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闇物語

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コヨミフェイル
  004

 一心に自転車のペダルを踏んで、学校へ急いだ。八九寺と戯れている時間はあっても感傷に浸っている時間など僕にはなかった。前述の通り、出席日数がぎりぎりなので、教師の心証が僕の生死を分けてしまうのだ。これで本当に留年にでもなったら笑い事では済まされない。
 駐輪所に自転車を停めて、校舎へと繋がっている階段を駆け足で上っていると、不意に自分の足音とは別の足音が耳に入った。僕のどたばたとした足音ではなく、ゆっくりで軽快で単調なものだった。
 「あら。阿良々木くん、私より遅く登校しているなんて、どういう風の吹き回しかしら」
 平坦で上から見下すような口調の持ち主。
 そう、それは他でもない戦場ヶ原ひたぎ。僕の掛け替えのない思い人であり、怪異のために二年間も人を寄せ付けず、孤独に身を置いた人。怪異により重さを奪われた人。
 戦場ヶ原の家は誰しもが認める豪邸だった。
 そう、豪邸――だった。
 ある日を機にそれは狭いボロアパートになった。
 勿論、豪邸をボロアパートにリフォームしたのではない。
 戦場ヶ原が小学五年のとき、母親が悪徳宗教に入信したのだ。小学生の頃の戦場ヶ原は病弱だったらしい。それで戦場ヶ原が九割方助かる見込みのない大病を患ったとき、心の拠り所として入信したのだった。
 心の拠り所を求めるのは間違ってはいないが、そんな人の弱みに付け込もうとしている人は数知れないのだから、拠り所は赤の他人に求めるべきでなかった。信頼の置ける身内や知人に求めるべきだったのだ。
 戦場ヶ原の大病が治ったことで母親は完全にその悪徳宗教にのめり込んでしまった。
 典型的な例だ。
 そののめり込みの度合いは年々ひどくなった。それこそ何かに取り憑かれたようだったらしい。金を貢つぎ続け、多額の借金を作るだけでは飽き足らず、揚句の果てに娘の貞操までもその宗教の幹部に貢ぎかけたのだ。娘のために入信したはずだった宗教団体に娘を差し出したのである。
 貢ぎかけてというのは、つまり未遂に終わったのだが、それは言わずもがな、戦場ヶ原が抵抗したからだった。
 手元にあったスパイクで幹部を殴り付けたらしい。
 この行動が間違っているという人はいないだろう。至極当然の選択だった。それで母親がペナルティを受けて、更に金を貢がされたために家庭が崩壊したとしても責められるべき人は戦場ヶ原ひたぎでは絶対にない。
 ないのだが、家庭が崩壊した後戦場ヶ原は思い悩んだ。
 あの時抵抗しなかったら家庭は崩壊しなかったのではと。
 思い悩んだところでどうにもならなかったが、戦場ヶ原は思い悩んだ。そうせずにはいられなかった。
 そして、そのときだった。
 そのとき、戦場ヶ原の前に怪異、もとい神が現れた。
 おもし蟹。
 またの名を重いし蟹、重石蟹、そしておもいし神。
 思いとともに重みを奪い、存在を奪う。
 忍野メメの言葉を借りると、
 「おもし蟹ってのはね、阿良々木くん。だからおもいし神ってこと何だよね。分かる?思いし神ってことだ。また、思いとしがみ―しがらみってことだ。そう解釈すれば、重さをを失うことで存在感まで失ってしまうことの、説明がつくだろう?あまりにも辛いことがあると、人間はその記憶を封印してしまうなんてのは、ドラマや映画なんかによくある題材じゃないか。例えて言うならあんな感じだよ。人間の思いを、代わりに支えてくれる神様ってことさ」
 ということだった。
 つまり、戦場ヶ原は現れたおもし蟹に母親を押し付けた。
 戦場ヶ原は重さを代償に母親の思い出をおもし蟹に押し付けたのだ。
 娘を生き贄のように幹部に差し出し、助けてくれなかった母親のことを、あのとき自分が抵抗しなければ、そんなことはなかったのかもしれないと思い悩むのをやめた。
 思うのを止めた。
 母のように心の拠り所を求めたのだ。
 しかし、楽になってしまったことを、後悔しない日は、一日だってなかったと戦場ヶ原は言う。
 周囲との不調和からではなく、思いを失ったからだそうだ。
 今では忍野の力を借りて重みは思いとともに戦場ヶ原に還った。
 おもし蟹に押し付けたものを自分で背負ったのだ。
 そして、絶縁状態だった神原と縒りを戻し、貝木との因縁に決着をつけて今に至る。決して道程は短くなかったのだろうが、戦場ヶ原はこうして僕と話してくれる。なんだかそれだけで幸せなのだ。
 「それほどのことでもないと思うが」
 戦場ヶ原に追いつくと、横に並んで歩いた。戦場ヶ原がいるということは朝礼にはまだ時間があるということだ。そうなれば、急ぐ必要は毛頭ない。
 「そうかしら。今頃太陽は慌てて西から昇っているわ」
 「僕にそんな地球の自転を操る超次元的能力が備わっていたのか!」
 「阿良々木くんにそんな力があらのなら、ゴミには宇宙を創造する力を持っていることになるのだけれど」
 「そうでした!阿良々木暦は戦場ヶ原様から見ればゴミも同然。否、ゴミ以下の存在。思い上がりも甚だしい!ああ、穴があったら入りたい!!」
 ならスコップが必要ねと、くすっと戦場ヶ原がそこで小さく笑う。
 戦場ヶ原が無表情の鉄仮面を装着している戦場ヶ原が笑みを見せるのは僕と二人きりのときだけだ。
 鉄仮面を外しているときだけだ。
 「実は太陽には私から言っておいたのよ」
 と、なぜか自慢げに戦場ヶ原が言う。
 「太陽の方を動かしているのか!?」
 天動説か!
 いや、宇宙は戦場ヶ原を中心にして回っているのではないか?
 「私にはそんな大それた能力は持っていないわ。阿良々木くんに彗星を落とすぐらいかしらね」
 「それ僕どころか地球もただではすまないんじゃないのか!!」
 恐竜の大絶滅以来の大事件だろ!
 というか、僕限定なんだな!全然嬉しくとも何ともないけど!
 「それより、阿良々木くん。いつも勉強してますよアピールの一環で、なにかと早く御登校なさる阿良々木くんがどうして、学校を目上の人に逆らわない無能を製造する施設だと見なし、できるだけ触れないようにぎりぎりで登校する私よりも遅い御登校なのかしら」
 刺のある言い方だった。先程までの和やかな(?)雰囲気は一瞬で雲散霧消していた。
 「夏休みも終わるというのに、私とならまだしも、どこに小学生と乳繰り合う時間があるというのかしら」
 見ていたのか?
 いや、それはない。なぜなら僕が八九寺と戯れていた道は戦場ヶ原がかなりの遠回りを覚悟しない限り絶対に通り得ないのだ。戦場ヶ原が遠回りして僕が八九寺を発見したところを見たとしたら、距離的に徒歩では学校に間に合わないだろう。
 というと、勘か?
 そうだとすると、皆勘が鋭過ぎないか?
 既に驚きの域を越えて恐怖だよ。
 いつからこの町は超能力者の巣窟になったんだ。いや、それとも、これが所謂女の勘ってやつなのか。
 ……きっとそうだろう。
 確かにこの世は得体の知れない超常現象で溢れているが、流石に僕の周りだけが千里眼とか地獄耳とか読心術とか持ってる人の率が高いということはないだろう。突然に女子にモテる主人公補正はあっても突然に超能力者との遭遇率が上がる主人公補正など寡聞にして知らない。
 ならば、ここで素直に白状するのは得策じゃない。戦場ヶ原だって何の根拠もなく言っているのだ。認めれば、何されるかわかったもんじゃない。戦場ヶ原の前に日本国憲法も少林寺拳法もみな紙屑同然なのだ。
 ここは当たり障りのない言葉で切り抜けるしかなかろう。
 「あははっ。何のことかさっぱり――」
 だなあ、と言い終える寸前に遮られた。
 二本の指によって。
 その二本の指が、人差し指と中指のピースサインなのだが、そんな幸せな感じではまったくない。
 それどころか、その真逆。
 生殺与奪を握られて僕には未来の光が見えなかった。
 何も見えなかった。
 そう、戦場ヶ原の指以外は。
 戦場ヶ原の右手の人差し指が僕の右の眼球を、中指が僕の左の眼球を寸分違わず捉えていた。
 つまり、目潰しだった。
 実はアニメで見る目潰し、戦場ヶ原が実演してくださっている目潰しは間違いで、空手などでは手刀の側面で上から擦るように目潰しをする。
 理由は簡単で手刀でした方が命中精度があって安全だからだ。ドラゴンボールでお馴染みのピースサインの目潰しなんて実際は動いている敵の目に当てるのは極めて難しく、逆にその指を取られて外されたり、折られたりする危険性がある。
 しかし、それをやってのけるのが戦場ヶ原である。
 指と眼球の間の距離は一ミリもないだろう。
 達人顔負けの寸止めだった。
 「意外かもしれないけれど、今日は機嫌が良い方なのよ」
 戦場ヶ原は澄んだ声で言った。
 「…………」
 要するにその機嫌を損ねたらその二つの眼球をもって償いなさいということなのだろう。対価があまりにも不等ではないか?後ここで真実を言っても眼球をえぐられる気がするのは僕だけだろうか?
 まさか自分の通っている学校の階段でこんな究極的な選択に迫られるとは思いも寄らなかった。目潰しされても激痛で起きた忍に血を少し与えて、治癒能力を上げれば、どうにかなるだろうが、されたくない。彼女に目潰しをされたなんていう思い出なんて作りたくない。
 それに確かこの階段はバナナの皮に滑って落ちてきた戦場ヶ原を受け止めた場所のはずだ。
 そんな思い出の地で目潰しって。
 思い出が塗り替えられるよ?あまりと言えばあまりの仕打ちじゃないか?
 「今日は蟹座が星占いで一位だったのよ」
 指を微動だにせず淡々と言う戦場ヶ原。
 そんなことで機嫌が良くなるのか。
 ……単純だな。
 というか、本当に機嫌が良いのか?
 いつも無表情でわからねえよ。
 「ラッキーアイテムは彼氏の眼球」
 「それは断固違うと言えるぞっ!!」
 怖えよ!!
 呪いの儀式とかのレシピみたいになってんじゃねえか!!
 僕を呪うつもりなのか!?
 眼球えぐられただけでも十分呪い以上の仕返しになると思うけどなあ!
 「あら、生きていたのね、阿良々木くん。うんともすんとも言わないからてっきり死んだのかと思ったわ」
 戦場ヶ原の平淡な口調にまるで立ったまま死んだ彼氏に対する驚きの色が見えなかった。
 「僕も死ぬかと思ったよ」
 「まるで全て私のせいだと言わんばかりね」
 「ごめんなさい」
 お辞儀せずに言った。
 「たまたま八九寺を見つけて、そう言えば、全然会ってないなあと思って声を掛けたら、これが思った以上に話し込んでしまったんだ」
 「そう、やはり小学生と乳繰り合っていたのね」
 「今の僕の言葉にそれと受け取れる言葉は一切含まれていなかったよなあ!」
 「阿良々木くんがあの小学生を前にして理性を保っていられるとは思えないわ」
 「うっ……」
 至極その通りだった。
 ……僕ってそう思われているのか。
 これからは気をつけないとな。小学生を前にすると理性を失う高校生というレッテルだけは払拭しないとまずい。
 軽く警察送りのレベルを越えている。
 「前も言ったと思うけれど、私は浮気には寛容なのよ。阿良々木くんが誰の男かわかっている限りね」
 ここでようやく戦場ヶ原が腕を下ろしてくれた。
 「ああ、わかってるよ」
 と、答えることを知っていたからだろう。
 きっとこれはちょっとした確認。
 僕がどこかの女子に現を抜かしていないかという不安からくるちょっとした確認なのだ。そう思うと、戦場ヶ原にも高校生女子相応の女心があるのだと安心したりする――確認する方法はともかくとして。
 「あらそう」
 戦場ヶ原はそれだけ言うと、前に向き直って階段を上りはじめた。
 「ちなみに私の千里眼はただの千里眼じゃないのよ。名付けて千里(gun)よ」
 「マジかっ!!」
 やっぱり千里眼持っていたのかよ!
 ていうか、千里銃ってなんだよ!威力計り知れねえよ!!
 「せいぜい気をつけることね」
 「そうさせてもらいます!」
 僕は先を行く戦場ヶ原を追い掛けた。
 教室の近くまで来ると、決まって戦場ヶ原は口を閉ざす。話を無理矢理切って、黙り込む。クラスメートに明るい(?)時の自分を見せたくないらしい。
 まあ、けど学校の外で二人で快談(?)しているのを度々目撃されているからあまり意味を成していないし、校内でも弁当を食べてるときもそれなりに和気あいあいとしている。
 教室に着き、自分の席についた。
 教室での僕の席は真ん中辺りで、戦場ヶ原の席は窓際に位置している。
 ラブコメとかではカップルって大概近いよな。
 素直に羨ましい。
 僕と戦場ヶ原とは横の並びで一緒だったが、間に二人挟んでいる。まるで僕と戦場ヶ原のプラトニックな関係を描いているようだ。かといって、非プラトニックな関係が欲しいわけではないのだが、もっとこう、どきどきすることがないかなあ、それこそラブコメのように、なんて考えていたらいつの間にか朝のホームルームが終わっていて、一時限目が始まっていた。
 慌てて一時限目の授業である数学の用意を机に出した。
 すでに数学の担当の先生が来ていて黒板に何か書き始めていた。この数学の先生は老齢の割に書くのが速い。それで生徒から苦情が出るのだが、御構い無しである。今では無駄だと知って苦情を言う生徒はいない。その代わり、生徒の間ではハゲと呼ばれていたりする。
 置いていかれまいと急いでノートを開いて前を向いたが、その必要はなかった。先生がほうけた顔で手を止めていたからだった。
 一点を見詰めて呆然としているようだった。つられるようにして先生が見詰めている方に目を向けると、その光景が目に飛び込んできた。
 戦場ヶ原がぴんと高らかに手を上げていたのだ。
 教室が騒然とした。かの委員長の中の委員長の羽川でさえ黒板から目を離し、大きく見開いた目で戦場ヶ原を見ていた。
 僕にとってもその光景は信じがたいものだった。当てられても、「分かりません」と、分かっているにも拘わらず、答えていた戦場ヶ原が当てられてもいないのに、手を挙げている。
 真っすぐ上げている。
 本当に今頃太陽は西から昇っているのではないのかと思ったが、僕がそんな戦場ヶ原がなぜ手を挙げたのかという疑問を抱かなかったのは痛恨の極みだった。
 「先生、その問題でしたら、阿良々木くんがぜひ解きたいと言っていました」
 …………はああああああっ!
 戦場ヶ原の口にした言葉を何度も反芻してから心の中で突っ込みを入れた。というよりか、声を張り上げた。
 戦場ヶ原に向けられていた無数の視線が一斉に僕に向けられた。戦場ヶ原の方を見ると、すでに何事もなかった風にノートに目線を落として、シャーペンを走らせていた。
 あいつっ!
 失念していた。あいつは僕をいたぶることを生き甲斐、いや、生業としていることを。
 だがしかし!今回は戦場ヶ原の思い通りにはならない。
 「えっ?」
 ハゲはほうけていた顔をさらにほうけさせた。まあ、当然と言えば、当然の反応である。戦場ヶ原に経緯を訊こうとしているようだが、戦場ヶ原は既に我関せずとばかりにシャーペンを走らせているので、困ったように僕の方を見た。
 いや、見詰められても僕の方が困っているのだから、これ以上困らさないでくれ。
 と、目で語ったのが功を奏したのか、ハゲは黒板に向き直って授業を再開するようだった。
 よしっと、心の中でガッツポーズをするもつかの間、
 「私からもお願いします」
 と、羽川までもが手を挙げて僕を推薦した。羽川は戦場ヶ原とは違って僕のことを本当に考えての発言だろう。顔も語気も真剣みを帯びていた。
 もしかして、これは僕の更正プログラムに組み込まれているのか?
 更にもしかして、羽川と戦場ヶ原はグル?
 …………有り得るけれど、さっきの羽川を見る限り、それはないだろう。
 羽川は演技ができるような性格ではない。
 今回を機に僕の更正プログラムに阿良々木を推薦することを組み込むつもりだとしたら?
 そして、戦場ヶ原は羽川がそのように判断することを見越してしたのだとしたら?
 戦場ヶ原なら考え兼ねない。十分にする可能性がある。
 「そ、そうか。なら阿良々木くんに前で解いてもらうとしましょうか」
 苦笑しながらハゲが戦場ヶ原と羽川に追従して書いていた解答を黒板消しで消しはじめた。
 いじめのフレーズだった戦場ヶ原の言葉が、羽川という優等生がバックについたおかげで正当化されてしまった。となると、僕はいじめのように毎授業黒板の前に立たなければならないのではないか?
 ならば、ここは戦場ヶ原ではないが、「わかりません」と言って辞退して二人にがっかりさせることでやる気を削ぐというのはどうだろうか。
 多分戦場ヶ原に殺ろされるな。
 戦場ヶ原があらゆる文房具を駆使して僕をいたぶっている様をそばでにこやかに羽川が見ているなんていう画が冗談ではなく本気で思い浮かぶ。
 少なくともここで分かりませんと言ったら、間違いなく戦場ヶ原は僕と口を聞いてくれなくなるし、羽川の期待も裏切ることになる。これは避けなければならない。
 ならば、衆目に晒されながら解くしかない。そもそも問題を解くことなんて戦場ヶ原の振りにしては簡単だ。解いて、正解を貰いさえすればいいのだ。そうすれば今日一日の戦場ヶ原の機嫌を取ることができるだけでなく、羽川の中での僕の株が上がる、つまり羽川の胸に一歩前進できるというものだ。ふふっ、これを一石二鳥とは言わずして、何を言うのか。
 これを機に二人から矢継ぎ早に指名されてもその時その時で対応すればいいのだからな。
 今までもそうしてきたじゃないか。
 こんなことでめげる僕じゃないぜ!
 悠然と立ち上がり、机の間を通り、黒板の前に立った。黒板のところまで来る間、四方八方からの視線をひしひしと背中に感じていたが、今の僕には取るに足らないことだ。
 黒板の前に立ってからも背中に突き刺すような視線を強烈に感じるが、痛くも痒くもない。いっそ、涼しく感じると言える。
 戦場ヶ原主導の教室ぐるみのいじめに遭ってるみたいだったが、僕はそんな無言の圧力なんかに屈したりはしない。チョークを手に取り、黒板の問題を怨敵であるかの如く睨み据える。静かに問題に目を通す。
 はっ、なんだ、たかが論証問題じゃないか。僕も見下されたものだ。
 一瞬で解いて戦場ヶ原の鼻を明かしてやるぜ。それでもって、羽川の胸を文字通り手中に納めるのだ。
 論証問題が今の僕には四則計算に見えた――わけではなかった。
 ……ん?ここをこうやって、これをこうとして、これをこう代入すれば、出てくるんじゃなかったっけ?…………あれ?
 証明の初筆で手が固まってしまった。
 書きはじめる際に頭の中で証明の大まかな筋書きを組み立てる癖を付けていた僕はそれに失敗してチョークを手に持ったままフリーズしていた。背後は水を打ったように静まり返っていて無言の圧力を強めている。
 何と言う極限状態なのだろうか。
 そのせいで頭をフル回転にして間違いの洗い出しを試みるが、空転していた。
 ええい、ままよっ!!
 筋書きが穴だらけのままだったがチョークを走らせた。
 槍と化したクラスメートの視線に背中を穴だらけにされるよりかはましだ。
 だが、意に反してチョークを掴む手が震える。
 それで字も乱れに乱れる。今までにないほどの恥をかかされている気分だった。それも相俟って、解答のゴールが見えない。それでも少しでも手を止めてはいけないような強迫観念の取りつ憑かれて、必死に手を動かした。
 戦場ヶ原はどんな顔をして哀れな僕を見ているのだろう。振り向くことなど叶うはずもなく、想像でしかないが、きっと充足感を湛えた冷笑を浮かべているだろう。
 なんとか解き終えて、一通り間違っていないか目を通してからクラスメートの視線から逃げるように目を伏せて振り返り、席まで戻り、座った。
 もう、足ががくがく。さながら生まれたての小鹿みたいに。
 戦場ヶ原に目を遣ると、依然としてノートに視線を落としてシャーペンを走らせていた。
 指名しておいて、興味まるでなしかよ。
 せめて舌打ちの一つしてくれた方が僕としては少し救われたのだが。 
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