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闇物語

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コヨミフェイル
  005

 「阿良々木くんには心底呆れるわ」
 それが戦場ヶ原の第一声だった。二人で並んで中庭のベンチに座り、弁当を開けたところで戦場ヶ原は言った。
 「一時間目のことを言っているのなら僕はそんなことを言われる筋合いはない。問題はちゃんと解いたはずだぜ」
 少し誇らしげに言ってみた。
 「あれぐらいの問題が解けて当たり前でしょ。それとも阿良々木くんは実はあの問題を前日に徹夜をして解いたのかしら」
 「ぐっ………」
 「ましてや私と羽川さま………、羽川さんに教鞭をとってもらっているにも拘わらず、あのような低級の問題を解けないなんていう事態が有り得るかしら。いや、有り得ないわ」
 「なんで反語なんだよ。明らかに羽川を様づけしたことをごまかそうとしただろ」
 確かに、席につき、落ち着いてから再度問題を見てみると、結構簡単だった。けれども、土壷にはまると、どんな問題も何倍にも難しく見えるたりするのだ。
 「私の誤称を指摘できて良かったわね、阿良々木くん。誇ってもいいわよ。何と言っても、それはもう阿良々木くんにすれば、一生味わうことのない名誉なことなのだから」
 戦場ヶ原は立ち上がって僕の前で腰を手を当て、仁王立ちになって見下すように言った。
 戦場ヶ原は何でこんなにも性格が歪んでいるのだろう。
 僕って戦場ヶ原のどこに惹かれたんだっけ?
 「だったら何がお望みだったのですか?ガハラさん」
 と、嘆息してから言った。
 ガハラさんというのは僕が定着を図っている戦場ヶ原のニックネームである。
 「そんなに教えてほしいのなら構わないのだけけれど、私の望みを聞いたら最後二度とこの世界に戻って来れないわよ。その覚悟はあるの、阿良々木くん」
 「お前の望みは人類殲滅とかその類いかっ!」
 実際に戻って来れなくなりそうだから話さなくていい!
 「私の望みは阿良々木くんが、簡単な問題ごときに苦しみ悶えている哀れな醜態をクラスメートに晒しているのを見て、充足感に満たされることだったのだけれど、宛てが外れたわ。なぜみんなにわかりやすいようにもっと苦しみ悶えなかったのよ」
 「なるほど確かに、僕じゃなかったら人間不審に陥って戻れなくなりそうな振りだな」
 というか、解けるのは当たり前だとかなんとか言ってなかったっけ。
 戦場ヶ原は一体彼氏を何だと思っているのだろうか?
 「いい男ね」
 「どうせ、前に『都合が』が入るんだろうだろ」
 「違うわ。『使い勝手が』に決まっているじゃない」
 「もっと酷いわ!!」
 彼氏が所有物にまでおとしめられた!!
 「それに比べて私なんていいことずくめの女よ」
 「性格がいい、虫がいい、要領がいいの三拍子だろうが!」
 「それほどでもないわ」
 「褒めてねえよ!!」
 どこからどう聞いても皮肉だろうが!
 ポジティブシンキングにもほどがあるだろ!
 「それにいい彼氏もいるわ」
 「『使い勝手が』いい彼氏だろ」
 不意に拗ねた言い方になった。それが、戦場ヶ原にも伝わったのか、
 「ふふっ。違うわよ、阿良々木くん。臍を曲げなくてもいいのよ」
 と、微笑みを浮かべて嬉しそうに言った。
 不意にドキッとする。
 戦場ヶ原の微笑みは予想外に可愛いのだ。言葉が安っぽいが、こう表現するしかない。
 滅多に見せないからということもあるのだろうが、そこには普段の戦場ヶ原からは想像でいないような優しさが讃えられている。見ていると、そこはかとなく面映ゆくなる。
 「阿良々木くんは人が好い彼氏よ」
 「それは褒めているのかいないのかいまいちわからないな」
 「褒めているのよ、喜びなさい」
 「最後の一言がなければ素直に喜べるのだが」
 まあ、だけど、そう言われるのは嬉しくないわけでもない。
 ていうか、嬉しい。
 「だから、どこの馬の骨とも知れない女に付け込まれないか監視しなければならないことと馬鹿だということが短所なのだけれど、それはさておき」
 と、聞き捨てならない言葉を残して戦場ヶ原はさっさと本題に入った。
 「愚かにも私は弁当を間違えて二つ作ってしまったのだけれど、非常に困ったことに私に弁当を二つ食べるだけの胃のキャパシティーはないわ」
 どんな間違いだよ。
 おっちょこちょいにもほどがある。
 「だから不本意極まりないのだけれど、生き恥をかかされるような気分だけれど、もし阿良々木くんに自分のを含めて弁当を二つ食べれるような胃のキャパシティーが備わっているのならば、私の手づくり弁当を命と引き換えにでも食べたいと恥部を晒しながら土下座をするのならば、考えてあげてもいいのよ」
 「なぜ僕は彼女の手づくり弁当を食べることだけのために校内で公然猥褻罪に当たる行為に及ばないといけないんだっ!」
 …………ここまで来るとツンデレでも、ツンドラでもない。ただの性格の悪い高校生女子だ。
 彼女の初めての弁当を食べさせてもらうというイベントがこれほどまでに過酷なものとは寡聞にして知らなかった。
 弁当を二つ持っていたことには勿論気付いていたが、敢えて触れずに戦場ヶ原からそのことを切り出してくるの待っていたらこれだ。
 てっきり初デートの誘いの時みたく、しどろもどろと弁当を食べてくれるように頼んでくると思っていた。
 私の作ってきた弁当を……食べていただけませんか?………弁当を食べてはどうな……です……―みたいに。
 だが、そんな期待を木っ端微塵に破壊してくれるのが他ならぬ戦場ヶ原ひたぎである。
 多分これは期待を裏切られたことに対する報復なのだろう。
 「だけど、そんな可哀相な阿良々木くんには幸運にも私の弁当にありつける方法がもうひとつだけあるわよ………………土下座よ」
 「土下座は必要条件っ!」
 「何を言っているの。当然でしょ。私の弁当が土下座で食べられのよ。身に余る幸運じゃない」
 戦場ヶ原は本当に当然というかのように抑揚なく言ってのけた。
 「分かった。土下座はしてやる。その代わり僕に毎日弁当を作れっ!」
 悠然と腰を上げ、戦場ヶ原の前に勇ましく立ち、膝を折ろうとしたその瞬間だった。
 「だったら、戦場ヶ原さんの弁当を食べたいから私も土下座しようかな」
 猫撫で声が僕が土下座に移行するのを制止させた。声のした方を向くと、そこに小悪魔な微笑を湛えた羽川の姿があった。
 羽川は僕が知っている限り最も委員長に相応しい委員長、委員長になるべくしてなった委員長、委員長の中の委員長である。今ではすっかり様変わりして、かつての姿はほとんど残していないが、元々は髪を三編みにし、眼鏡をかけていて見るからに委員長というオーラを纏っていた人物だった。
 小悪魔な微笑を浮かべることなんてほとんどなかった。
 ところが、ある日を境に髪をばっさりと切り、短髪にするだけでなく、それにジャギーをいれた。眼鏡も外し、コンタクトを付けるようになった。
 それで学校は狂騒の坩堝と化した。先生の中に責任を感じて辞表を出した先生までもいるという噂がまことしやかに囁かれたほどだった。(羽川は訳を聞かれても、きっぱりと『イメチェン』とだけ言って、それ以上の追及を許さなかった)
 それも当然、羽川はこの時点でどんな大学にでも受かるとまで言われる学校創設以来の秀才だからだ。(そんな期待と裏腹に羽川は進学の意志はない。高校を卒業したら海外を旅して回るそうだ)
 「そ、そんなことはしていただかなくとも、こんなつまらない弁当が欲しければ、は、羽川様には好きなだけ差し上げます」
 戦場ヶ原は明らかにうろたえていた。うろたえながらもかなりの卑屈さを発揮していた。羽川に対してはこうも卑屈になれるのに、彼氏には卑屈になるどころか、有らん限りの言葉で毒づくだけなんだけどなあ。
 何だろう、この差は。
 「嘘に決まってるじゃない。阿良々木くんに丹精込めて作った弁当を私が食べるのはお門違いもいいところだよ。だけど、阿良々木くんに中庭の真ん中で人目も気にせず土下座させるなら、その可能性は否めないけど」
 と、羽川に言われて、周りを見回すと、中庭にいる他の生徒が片膝を折っている僕が何をしようとしているのか好奇の目で見ていた。
 目が合うと、弾かれるように顔を逸らされた。
 かなり居心地が悪くなってしまった。学校での僕の居場所が少なくなっていないのだろうか。
 「それと――」
 途中からは羽川は口元を手で隠して戦場ヶ原の耳元で小声で話したために内容は聞き取れなかった。でも、それはほんの少しの間で、おおよそ二言三言で住む内容のようだった。
 しかし、そのとき戦場ヶ原の表情が固まった。顔は青ざめていて、まるで初めてお化けと遭遇したような顔をしていた。
 「座っていいわよ、阿保良木くん」
 「……はいはい」
 羽川が顔を離した瞬間に暴言が降り懸かってきた。
 つい先程まで彼氏に公衆………というよりかは学徒の面前で土下座をさせようとして叱られた人の言動じゃない。
 だけど、いちいち付き合っていたら吸血鬼の不死力をもってしても老衰するから、するといけないから敢えてため息だけついて触れずに流す。
 「誰がベンチに座っていいって言ったのかしら?阿・保・良木くんには地面がお似合いよ」
 完全に八つ当たりだった。戦場ヶ原製の純粋百パーセント悪意の八つ当たりだった。
 流されたことにご立腹して阿保の部分を強調しやがった。
 「戦場ヶ原さん」
 羽川は少し怒ったのか、威圧的に言った。
 戦場ヶ原萎縮。
 ちょっとした憂さ晴らしになった。
 というか、羽川にどんな弱みを握られてんだ、こいつ。
 心臓を握られてるのか?
 「じゃあ。私はここで失礼するね。二人のときはいいけど、他の人がいるときはあまり行き過ぎないように気をつけること。いい?」
 羽川は戦場ヶ原に釘をさしてから校舎に戻っていった。戦場ヶ原をいたいけな僕の元に残して。
 「勘違いしないでよ。本当に間違えて二つ作っただけなんだから」
 と、平淡な口調で言って、戦場ヶ原は僕の太股の上に弁当を置いた。
 「あ、ああ」
 折角の戦場ヶ原の純ツンデレに対し、間の抜けた返事になってしまった。
 いや、なるほどこの上なく可愛いのだが、てっきり更に毒づいてくると思い込んでいた僕にとっては戦場ヶ原のそれはあまりにも拍子抜けで肩透かしだった。
 「だけど、よく味わって食べないと……殺すわよ」
 やはりただのツンデレでは済まさないようだ。
 「ガハラさんが作ってきた弁当をよく味わって食べないわけがないだろう。それがたとえ僕のためではなくともだ」
 これは照れさせて一矢報おうと言ったことだが、
 「あらそう」
 と、戦場ヶ原はそっけなく頷いて
 「一口……いや、違うわね。一噛みにつき三千六百秒かけるのね。つまり、一時間よ」
 と言った。
 「食べ終わる頃には日が暮れてるわ!」
 全く効果がないようだった。
 一矢報いようとすること自体不遜な考えだったようだ。
 「なら、一噛みに画鋲」
 「普通に怖いわ!食べ終わった頃には画鋲に埋め尽くされてるわ!」
 さっきの回りくどい言い方はこれを言うための伏線だったのか。
 ……ったく。
 これでは彼女の弁当を落ち着いて食べることもできない。
 「開けるぞ」
 「だめよ」
 弁当に手を伸ばしたところで戦場ヶ原に手首を握られて止められた。握られたことに八割、握る戦場ヶ原の手が妙に火照っていることに二割驚いて戦場ヶ原の顔を覗き込んだ。らしくもなく緊張した顔つきだった。声もどこか揺れていたように聞こえた。さっきまで抑揚のない声で僕を痛め付けていたのが嘘のようだった。
 「だめなのか」
 「い、いや、いいわよ」
 戦場ヶ原ははっとしたように手を離した。自分でも何をしているのかわからなかったのだろう。戦場ヶ原は明らかにうろたえていた。顔をわずかに俯かせて、目は頼りなく泳いでいた。
 あの冷酷無比にしてクールビューティーを絵に描いたような戦場ヶ原がうろたえていた。もうこの場には羽川はいない。僕を残して去ったはずだ。
 なのにうろたえていた。ちらちらと僕の目を覗き込んでは目を逸らしていた。
 弁当に自信がないのか?
 いや、そんなことを気にする奴だったか?
 「私の弁当は凄く美味しかったかしら?それとも泣けるほど美味しかったかしら?それとも死ぬほど美味しかったかしら?」
 とか食べている途中に訊いてきそうなほどだしな。
 まずいなんて言葉はまず考慮に入れていないような人間が殊勝にも彼氏の反応を気にするか?
 うーん、それとも僕の顔に何かついているのだろうか。そう思う方がしっくりくるな。
 「僕の顔に何かついてるか?」
 「目がついてるわ、取ってあげる」
 「僕の目はご飯粒じゃねえよ!!」
 取るってまだ朝のことを根に持ってるのかよ!
 執念深過ぎるだろ!
 ていうか、うろたえていても律儀に僕を痛め付けるんだな。
 それはさておき、僕の顔には顔の部位以外に何かついているわけではなさそうだ。
 ならば弁当に自信がないのだろうか。僕に弁当を渡すまでの前置きは、自信がなく、出し渋っていたと考えることはできる。けれど、やはり戦場ヶ原が更生したからと言っても彼氏の反応を気にするほどに劇的に変わりはしていない。確かに二人きりのときはデレてはいるけれど、外だと前とあまり変わらない。毒舌は健在だし、無表情も健在だ。
 「……弁当に自信がないのか?」
 「な、何を言っているの、阿良々木くん。ヘブライ語で話されてもわからないわ」
 自信がないようだった。こんな見え見えのごまかしをされても挨拶に困る。
 戦場ヶ原らしくない。
 「ヘブライ語がわかるのか?」
 弁当に自信がないということがわかったが、僕を前にうろたえた戦場ヶ原があまりにも新鮮だった、というか少し優越感を感じなかったわけではなかった。
 だから、ちょっとした出来心で話しを進めた。
 いつも罵倒されているのだから、これぐらいは許されるだろうというくらいの軽い気持ちで続けた。
 「わからないわ」
 戦場ヶ原はきっぱりと言った。
 「そう言われると、ヘブライ語がわかるのかという僕のヘブライ語による質問に普通にヘブライ語がわからないと言った戦場ヶ原に僕は矛盾を感じざるを得ないんだけど」
 「いちいちうるさいわね、殺すわよ」
 キレられた。
 さっきまでおどおどしていたのが嘘のようだった。
 僕を睨み付ける双眸には危なげな光が灯っていて、それは一時の戦場ヶ原を彷彿とさせた。いたぶるのは好きなのだろうが、いたぶられのは心底嫌なのだろう。自分がされて嫌であることを他人にするなと言うが、戦場ヶ原には関係ないことなのだろう。
 「食べる気があるの?ないの?ないのならあのごみ箱に捨ててくるわ。三秒数えるから、決めるのね」
 語気がどこか殺気をはらんでいた。
 少しばかりいじめ過ぎたのかもしれない。
 「さん……にい――」
 「数えなくても、食べるよ。食べないわけがないだろう」
 「なら四の五の言わずに食べなさいよ」
 「ああ、わかった、わかった」
 膝の上に置かれた弁当に今度こそ手を伸ばした。
 弁当箱は丁寧に風呂敷に包まれていて、それを解くと、新品同然の、いや新品の弁当箱が出てきた。
 一瞬驚くが、戦場ヶ原家が二人暮しで、さらに無駄な出費ができない家庭環境を鑑みるに驚くべきことではないと思うとともに僕のためだけに弁当箱を買わせてしまった罪悪感が抱いた。
 「言ったでしょ、阿良々木くん。別に阿良々木くんのために作ったわけではないのだがらね。勿論弁当箱も既存のものを使ったのよ。だから、もし後ろめたい気分でいるのなら、それは見当違いもいいところだと、言っておくわ。それに、そんな気分のままで私の弁当を食べてほしくはないわ」
 そんな僕の心中もお見通しの戦場ヶ原は僕の方を見ずに言った。戦場ヶ原の精一杯の気遣いなのだろうが、戦場ヶ原の言葉がありありと弁当が新品であることを物語っていた。
 だけど、僕だって初めての戦場ヶ原の弁当をこんな気分では食べたくない。絶対においしく食べたい。
 ならば、ここは割り切って食べるしかない。無理矢理だけど、そう自分を納得させて弁当の蓋を開けた。
 「………………」
 何故無言なのかというとそれは弁当の中身に起因している。
 中身が普通だったのだ。
 そう――普通だった。極めてありふれていた。
 敢えて描写すると、四割おかずに六割ご飯で、おかずはミートボール一個、ソーセージ二本、ブロッコリー一本にきんぴら牛蒡少々だった。
 正直に言って蓋を開けるまで僕は弁当箱の中身がどういう内容なのか少し不安だった。戦場ヶ原のことだから弁当が見るからに激辛だとわかる真っ赤な物体が詰め込まれているのではと思ったりもしていた。(実は空っぽなのではという考えもあったが太股にのせられた時点にその可能性は嬉しいことに消滅した)
 「何よ」
 無言で見つめていると、横合から不快感を隠そうともしない戦場ヶ原の声が聞こえた。
 「普通だなって。てっきり驚くことが一つや二つぐらいあるのかなって、身構えたんだけど」
 「悪かったはね。期待に応えられなくて」
 「いや、応えなくていい」
 「そう。それより黙って食べることね。今の時間わかっているのかしら?」
 「ん?って!もうこんな時間かよ」
 戦場ヶ原に言われて初めてタイムリミットが後十分だと気づいた。いつもなら何等問題のないタイムだが、今日は弁当を二つ食べなければならないから、一つの弁当にかけられる時間は五分足らずだ。かなりのハードスケジュールである。
 しかし、だからと言って戦場ヶ原の弁当をそんな早食い大会のようには食べたくない。せっかく作ってきたのだから弁当も戦場ヶ原の想いも無駄にはしたくない。余裕を持って味わって食べるのが道理だろう。
 しかし、そうすると、今度は母親の弁当を諦めないといけない。放課後に食べるという選択肢はあるが、猛暑日のじめじめした日に弁当がいつまで持つかが疑わしいし、母親の苦労も無駄にはできない。落ちこぼれても作ってくれているのだからなおさらである。できるだけおいしく食べたい。
 だが、どちらも取ることはできない。二者択一だ。
 どうすればいいだろうと思ったところで妙案が浮かんだ。
 二人で僕の母親が作った弁当を食べればいいではないか。おいしく食べるのであれば、僕である必要はないのだから。
 「戦場ヶ原――」
 「私は食べないわよ」
 しかし、そんな僕の考えが御見通しのようである戦場ヶ原は付け入る隙を作らないかのようにきっぱりと拒否した。
 「私を太らせる気?」
 「いや、弁当二つ食べてくれとは言わねえよ」
 「少しでも普段より食べれば、十分女子には太る要因になり得るのよ。それとも阿良々木君はポッチャリの方が好みなのかしら」
 「そういうわけではねえよ」
 女子は少しでも食べる量を増やすと太ってしまうのか。案外繊細なんだな。
 「とは言っても確かに一人で食べるには無理な量ね」
 戦場ヶ原はそう言って考え込んだが、それは一瞬で
 「なら私に考えがあるわ」
 と、言って携帯を取り出した。
 ちなみに誤解が無いように付け加えさせてもらうと、校内では携帯の使用は全面的に禁止されていて、見つかれば停学処分だ。戦場ヶ原の場合、推薦もないことになる可能性があるのだ。
 「おいっ!何してんだ!」
 だから思わず大声が出てしまってもしょうがないだろう。
 「うるさいわね。騒がれると、見付かるのだけど」
 「ご、ごめん」
 何故か僕の方が謝らされた。
 戦場ヶ原は誰かに電話をかけているようだった。電話を掛けるような友達は少なく、家族に至っては忙殺されている父しかいない戦場ヶ原が電話を掛ける相手は自然と校内にいる神原か羽川に絞られるのだけど、携帯の電源を入れているのだろうか。
 「もしもし。戦場ヶ原よ」
 入れていた。
 「まだアドレス帳を使っていないのかしら?まあ、それについては今はいいわ。そう、急いでいるの。すぐに来てくれるかしら。場所は中庭よ。うん、わかったわ。ところで神原は阿良々木くんのエロ奴隷である前に私の犬なのだからね、忘れてないでしょうね?うん、そう。じゃあ、待っているわ」
 と、言って戦場ヶ原は電話を切った。
 「最後のは聞き捨てならなかったぞ!!」
 電話の相手が神原だとはすぐにわかったが、神原が僕のエロ奴隷であることも、戦場ヶ原の犬であることもわからなかった。
 「本当にうるさいわね。黙るということを知らないのかしらこのゴミは」
 吐き捨てるように言われた。
 ……うん、何かもう慣れた。慣れてはいけないのだろうけれど、戦場ヶ原に罵倒されることがいつもの風景と化していて気にならなくなった。
 「それに事実を言ったまでじゃない。何がおかしいというの?」
 「神原が戦場ヶ原の後輩であって欲しいが、百歩譲って犬であるとしても、僕のエロ奴隷では決してない!」
 「よくそんなことを大声で言えるわね。尊敬しそうだわ」
 はっとして見回したが、完全に衆目の的だった。赤面して俯く。これで僕の変態という位置付けが揺るがぬものになったのだろうか。
 もう僕に居場所がなくなったのではないだろうか。
 「ごめん。もう教室に戻っていいか?食欲が失せてしまった」
 「許すとでも思う」
 「だよな」
 彼氏が傷心してもお構い無しの戦場ヶ原だった。
 「それに神原ももう来てるのよ」
 戦場ヶ原の指差した方を見ると、こちらに猛然と突っ込んでくる神原が目に入った。戦場ヶ原が電話を切ってからものの数十秒しか経っていないはずで、近くにいなければ叩き出せないようなタイムだ。
 だけど、すぐに神原の速度が一般人の出せるそれを優に越えるものだとわかったときには合点がいった。
 ていうか、自動車ぐらいスピード出てないか?
 「戦場ヶ原先ぱぁーーーーい」
 神原がそんな勢いを殺さずに戦場ヶ原に飛び掛かった。いや、襲い掛かったという方が正しい。
 体を目一杯広げて、大の字になって覆いかぶさるように戦場ヶ原に襲い掛かったのだ。
 さながらプロレスラーがリングの角のポールから倒れている相手に攻撃を加えるようにである。
 しかし、それを戦場ヶ原はまるで先読みしていたかの如く、難無く体を横に倒してよけた。それで神原が地面に打ち付けられることになることをまったく気にしていないようだった。
 案の定神原はベンチを飛び越えて地面にヘッドスライディングをする――寸前で両手を地面につき、前転して勢いを殺した。
 と、思った次の瞬間には振り返って再び戦場ヶ原に襲い掛かっていた。
 驚き入るばかりの機動力と立直りの早さである。無情にも避けられたにも拘わらず、次の瞬間にはめげずに再び襲い掛かっている。伊達に一人で弱小チームを全国大会に導いたわけでも、戦場ヶ原の毒舌や罵倒と普段から浴びているわけではないと再認識させられる。
 だがしかし、戦場ヶ原はそれを上回っていた――勿論立直りの早さでではない。
 頭の回転でだ。
 戦場ヶ原は又しても先読みしていたかの如く身を屈めてよけた。そして、再び神原が地面について追撃を加える前に戦場ヶ原は呟いた。
 「おすわり」
 「わん」
 神原は着地したと同時に戦場ヶ原に向き直って犬のように――というよりかはおすわりのつもりなのだろうが、僕には両手を地面につけてうんこ座りしているようにしか見えないのだが――おすわりした。
 見事な早業なのだが、これは決して公衆の面前でさせることではない――ましてや学校のスターにだ。
 ていうか、僕から見てスカートの中が丸見えだった。勿論スパッツをはいているから下着は見えないのだが、この恰好は女子としてはいただけない。最悪だ。
 「戦場ヶ原、もうよせ。神原に公衆の面前でそんな恰好をさせて羽川が黙っていないぞ!」
 と言うと、びくっ!!と戦場ヶ原は肩を震わせた。効果抜群のようだった。
 「神原、私のそばに座りなさい」
 「わん」
 しかし、戦場ヶ原の意図が伝わらなかったのか、神原は戦場ヶ原のそば、詳しく言うと戦場ヶ原と僕の間ででおすわりした。
 僕と戦場ヶ原の間に割り込んだことは僕の御寛大の心で許すとして(開けていた方が悪いしな)、神原はいまだにおすわりをしていた。しかもベンチの上でだ。衆目にスカートの中を見せびらかすような形になってしまっていた。
 どんな羞恥プレイなんだよ!
 「おい、神――」
 そんな神原の愚行を正そうと、神原の名を呼ぼうとしたそのときだった。小気味のいい短い着メロが戦場ヶ原のポケットから聞こえた。メールが届いたようだった―送信元は火を見るより明らかだ。
 その場が水を打ったように静まり返った。
 神原だけがこの事態の深刻さに気付いてなく、小首を傾げている。
 おもむろに戦場ヶ原が救いを求めるように僕を見つめた。その表情は今までに見たこともないほどに悲壮感を漂わせていた。あの鉄仮面を装着しているときを思うと、その落差にいたたまれなくなった。
 「見るんだ、戦場ヶ原」
 しかし、そんな戦場ヶ原に僕は慰めの言葉をかけられない。ここで逃がせば、後に何があるのかわかったものではないことは戦場ヶ原の反応がありありと物語っていた。
 だって僕に指図されても暴力を振るってこないところとかは完全にテンパってる証だ。
 「でも……」
 「でもも、だけどもない。早くしないと、後が怖いぞ」
 「うん」
 まさか戦場ヶ原の毒舌製造機の口から「うん」といういかにも一部のマニアなら悶え苦しむような言葉が発せられる日がこようとは思わなかったが、それはそれとして、戦場ヶ原は先生に見られる可能性を考えていないと思えるぐらい躊躇なくポケットから携帯を取り出し、開いた。少しの間操作して戦場ヶ原は固まった。戦場ヶ原の周りだけ時間の流れが止まったかのようである。戦場ヶ原は身持ちの堅さを体現するように携帯の画面にのぞき見防止のステッカーを張っていて、僕はそのメールの内容を見ることはできなかった。
 「阿良々木くん、これ……」
 しばらくして戦場ヶ原が僕の目の前に携帯の画面を突き出した。
 『from・羽川/subject・神原さんについて/text・拝啓 残暑の候、時下ますますご隆盛のこととお喜び申し上げます。常々多大なご厚情を賜り、感謝にたえません。先程は責めるような口調だったこと、加えて唐突にメールを差し上げたこと、何とぞお許しください。神原さんが凌辱されているただならぬ気配を察し、唐突にメールを差し上げた次第です。
 つきましては、神原さんを凌辱した委細は近く、拝顔のうえお聞きしたく存じます。まことに身勝手なことのみ申し述べましたこと、何とぞお許しください。
 なお、今後ともよろしくご厚情を賜りますようお願い申し上げます。
 まずは、取り急ぎお願いまで申し上げます。
              草々』
 「おすわりをやめろ、神原!!」
 読み終わるが早いか僕は叫んだ。とき既に遅しだが。
 「わん」
 やっとのことで神原はベンチに腰を下ろし、人間らしい姿勢になった。
 「どうしよう」
 戦場ヶ原は顔面蒼白だった。まるで首を切られたサラリーマンのようにうなだれていた。
 そう言えば、戦場ヶ原は僕を監禁して羽川に怒られたことがあったけど、あのとき戦場ヶ原は五時間へこんでいたらしい。羽川が極度に苦手のようだ。何故これほどまでに苦手になったのかはいまいちわからないけれど。
 「まあ、謝れば済む話だろ。羽川だって反省している人を怒るような分別のない人ではないだろうし」
 「そう、よね。そうに違いないわ」
 と、戦場ヶ原が持ち直して事が一段落したところを見計らって神原が口を開いた。
 「阿良々木先輩もご一緒でしたか。ふふっ、妬けますね」
 「僕の方が恥ずかしさで燃え上がりそうなんだよ!」
 僕の羞恥心を鍛える奴は妹だけでいいんだよ!
 「で、私は何をすればいいのだ?脱げばいいのか?」
 「何かにつけて脱ごうとするな!それと僕にもう変態的な発言をさせないでくれ!」
 これ以上僕の学校での居場所を奪わないでくれ!
 留年どころか退学させられるかもしれないだろ!
 「何を言う、阿良々木先輩。神に等しい、いや以上の存在の阿良々木先輩がそのようなことを言うとは。ああ、私から脱ぐことを取ったら何が残るというのだ!」
 何故か涙目で言われた。
 それで神原を猫っ可愛がりしている戦場ヶ原からの無言の圧力を掛けられている。
 しかし、涙目にさせた内容が内容だから、罪悪感をあまり抱けなかった。というか、逆に引いていた。
 「いや、あるだろ!その人間離れした運動神経とか、竹を割ったような性格とか」
 「そんなものは脱ぐことの副産物でしかない」
 「製造過程がわからねえ!どうしたら脱ぐことを生産して運動神経とか性格が形成されるんだよ!」
 お前を構成しているものは一体何なんだ!ダークマターの類なのか!
 「まさか阿良々木先輩がこうも間違えるとは、天変地異の予兆か?私を構成しているものは脱ぐこと90%、着ること10%だぞ」
 「だぞって、ほとんど裸じゃねえか!」
 ていうか、人間離れした運動神経とか、竹を割ったような性格はどこにいった!
 「さすがは阿良々木先輩だ。並々ならぬ洞察力には感嘆の意を表明せざるを得ないな」
 長い前置きを置いて
 「確かにそうとも言うのかもしれない」
 と、言った。
 「そうとしか言わねえよ!」
 このままだとすぐに昼休みが終わりそうな勢いだったが、僕は完全に戦場ヶ原の弁当のことを失念して戯れに興じていた。
 「御戯れの最中で大変申し訳ないのだけれど」
 と、戦場ヶ原が言って僕の足を踵で思い切り踏み付けていなかったらどちらの弁当も食べ損ねていただろう。
 だから踏み付けられた足が悶絶するほどに痛くても、我慢我慢。
 「神原には弁当を食べてほしくて呼んだのよ。決してゴミの相手をしてほしくて呼んだのではないわ」
 「べ、弁当とおっしゃったか、戦場ヶ原先輩!?」
 弁当という言葉にハイになって多分僕を罵倒している後半部を聞き流したのであろう神原は僕に目もくれず、戦場ヶ原の両肩を掴んで向かい合っていた。
 神原の顔は真剣そのものだった。今までにないほどに真剣な顔だった。シリアスパートでいまいちシリアスになれなかった神原が何故か弁当というワードにシリアスモードになっていた。
 本当に掴み所のないキャラだな、神原。
 「そうよ」
 戦場ヶ原はその気迫に気圧されているようすもなく平坦に言った。
 「ああ、何という幸運なのだろうか。戦場ヶ原先輩の手づくり弁当が食べられる日が来るなんて」
 と、言う神原の頬を一筋の涙が伝った。
 「私の弁当だけではないわよ。阿良々木くんのお母さんが作った弁当も食べるのよ」
 「阿良々木先輩の母上も食べてよいのか!?」
 「食べてよいわけねえだろ!」
 神原の顔には不気味に歪んだ笑みがはりついていた。余りにも嬉しい出来事に行き当たると人間はどう反応すればいいのかわからなくなるというが、これが好例と言えるだろう。
 「落ち着け。その様子だと一人で全部食べ兼ねないぞ」
 神原は完全に自制心を失していた。好きな相手が弁当を作ってくれたのだから喜ぶのは当然のことなのだが、神原の今の状態は異常だった。というか、神原は初めから異常だったな。失念していた。露出狂で百合でBL愛読者で一時はストーカーだった異常者だったな。
 「これは夢だろうか。確かめなければなるまい。阿良々木先輩、私の胸を抓ってくれ」
 「落ち着くんだ。これは夢じゃないし、胸も抓らない」
 抓った瞬間退学処分だ。
 「そうよ、神原の胸を抓る権限は私にしかないのよ」
 「ねえよ!ていうか、さっさと食べるぞ」
 後七分もないぞ!食べ切れるのか!
 「阿良々木くんは私の作った弁当を、そして私たちは阿良々木くんの弁当と私の弁当を二人で分け合いましょう」
 そう言うと、戦場ヶ原は神原と密着するぐらいに並んで座って二人のちょうど真ん中になるように二つの弁当を二人の太股の上に置いた。
 「では、いただきます!」
 「「いただきます」」
 神原の声の後に続けて言って僕と戦場ヶ原も食べはじめた。
 食べ始めてから何故か言葉が交わされなくなった。一番話題を提供するであろう神原は弁当に必死で、戦場ヶ原はただだまだまと食べている。僕も特に話したいことがあるわけではなかったから何も言わなかったが、ふと今朝からのどたばたで言いそびれていることがあると気付いた。
 「なあ、戦場ヶ原」
 「何よ」
 「デートしねえか?」
 「後輩の前で何発情しているのかしら、この単細胞生物は」
 「ゴミの次は単細胞生物なのか」
 後単細胞生物に発情期があるのだろうか?
 「単細胞生物も捨てたものではないぞ、阿良々木先輩。何と言ったって、私たちがあらゆる細胞を駆使しなければならないところを彼等は一つの細胞で済ませているのだぞ。カッコイイではないか!」
 神原は手を止めて、それだけ言うと、再び手を動かしはじめた。
 「カッコイイのか?」
 「そうよ、とってもカッコイイわ、響きも癌細胞生物みたいで」
 「癌細胞生物ってそこはかとなく存在を否定されているようで嫌だ」
 「声を掛けないで、癌細胞が移るわ」
 「移らねえし、僕は癌細胞生物でもない!」
 「で、藪から棒にデートのお誘いとは何事なのかしら?」
 と、気が済んだのか戦場ヶ原は唐突に話題を戻した。
 「あれから一度もデートしていないなあって思って」
 「誰からか唆されたのかしら?」
 「うっ……」
 本当戦場ヶ原の前では隠し事はできないようだ。
 「今朝八九寺に会ったって言っただろ。そんときに言われたんだよ」
 「ふん、あの小学生の仕業なのね。目障りだわ。見えていたら今すぐにでもパチンとしたいところだわ」
 「戦場ヶ原でも八九寺に手を出そうものなら、命に変えてでも止めるからな!」
 一番手を出しているのは僕だけど、まあそれはそれとして。
 「一度でもそんなことを言われたいわ」
 「ならそう言われるよう心掛けてくれ!」
 お前と話していたら逆に誰かに守られたいと思うだもん。
 「で、何を言われたの?」
 「いや、お前ってツンデレじゃん?だから、デートがしたくても言い出せてないのではないのかっていうことだよ」
 「そうね」
 と、思案顔で言ってから
 「信じてもらえないかもしれないけど、別にそういうわけではないのよ。ただ、阿良々木くんにその時間がないというだけなのよ」
 心なしか憂鬱に言った。
 「えっ、そんなに僕には余裕がないのか?一日もか?」
 確かにこの学力ではぎりぎりなんだろうけど。一日もというわけでもないだろ。
 「一日もっていう訳ではないけれど」
 「なら、いいじゃねえか?」
 「…………そうね。一日ぐらい息抜きも兼ねてデートをしてあげてもいいわ。その代わり、今回も私がプロデュースするわよ。阿良々木くんにさせたらどんな凄惨なデートになるかわかったものではないもの」
 「わかっていても最後のところは言わなくていいだろ」
 と、言ったところで意味がないことはわかっている。
 現に
 「どんなデートにしようかしら」
 と、言って隣で弁当を貪るように食べている神原を見ていた。
 と、思ったら戦場ヶ原は僕に意味深な笑みを向けていた。 
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