付き合ってやっても良いか。そう思って、小倉も強く断る気にはならなかった。
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「紅茶、飲める?」
「飲めない事もない」
「……淹れるから、ちょっと待ってて」
部屋の中に通された小倉は、キッチンに向かった高田を待つ事にした。部屋の中を見回してみる。しかしまぁ……モノの少ない部屋だ。自分が言えたもんではないが。女子高生の部屋にしては、余計なモノが殆ど置かれていない。棚の上に、いくつかの絵葉書が飾ってあるだけだ。部屋のレイアウトが高田紫穂という人間を表しているようだった。綺麗ではあるが、豪華ではない、と言うのか……
「お口に合えば良いけど……」
程なくして、二つのティーカップを持った高田が戻ってくる。湯気のたつティーカップの中の茶色い液体は、芳しい香りを放っている。一口、口を尖らせながら啜ってみると、小倉には覚えのある味がした。
「……これ、マリアージュ・フレールじゃないか?」
「よく分かったわね」
「親父が好きだったんだよ。こんな高い輸入モン、よく一人暮らしの家に置いてるな。お前の実家、金持ちなのか?」
「いえ、それは……知り合いの大人が、私にくれただけよ」
その茶葉が入った缶をくれたのは「あの人」だった。良いものが手に入ったから、おすそ分けすると言っていた。「あの人」なら、海外のそういった嗜好品にも詳しくてもおかしくはない。何せ、元々海外で活躍していた人なんだから。意外なのは、小倉がこの茶葉の価値を知っていた事の方だ。大日本帝国政府は、海外ブランドを強く規制していて、この茶葉は個人輸入でもしない限り手に入らないのに。
「小倉くんの家は、こういうの、置いてるんだ」
「ああ、俺の親父、小倉スクリーン工業の社長なんだよ。ま、はっきり言って金持ちだな。たかがこんな茶っ葉海外から取り寄せる為に、銭を無駄遣いしても問題がない程度には」
小倉は憮然として、またティーカップを啜った。小倉が少し怒ったように見えたのは、これが初めてだった。口はけして良い方ではないが、小倉は飄々と相手を煽り立てるか、冷めて捻くれた視線をやるかのどちらかで、怒って見える事は無かった。高田は、さらに聞いてみる。
「お父さんの事、嫌いなの?」
こんな事、聞いてどうするというのだろう。高田が思った時には既に、口に出ていた。そして小倉が、その問いかけに答え始める。
「嫌いなんかじゃねえよ。ただ、多少負い目はあるんだ……俺、三男坊でさ。長男は今東大の経済、次男は東大の文一で、兄貴二人は勉強漬けだったのに、俺だけは好きに野球やらせてもらってたんだよ。野球以外に何の取り柄もねえバカ高の甲洋に行くのも許してもらった。で、そういう俺への配慮、期待、全部踏みにじって俺は今ここに居る訳だ。知り合いの校長に話して、松陽にねじ込んでくれたのも親父なんだよ。何で松陽を選んだかっていうと、俺に一人暮らしさせる為だったらしいけどな。多分、側にゃ置いときたくなかったんだ、こんな出来損ない……」
言葉がすらすらと出てくる。それも、自虐的な言葉ばかりが。もしかして、ずっとこんな事を考えていたのだろうか。この場で考えただけでは、ここまですらすらと、暗い言葉ばかり出てこないはずだ。それを今吐き出したという事なのか……
少し傷ましく思いながら高田が見ていると、小倉はチッと舌打ちした。
「何を言わせてんだよいきなり……ダサい自分語りになっちまっただろ……まあ俺が勝手に喋ったんだけどな」
小倉の目が、同じテーブルを囲んでいる高田をとらえた。メガネの奥の目が、今は少し睨むように細められている。
「お前はどうなんだよ?お前みたいな華奢な奴を一人暮らしさせてんだから、普通の家じゃなさそうだが……」
「……」
高田は迷った。自分を開示すべきかどうか。すべきかどうかで言えば、もちろん、小倉に自分の事を話すのは、あまりすべきでない事だと言える。しかし、小倉の心の中のドロドロを引き出したのは自分なのだから、一方的に聞くだけ、というのもフェアではない。
なんて軽率に、事を尋ねてしまったのか。高田は唇を噛んだ。まさか、無意識のうちに。知りたいと思った?小倉の事を。知らせたいと思った?自分の事を。沈黙が続く中、高田は自分の心の中の瘡蓋に手をかけた。
「……居ないのよ」
「……は?」
「死んだの。交通事故で。両親どちらも、ね」
小倉は体が固まった。その答えは想像の斜め上だった。両親の死を口にした高田の表情は、いつもと変わらぬ無表情なのだが、その無表情に少しの影が見えるのは、それは見ている自分の気持ちの変化がそうさせるのか。
「12歳の時にね。私だけ助かったわ。それから、ずっと1人」
「…………」
孤高。小倉は高田の事を、最初そう思っていた。今でもそれは変わらない。しかし、それはコミュ力の欠如だの何だの、そういう事が原因なのではなかった。ひょっとすると、独りでしっかり立っていないと、生きてこられなかったというのが真相なのではないか。この世で最も強い、血の繋がりが消え去って、でも友人関係なんて薄っぺらいもんじゃその穴はどうしても埋められなくて、その結果、つながりなしに、独りでもしっかり生きていくという事を覚えた。それが真相なのでは……
「私自身の事を同年代に話したのなんて、久しぶりに思えるわ。もしかしたら、初めてかも」
「…………」
言葉に出してみると、やはり、高田の心の中の瘡蓋はとれてしまった。瘡蓋がとれた傷口は、血を流して痛み始める。「あの人」をはじめ、いつも接する大人に話しても、おそらくこうはならないだろう。大人たちは、瘡蓋を強化してくれる物語を持っている。亡くなった両親の分まで、その遺志を継いで……そういう、継ぎ接ぎを傷口に当ててくれる。なのに、目の前の……この少年は何も言ってくれない。黙って切なそうな顔なんてしないで欲しい。もしかしたら……
もしかしたら、言葉になんてできない、自分の、自分だけの気持ちを、分かってくれてるのかもしれないと。期待してしまうから。求めてしまうから。
「…………」
高田は、そっと立ち上がって、小倉の隣に身を寄せた。躊躇いはなかった。
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何が一体、どうなっているのか。小倉には分からなかった。どうしてこの状況になっているのか、イマイチ理由が飲み込めない。高田の情報は、この部屋に入る前よりも増えたはずだった。孤高の裏にある、悲壮に気づいた。それは理解したと思う。
しかし、理解が一つ進めば、また更に未知の部分が顔を出す。今の状況がそうだ。小倉には、高田の行動の意図が分からなかった。
もしかしたら、人間関係自体、そんなものなのかもしれない。中身に近づけるかもと、皮を剥いて剥いて、しかしその度その下に皮が見えてくる。まるで玉ねぎの皮むきだ。玉ねぎは皮こそが本体みたいなもんだが、人間も同じだったりするのだろうか。
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人と交わろうとするには、自分自身が相手に開かれてなければならない。それは教室の中でも街の中でも、この部屋の中でも同じこと。自分はそれが、生得的にそうなのか、後天的な理由によるのかは分からないが、苦手なのだと思う。頑なになりそうな自分自身を精一杯ほぐしながら、せめてこの部屋の中でだけでも、開かれていようと思った。
ある一瞬、自分自身を突き抜けるような痛みが襲った。別に、この程度が耐えられない訳ではないけれど……しかし、相手の背に回した手を強く握った。
自分を覆う相手の温もり、相手の重み、そしてこの痛み。その全てを受け止めてようやく、人と交わっていると言えるのか。温もりに甘え、重みに安心し、痛みに悶えてやっと、人と交わっていると言えるのか。
高田はそう思った。
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「はしたない女だって、思う?」
小倉の腕の中にすっぽりと収まった高田は、小倉に背を向けて尋ねた。肩甲骨が浮いてるような華奢な背中から目を逸らしながら、小倉は答える。
「……別に。だってお前、初めてだったろ?」
「……そうね」
もう既に凝固しつつある汚れ。赤黒い染み。それを肌で感じながら、小倉はため息をついた。
「ただ、どうしてこうなるかが、俺には分からん。何でだ?何で急にこんな……」
「わが身はなりなりて成り合はざる処一処あり」
「はぁ?」
唐突に繰り出される、古事記の引用。国産み神話での、伊邪那美の一言。
「……自分の中の隙間が、今日は殊更に気になった。だから、埋めようとしたの。……馬鹿よね。こんな事で、埋まるはずはないのに。私とあなたは、他人であって、痛みすらも共有できないのに。……分かってくれなくて良いわ。人は皆、1人と1人なんだから。一つには、なれない……」
「……」
小倉の腕の中で、高田が体を丸めた。その背中が微かに震えている事に、小倉は気づいていた。密着した肌と肌が、互いを余計に遠く思わせた。外は、もう暗い。冬が近づいていた。
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