クルスニク・オーケストラ
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第五楽章 ポインセチアの懐中時計
5-3小節
――思えばどうして語ってしまったのか。機密でなくても、秘密ではあるのに。
「きれー……」
「バラバラの型なのに、全部使いこなしてる……これがエージェント」
ルドガー君とジゼルの模擬戦を観たDr.マティスたちの感嘆が、ただ、我慢ならなかった。ジゼルのあの姿を美しいと称賛されるのが許せなかった。
ジゼルのあの立ち回りは「エージェントだから」で括れるものじゃないし、ジゼル自身が苦しんでるのを知らないで感心してほしくなかった。
「ジゼル様は入社なさる前に骸殻に覚醒されたそうです。ご実家がクルスニク一族の傍流で、分史世界の事情も伝わっていたこともあり、ジゼル様は幼くして独自に分史世界の破壊活動をしていました」
「エージェントじゃないのに――ですか」
そう。ジゼルはクランスピア社の方針によらず骸殻を行使し、分史世界を破壊してきた。順序があべこべ。
理由を問えば、「誰かがやらなければいけないなら、まずは自分からやらないと」と彼女は答えた。
献身、という言葉の本当の意味をその時知った。
「ジゼル様が13歳の時です。ある分史世界で、ジゼル様は実体化した精霊に会いました。常盤緑の長髪で、白い蓮の鎧をまとった女だったそうです」
「それって…!」
「はい。ジゼル様の骸殻が一般のエージェントと異なるのは、その精霊が深く関わっています」
鉄柵を握りしめる。精霊がいない世界は衰退する一方だって聞かされてはいる。それでも、自然を自在にする存在が人間と変わらない情緒を持っているなんて、厄介この上ないじゃない。理不尽よ。そのせいでジゼルは……
「精霊はジゼル様がその分史を破壊する際、一つの《呪い》を彼女に刻みました」
分史の精霊は、信じがたいことに、時歪の因子だった人間と愛し合っていた。だからジゼルが時歪の因子を破壊しようとしたのに怒り狂って、分史世界が崩壊する寸前、ジゼルを呪った。
「《骸殻の槍で破壊したモノの記憶を吸収する呪い》です」
「記憶を、吸収?」
「例えば……万が一、ジゼル補佐がルドガー様をあの槍で殺害した場合、彼女はルドガー様の記憶を取り込むことになります。ルドガー様の人生、価値観、嗜好、感情――ご自身の人格を保つのが不可能になるレベルでの侵蝕です」
おかげでジゼルは、ギガントモンスターにも通用するほど強力な鎮静剤と、一度飲むと筋肉が弛緩するほど深い眠りに陥る睡眠薬、ほかにもたくさんの薬を飲まないと人格を保てない。
「待ってください。それじゃジゼルさんは、分史世界を壊すほどに、記憶を無くしてるってことじゃないですか?」
「おっしゃる通りです」
もっとひどいのは、分史破壊のたびにジゼルの記憶が徐々に薄れていくこと。
時歪の因子の元になったクルスニク一族の《レコード》を取り込むと、その《レコード》の分だけ記憶野が上書きされる。
私も何度か会った。上書きされた直後のジゼルに。
――“あ…その…何かご用ですか?”――
私じゃなくて「社長秘書」を、あるいは「社員の誰か」を見つめる、困りきった苦笑。仲がいいと信じていた人に忘れられる辛さを、初めて知った。
骸殻を使い、クルスニクの宿業に弄ばれて、最期には彼女自身が体験してもいない体感が、いつか彼女の記憶の全てになって、私たちとの思い出は塗り潰される。因子化した人間の人生や、経験、技術、死への恐怖、末期の叫びで満たされて逝ってしまう。
「だからこその《記録》エージェント。ジゼル様は、クルスニクの2000年に渡る歴史をただ一人で背負ってらっしゃるのです」
社長はおっしゃった。私たちの世代で《審判》は終わりにするって。《審判》さえ終われば、ジゼルが骸殻を使う必要もなくなる。これ以上、心が崩壊せずにすむって。
ジゼルだけじゃない。ユリウスさんだってリドウさんだって、こんな拷問みたいな毎日から解放されるって。
終わりはちゃんと来る。だから私も、どんなに冷たいだの鉄面皮だの言われたって、あの人たちのために頑張れるのよ。
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