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白鳥の恋

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第六章


第六章

「その中に入っていきたいです」
「そうですね。私も」
 そしてエリザベータもそれは同じであった。
「エルザとなって」
「ローエングリンとなって。共に生きましょう」
「はい」
 この生きるという言葉もまた一つの世界においてだけのものではなかった。やはり複数の重なり合う世界においてだ。だが二人はこの時まだ気付いてはいなかった。その重なり合う世界にいるのは二人の身体だけではないのだ。心もまた。正確に言うと気付いてはいたが気付いてはいなかったのだ。
 リハーサルも終わり舞台になる。まず第一幕に王と騎士達が集まりその中央にエルザがいる。ローエングリンの最初の舞台であった。
「最初からかなりいいな」
「そうだな」
 観客達はエリザベートの歌と演技を見て言う。最初の評価はかなりよかった。
「このままいけるかどうかだが」
「出だしは好調だな」
 しかし三時間以上の上演時間を持つ長い作品だ。最後までどうなるかわからない。彼等は慎重に流れを見守るのであった。エルザの見せ場であるその独唱エルザの夢が終わると観客達は合格点を出した。それもかなり高いものを。しかし拍手も歓声も起こらない。ワーグナーだからだ。ワーグナーでは観客はその幕が終わるまで歓声や拍手がないのが普通である。イタリアオペラとはそこが違うのだ。
「よし、いいな」
「これは近年稀に見るエルザの夢だな」
 こうまで評価されていた。
「エルザは問題なしだな」
「あとはローエングリンか」
 そのタイトルロールだ。これが悪くては話にならない。ワーグナーのオペラはまずはテノールなのだ。そのテノールを皆聴きに来ているのだ。
「さて、リハーサルではかなり入れ込んで勉強していたようだが」
「どうかな」
「メトではよかったわよ」
 初老の女性がこう言うのだった。メトロポリタン歌劇場のことである。
「拍手が止まなかったし」
「では期待できるかな」
「一応はそうだな」
 皆それを聞いてまずは安心するのだった。
「だが調子というものがあるからな」
「調子か」
「そうだ、それだ」
 歌手は所謂生きた楽器だと言われている。だからその日の調子が大いに影響するのだ。これはスポーツ選手よりも大きく影響すると言われている。
「シュトルツィングは安定感のある歌手だが」
「ワーグナーは別だ」
 ワーグナーファン、所謂ワグネリアンにはこうした考えが根強い。ワーグナーを特別視するのだ。最早これは信仰に近いものすらある。
「これだけはな」
「そうだな」
 そしてそれを無謬のものだと考えるのもまたワグネリアンである。
「シュトルツィングといえどもな」
「さて、どうなるか」
 場面が変わった。いよいよローエングリンが出る。舞台では白鳥の曳く小船に乗ってやって来る白銀の騎士のことが歌われていた。
「出るぞ」
「白銀の騎士が」
 ローエングリンで最も緊張する場面の一つだ。少なくとも第一幕では最も緊張する場面だ。
 その白銀の騎士が出て来た。長身の端整な男が白銀の鎧と白いマントを羽織ってやって来た。この男こそがローエングリン、そしてアーダベルトであった。
「よし」
 彼の最初の歌声を聞いた客達が会心の声をあげた。
「いい調子じゃないか」
「このままいけるな」
「いける」
 客の中の一人が言い切った。
「彼は最初の声を聴けばわかる。最初でな」
「最初の声でか」
「そうさ。最初がしっかりしていればそのままいける」
 そういうタイプの歌手であるらしい。
「今日は。いけるぞ」
「ではその言葉信じるぞ」
「ああ、信じてくれ」
 観客席でこう言葉が交えさせられる。舞台はいよいよ本番であった。
「決して私の名を聞かないでくれ」
 ローエングリンが妻に語っていた。
「知ろうとも考えてはいけない」
「決して尋ねたりはしません」
 それに対するエルザの言葉だった。もうその目はローエングリンに向けられている。ローエングリンもまた。観客達のうち勘のいい何人かはそれを見てあることに気付いた。
「むっ、あれは」
「あの二人は」
「どうしたんだ?」
 それに気付かない者が彼等に問うた。
 
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