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乱世の確率事象改変

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名を語られぬ彼らが想い

 一つの戦闘が黄河周辺で開始されていた。白馬から延津に向けて進んでいた曹操軍と、烏巣から出撃した袁紹軍がぶつかり合ったのだ。
 曹操軍を率いるは一人の少女。極寒の冬を思わせる冷たい瞳は敵軍の動きを悉く看破する翡翠色。手に握る黒い羽扇は、指示の度に鳳凰の羽根の如く舞い踊る。

「左翼先端、二から五まで突撃。中央は蹂躙後旋回。右翼はこのまま押し込んでください」

 彼女に従うのは憎しみに燃える白馬義従。やっと解き放たれた怒りは、餓虎のように袁紹軍の先陣を蹂躙して行く。
 己が命も顧みず、ただ一人でも多く殺そうと食らいつく様は、何処か黒き部隊と似ていた。
 それを感じても、雛里の思考は研ぎ澄まされた剣の切っ先の如く揺れず、淡々と、作業のように指示を出していた。
 彼女の始まりの戦から今まで、戦を行う度に別の自分が表に出る。冷徹に、冷酷に、人の命を数と見て、より効率的な戦場を目指して思考を廻し続ける。
 希代の天才軍師と誰かが言った。戦術では誰にも負けないと、いつでも自分を高めてきた。しかし餌を与え続けてくれたのは彼で、空を飛ぶ羽根を与えてくれたのも彼。
 大陸一の名軍師……そう言ってくれる彼らにも背中を推されて、小さな雛だった少女は、成長していった。
 今尚、始まりの決意と覚悟は胸の内に。彼の胸で泣いたあの時を、雛里は一生忘れる事は無い。

 断末魔が上がる。馬蹄が人を踏み荒らす音が鳴り止まない。怨嗟の声が戦場に溢れかえっていた。

――嗚呼、どうして……こんなにも落ち着くんだろう。この場所は。

 安息があった。充足があった。歓喜があった。
 自分の、黒麒麟と並び立っていた鳳凰の住処は此処だと、迷う事なく思えた。
 乖離したような感覚。もう一人いる冷徹な軍師としての自分は、この場所でこそ黒麒麟と共に在れるのだと喜び叫んでいた。
 心が痛んでいるのに喜んでいる。それはまるで、洛陽での彼のように。ダメな事だと頭で理解していても、彼を感じられる戦場が心を安らぎに導いてしまっていた。

 周りに侍る黒の部隊は微動だにしない。彼女を守る為に命に従いて動かず。

――あなた達も戦いたいはずなのに……

 どれだけ想いを抑え込んでいるか分かっているが、この戦場だけは白馬に譲ろうと考えてか、雛里に意見する事もない。
 ふるふると頭を振るって戦場を見やる。慌ただしい騎馬の戦で、彼女達だけは山の如くどっしりと構え続けていた。

 遠くで声が聴こえた。

「貴様らがっ……俺達の大事なもんを奪ったんだぁぁぁぁぁっ!」

 涙を流しながら矢を射る兵士が、憎しみを込めて叫んでいた。
 ズキリ、と雛里の胸が痛む。彼は白馬義従第二師団の生き残り。大切な大切な白馬の片腕への想いが、もう溢れて止まらない。
 遠くで声が聴こえた。

「殺してやる……っ! 一人だって生かしてやんねぇぞてめぇらぁっ!」

 槍を持って突撃する騎馬が、怨嗟を燃やして敵を穿っていた。
 ズキリ、と雛里の頭が痛む。彼は白馬義従第一師団の部隊長。愛しい主が居ない戦場で、馬を並べられない渇きが抑えられなかった。
 遠くで声が聴こえた。

「滅べよ袁家っ! お前らが居なきゃ、俺らは楽しく暮らせたんだっ!」

 馬から落とされた兵士が、それでも敵に突撃していった。家族と戦友を奪われた怒りは、命を燃やしても鎮まる事は無い。

 憎しみ溢れる戦場。もう誰にも止められない。指示に従ってはいるが、ギリギリの線で軍の様相を繋ぎ止めているだけであった。
 その線は、一つの歌と、一本の斧だった。

 歌え、叫べよ我らの歌を。
 愛しい主に届くように。我らが主に届かせるように。
 心震わせ、白を想え。
 失わせた片腕と共に在れるように。彼女のように在れるように。

 待機している後陣の兵士達が、喉を枯らして歌い続けるそれがあるから……そして片腕が振るっていた指標があるから、彼らは憎悪を深めながらも白で居られた。
 民から王への愛の歌。彼女達が率いた白馬義従から白馬長史への想いの歌。

 “誰かの涙が零れて光る 今また誰かが泣いてしまった”
 “あなたは一人 みんなの為と 夜の涙を掬いに駆ける”
 “どれだけ背中を見たでしょう 守られていると気付かずに”

 その歌は勇気を与えた。
 死の恐怖など欠片も感じさせず、前へ前へ駆ける勇気を。彼女が泣いていた。片腕も命を賭けた。なら、駆ける理由は十分だ。

 その歌は後悔を与えた。
 白の部隊で紅い衣服を着ていた彼女は、血の色を誤魔化して、傷ついたことすら誰にも悟らせたくなかったのだと皆に気付かせてしまった。

 その歌は怨嗟を与えた。
 誇り高く戦い続けた優しい彼女の平穏は、もう二度と手に入らないと絶望を呼び起こさせる。

 渇いていた。誰もが、渇いていた。
 心に空いた空虚な穴が、寂寥と慟哭の風を感じさせる。
 違う。違う。違う。違う。違う……戦っている最中も相違点が脳髄を侵食し、心に澱みを降り積もらせる。
 自分が戦いたいのは、共に駆けたいのは、主の側でしか無かったのだ。抑え付けられない感情は怨嗟となりて、彼らの力を跳ね上げる。
 憎悪の感情は否定される事が多くとも、圧倒的な力を齎す心力でもあるのだから。
 白馬義従の独壇場たる戦場。其処に袁家の生き残る術は……“少ない”。

――おかしい。

 違和感を感じ取った雛里が、きょろきょろと辺りを見回した。
 この戦場は余りに簡単過ぎる。力押しだけで行けるなど認識が甘すぎる、と気付いた時には……もう遅い。
 敵の軍師は、徐州であの時、彼と彼女を追い詰めた狡猾な男なのだから。

「全軍、突撃停止。距離を取って戦場を駆けつつ、騎射で数を減らすように指示を――――」

 言い終わる前に、遠くで笛の音が鳴り響いた。大切な大切な笛の音が。
 絶望の戦場で鳴ったのは竹の音。此処で鳴ったのは……聞き間違うはずも無い、“今はもう失われた黒麒麟の身体の嘶き”。
 後に、聞いたことの無い音が鳴り、悲鳴が幾多も張り上がった。

――嗚呼……

 一寸の思考の空白に、ゆらゆらと雛里の瞳が揺れ始める。

――彼の作った大切な音が。黒麒麟の上げるべき嘶きが。
 彼らは鳴らして居ないのに、私は指示を出してすらいないのに……何故鳴った? 決まっている。敵が使った……彼と彼らの嘶きを敵が使った!

 ドス黒い感情が雛里の心を染め上げた。黒く、黒く、真黒に染まる心。震える拳と震える身体。
 カチリ、と頭の奥で音が鳴った気がした。脳髄に一筋の氷を通すような感覚を以って冷やして行き、彼女の瞳はより冷たく、より昏く濁った。

「このまま通常の戦の有様程度で帰れると思わないことです、袁家」

 緩く息を吐き、振り向く。歯を噛みしめて怒りを抑えている黒麒麟の身体が其処に居た。

“あれは誰の音だ? 皆が知っている。想いを繋いで死んでいったバカ共の嘶きだ。許せるわけ、あるかよ”

 同じ想い。同じ願い。同じ心。皆、彼と彼らとの思い出を穢されて怒りに燃えている。
 ギシリ……と音が幾重も木霊する。彼らの拳が震えていた。

――まだ、待ってください。華琳様も桂花さんもあなた達を使うなと言いましたが……この澱みを抑える方が、毒になってしまいます……

 目を細めた雛里は、後陣に伝令を走らせて報告を待つ。幾分、耳に入った情報は敵兵器の存在であった。

 巨大な弩が列を為して騎馬隊を蹂躙している、と。
 守りの兵は通常よりも長い長槍を持ち、馬対策の柵で囲られていて近付けず被害が大きい、と。
 さらには……

「て、敵軍より……攻車出現っ! 数は十! 馬も車も鉄に覆われていて矢が効かず、為す術もありません!」

 攻車とは、昔の戦車である。馬を並べて荷台を引かせ、質量の大きさで歩兵を薙ぎ払い、安定した足場で射撃を行える野戦兵器。
 それを袁家は使ってきた。野戦となる事を想定して、烏丸から馬の扱いの卓越したモノを引き込んで……この時機を待っていたのだ。

――攻車と“ばりすた”……合わせて使うと相性は……確かにいい。選択としては、悪くない。

 甚大な汗を流しながらの報告に焦りもせず、雛里は扇を口に当てて思考に潜る。
 目まぐるしい速さで積み上げられる数多の対応策。この大陸で最高の軍師だと彼が言っていた。それを忘れる雛里では無い。
 なら、この程度の不可測は乗り越えてしまえるモノだ。否、この程度の事を容易に乗り越えられずして、何が大陸一の名軍師。彼の隣に並び立つ資格など、無い。
 数瞬の後、ゆっくりと、彼女は扇を降ろした。

――でも、今の私達を相手取るには……不足に過ぎる。

 この状況は手持ちの札だけで打破出来る……そう、判断して。

「白馬義従は死を恐れますか?」

 歌は既に止ませた。異質な戦場となるならば、より早い指示で多くの兵を動かさなければならないと雛里が決断を下した為に。
 伝令の兵を馬の上から見下ろした雛里は、冷たい声を続けて投げる。

「兵器は確かに強いモノでしょう。それでも、人の力を侮ってはいけません」

 冷徹な瞳の昏さに、兵士はゴクリと生唾を呑んだ。感情を一切含まない軍師の輝き。人間らしさが、欠片も見当たらなかった。故に、この少女は我らの元には居なかった化け物の類だ、と瞬時に悟る。

「必要な時だけ出てもいいとお達しが出ています。私達の仕事を……始めましょうか」

 再び後ろを振り返り、雛里は彼らに向けて優しく微笑んだ。
 今から行う事は決死の突撃。彼らにとっては、いつもとなんら変わらない地獄の戦場。

『我らが大陸一の軍師、鳳凰の命じるままに』

 一糸乱れぬ返答と、不敵な笑みは彼らの証。やっと戦えるのだと安堵したモノばかりが、傷だらけの腕に槍を持ちて頭を垂れた。
 満足した雛里は目を切って、伝令の兵士にも微笑んだ。ぞっとするような……妖艶な笑みであった。

「白馬義従は巨大な弩に向けて強行突撃。壊せないとは言わせません。連馬の型で十に分けて纏まって動き、弩に特攻して壊してください」

 兵器を壊す為に誰かの命を捨てろと、彼女は言っているのだ。それがどれだけ異常な事か分からぬ兵ではない……が、主を取り返す為ならばそのくらいの気概を持てなくてどうする……そう心を高めていく。

「鳳統隊は攻車を……全て破壊しましょう。向かうに足る方を部隊長さんが指名してください。駆ける麒麟の数は三十でいいでしょう。方法は――――」

 つらつらと並べられていく説明に、動こうとしていた伝令の兵士は恐怖に取り込まれた。
 そんな、そんな方法があるかっ……恐ろしさの余り叫びそうになった。自分達とは違う決死突撃の方法。無茶だ無謀だと、彼らも恐怖しているだろうと……黒麒麟の身体に目を向ける。
 しかし彼らは、楽しそうに笑っていた。

「いいっすね。面白れぇ策だ。ははっ、さっすがは鳳統様」
「任しといてくださいや。俺らにしか出来ねぇ事ですから」
「やっと俺達らしい戦いが出来るってのは……くくっ、嬉しいねぇ」

 笑顔は子供のようで、理解出来ずに首を振る。こいつらは狂っている……共に戦う白の兵士でさえ、そう感じた。
 ぎゅっと目を瞑って白の兵士は駆け去った。自分の仲間には伝えまいと、心に決めて。

「なら……最期に上げさせて貰いやすぜ。俺達の証を」
「……構いません。思うままに戦ってください」

 雛里だけは知っている。その笑みが、命じるモノを気遣う優しい笑みなのだと。彼に想いを向けていたように、雛里にも彼らは想いを向けている。それが嬉しくて、哀しかった。
 だから彼女は許した。華琳が封じた、嘗ての言葉を。策を行う幾人かだけに、もういない彼らと同じになれるように、と。

「十個の兵器だ。鳳統様は三十って言いなさったが……二連馬相手なら二十人もいりゃ十分だろ。第四の六、八、十二、二十五……」

 部隊長が兵士達に与えられた番号を呼び、呼ばれた男達は誇らしげに前に出た。大きく息を吸い、彼らは天に向けて槍と剣を突き刺し、自らの証を無言で示す。
 大切な彼との証をこの残酷な世界に解き放つ。誰にも文句は言わせない。言うモノも、居ない――

「行けっ、バカ共! 俺らの意地を世に示してきやがれ!」
『応っ!』

 此れから、二十人の麒麟が戦場を駆けるのだから。
 郭図の誤算は……鳳凰と共に戦う黒麒麟の身体がこの戦場に居る事であった。








 その攻車は騎馬の突撃を遥かに凌ぐ威力を持っていた。
 質量の大きさ故、安定した重心故、そして扱うモノの力量故に。
 死体を肉片と化して突き進む。立ち竦む敵を弾き飛ばす。纏まれば、一息に数人が命を失う。鉄で覆われている為に矢も効かず、なんら対応策が無いかに思われた。

「……あの馬、幽州のじゃねぇか!」
「乗ってるのは……っ……烏丸だと……?」

 見紛うはずも無い。攻車を牽いているその馬は、彼女が愛した白馬なのだから。力強さも、美しさも飛び抜けている愛する馬を、袁家は自分達にぶつけてきたのだ。
 しかも、扱うのは同じく見間違うはずのない特殊な鎧を着た長年の敵。散々辛酸を舐めさせられてきた異民族が乗っているとなれば、彼らの心に怒りが燃えないわけが無い。
 憎しみを持つのは正しい。感情に突き動かされて戦うのもいいだろう。だが……無茶と無謀を穿き違えてはならない。
 それでも兵士達は、ギリギリの線で律していた連携重視の戦闘を遂に破ってしまった。抑え付けられるわけが、無かった。

 誰かが突撃した。幾人かが攻車に群がった。そして……馬と共に無残な肉塊と化した。
 それでもあいつらだけは、と誰もが群がって行く。そうして命を散らしていく。
 崩れた連携を立て直すのは容易では無い。それが機動力特化の騎馬隊であれば尚のこと。
 もはや雛里を以ってしても抑えられない烏合の衆。白馬義従は、黒麒麟の身体のようには出来ていなかった。
 士気は落ちずとも数が減る。そうして、戦況は曹操軍に悪い方向へと向かっていった。

 そんな中で、彼らの怨嗟を止めさせるモノが戦場に張り上がる。
 上げるな、と言われていた大切な音が、この戦場で鳴り響いた。
 まるで白馬を助けるかのように、黒麒麟が白馬の王を助けに来たかのように……白馬義従を助ける為に黒麒麟の身体が動いたのだ。
 敵から鳴った合図とは違う。何故なら、彼らが駆けながら鳴らしているのだ。

 幾多も鳴る笛の音。己が脚で駆けて行く黒き麒麟の兵士達。彼らは皆、不敵な笑みを浮かべていた。

 おお……と誰かが声を上げる。
 自分達でも倒せぬ兵器を、彼らが倒せるとは思っていなかった。それでもその勇姿ある姿に心動かされたのだろう。
 しかし……攻車に向かった彼らの行動を見て、皆が絶句し、恐怖に呑み込まれる事となった。

 胸いっぱいに空気を吸い込んだ二人の麒麟は……駆けながら空を仰いでケモノの雄叫びの如き大声を張り上げる。

「「乱世にぃぃぃぃぃぃっ! 華をぉぉぉぉぉぉっ!」」

 天高く響く、歓喜溢れる叫び声。抑え付けて抑え付けて、漸く上がった嘶きと黒麒麟の証明。
 彼らは今、この時ばかりは覇王の命令に抗っていい。命を輝かせ、想いの華を咲き誇らせるに足る戦場であるが故に。

“俺達は誰だ。俺達の名は誰の元に。俺達の命は誰の為に”

 渇望の叫びは怨嗟に染まらず、浮かべた表情はただ不敵。

“我ら、世に平穏を齎す黒麒麟の身体なり。この命の輝き、想いの華、願いの光……とくと目に焼き付けよ”

 雄叫びを聞いたのは誰か。
 駆けていた二人の男がぴたりと脚を止めて攻車の行く道に立ちはだかり……槍を投げた。真っ直ぐ、真っ直ぐに空を割くそれは、攻車を扱う敵を狙ってのモノ。

 たかが歩兵に何が出来る。見ろ、槍を投げたのは想定外だが、この鉄の鎧を貫けるわけがなかろうて。

 愉悦と油断に染まり切った表情が敵にはあった。敵は、圧倒的な力に酔っていたのだ。
 馬が大地を蹴り、車輪が地を抉り、近付いてくる兵器は強大に過ぎた。しかして彼らにとっては、敵が強ければ強い程に意味がある。

――たった二人で抑えられるなら、“俺達如きで壊せるなら”、あの化け物……御大将の足元にも及ばねぇ。見晒せ袁家、恐怖と絶望に堕としてやらぁ。

 楽しくて楽しくて、彼らは笑った。彼と比べてしまえばなんら取るに足らない相手だと気付いてしまえば、笑わずにいられない。

――俺達がコレを壊せばどれだけの人が救える? おおとも、少なくともこの戦場の奴等はもう殺されねぇわな。

 ずっと追い掛けた背中は目に焼き付いている。身の内にある理想の姿は変わらず、黒麒麟に並び立てるほど強き男で守る側。彼のようになりたくて、彼らは徐晃隊にて戦い続けているのだから。

――そうあれかし……意地があんだよ男には、願いがあんだよ徐晃隊にはっ、想いがあんだよ……俺達黒麒麟にはなぁ!

「「ははっ! 世に……平穏をっ!」」

 重なる笑いと声は同時であった。
 数瞬で接触する場所まで来た時に、彼らは最期の笑顔を浮かべる。俺達は幸せだったと、歓喜を込めて。
 ちっぽけな命を輝かせれば誰かを救える。それがこんなにも嬉しくて誇らしい。

――だから、戻った時に俺らが居なくても悲しむなよ、御大将。

 そのまま彼らは……弾き飛ばされる寸前で身体を落とし、

 牽く馬、鎧に覆われていない脚の部分を、全力で剣を振るって切り飛ばした。

 自分達に真正面から突っ込んでくる車によって、挽き肉になるのも承知の上で。

 馬の大きな嘶きと、肉の潰される音は同時。血霧が舞い、肉片が飛び散った。それでも彼らは、敵の兵器の一つを壊した。
 多くの命を蹂躙した兵器を、たった二つの命で無力化した。それがどれだけ大きな働きか、見ていた者達に分からぬはずがない。
 しん……と静まり返る戦場では、誰も言葉を零すモノが居なかった。
 彼らは文字通り特攻したのだ。命を投げ捨てて戦果を挙げた。その在り方はいつでも変わらずに、“多くの誰かを救うために命を賭ける黒麒麟の身体”。
 彼らには理解など必要ない。自分達が多くの命を助けられたなら、彼の描く平穏な世の為に戦えたなら、それでいいのだ。

 そして敵には恐怖を、味方には……狂信を。

 狂気が生まれた。その行いに魅せられるモノが幾多。他ならぬ黒の部隊の雄叫び。黒の臣下たる彼らが我らを救ったというのに、白の臣下たる我らに同じ事は出来ぬのか。
 否、否であろう。誇り高き白馬長史は黒の友。ならば我らは、彼らの戦友であるべきだ。
 命を賭けるとは……生温いモノでは無く、彼らのようにならなければ足り得ない……見ていた誰もがそう思って武者震いを覚えた。

「俺達も行くしかねぇ。いや……行かなきゃならねぇ」
「ああ、この命を捨ててでも勝利を。そしてあの方の家を、我らが王の家を……俺達の命を対価にしてでも取り戻すんだ」

 恐怖が狂気に呑み込まれ、憎しみを願いが呑み込んだ。
 怨嗟に燃えていた白馬義従は続々と、冷静さを取り戻していく。
 即座に駆ける白の一団は十頭で一つ。右肩に黒を巻き、一頭の馬の如くバリスタに向かい行く。撃ち出される槍は巨大にして鋭く……されども彼らには脅威とならない。
 二人が貫かれて息絶えた。止まる事は無く、ぴったりと息のあった連携で右へ左へと誘いを掛ける。
 二撃目。一人の腕が千切れ飛ぶ。気にすることなく、集団行動を乱さずに彼らは突き進んでいった。
 その戦い方は白では無い。漸く辿り着いた場所で、突き出される槍にも臆さず前に踏み入る彼らは、黒麒麟の身体と同等であろう。
 精密に作られた兵器は脆い。騎馬の特攻という最悪の力押し方策によって為すすべもなく破壊され、蜘蛛の子を散らすように守備兵は逃げ出すしかなかった。
 兵器が次々と無力化されていく。袁家の資金力によって準備された兵器は、人命という対価を以って無に帰していく。
 命を散らして、彼らは多くを助けたのだ。書物に名も残されぬ彼らこそが、この戦場での最高の殊勲者であった。
 もはや黒と白の独壇場となった戦場では、袁家の兵など恐るるに足らず。
 蹂躙は容易にして単純。白馬が駆け抜けて、黒麒麟が切り裂いていくだけ。鳳凰の羽根を得た彼らに敵は無し。

 此処に、地獄が再び現れた。
 居ないはずの黒麒麟が作る地獄が其処にあった。命を輝かせ、燃やし、一人でも多くの戦友を助ける者達が、雄々しく駆け抜ける。
 血霧が舞い散り、肉片が弾け飛び、臓物と汚物が異臭を撒き散らし……汗と泥に塗れた醜くも美しい彼らの仕事場。
 命の華を、想いの華を、皆が等しく咲かせて散らす、皆が等しく託され繋ぐ。

 生み出したのは……寄る辺を無くし空を彷徨う、心の底まで黒に染まり尽くした鳳凰。
 彼女は一人、想いの重責を預かり、この地獄に居ない黒麒麟を想いながら……

――これであなたは……救われますか……?

 微笑みを携え、片頬に一滴の涙を零していた。
 嘘を付いている事を教えずに散らしてしまった命を想い、胸の奥を引き裂かれながら……。




 †




「クソがっ! なんで此処にあのイカレた部隊がいやがる!」

 戦況は袁紹軍が不利。如何に数が多いとしても、勢いに乗った敵を止めるには不足。
 頼りの兵器も壊されたとなれば、今回の戦闘は敗北が確定。袁紹軍の兵士を纏めるにも一苦労である。
 散々辛酸を舐めさせられたあの部隊は、郭図にとっても絶望の代名詞。
 ただ……彼は余り焦っては居なかった。それが兵士達に最後の線を与えて心を保たせている。
 不安に駆られている兵士達に向けて、郭図は舌打ちを一つ。苛立ちが振り切りそうであったが、どうにか抑え込んだ。

「お前ら、俺の策を信じやがれ。敵は自分から逃げるんだからよ」

 おざなりな鼓舞が場に落ちる。安心させるには足りないが……兵士達に希望を与えはした。
 ふと、戦場の空気が変わった。何処が、とは言い難いが……長く軍師を担ってきた郭図にもそのくらいは読み取れる。
 少しばかり口を引き裂き、彼は片目を細めて悪辣な笑みを浮かべて嗤う。

「クカカッ……来たぜ来たぜ? 逆襲の始まりだ! 最前に伝令! 敵が下がっていくから後背を突け! しつこくしつこく追い縋ってやれ! まだこっちの方が数が多いんだからよぉ」

 御意、と短い返答の後に駆けて行く背中を見送って、郭図は遊戯盤の駒を手に取って器用に回し始める。

――バカが。お綺麗なクソガキが俺に敵うかよ。お前らが此処に出撃してくるなら……白馬はどうなる?

 雛里の敵は、あくまで郭図。彼女が頭から外す策を使える軍師。

「民なんざ後からいくらでも湧いてきやがるんだ。例え二回目だろうと……たった千の兵如きで白馬が燃えるのを防げるわけねぇだろバーカ。てめえと黒麒麟がやった策、そっくりそのまま、“悪用して”返してやんよ!」

 雛里の失態は……外道な手法を迷うことなく使える郭図と違い、民を放っておけぬ優しい心を持っていた事であった。
 たっぷりと高笑いを空に放った後で、郭図は一人、満足気に喉を鳴らす。

「さぁて……これで官渡の状況が動くだろ。烏巣に来やがれ、曹操軍。こちとら準備は万全だぁ。後は……クカカッ、あのクソアマ二人を殺す為に手を打つだけだな」

 嘲りは大嫌いな二人に向けて。男は一人、溢れる愉悦の感情から笑みを抑え付けず、悠々と夕暮れの空の下を去って行った。







 両軍の戦況はたった一つの伝令によってひっくり返った。
 白馬の街が火に沈んでいる……と。
 洛陽を燃やしたように、郭図は白馬の街に仕掛けを施してあったのだ。徐州での雛里と秋斗は残した策で袁家を街から追い出し糧食を奪った。民にキズ一つ付けずに。
 しかし郭図は民を傷つける事によって糧食と軍の行動を縛りに掛かったのだ。
 その報を聞いて白馬義従が怒りに狂わぬわけが無く、それでも守りたいのが彼らの始まりであったから、雛里の指示に従い白馬への撤退を余儀なくされる。
 追撃はしつこく、曹操軍はそれなりの被害を受けることとなった。
 これで白馬の街の復興に少なからず従事せねばならず、糧食でさえ炊き出しに使わなければならない。必然、出撃出来る兵数も減る。
 次に雛里が決定した事は一つ。黒麒麟の身体の独自行動によって蜘蛛の巣を完成させる事。少ない数をさらに分けて、彼らを延津の付近にまで伏せさせたのであった。

 彼女の想う黒が……己が過去を赤に賭けているとも知らずに。










 蛇足 ~相違な想い~



『なんで、なんで御大将を戻そうとしねぇんだよ!』
『あんたは嘘つきだ!』
『俺達はあの人と共に戦いてぇのに!』

 絶望の黒。
 頭に響くのは怨嗟。散らした命が私を責める。

「……っ……っ!」

 飛び起き、荒い息を吐く間も無く、喉を込み上げてくる異物を掛け布の上に吐き出した。
 何度も何度も、胃の中が空っぽになっても、吐き気が止まらなかった。

 嘘つき、と皆が責める。
 分かっていたはずなのに、矛盾を含んだ後に彼らの命を選んで散らしただけでこうまで違う。
 これは自分が作り出した妄想の産物だと分かっている。でも……自責の刃は心を切り裂いていく。
 彼はこんなモノに耐えていたのだ。ずっとずっと、たった一人でこんなモノを背負っていたのだ。

 否、否、断じて……否。

 もっと深く絆を繋ぎ、戦をする度に矛盾を背負っていたのだから……彼は此れよりも夥しい自責の海に沈んでいたのだ。

 頭の中が昏く軋む。涙が勝手に溢れて止まらない。怖くて仕方なかった。恐ろしくて仕方なかった。
 私は何も、彼の事を分かっていなかった。彼の痛みを、分かっていなかった。
 割り切れる人は多いだろう。絆を繋がず、名前も知らず、好意も向けられず、思いやりも気遣いも掛けられない……そんな自分にとってどうでもいい人間たちを切り捨てられるのが人というイキモノ。
 けど、己を慕ってくれている人々を、絆繋いだモノ達を、最効率の為だけに死なせるなんて……そんな事を一人でずっと続けて、人に耐えられるわけが、無い。

――華琳様に着けば最も効率的に自分が望む平穏を作る道を歩けた。ソレを知っていながら彼らを死なせてきた。だから彼は……大嘘つき。

 全てを無駄にしたから壊れた。この自責の声に、殺された。

 あの人は強くなるしかなかったんだ。
 あの人は狂ってしまうしかなかったんだ。
 あの人は自分の幸せを捨ててしまうしかなかったんだ。

 彼はこうやって人を外れてきたと理解した気になっても、真実は彼にしか分からない。

 震える身体で、汚れる事も気にせずに掛け布を握った。温もりなど、あるはず無いのに。
 胸に溢れる想いが止められなかった。

 痛かったんだろう。
 哀しかったんだろう。
 苦しかったんだろう。

 こんな気持ち、もう二度と彼に味わわせたくない。

――なら、私が背負えばいい。彼のように、私も強く、ならないと。

“こんなことを続けていつもの言葉を言ってくれると思ってるの?”

――私の望みを捨ててしまえば、彼は救われるんだから。

“あの人と過ごした大切な日々すら嘘にして?”

――私が……私だけが彼の代わりになれるはずなんだ。



“そうすることで、心の中のあの人は笑ってくれる?”




 幽州に着いた日から。
『ただいま』と代わりに言ってしまった時から。
 あの人が過ごした思い出を確かめた瞬間から。


 私の中の彼は、決して笑ってくれない。

――でもやっぱり……今のあの人が乱世の果てで平穏に暮らせるなら、それでいい

 頭に響く自問の声を否定する。

“私は自分にすら嘘を付いている”

 それであの人が苦しまないでいいのなら
 私は大嘘つきでも、構わない。



 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

白馬義従と黒麒麟の身体の戦場。
華琳様の言いつけを無視せざるを得ない状況でした。

次は袁家側とか官渡での出来事です。

ではまた 
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