青い春を生きる君たちへ
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第6話 無意味
「……で、お前らが福山にヤキを入れたんやな。ほいたら、こないになったと」
「はい、申し訳ありません」
小倉達は、グランドを見下ろす監督室に集まっていた。監督がタバコの煙をくゆらせながら、机に頬杖をついて横目で小倉達を睨んでいた。
結局、福山は翌朝までには良くならず、かろうじて登校はできたが、その凄惨な顔は誰がどう見ても何かがあったとしか思えない様子だった。よって、あった事に対しては誰かが責任をとる必要があり、その役目は必然的に、最も弱い立場の人間が負う羽目になった。
「昨日、福山は俺の授業で居眠りこきやがったからな。たるんどったから、3年2年も含めて全員走らせたったけど、そうか、そうか、同期のお前らも我慢できなんだか……そら、先輩に迷惑をかけるんは申し訳ないしなぁ」
監督は全てを知っている。小倉はそう思った。自身もOBで、監督になってからも十数年。寮生活の部員達がどんな世界に住んでいるのか、その世界の掟がどのようなものであるか、知らないはずがなかった。下級生同士での喧嘩で、誰にでも傷がバレる顔面を狙うはずがない。同期同士の喧嘩で、つまらない追及が部全体になされたりなんかしたら、それこそ事件だ。先輩方がただではおかない。顔を遠慮なく殴れるとしたら、上級生、それも、誰にも仕置されない最上級生以外にありえない。しかし、目の前の監督は、それらを全て分かった上で、こんなトボけた事を言っている。
「でもなあ、やりすぎや。他の先生にバレてどないすんねん。俺が色々言われるんやで。そういう事まで考ええ。今度やる時はもっと上手にせえ。ええか?」
「「「はい!」」」
「分かったら、お前ら今日は反省して正座や。30分。お前らの気持ち考慮して30分で勘弁したる。それ終わったらいつもの練習入れ。さ、早よ行ってこい」
「「「失礼します!」」」
監督に最敬礼をして、小倉達は監督室を出て行った。監督室を出るや、皆の表情は覚悟を決めたような険しさから解放され、安堵を漂わせていた。
「良かったわ〜前みたいに二時間とか無茶苦茶言われたらどないしよか思ったもん〜」
「お前、あん時10分ごとに足崩しよったやんけ」
「そうせな保たへんやん。30分なら、まあまあ楽や。ラッキーやで」
「だよな。久しぶりに、真面目に正座するか。」
皆、思いの外ペナルティが軽い事を喜んでいた。誰も、責任を肩代わりする事に疑問を抱いてはいなかった。それをしても、無駄だと。余計に痛みを増やすだけだと、分かっていたから。より大きな痛みを防ぐために、今の痛みを耐えねばならない事を、理解していたから。
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青葉松陽の放課後のグランドは、様々な部活が入り乱れる。私学とはいえ、特筆すべき部も無ければ、部活動に特別力を入れる気も学校には無いので、グランドはサッカー部、野球部、陸上部、ラグビー部などが共用で使用する羽目になっている。グランドの広さが足りないから、上記のうち一つは、グランドを使えない。順番で使用権を回すのだ。こんなグランドの共用など、経験した事がない小倉は、こんだけ人が居る中で硬球なんて使って危なくないのかと、不安になってしまう。中学、高校と、野球は専用グランドでしかやったことがない。しかし、今は野球部以外の部活動は、隅に避けてストレッチなどをしている。保坂が交渉したらしい。そして保坂は、今はマウンド上に居る。ポジションには野手がついていた。
「謙之介と良輔の勝負かぁ。見応えありそうだなぁー」
ついてきた田中は、ジュース片手にベンチに座り、すっかり観戦モードに入っている。小倉は田中から借りた(正確には、運動着が無いならこれを使えと押し付けられた)体操服を着て、打席に立っていた。
(……なんでこうなっちまったんだか)
小倉はヘルメットを被りながらため息をついた。保坂が「放課後付き合え」と言ったのは、このシートバッティングの事だった。要約すると、自分と勝負してくれ、と言ってきたのだ。その為に他の部活をどかせ、他の野球部員に守備につかせるなんて、よくもまあこんな労力を惜しまずやれるもんだと思う。そして、他の部員や部活がそれに従う辺り、保坂の発言力は相当強いのだろう。2年からエースで4番と言ってたし、この学校ではちょっとしたヒーローなんだろうか。少なくとも、大古や瀬尾といったDQN勢よりかは根拠が真っ当に見えるし、奴らと違って人を従えることそのものを目的にもしてないだろうから、見下げる気にもならなかったが。今はもう野球をしていない自分と勝負がしたいなんて、保坂にとっては、中3の頃の大敗がそんなに印象的だったのだろうか。小倉の方はそんなこと、少しも覚えていないけど。
「じゃ、三打席…」
「一打席だよ。他の部活が迷惑してるだろ。一度だけだ。」
「そう言われちゃあ、仕方ないな」
少し残念そうな顔をした保坂はすぐにバックを振り返り、守備陣に声をかける。結構気持ちが入っているらしい。たった一打席だというのに、野手のポジションを動かしたりして、本気モードだ。小倉はまた、ため息をついた。こんなにやる気満々の相手だ。わざと三振したらしたで、納得しそうにない。どんな結果になるかは知らんが、本気でやるしかなさそうだ。バットを片手でくるくると回し、小倉はマウンド上の保坂を見た。
保坂は、体が結構大きな左投手だ。背は田中よりも高いのだから、180cmは優に超えている。その保坂が背筋を伸ばして振りかぶると、マウンドの傾斜もあいまって、中背の小倉にとっては結構大きく見えるものだ。小倉は右打席でバットを構え、投球を待つ。保坂が上げた足を踏み込むのと同時に軸足に体重を乗せて前足を浮かせ、その腕の振られる瞬間と踏み込みの瞬間を一致させた。
パーン!
キャッチャーミットの音が高く響く。初球は左腕から放たれたストレートが、対角線の右打者のインコースに綺麗に決まった。小倉は踏み込んだ姿勢のまま、目線だけでその軌道を追ったのみ。ワンストライクである。
「ほらほら、振らなきゃ当たんないぞー!」
田中が、少年野球の保護者みたいな事を言って囃し立ててくる。こいつはどうして、こうも楽しそうなのだろうか。そして、保坂。現役野球部員でもない自分にいきなりクロスファイアー投げてくるとは、大人気のないやつ。
パシッ!
二球目は、恐らく変化球、回転を見るにスライダーだったろうか。しかしそのボールは、ストレートほどには指にかかっておらず、アウトコースにすっぽ抜けて、これはボール球。
「ほらほら、ピッチャービビってちゃあダメダメ〜」
「インコース突けよ突けよ〜」
バックを守る野手が保坂に声をかける。保坂は引き締まった顔で、分かった分かったと、その声を制した。小倉としては、保坂という投手がだいたい分かったような気がした。何か、意図的に隠してる球でもない限り、この二球で本質は見えた。
カン!
三球目、今度はさっきよりまともに指にかかったスライダーに対して、小倉はチョコンとバットを出した。打球は一塁線の外側を鋭く駆け抜ける。カウントが一つ進み、1-2と、小倉が追い込まれる形になった。が、小倉は最初から、次の一球に集中している。
(カウントまだ余裕あるし、来るだろうな。全力投球が。)
小倉のバットを握る手からは力が抜けているが、代わりに目に力がこもる。保坂が振りかぶり、そして投げる。その動作のリズム、テンポを既に把握していた小倉は、タイミングを測って浮かせた前足を強く踏み込み、軸足股関節をキュッと鋭く回した。体の捻じれが下から上に伝わり、その捻じれが生んだパワーは、最後はバットを持った両腕の鋭いスイングとなって発散された。
カーーーン!!
金属バットの甲高い良い音が響きわたる。バットを振り切った小倉は打席から動かず、ただバットだけを放り投げる。そんな派手な仕草は禁止されていたのだが、何故かこの時は自然とそうしたくなった。自分でも、久しぶりでここまでやれるかと思った程の、会心の打撃だったから。
ガシャン!
レフトが一歩も動かなかった弾丸ライナーは、校舎を守っている防球ネットに音を立てて突き刺さった。恐らく、正式な球場でもフェンスを越えていたであろう、完璧なホームランだった。
「保坂の球を、あそこまで……?」
捕手から驚きの声が漏れる。野手も、他の部活の生徒も、皆驚きの表情で小倉を見ていた。ただ、打たれた本人の保坂だけが、やっぱりかとでも言いたげな苦笑いを浮かべていた。
「すげーじゃん、謙之介!俺あんな飛んだホームラン初めて見たよ!」
ベンチから田中が興奮気味に飛び出してくる。まあ、こいつは常に興奮状態みたいなもんなのだが。小倉はヘルメットを取り、額の汗を拭いながら、俯き加減にマウンドを降りてくる保坂に言った。
「……球速は130ちょっとか。そこそこ伸びのある、悪くないストレートだったぞ。十分打ち取れる球だと思う。……それ以上に良い変化球が一つ、あればだけどな。」
「……敵わんな。一球前のスライダーをファウルにしたのは」
「わざとだよ。お前の全力投球を打ちたかったからな。」
あっさりと言ってのけた小倉に、保坂は肩を落とした。つまり、小倉は保坂の一番良い球と勝負しようとして、その結果としてホームランを打ったというわけなのだ。その気になれば一球前のスライダーも打てていただろう。しかしそれをしなかった。完膚なきまでに、叩き潰す為に。
ふと小倉の頭の中を、高田の言葉がよぎった。勝てると分かってる勝負を選んで、相手を叩くことを楽しむのは卑怯、だと。いや、違う。小倉は否定した。野球に絶対なんてない。最後のフルスイングがポップフライになる可能性も、十分あった。自分がやったのはイジメではなく、勝負だったはずだ。その証拠に、今は、勝てて結構嬉しい。
「なあ」
「なんだよ」
「もう一回!今度はバッターとして勝負させてくれ!ピッチャーとしては負けたが、まだバッターとしては負けて……」
「悪い。もう上がらねえんだよ、この肩。その勝負は、受けてやりたくても、本当の本当に無理なんだ。諦めてくれ。」
食い下がってくる保坂を、小倉は自分の右肩を回して受け流した。ちょっと回しただけなのに、痛みこそしないが、思うように動かせない違和感が残る。せいぜいできるのは、ゆっくりとしたキャッチボール程度。ピッチャーなんて到底無理だった。
「そんな……だから、甲洋辞めて、ウチなんかに転校してきたのか。もう投げられないから。」
「……よく俺の進学先まで知ってたもんだ。本当に、大敗がショックだったんだな。ま、そんなところだよ。そういう事にしておこう。今となっては、甲子園なんて夢、見る事すらままならねえポンコツさ。」
甲洋高校。小倉は久しぶりに、「前の学校」の名前を聞いた。自分ではわざわざ口に出す事は無いし、心の中でつぶやく事すらしなかった。関西の、甲子園常連校。輝かしい実績を誇り、数々のプロ野球選手を世に送り出した、日本野球史にもちょこっと名前は載るくらいの、その程度の学校。そして、小倉の、憧れの高校だった。今はもう、過去形でしかないが。
「えー?まだチャンスあるだろ。ここの野球部入ればいいじゃん。ピッチャーはできなくても、あんなホームラン打てるんだろォ?帰宅部やるにはもったいないだろォ」
田中がキョトンとした目で、諦め顔の小倉と保坂を見る。至極真っ当な意見だった。一度ドロップアウトしても、転校先で、またやり直せばいい。そう考えるのは普通のことだ。ただ、今の小倉には、その指摘は当たらない。
「……高野連の規定でな、転校して1年は試合に出られないという規定があるんだよ。選手の引き抜きを防ぐための規定でな。」
「え?じゃあ謙之介は……」
「そういうこと。転校は9月だから、来年の最後の夏までには、出場停止は解けない。俺の高校野球は、もう終わってんだ、完全に。」
事情を聞いて、何故か自分以上にがっかりしている田中が、小倉には何ともおかしかった。自分にとっての高校野球は、甲洋の野球だった。甲洋を離れた時点で、もう高校野球に未練は無かったし、例え松陽で再出発が可能でも、自分はその機会を掴もうなどとは思わなかっただろう。諦めは既についているのだ。どうしようもない事に対して、抵抗しても仕方がない。皮肉な事に、甲洋での1年半が、小倉にその事を強く教えていた。
「……今度こそ勝てると思ったんだけどなぁ。野球辞めたお前に打たれちまうなんてなぁ。俺、中途半端にデキるだけで、満足しちまってたよ……」
「おいおい、凹むなよ。俺の方が余程中途半端なんだぞ?多少ホームラン打てた所で、俺はもう絶対に公式戦にゃ出れないんだ。俺の野球の実力なんて、誰の役にも立たないんだよ。さ、もう俺みたいな奴の事なんて気にするの止めて、お前はキャプテンなんだし、早く他の部員の面倒見てやれ。お前はあいつらの役にたってやれるだろ?」
自分より大きな保坂の背中をポン、と叩き、小倉は打席から去った。ベンチにヘルメットとバットを置くと、ふと、これが自分の野球の最後か。そんな考えが浮かんだ。惜しくはなかった。個人的な勝負での、何の意味もないホームラン。間違っている自分の野球人生の最後には、相応しく思えた。気がつけば、笑っていた。西日に照らされた、寂しい笑いだった。
「……」
グランドを見下ろす教室の窓からは、高田が顔をのぞかせていた。乾燥して、冷たくなってきた風に、ショートカットの黒髪がなびく。高田の表情は、いつもと変わらず無表情。呆れたようなため息だけが、感情の起伏を表していた。
「……可哀想」
高田の呟きを聞く者は、誰もいなかった。
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