剣の丘に花は咲く
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第十四章 水都市の聖女
第二話 八極
前書き
タイトルで気付く人もいると思いますが、あの人が出ます。
「―――……ぁ?」
瞼越しに伝わる日の光による刺激に、沈んでいた意識が浮かび上がっていく。未だハッキリとはしない思考の中、視界から来る刺激を弱めようと、無意識に伸びた手が両の目を覆う。日の光が手に遮られて出来た影により、目に伝わる刺激が弱まると、瞼がゆっくりと開き始めた。
「……どういう、ことだ?」
身体を起こし周囲を見渡した士郎は、目に飛び込んできた見渡す限りの草原に疑問の声を上げた。
疑問は自分が見知らぬ場所にいる事―――ではなく、見知った場所にいないこと、である。
勿論、今目にしている景色自体に見覚えはない。しかし、気配というべきか、言葉には出来ないが今自分がいるのが元の自分がいた世界でも、ルイズたちがいる世界でもないことが感じられる。
気配―――等という曖昧なものではなければ、そう、この世界に満ちる魔力が違う。
元の世界の緩やかな川のようなものでもなく、ルイズたちがいる世界のように、溢れるばかりの大海のようなものでもない―――まるで、渦を巻く濁った湖のような……。
既に思考は回復しており、士郎は目が覚める前に何が起きたのかは思い出している。
そう、あの時―――ジュリオに罠に嵌められ、落とし穴に落ちていく先に見たものは、“世界扉”だった。
だからこそ、疑問に思う。
あれが“世界扉”であるのならば、自分が今いる場所は元の自分がいた世界のはず。しかし、今自分がいるここは、元の世界でもルイズたちがいる世界でもない。
もしや、そのどちらでもない世界に飛ばされた?
世界移動という“魔法”と言っても差し支えない規格外である。何らかの失敗かそれとも故意によるものか、別の世界に飛ばされた可能性がある。
だとすると、かなり厄介な事になった。
立ち塞がる現実を前に、士郎は全身が鉛にでもなったかのような疲労が感じられたが、頭を一振りすると気を入れ替えた。
「結論を出すにはまだ早すぎるか」
碌に情報収集してもおらず、結論を出すにはまだ早いと思い直した士郎は、膝に力を込め立ち上がった。
どうやら自分は草原の中にある小高い丘の上で寝ていたようだと周りを再度見渡して頷いた士郎は、傍に立つ木に手をつき空を見上げた。
「……っ」
士郎の視界に飛び込んできたのは、枝葉に裂かれて伸びる光の向こうに見えるもの。
「―――月が二つ、だと」
青空にうっすらと浮かび上がる二つの月。
つまり、
「まさか―――ハルケギニア、なのか?」
なら、この世界に満ちる魔力は一体何だというのか?
この、混沌としか言い様のない魔力は……それとも、ここだけ特別なだけなのか?
士郎が答えの出ない思考に没頭する―――その時。
「……俺に何か用か?」
士郎の顔が一帯に広がる草原に見える―――腰ほどの高さにまで伸びた草むらに向けられる。
向けられた先からは反応はない。
しかし、士郎は構わず声をかける。
「―――そこにいるのは分かっている。隠れていないで出てきたらどうだ?」
しかし誰かが姿を現すことも返事が返ってくることもなかった。
何の反応もないことから、士郎が自分から行くか? と考えた時だった。
「……あなたこそ誰なのよ。こんな場所でそんな格好で……どう見ても旅人とかじゃないわよね」
伏せて隠れていたのだろう、身体の前の方を叩き土や草を払いながら立ち上がってきたのは、草色のローブを着た女性だった。顔はフードを被っていて分からないが、その身体付きからして女性で間違いはないだろう。
「まあ、確かに旅人ではないな。そういう君も旅人には見えんが」
フードを被った女は見たところ大きな荷物は持ってはいない。それならば狩人かと思うが、弓も持っておらずそれらしい様子もないことからそれも違うだろう。
「そうね。わたしも旅人ではないわ。でも、あなたから先に答えて欲しいわね」
フードの奥、女の目が鋭く光り、腰が僅かに下がり重心が前へ。傍から見れば僅かに身体を揺すっただけのようにも見えるが、見るものが見ればわかる。これは攻撃の前に前段階。その証拠に、今にも飛びかからんとする狼の如く、女の身に纏う気配が鋭くなる。
「あなた―――何者?」
隙を見せれば牙を突き立てんとする獣の如き気配を漂わせる女を前に、士郎はどうしてこう出会う女は明らかにヤバイ奴ばかりなんだと内心ため息をつきながら、攻撃の意思はないとばかりに両手を上げてみせる。
「ふむ。まあ、今はただの迷子といったところか」
「……迷、子?」
予想外の返答に、戸惑うように女の頭が傾ぐ。
「どう言う意味?」
「そのままの意味さ」
両手を頭の上に上げながら、士郎は肩を竦めて見せる。
「気付いたらここにいた。しかも見覚えのないところだ。何故ここにいるのか、どうやってここに来たのかも分からん。こういうのは迷子と言えるだろう?」
「……まあ、確かにそうね」
暫くの閒士郎をじろじろと見ていた女だったが、小さく嘆息すると、剣呑な気配を引っ込ませた。
「こんなとこでそんな変な格好してるから、あいつらの仲間かと思ったじゃない」
「あいつら?」
「―――気にしないで」
士郎の問いに小さく首を振って応えた女は、頭に被せていたフードを外した。そしてフードの下から現れたものを前に、士郎は大きく目を見開き驚きを示した。
フードの下から現れたのは、二十前後の一種の凄みを感じさせる程の美しさを持つ美女だった。だが、士郎の視線が向けられるのは、美貌の横にある耳。明らかに人間とは違う長い耳。
「エルフ、だと……」
「あら、エルフを知ってるのねあなた。ふ~ん……蛮人にしては珍しいわね」
「珍しい?」
フードから出した頭を軽く振って気持ちよさそうに目を細めていた女は、士郎の言葉に軽く目を見開いて軽い驚きを示した。
「わたしを見てエルフだなんて言ったのはあなたが初めてよ。今まで会った蛮人は皆わたしを見たら珍しい珍しいとしか言わないんだもの」
「そう、か。俺は衛宮士郎。出来れば蛮人ではなく名前で読んでくれ」
「そう、なら―――シロウと呼ばせてもらうわね。わたしはサーシャよ」
士郎は一つ頷くと、サーシャと名乗るエルフの女へと疑問を投げかけた。
「ああ、よろしくサーシャ。で、早速一つ聞きたいことがあるんだが、ここが何処か知っているか? ここはハルケギニアのどの辺りなんだ?」
「ハルケギニア? さあ? 残念ながらわたしもここが何処か知らないのよ。わたしもあなたと同じく迷子なのよ。っと、言うか、“ハルケギニア”って―――なにそれ?」
「……は?」
顎に細い白い指先を当てながら小首を傾げるサーシャを前に、士郎は眉根に皺を寄せた。
「“ハルケギニア”を知らないのか?」
空に月が二つあり、そして以前見たビダーシャルと名乗るエルフと同じエルフが目の前にいる。ならばここは自分が元いた世界でも、ましてや全く知らない異世界でもなく、ルイズたちの世界であるはず。なのに、このサーシャと名乗るエルフは“ハルケギニア”を知らないと言う。先程サーシャはこの辺りの人間はエルフを知らないと言っていた。ハルケギニアでエルフを知らない者はいないと聞く。なら、ここはもしかすると、ハルケギニアから遠く離れた別の場所なのかもしれない。そう例えば―――。
「まさか、ここは“ロバ・アル・カリイエ”なのか?」
「……残念だけどそれも聞いたことがないわね。わたしもこの辺りのことはよく知らないのよ。わたしは元々“サハラ”というところから来たんだけど……そう言えばあいつが“イグジスタンセア”とか言ってたわね」
「“イグジスタンセア”?」
今度は士郎が聞き覚えのない単語に首を傾げる番であった。
しかし、サーシャがもう一つ口にした“サハラ”と言う言葉には聞き覚えがある。
確か、エルフが住む土地は“サハラ”と呼ばれていた筈。ならば、やはりここはルイズたちの世界である。
しかし、それならば一つ疑問が生まれる。
この周囲に漂う魔力は一体何なのか?
まるで二つの異なる絵の具を混ぜ合わせたかのように、奇妙な歪のようなものを感じさせる魔力は……。
「―――まあ、考えても仕方がないか」
自分のような魔術師としては三流の者が、あれこれ考えても答えなど出ようはずがない。
出口のない袋小路にハマるよりも、今は何よりしなければならないことがある。
そう、一刻も早くハルケギニアへ―――ルイズたちの元まで戻らなければならない。
「すまないがサーシャ。俺は一刻も早く元いた場所へ戻らなくてはいけないのだが、それでまずは何より情報が欲しい。この辺りに町が何かないだろうか?」
「さっきも言った通りわたしもあなたと同じく迷子なのよ。残念ながらわたしもここが何処なのか見当もつかないの」
「それは……すまなかったな」
「別にいいわよ。わたしも暇な身の上じゃないし。さっさと帰りたいんだけど……残念ながら迎えが来るのに時間は掛かるでしょうね」
ため息と共に肩を落とすサーシャに、士郎はそう言えばと問いかけた。
「サーシャはどうしてこんなところにいるんだ? 迷子と言っていたが、この辺りの町があるかも分からないとは、ここに来る前に町とかに寄らなかったのか?」
「わたしは歩いてきたわけじゃないのよ。あの蛮人が……そう、あいつが―――ッ!!」
ギリリッと歯を剥き出しにして噛み締めるサーシャ。
光に透ける薄い葉のような翠の瞳が今は濃く燃え上がり、長い睫毛が震えている。少し垂れ気味の目元が鋭い眼付きを幾分か和らげていたのだが、今は狂犬もかくやとばかりの鋭さを見せていた。
士郎はエルフの女性は初めて見たが、どんな種族であっても、女の怒りは恐ろしいものだとその時悟った。
経験からこのまま見ていると、厄介なとばっちりが来ることを知っていた士郎は、何を思い出しているのか気炎を吐くサーシャから目を逸らし空を見上げた。空は先程と変わらず青く澄み渡り。キラキラと輝く太陽と、うっすらと浮かび上がる二つの月。
そして―――。
「これは、一雨来そうだな」
―――徐々に大きくなってくる暗い雲。
青が黒に塗りつぶされると、ポツポツと雨が空から降り始めた。
「―――不思議ね」
「ん? 何がだ?」
降り出した雨を避けるため、木陰に隠れていたサーシャがポツリと溢した言葉を士郎が拾う。サーシャは士郎に顔を向けることなく枝葉の隙間から落ちてくる雨粒を見つめながら口を開いた。
「……気付いてたでしょ。最初あなたに会った時、わたしが襲いかかろうとしてたこと」
「まあ、確かに隙を見せれば咬み殺されそうだったな」
「女に対して咬み殺されそうは酷いんじゃない?」
ふふっ、と小さな笑い声を上げるサーシャに、士郎は苦笑を返す。
「確かにな、で、結局何が不思議なんだ?」
「分からない? まだあれからさほど時間が経っていないのに……わたし、今全然あなたを警戒していないのよ」
「……確かに」
「それだけじゃなくて……わたしって結構人見知りする方なんだけど、あなたにはそういった感じがしないのよね。ねぇ、どうしてか分かる?」
「さて、全く分からないな」
軽く肩を竦めて見せる士郎に、サーシャは背にした木の幹にコツンと後頭部を当て頭上を見上げた。
「……なんだか初めて会った気がしないのよね。最初はあいつらと何か似てたからだと思ってたんだけど……どうもそんな感じじゃないのよね」
「すまないが、その『あいつら』とは一体何のことだ? 俺に似ていると言うが、何の事を言っているんだ?」
士郎の問いに、サーシャは後頭部を木に当てながら顔を横に向けた。士郎とサーシャの視線が交わる。光に透ける緑の葉のように綺麗な翠の瞳に見つめられながら、士郎が返答を待っていると、サーシャは細いおとがいに指先を当てながら目を細めた。
「……どうも本当にあいつらの事を知らないみたいね。どうやらシロウは随分平和なところから来たようね」
「その言葉からすると、『あいつら』とやらは、随分と物騒な連中みたいだな」
「ええ、そうよ。何せあいつらは―――悪魔と呼ばれる程に恐れられているから」
悪魔という言葉に士郎の両の目が微かに開かれたが、サーシャはそれに気付くことはなかった。
「……俺に似ていると言ったが、その悪魔とやらは一体どんなものなんだ」
「それは―――」
士郎の問いにサーシャが答えようと口を開いたが、それは直ぐに閉じられる事になった。士郎に向けていた視線は、鋭く細められ別の方向に向けられていた。士郎もまた、唐突に閉ざされた言葉の続きを求めることなく、サーシャと同じ場所を見つめていた。二人の視線の先には、未だ降り続く雨の向こうに霞む膝上程に伸びた草むらがある。
二人の視線の先にある二十メートル程離れた場所にある草むらの一部が、不意にガサリと揺れる。
草の間から姿を現したのは、子牛程の大きさがある狼であった。一頭だけではなく、ぞくぞくと草むらの中から姿を現す。二十頭はいるだろう狼の群れは、唸り声一つ上げることなく、ゆっくりと士郎たちを取り囲むように広がっていく。
あっと言う間に狼たちに包囲された士郎とサーシャは、しかし慌てることなく互いに視線を交わした。
「さて、すっかり取り囲まれてしまったようだが、どうする?」
「どうもこうも、勿論大人しく狼の夕食になりたくはないから抵抗はさせてもらうわよ。そう言うあなたはどうするつもりなの?」
「俺も晩餐にはなりたくはないからな」
「そう言うけど、素手でどうするつもりなのよ。まあ、いいわ。あなたはそこで見ていなさい。狼程度なら、わたし一人で十分よ」
「いや、それは―――」
士郎が前へと出ようとするサーシャに手を伸ばそうとする。しかし、サーシャは士郎の手をサッと避けると、振り返って笑ってみせた。
「いいから任せて頂戴。ちょっと腕には自身があるから、それに、あなたと違って一応武器は持っているのよ」
そう言いながら、サーシャは懐から二つの短剣を取り出し両手で握る。その一つ、短剣を握った左手を士郎に向けた時、サーシャの身体の一部に変化が起きた。ソレを目にした士郎の目が、驚愕に見開かれる。短剣を握ったサーシャの左手が、光り輝きだしたのだ。発光元は、左手の甲に刻まれたルーン文字。士郎はサーシャの左手に刻まれた文字が何と書かれていたか目にした瞬間気付いていた。何せもう随分と見慣れたものである。一日に見ない日はないと言ってもいい程に。何故ならば、それは自分の左手にも同じように刻まれているからだ。
そう―――ガンダールヴ、と。
「サー―――」
サーシャの左手に刻まれたものについて、士郎が問いかけようとした時には、既に彼女の身体は木陰から姿を消していた。
反射的に向けられた視線の先には、細い銀線のような雨の中を黄金の光が突き進んでいた。
―――ギャンッ!
同時に二つ。重なった狼の悲鳴が響く。首を刈られた二匹の狼が、濡れた草の上を血の泡を吹きながら転がっている。雨の中、金の光がくるくると回っていた。両手に短剣を握ったサーシャがコマのように回り二匹の狼の首を切り裂いたのだ。一瞬にして仲間を殺された狼は、しかし恐ることなくサーシャに襲いかかる。四方から襲いかかる狼を、サーシャは踊り子のような軽やかな動きで捌き、そして両手の短剣で切り裂く。先の二匹のように一振りで絶命させることは出来ないが、しかし確実にサーシャが剣を振るたびに狼たちの身体には傷が生まれていた。無数の狼の襲われながらも、全く危うげを見せないサーシャ。毛ほどの傷もつけられず、自分たちだけが血を流す現状に、勝てないと判断した狼たちは、標的を変え士郎にその牙を向ける。サーシャの足止めのために四匹の狼が残り、それ以外が全て一斉に士郎に襲いかかった。
狼に足止めをくらったサーシャが、焦ったように士郎に顔を向ける。只者ではないとは感じてはいたが、武器を持っているようには見えなかった。素手であの数の狼を相手にするには、流石に厳しいとサーシャは焦り士郎に逃げろと声を上げようとしたが―――それが形になることはなかった。
「―――破ッ!!」
剥き出しにした牙を突き立てんと飛びかかってきた狼の腹に潜り込むように身体を沈ませた士郎が、右腕を折りたたみ鋭利に尖らせた肘の先をがら空きの胴に突き立てた。
槍の穂先のように鋭く尖らせた肘先は、野生で鍛えられた狼の腹筋を容易く貫き内蔵の幾つかを破壊した。狼の身体が倍速で逆再生されたかのように後方へ飛んでいく中、士郎に向かって三匹の狼が既に飛びかかっていた。三匹の狼に同時に襲いかかられる。鈍い輝きを見せる牙を剥き出した狼が三匹並んで飛び掛ってくるさまは、さながら三つの頭を持つケルベロスのよう。しかし、士郎は恐れず慌てず左の腕を狼に向ける。狼に向けられる左手は開き、その指は天に向けていた。そして、足を上げず両足をすり合わせるように両足を動かし、地上に円を描く。ぬかるみを歩くかのようにゆっくりとした動き。
狼の瞳が嘲るかのように細められ―――大きく開かれた口が閉じられた。
しかし、士郎の身体に狼の牙が触れる事はなかった。
咬み閉じられた口中に馴染みの味が感じられず、三匹の狼が中空でポカンとしたかのように瞳が丸くなり―――。
「噴ッ!!」
狼の側面に移動していた士郎の拳が突き出された。
大地が震える震脚と共に放たれた拳は、無防備な横腹に突き刺さり、三匹の狼が纏まって吹き飛ばされる。一固まりになって殴り飛ばされた狼は、地面に叩きつけられ濡れた草の上をゴロゴロと勢いよく転がっていく。回転が止まった時、狼たちの身体は士郎から軽く二十メートルは離れていた位置にあった。僅かに胸が上下していることから、生きてはいるのだろうが、下を出しピクリとも身動きしないその姿を見ると、このまま衰弱死しても何らおかしくはないだろう。
吹き飛ばされた狼が動かないことを確認すると、士郎はサーシャに向かって顔を向ける。
あっと言う間に仲間を倒された事で戦力差を思い知ったのだろう、サーシャを取り囲んでいた狼たちが草むらに逃げ込んでいた。ぐるりと辺りを見渡し、危険が去ったのを確認した士郎は、サーシャに向かって歩き出す。サーシャは顔を伏せて、何やら身体を震わせている。怪我でもしたのかとサーシャに手を伸ばしながら、士郎が話しかけようとした―――その時。
「どうした、怪我でもし―――ッ!?」
「ッああああああぁぁぁ!!」
サーシャの左手が一際強く輝き、短剣が士郎に向かって振るわれた。
咄嗟に背後に飛び退いた士郎の顔が強ばる。
「な、何をす―――!?」
士郎の問いに答えることなく、目にすれば痛みすら感じられる程の光量を放つ左手に短剣を握り締めながらサーシャが襲いかかってくる。森の緑のように美しかった瞳は、今や憤怒と憎しみで真っ赤に燃えていた。
「っ!!」
「くっ」
人の限界を越えた速度で迫るサーシャ。突き出される短剣の切っ先は、もしかすると音速に迫っているかもしれない。音の壁を突き破りながら迫る剣の先を、士郎は―――。
「―――なっ?!」
短剣の切っ先が胸に食い込む直前、士郎はサーシャの短剣を握る手を巻き込むように受けると、そのまま転がすようにして後方に逸らした。勢いサーシャの身体が導かれるように士郎身体の真横を通り過ぎる。通り過ぎていくサーシャの背後に取った士郎は、そのまま勢いを殺すことなくサーシャの身体を地面に押さえつけた。その際、地面に押さえ込まれた衝撃により、サーシャの両手から短剣は離れていた。サーシャは士郎の拘束から逃れようと暴れる。しかし、関節ではなく力が出ない形で押さえ込まれている上、決して軽くはない体格の良い士郎の体重が乗ってもいるのだ。頼みの“ガンダールヴ”としての力も、武器が手がない以上使えるわけがなく、単純な女の力で抜け出せる事は不可能であった。
「ぐ、っ離せッ!!」
「っこの、落ち着けと言っているだろっ!!」
細い手足を子供が駄々を捏ねるように暴れさせるサーシャに、士郎が必死に落ち着かせようと声を掛ける。しかし、サーシャは強姦魔に押し倒された少女のように、狂ったように暴れるだけで、士郎の声に耳を貸そうとはしない。癇癪を爆発させた幼子のように、サーシャはやたらめったらに両手足を暴れさせる。ピンク色の真珠のような爪が、サーシャを押さえつける士郎の腕や顔を引っ掻く。頬や手にうっすらと血を滲ませながら、士郎は必死にサーシャに語りかける。
「どうした? 何があった? 何故俺に襲いかかる? 少しでいい、落ち着いて俺の話を聞いてくれっ、頼む―――サーシャッ」
「―――ッ…っ…………」
士郎の絞り出すような懇願の声に、暴れていたサーシャの手足がピタリと止まり、雨で濡れた草の上にドサリと落ちた。
「……落ち着いたかサーシャ?」
「……」
サーシャは答えない。ただ、地面に顔を付けたうつ伏せの状態で、死体のように黙り込んでいる。
「一体、どうし―――」
暴れるのを止めたサーシャを押さえつけたまま、士郎が突然の狂乱したかのように暴れ始めた理由を聞こうと口を開けた時だった。
「いまのは―――なに?」
それは、地の底で蠢くマグマのような憎しみや怒り等の負の感情に満ちた声だった。そんな声で返って来た返信に、士郎は慎重に落ち着いた声で対する答えを向ける。
「いまの、とは?」
「……あなたが狼を撃退した際の、あの動きよ」
「直突のことか?」
「直、突?」
ようやく、サーシャが肩ごしに士郎に振り返る。チラリと見えた瞳は、未だ燻る負の感情を燃料に燃え盛る炎が見える。
「同じだった……」
サーシャの憎しみに満ちた声に、士郎の口元が僅かに軋む。
「何がだ?」
「……仲間を……父さんを殺したあいつと同じだったのよ―――ッ!」
額を地面に押し付けながら、サーシャは吠えるように叫ぶ。
しかし、直ぐに力なく身体を投げ出すように力を抜くと、顔を傾け士郎を見上げた。
「サーシャ?」
士郎を見つめる瞳は、先程見せた業火のような熱は既になく。何処か迷子の子供のような弱さが見えた。
「……あんな動きをする奴なんて、あいつ以外に見たこともなかった……」
「………………」
「―――シロウ。もう一度聞くわ」
押し黙る士郎の様子に、押さえ込まれたままサーシャは一度目を閉じると、深く息を吸い、吐くと同時に目を開ける。開かれた瞳は、真実を見極めんと、初めに見た理知的に輝く翠の輝きを見せていた。
翠の瞳でサーシャは睨み付けるように士郎を見つめながら、ゆっくりと口を動かす。
「あなた、一体何者?」
「―――……俺は―――」
サーシャの懇願に似た問いを受けた士郎は、硬く閉じられた口を開き。サーシャの問いに応えようとした―――その時。
「―――それは儂も聞きたいの」
「「―――ッ!!?」」
背後から歳経た男の声が上がった。瞬間、士郎はサーシャの身体を抱えると同時に前へと飛ぶ。空中でサーシャの身体を整え、着地と同時に自分の背後へと隠す。視線の先は、最初雨宿りしていた丘の上にある木。その前に、一人の痩身の男が立っていた。黒い中華風の服を着た男は、長い、自分の身長の倍以上はあるだろう槍を右手に持ち、霧雨が降る中、士郎たちを見下ろしていた。
若くはない。
老人と言ってもいいだろう。
百七十に満たないだろう身長に、年月により肉が削げた身体。顔に刻まれた深い皺は、まるで古木のようだ。
だが、この男を前に、間違ってもか弱いなどといった言葉は出てこないだろう。
何処からどう見ても只の老境に至った老人である。身体付きに特別目を引くような異常は何処にも見られない。
しかし、違う。
明らかに只者ではない。
当たり前だ。
年経ただけのただの老人が、こんな気配を身に纏えるはずがない。
―――重い。
自分の体重が急に何倍にもなったかのような圧力を感じる。
バーサーカーの背筋が粟立ち、血の気が引くような狂的な暴の気配ではない。
似ているとしたら、セイバーだろうか。
しかし、重みが違う。
鋭く疾い風を思わせるセイバーに対し、この老人からは、樹齢数千年の古樹、否、霊峰の大山の如く一種の神聖さえ感じられる。
その身に纏う気配に、士郎は一瞬仙人ではないかとの考えが浮かぶが、それは形になることなく直ぐに霧散した。
それは老人の目を見たからだ。
―――虎。
虎のようだと、その男の目を見た士郎は思った。
それも只の虎ではない。
空を往く龍さえも地に叩き伏せる力を持った神虎だ。
別に獅子や猫でも別に構わない。ただそこにいるだけならば、何だって構わないのだが。
最悪なことに、この虎は飢えているということだ。
何にとは問わずとも明らかだ。
知らず荒れる呼吸を必死に整えながら、吹き出る汗も拭いもせず士郎は老人に対し最大級の警戒を見せる。
しかし、丘の上に立つ老人は、警戒を見せる士郎を欠片も気にかける様子も見せるどころか、楽しげに声を弾ませていた。
「そこの小娘を捌いた技は八卦掌の手法の一つだな。それに先程狼を打ち倒した動き……あれは八極拳。まさかこのような異界で同門の者と出会おうとは思いもしなんだ」
「同、門?」
老人が口にした言葉に、士郎の眉が訝しげに歪む。
「呵々、そう警戒するでない。少し話がしたいだけよ」
「……それを信じろと」
呵々と笑いながら、老人は士郎に軽い口調で話しかけるが、士郎は欠片も警戒を崩すことなく、それどころか更に強くしながら丘の上を睨み付ける。老人は大の男でも泣いて腰を抜かす程の眼光を軽く受け流すと、口の端を軽く上げてみせた。
「儂がお主を殺そうと思うておったのならば、既にお主は生きてはおらぬよ。それぐらいはお主も分かっておろうが」
「……」
肯定や否定の言葉が返ってこない事を気にすることなく、老人は士郎の手足に視線を向けた。
「ふむ、まあ警戒するなとは言わんが、先程の問にぐらいは答えて欲しいものよ。お主の技。あれは八極拳だな。とは言え純粋な八極門の者ではないようだが……若いながらに中々の功夫。名を聞いてみたいと思うてな」
「……人に名を聞く際は、まずは自分の名を先に口にするのが礼儀なのでは御老人」
士郎の返事が予想外だったのか。一瞬呆気に取られたように目を見開いた老人だったが、直ぐに顔を槍を握っていない左手で覆うと、からからと笑い声を上げた。
「っはははは……いやすまん。久々にそのような事を言われたのでな。まあ、確かにその通り。ふむ、それならば、まずは儂の名から告げようか」
士郎の言葉に最もだとでも言うように、頭を上下させた老人は、士郎に改めて向かい合うと己の名を告げようと口を開く―――が、
「儂は―――」
名を告げることは出来なかった―――それを遮るものが現れたからだ。
霧のような雨が降る中、眩い輝きが士郎の後ろから現れたかと思うと、それは残光を残し一気に丘の上へと駆け上がっていく。咆哮の如く口から発せられるのは、憎しみに満ちた怨念で形造られた人の名であった。
「リイイいいィィッ―――ショブンンンンンッッ!!!」
放たれた矢のごとく真っ直ぐに丘の上に立つ老人に向かって駆けるサーシャ。既にサーシャと老人との間は五メートルもない。今のサーシャの疾さは、それこそサーヴァントに匹敵する。瞬きする間もなくサーシャの握る短剣は、老人のか細い首を切り裂くだろう。避けることも防ぐことも不可能。
しかし―――
「ッ―――待てッ!?」
その直前、士郎の口から出たのは、制止の言葉だった。何の根拠もない、直感から来る制止の言葉。
それは老人の身を案じて発せられたものではなく―――
「―――そう殺気立つでない小娘」
―――サーシャの身を案じて発せられたものだった。
「―――ッが?!」
まるで見えない壁にでもぶつかったかのように、サーシャの身体が吹き飛んだ。スーパーボールを壁に叩きつけたかのように、進行方向が突然真逆になる。地面に叩きつけられ、サーシャは丘の上から転げ落ちていく。気を失ったのか、声も上げず手足を投げ出しながら転がっていくサーシャに向かって、士郎は駆け出した。
「サーシャっ!?」
サーシャの身体を受け止め、名を呼ぶが返事どころか指先さえ動いていない。慌てて口元に耳を近づけると、苦しげではあるが呼吸はしている。さっとサーシャの身体を確認すると、丘から転げ落ちた際に切ったのだろう軽い出血があるが、一見して対した怪我はしていないように見える。しかし、一目で分かる程右腕と長さが違う左腕。短剣を握っていた左側の手首、肘、肩。全て関節が外れていた。
「転がしただけよ。死んではおらん」
頭上から、つまらなさそうな声が落ちてくる。
顔を上げると、老人が士郎を見下ろしていた。
「―――っ」
老人の姿を目にした士郎が息を呑む。
老人は、右手に三メートルはあるだろう長大な槍を片手に突き出していた。士郎が驚いたのは老人の細い腕で長槍を持ち上げていること等ではない。老人が何時槍を動かしたか、士郎は気付けなかったのだ。サーシャが吹き飛ばされる直前まで、老人は槍を縦に持っていた。それが何時の間にか前へと突き出している。目を離したりなどしていない。なのに、気付けなかった。
老人が槍を振るう姿を、士郎は捕らえる事が出来なかった。
得体の知れない怖気が、指先から身体を侵食していく。ブルリと身体が怯えるのを、士郎は自覚する。
見下ろしてくる老人の瞳には、先程自分に襲いかかってきたサーシャの姿は映っておらず、士郎の姿しか映していない。士郎はサーシャの身体をそっと地面に下ろすと、ゆっくりと立ち上がり老人と向き合った。
「……今の名」
老人に襲いかかった際、サーシャが口にした言葉。怒りや憎しみで歪んではいたが、アレは確かに人の名であった。それが分かったのは、その名に士郎が聞き覚えがあったからだ。そして、その人物であるならば、あの一瞬で、魔法的とも言える技法によりサーバント並の動きを見せたサーシャを難なく下した事も納得出来る。
「ふむ、先を越されてしまったの。名を告げるぐらいは自分でしたかったのだが。まあ良い。改めて名乗ろう」
一瞬だけだが、チラリとサーシャに目を向けた老人は、つまらなさそうにふんっと一つ鼻を鳴らすと、改めて士郎に向き直り、そして自らの名を告げた。
「儂の名は李書文」
“神槍”
“魔拳士”
“无二打”
「この場で会ったのも何かの縁。一手お相手願おうか」
数多の二つ名を持つ―――清王朝末期に現れた八極門の拳士の名を。
後書き
感想ご指摘お願いします。
アサシン先生の口調があまり資料がないのでこれで良いのか……ここはこうした方がいいのでは等ありましたら、どうぞご指摘願います。
毎回タイトルに悩む自分ですが、次話のタイトルは珍しいことに書く前に既に決めています。
次回―――『剣の丘に花は咲く』 第十四章水都市の聖女
第三話 神槍
来週……いや、無理っぽい。
ページ上へ戻る