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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第102話 ユニーク

 
前書き
 第102話を更新します。

 次回更新は、
 11月12日。『蒼き夢の果てに』第103話。
 タイトルは、 『試験直前』です。
 

 
「だったら、その場所に居たらしい有希はどうなのよ。もし、その場に居たのがあんたと有希だけだった場合、あんたはどうしたの?」

 相馬さつき。そして長門有希と移して来た視線。最後は俺にその強い瞳を固定してそう問い掛けて来るハルヒ。
 正直に言うと、不機嫌だと思う陰の気を発して居るとは思うのですが、その中に微妙な雰囲気……何か『願い』のような物を内包している、非常に複雑な雰囲気を放って居る。

 そうして……。

 ………………。
 …………。

 ゆっくりと過ぎて行く時間。少しぎこちない……。俺本人としては自然な雰囲気で首を(めぐ)らせ長門さんを見つめた心算なのですが、どう考えても出来の悪い操り人形の如き動きで首を動かしたのが丸分かりの状態で彼女を見つめる俺。
 当然。いや、それまではずっと、自らの手の中に開いた和漢で綴られた書籍にその視線を固定して居たはずの彼女の視線とその瞬間交わった。

 何時にも増して深い憂いを湛えているかのような瞳に――

 もし……。
 もし、この目の前に居る少女がハルケギニア世界の湖の乙女ならば、間違いなく彼女に後の事を任せて一度、その場から姿を消すでしょう。しかし、彼女……長門有希は湖の乙女では有りません。
 但し、この判断は今この場に居る俺の判断。二月にこの世界を訪れた俺の異世界同位体はまた違った判断を下す可能性も有るでしょう。まして、この問いの答えを返して良いのは俺ではなく、異世界同位体の俺の方なので……。

 返事に窮し、再び机の上に置かれた湯呑に手を伸ばす俺。
 しかし、

「あ、お茶なら今から淹れますね」

 其処には、先ほど中身をすべて飲み干した湯呑がひとつ存在するだけ。当然、その中にはお茶が残って居るはずなどなく……。
 この妙に緊迫した状況の中で、ようやく自分の仕事を見つける事の出来たメイド姿の先輩が俺の目の前を横切り、妙に軽快な雰囲気で机の上にある湯呑へと手を伸ばそうとして――
 しかし、俺を睨み付けている少女の視線に入った途端、何故か回れ右をしてすごすごと扉の前まで退避して仕舞った。

 ……う~む、矢張り、ピンチは自分で切り抜けるしかないか。

 そう考え、俺はもう一度、答えに窮する問いを投げ掛けて来た快活な少女を見つめる。
 腕を胸の前で組み、俺の答えを待つ者の姿勢。但し、小刻みにリズムを刻む右手人差し指が、あまり待たせると何を始めるか判らない爆発前の活火山状態を予想させる。
 成るほど。どうにも待つ事に慣れていない、少しイラチ……。せっかちで気の短い人間の特徴を表面に出し、隠そうとしていないハルヒ。まぁ、確かに頭の良い人間は一足飛びに答えを出して仕舞いますから、他人。特に頭の巡りの悪い人間が何故、彼、彼女らから考えると簡単に導き出せる答えに到達出来ない、もしくは到達するのに時間が掛かるのか理解出来ない事があるらしいので……。
 それで……。
 それで、彼女の望む答えは……。おそらく、長門さんが自分の側に居てくれる事。故に、夜道を一人で帰らせる訳にも行かず、俺が彼女を家へと送り届けた、……と言う非常に無難な答えを期待しているのでしょう。
 これは俺に対する感情や、長門さんに対する感情がどのレベルの物でも大差ないとは思います。

 それにこの内容ならば、俺の正体。実は魔法使いだと言う秘密の共有は守られる可能性が高い。おそらく彼女はそう考えていると思いますから。

 片や――
 この問い掛けに対する主人公。紫の髪の毛を持つ少女へと視線を移す俺。
 彼女の場合は、どちらの答えでも受け入れるでしょう。二月の段階の彼女の能力がどの程度だったのかは判りませんが、俺が長門さんと共に事件現場を立ち去ったと言う事は、さつきよりも、弓月さんよりも彼女の方が大切な相手だったと言う事は間違い有りませんから。
 確かに一時的な脅威の邪は排除したし、さつきの能力を信用していたのは事実でしょう。しかし、俺がその場を立ち去った理由はもうひとつあると思います。

 それが彼女。長門有希が共に居たからその場を立ち去った。
 確たる証拠はないけど、何故かそんな気がしますから……。

 もう逃げる手立てがない以上、素直に今の俺の答えを口にしようと考えた矢先。

「朝比奈さん、お茶なら私が用意した健康茶が有りますから、態々新しいお茶を淹れ直す必要など有りませんよ」

 一般的な男子からは高い人気を誇りながらも、何故か俺に取っての重要度から言わせて貰うなら、この文芸部の部室に集まった少女たちの中では一番低い蒼髪の少女。妙に大きい蒼の眉毛が気に成る朝倉涼子が何時の間にか俺の傍……万結の後ろに立っていた。
 そして、まるで自分の登場シーンを待ち望んで居た劇の脇役の如き積極性を発揮。其処から一歩だけ俺に近付くと、手の中に有る湯呑に彼女の持つ水筒から健康茶と称した液体を注いで行った。

 はっきり言うと鈍感。この危険な状況で敢えて火中の栗を拾おうとするその勇気は認めますが――。いや、これは勇気と言うよりは蛮勇と言うべき代物ですか。

「はい、武神さん。少しクセが有るけど身体に良い物ばかり入って居るから、これを飲めば健康に成りますよ」

 一応、自らのピンチに一呼吸入れるタイミングを提供してくれた蒼髪の委員長に対して、非常に失礼な感想を思い浮かべる俺。ただ、彼女にそんな俺の考えが判る訳もなく、それまで彼女が魅せて居た五割増の笑顔で、その液体を勧めて来る朝倉さん。成るほど、確かに彼女もこの学校のアイドルの一人かも知れない。それは、その笑顔を一目見ただけで理解出来ようと言う物でした。

 しかし……。
 彼女。朝倉涼子の勧めて来る液体――真っ直ぐに天井に向かって白い湯気を立ち昇らせるかなり特徴的な液体をマジマジと見つめる俺。そして、その紫色の液体から感じる微かな既視感。その不吉な記憶に身体中の体毛と言う体毛が総毛立ち、背筋には戦慄と言う名前の冷たい物が走ったような気がする。

 いや、あの時には鼻にツンと来るような、かなり強い刺激的な香りが付随して居た分だけ、今の俺の手の中に有る液体の方が破壊力は少ないかも知れない。
 心に刻まれた精神的外傷(トラウマ)と言う名前の古傷がうずき出すのを防ぐ為、出来るだけ前回の経験との差異を考えようとする俺。
 もっとも、割と厚めの陶器の湯呑を通じて伝わって来る感覚。人肌……と言うには少し熱過ぎるその温度と相殺すると、どちらの方がより破壊力があると断言出来ないのですが……。

 何故ならば、この温度では鼻を摘まんで一気にノドへと流し込む、などと言う荒業は出来そうも有りませんから。

「良いわね、その健康茶。とても良いわよ、涼子」

 どうせ、さっきの質問の答えは貰ったような物だし。
 聞こえるか聞こえないかの微妙な大きさ。いや、普通の人間には絶対に聞こえないレベルの声でそう続けるハルヒ。但し、心の中だけで呟けば良い内容をわざわざ……ほぼ、口を動かしただけのレベルでも、わざわざ口に出してそう言った事に彼女の決意のような物を感じた。

 もっとも、他人の不幸は蜜の味。彼女、ハルヒがどんな決意を行ったのか判りませんが、彼女が俺たちに聞こえるように口にした内容は、この言葉が真実であると言う色彩を帯びて居たのですが。
 どちらにしても……。本当にどちらにしても、これは非常にマズイ状態。

【この不気味な液体は、本当に身体に害はないのか?】

 短い思考の元、そう判断した俺が確認の為に長門さんにそう問い掛けた。確かに朝倉涼子に表面上の敵意はないとは思います。……が、しかし、それは飽くまでも表面上の事。もしかすると心のずっと奥の方。彼女自身にも自覚出来ないレベルの奥底には、俺たち地球産の神々に連なる末裔たちに対する――

 かなり追い詰められた者の思考でそう考え続ける俺。もっとも、これは多分、俺の考え過ぎなのだとは思うのですが……。

【問題ない】

 しかし……。いや、予想通りの短い答えを返して来る長門さん。更にその答えは割りと明るいトーンの物。何となく、なのですが、俺が彼女に意見を求めた事が彼女の機嫌を多少良くしたような気がする。
 そうして、

【以前、ここに居る全員がその液体を口にした時には、何も不都合な事は起きなかった】

 最初の短い答えだけではあまりにも説明不足だと考えたのか、彼女がこの小刻みに震える……俺の手の震えを受けて水面に波紋を広げている紫色の液体に危険はないと告げて来た根拠を口にした。

 成るほど。全員が実験台と成った事が有るのなら実害が出る可能性は低いか。
 しかし、それなら先ほどのハルヒの態度の原因は……。

【それなら、こいつの味について教えて貰えるかな】

 実際、身体に害のある毒薬でないのなら問題はない。……とは思いますが、それでも味に付いても知りたくなるのが人情と言う物。色から想像すると超絶マズイと言われているノニジュースのような気もして来ますが。
 俺の記憶が正しければあれは臭いも最悪。ただ、身体に良い事だけは確実らしいのですが。

 その問い掛けを行った瞬間。あらゆる音が途絶えた。
 存在するのは、俺の事を真っ直ぐに見つめるメガネ越しの綺麗な瞳だけ。

 ……………………。
 …………。

 永劫に等しい沈黙。彼女、長門有希が発して居るこの感覚は……戸惑い?
 そうして、たっぷりと時計の秒針が二周出来るぐらいの時間が経過した後、

【ユニーク】

 ……と、短い言葉を伝えて来る。
 しかし……。
 ユニーク。流石に長門さんの口から、まったりとしてそれで居てクセがなく、などと言う妙に食通ぶった台詞が発せられるとは思って居ませんでしたが、ユニークと来ましたか。

 暇さえあれば本を読んでいる長門さんの語彙が少ないとも思えないので、コレは本当に表現し難い味だと言う事は理解出来ましたが……。

「問題ない」

 左手に不気味な液体を注いだ湯呑を持ち、何故か長門さんと視線を絡めたまま動かなく成って仕舞った俺を訝しく思ったのか、背後……。最初からそうで有ったように、非常に不機嫌な口調でそう話し掛けて来る相馬さつき。
 但し、何故か今回は本当に不機嫌な雰囲気。先ほど、試験問題の間違いを指摘してくれた時は何と言うか、もっと、こう温かみのような物を感じたのですが……。

「良薬口に苦し。折角、涼子が淹れてくれたお茶なんだから、ちゃんと飲んであげるのが礼儀って言うモノでしょうが」

 流石に話し掛けて来る相手に対して背中を向けたままで居るのは非常に失礼に当たるので、振り返った俺に対して間髪入れず、そう言葉を続けて来るさつき。
 背中をパイプ椅子の背もたれに預け、胸の前で腕を。そして短いスカートから露わになった脚を組む少々キワドイ姿勢。しかし、妙に胸を反らせた姿勢で座っているように見えるのですが、同じ姿勢で立つハルヒと比べると妙な違和感を彼女から覚えたのも事実。

 ……おそらく外見年齢が四つほど違う両者の身体的特徴の差、なのでしょうが。
 因みに上から順番に言うと、実測値は判らないけど弓月桜と朝比奈みくるが双璧。次がハルヒと朝倉涼子。ここに万結……神代万結も含まれると思う。そして長門さんが入って、一番小さいのが相馬さつき。
 ただ、さつきに関しては、そもそも身長自体が長門さんと比べても十センチほど低いように見えるので、このサイズなのは仕方がないようにも思えますが。

 何と言うか、飛び級でもして小学生が無理矢理に高校に通って居るんじゃないの、と言う疑問を覚えさせると言う雰囲気なので……。
 もっとも、向こうの(ハルケギニア)世界。更に、一般的な日本人よりも体格が良いはずのヨーロッパ人に分類されるタバサも、こちらの世界の相馬さつきと同じ程度のヴォリュームなので、この辺りは誤差の範囲内と言って置くべきですか。

「そうやな、さつき。流石に、ちょいと躊躇い過ぎたみたいや」

 俗に言う、男の夢と浪漫が詰まっていると言われている双丘に関して思考が跳びかかった事を気取られる前に、素直にそう答えて置く俺。

 実際、現状は、と言えば四面楚歌状態。朝比奈さんと弓月さんは少し困ったような曖昧な笑みを見せるのみ。
 万結は普段通り我関せずの姿勢を貫き、
 さつきは何故か非常に不機嫌な様子。おそらく、俺の煮え切らない態度が癇に障ったのだと思いますが。
 対して、先ほどまでは非常に不機嫌だったハルヒは飲んだ後の俺のリアクションを期待しているのでしょう。不機嫌な雰囲気の中にも、そう言う興味に近い色を発し始めて居ます。

 長門さんは……。良く分からないけど、少なくとも俺の事を心配している様子はない。これは、この紫色の液体を自らが飲んだ経験もある上に、同じ人工生命体で有った朝倉涼子と言う人物を信用して居ると言う事なのでしょうね。
 そして、件の朝倉涼子はと言うと――

「前のお茶は味に関して非常に不評だったから、今度の分はその辺りを考慮して完成させた自信作なんですよ」

 従姉も今回の分は成功ですねぇ。……と言って誉めてくれたのですから。
 少し口を尖らせて、それでも不満げに聞こえない表情と口調でそう言う朝倉さん。これはハルヒが良く見せる表情なのですが、多用し過ぎて居て既に少々マンネリ化。矢張り、こう言う魅力的な表情と言うのは偶に見せるからこそ破壊力があるのだな、と感心させられた。

 こう言う表情を、こんな何でもない会話の中に織り交ぜる事が出来るのが、彼女の人気が高い理由なのか。そう少し納得する俺。
 そして続けて、その朝倉涼子の従姉と言う女性の口調のモノマネに少しの笑みも漏らす。ただこの笑みは、笑うしか方法がない、と言う諦めた者の笑み。何故ならば、この世界が俺の暮らして居た世界とはまったく関係のない世界だと言う事も改めて理解させられた瞬間でしたから。
 本来なら。俺の知っている歴史の流れなら、二00二年の十二月に彼女が西宮で暮らしている、などと言う事実は有りませんでしたから。

 何にしても――
 故郷に対する郷愁に浸って居る時間はない。まして、何時までもグズグズしていても男らしくない。そう考える俺。少なくとも、あまり格好が良いとも思えませんから。
 特に俺が感じている郷愁に関しては、長門さん以外には伝わっていないはずですから。

 そうして、

 最初に、何故か罰ゲームの審判役となった涼宮ハルヒに最後に視線を送り……。
 左脚に体重を掛け、右脚を右斜め前に半歩踏み出した形で胸の前に腕を組むハルヒが、相変わらず不機嫌そうな表情で俺を睨み付ける。
 ……何が気に入らないのか。いや、この紫色の液体がマイルドな味付けに成った可能性が有る事が気に入らないのか。
 これでは罰ゲームのリアクションを見物する事が出来ないから。

 ――関西系のテレビを見て育って来た俺としても、多少、派手なリアクションで笑いを取るタイミングを逸したのは、確かに少し残念な事なのですが。
 そんな前回――ハルケギニア世界でモンモランシーの作り出した不気味な液体を飲み干した時と比べると、かなり余裕のある精神状態で一気に湯呑の液体を飲み干そうとする俺。

「でも、何故かそのお茶を一滴嘗めとった従姉の飼って居る猫が、それから丸一日眠り続けたんですよね」

 何気ない朝倉さんの一言が鼻を摘まみ、一息に不気味な液体を飲み干そうとした俺の耳に届く。
 刹那。下から払われる左手。そして、握っていた湯呑が宙を舞う。

 その瞬間、口腔に広がる独特の発酵臭。いや、そんな生易しい物ではない。これは俗に言うドブ臭い(くさい)と言う臭い(におい)。そして、それに続く渋さと苦さの合いまった……何とも表現し難い味。
 確かに一言で説明するのなら……これからソレを呑まなければならない相手に対しては、素直に死ぬほどマズイと言えない以上、ユニークと表現するしかない液体。

 天井近くにまで跳ね飛ばされる湯呑。しかし、その内容物の大半は既に俺の口腔内に移された後で有ったが故に、周りに臭気と内容物をぶちまけるような被害を広げる事もなく――

 完全に油断して居た俺が、その意味不明の万結の行動に驚き、口腔内に存在していた液体を飲み干してしまう。
 ただ……実際、これは幸運。何処が自信作なのか判らない強烈な味をした正体不明。但し、人体には悪影響を及ぼさない液体を、驚いた勢いで飲み干せたのですから。

 高い。ほぼ直上に打ち上げられたかのような分厚い陶器の湯呑。しかし、重力の軛から逃れられない運命の物体は、何故か感覚としては妙にゆっくりと床に叩き付けられ――
 破壊音を響かせた。

 その瞬間!

 ぐにゃり、と視界が歪む――
 そしてその時、俺の横でパイプ椅子に座ったまま、何が起きても我関せずの態度を貫いて居た神代万結が立ち上がり、俺の手から湯呑を跳ね飛ばした事にようやく気付いた一同。
 普段の万結からは考えられない素早い、そして苛烈とも言うべき動きに驚きの波動を発して居る。
 しかし、その喧騒。陶器が割れる音や、その他の物音がすべて何処か遠くの世界の物音に感じる俺。分かり易く説明するのなら、プールに潜った状態で聞こえて来る音のように周囲で発生している音を感じる。

 そして、何故か――。俺本人としては真っ直ぐに立って居る心算なのですが、何故か視界が斜めに傾いで行き――

 歪んだ視界が、かなり古くなった石膏ボード製の天井を映した瞬間――
 空を掴もうとして居た右手を捉える何か。それは、仰向けに倒れようとする俺をしっかりと引き寄せ――

 そして……。
 そうして、完全に意識を失う一瞬前に感じたのは、とても懐かしい彼女の香りで有った。


☆★☆★☆


 ふいに誰かに名前を呼ばれたような気がする。
 一瞬。そう、ほんの一瞬だけ、自分の置かれた場所及び状況に戸惑う俺。確か俺は、朝倉涼子の淹れた……作り出した妙な健康茶を口にして、そのまま倒れたのでは……。

 ここは……。

 酷く冷たく、そして、暗い世界。おそらく、今は夜。
 何もかもが止まったかのような空間。上空から降りしきる雨粒さえ、超高速度撮影のカメラに因る映像をスローモーションで再生して居るかのような雰囲気。生ある物も、生なき物もゆっくりとしか動く事の出来ない世界。
 そう、大気自体も粘性を帯びた液体の如く身体の動きを阻害し、音さえも自らに届くまでに数瞬の時間を要する、何もかもが遅滞した世界。

 仙術で時間を操り、通常の世界から自らのみを切り離した状態に今の俺は存在する。
 そう確認を行った俺。

 その瞬間、腹部に焼けた鉄の棒を押し付けられたような激痛。そして、巨大な黒い物体に捕らえられ、後方に吹き飛ばされる俺。
 しかし――

 しかし、今回の戦いも辛うじて俺たちの勝ちだ。

 巨大な顎門(あぎと)に捕らえられ、後方に物凄い勢いで運ばれながらも、そう確信する俺。
 身体の各部の機能はかなり低下しているのが判る。現在注入されて居る百足(ムカデ)の毒。更に、最初の段階で彼女を逃がす為に受けた毒液が一瞬毎に俺の生命力を削って居るのは間違いない。
 但し、自らの時間を操り、一撃で死に至る致命的な部分に牙を立てられる事を紙一重で防いだ俺には、既に敗北の二文字はない!

 其処だけは普段通りに動く頭だけでそう考え、右手を一閃。後方に物凄い勢いで運ばれながらも、いや、ヤツに因って運ばれているが故に彼我の距離及びベクトルはゼロ。俺の腹部に牙を突き立てて居ると言う事は、ここなら絶対に外す事のない位置と言う事でもある。
 俺の龍気の高まりを受け、蒼き光輝を纏いし斬撃が優美な弧を描いて一閃。
 硬いキチン質の外骨格を斬り裂いた瞬間、噴き出した毒液に等しい百足の黒い体液が俺の身体を穢し、残り少ない生命の灯を消し去ろうとする。

 しかし! そう、しかし!
 そんな事は委細構わず、返す刀で更に鎧に等しい百足の表皮を斬り裂く俺。

 銀杏の木を薙ぎ払い、桜をへし折り、学校を取り囲むフェンスに向かって突き進む黒の奔流。
 そして――
 そして、背中に堅くざらざらとした物質。学校の敷地とそれ以外の場所を仕切るブロック塀を感じた瞬間、俺は自らの意識を手放したのだった。

 最期の瞬間に目にした存在(もの)とは――

 
 

 
後書き
 さて、そろそろ『うるう月』の設定をちゃんとやって置かないと。
 漠然とした設定なら有るけど、それに細かな部分を盛って、ある程度の説得力と言う物を持たせなければ。
 尚、普段に比べるとかなり短いのですが、書いている最中は、次話の103話1万3千文字と合わせて第102話だったのです。
 ……つまり両方合わせて2万文字以上。
 流石にそれは問題がある、と判断し、ふたつに割って公開と言う事にしたと言う事です。

 それでは次回タイトルは『試験直前』です。
 
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