乱世の確率事象改変
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
相似なる赤と蒼は
肌に絡むような湿り気を帯びた風が吹いた。
血の色を思わせる赤髪がさらさらと揺れ、首を擽られたからか、彼女は不快気に手で払いのけた。
背負っている武器は大きな鎖鎌。最近は腰に据えてある予備武器の鉤爪ばかり使っていたが、手入れは怠っておらず、大鎌の鋭い光は容易に頸を刈り取る姿を思い出させる。
薄い藍色の衣服に金色の軽装を重ね、この世界の武将達と同じく腰から下は鎧無し。ショートパンツとニーソックスが織りなす絶対領域、それを含んだ脚線美に見惚れる兵士達は多い。
気だるげな表情で馬に揺られる彼女は、袁家の武将の中でも飛び抜けた力を持つ張コウ――真名を明、その人である。
袁家の主力部隊は四つ。
一つは猪々子率いる突撃が得意な戦バカの集まり。猪々子に向ける視線は子供のような憧憬が多分に含まれ、自分の力を誇示したいという男くさいモノが集まった部隊。
一つは斗詩率いる協調性を重視する万能型。何処か守りたくなるような斗詩に率いられてはいるが、対応も連携も、彼女への信頼から揺れる事は無い。
一つは強弩部隊。袁紹軍の虎の子として麗羽の周りに侍っているのが主であり、親衛隊の役割も半分兼ねている。
そして最後の一つは、最近の戦働きで“紅揚羽”と異名が付いた明が率いる張コウ隊。嘗て且授が受け持っていた古参の兵達と、明が直接鍛え上げて来た精兵の混成。この部隊だけは他とは違い、明が告げる命令には一兵に至るまで絶対服従の死兵の群れであった。
前の主に恩義を感じているモノも、明の見た目に落ちてしまったモノも、誰かを守りたかったモノも、自分が生きたかったモノも……一兵卒の隅々まで刻み込まれているのは明に対する恐怖心と、明と夕の二人に対する陶酔。
部隊は率いる将の色に染められるモノだ。その率いる将が真っ直ぐに狂っていたのなら、兵達も引き摺られるように狂気に染まる。
「嫌な天気」
重厚な雲が空を多い隠し、光が差し込む隙間も無い。雨が来ればめんどくさい事この上無いが、彼女の守るべき少女が天を見て予測した言によれば、地が泥に変わる事は無いらしい。
不満を一言零して忌々しげに見上げた明は、馬の上で息を大きく吐き出して視線を前に戻した。
これから行われる戦、数では倍を有する袁紹軍が有利である。されども、彼女は気を抜かない。兵数の有利などあってないようなモノなのだ。
徴兵、というのは強制すれば不満が出るのは当然。今ここに集めた兵士達は、勝利時の昇進と言う名の餌に釣られた領主達に無理やり吐き出させた命数が多くを占めていた。士気は言うまでもなく低く、義勇軍のような民兵と練度はさほど変わらない。
合併された袁術軍の兵士達もいるが、土地柄になれておらず、先の敗戦の意識を引きずっているからか心持ちそのモノ達の士気も低い。
細作の報告では、延津に駐屯する曹操軍は二万五千の兵を率いている、とのこと。どれもが精兵揃いで、徐州で戦った兵をそのままこちらに回してもいる。
徐州で戦っていない夏侯淵隊は、集めた情報から推察する限りは弓と弩が主体。しかし、それだけで戦場に立つかと言われれば否。
後方支援を主軸として戦ってきた部隊ならば、長く戦場を経験してきたという事。練兵で積み上げる力が弓と弩だけであろうか。剣の腕も、槍の腕も、連携にしても、曹操軍でも大剣や神速が率いる部隊と同じく抜きん出ている事だろう。
洛陽での戦で個人の力は見た。呂布相手である為に明も本気にならざるを得なかったが、共闘しながらも互いの癖を読み合っていたのだ。
ただ、その後に為された報告で明は違和感を覚えていた。
――大事な大事な片割れが隻眼になって張遼と戦う羽目になったのに、夏侯淵は即座に戦場を優先した。多分、あいつは……あたしに近い。曹操が誇りあれって願うから一線を越えてないだけで、どうすれば敵を楽に殺せるか分かってる奴だ。
一線を越えていないとは、理解した上で効率を“選ばない”こと。明はソレを愚かと断じる……では無く、警戒を最大限に引き上げていた。
戦は効率的である程に良いモノだ。将を一人討てば部隊が乱れ、軍の指揮も目に見えて下がる。例えそれが悪辣な手段によるモノであろうと、柱の抜けた軍の統率は乱れてしまう。もし、命令不服従な通常の死兵が顕現するならば、莫大な兵の被害が出ようと罠にも嵌めやすく、他の将を討つ機会すら作り出せる。
それを分かっていながらしないのは、主の為に己を律しきれて、兵の犠牲を厭わないということ。さらには、こちらの外道手段の対抗策も考えている事に他ならない。
なるほど、と明は一つ頷いた。
お綺麗な戦とは全く違い、血みどろの殺し合いとも別モノ。万が一の場合は部隊同士の本物の戦いとして、夏侯淵を抑えなければならない……そう、結論付けた。
「あー、めんどくさ……」
「ちょこちゃん、そんなにげんなりしてたら兵達にも気合入らないよぉ」
ため息を落とせば、泣きそうな声が隣から上げられる。うるうると瞳を潤ませた斗詩が不安を押し出して見つめてくる。
遥か後方では自分達の様子も兵達には見えないだろう、とは明も言わない。
「そういうあんたの方がダメだと思うけど?」
「え? あ……」
口に手を当ててクスクスと楽しげに笑うと、斗詩が顔を茹で上がらせて俯いた。
「ま、いいんじゃない? どうせ――――」
――死んで貰う奴等だからさ。
にたり、と口が吊り上る。昏い色が金色の瞳に輝く。
赤から蒼へ、明の顔を見ていた斗詩の顔からみるみる内に血の気が退いていった。それでも、彼女は圧されずに、ぐっと唇を強く噛んでから言葉を零した。
「ちょこちゃん。あなたの事は分かってる。分かってる、けど……そんなの……そんなのってないよ」
責める視線は綺麗過ぎたから、チッ、と舌打ちを一つ。苛立たしげに目を逸らした明はため息を一つ落とした。
「勝ちたくないわけ?」
「う……それでも命ってさ、そんな簡単に使い捨てていいモノじゃないよ。例え勝利の為に無茶を命じるとしても……せめて率いる将の私達くらい、彼らを見てあげようよ」
将として言えば、士気を上げ、鼓舞し、心を奮い立たせて戦に意識を向かわせよう……という事だ。
斗詩個人の言い方をするなら、一人でも多く生き残らせる為に励まして元気付けてあげようよ、そんな所。
優しい彼女は戦に向いていない。事務仕事の方が好きだと彼女自身も零したりもしていた。
人として当たり前の事で、明の事を考えての発言でもあった。
――あー、綺麗事だ。堪らなく綺麗で、むず痒くなるほどに純粋で、“あの人”があたしと違って切り捨てなかったモノと同じ。でも、そういうのを押し付けられるのは……ごめんだね。
は、と呆れたような吐息を吐いた。
自分には似合わない。否、自分達の部隊には、それが似合ってなるモノか。
「ならあんたがあたしの部隊以外を見て鼓舞してあげりゃいいじゃん。あたしにはあたしのやり方があるから好きにしな。
でもねー……あんたに大事な事を教えてあげる」
人を惹き込む妖艶な笑みを浮かべた。ペロリと唇を人舐めする舌は赤く、濡れた唇の輝きは扇情的に過ぎる。
斗詩はぶるりと震えながらも、昏い黄金の双眸に釘づけになった。
「兵士は死ぬのも仕事の内なんだー。人殺して金貰ってメシ食う事を選んだんだからさ、命じられるままに死ねばいい。こっちの都合で無理矢理集めた兵士だとしても同じだもん。戦場に立つなら、黙って従って死ねばいい。生きたいって願うなら足掻いてもがいて、敵を殺して生き延びればいい。命令を聞かない奴等が生きたいって言うなら自分でなんとかするべきだし、此処に立った時点で誰も助けたらダメなんだよ。
何より夕の邪魔するなら、例え同じ軍だとしても……あたし達の敵だ♪ 足手まといになるなら、あたし達張コウ隊が殺すだけ。そうすりゃ言う事聞くかんねー」
片目だけ細めた悪辣な笑いと楽しげな声。
ぞわぞわと背筋を這い回る悪寒に、斗詩は自分の腕で身体を抱きしめる。
――ダメだ。この子は本気だ。味方を殺せば軍が混乱するはずなのに……それをさせない狂気を持ってる。後ろから羊を追い立てる犬のように、兵士さん達に……戦場で強制的に前を向かせるんだ。
明は関靖の最期の策である“捨て奸”を受けてから線引きが外れていた。戦の固定概念が打ち壊され、邪魔をするなら味方すら敵、と考えられるようになった。味方すら殺して、より多くの敵を殺せばいい……と。
恐怖は人の心を縛る。戦場でより濃くなるであろう狂気が、明の指揮能力を増幅させる。人の心に怯えを孕ませる戦場に於いて、背中という無防備な場所に刃が突き付けられているとなれば……前に逃げて、戦って生き残るしかないのだ。人心掌握の手段は正道だけでは無い。従わせる事が出来るならば、味方への恐怖であろうと使えばいい。
それは軍内の調和を投げ捨てた指揮方法。これからの軍内部に於ける評価も、倫理や道徳であろうと無視された、勝てばそれでいいという残忍なやり方。故に……彼女は“袁家らしく”人の道を外れている。
目を細めた明が笑っていた。幼さの見え隠れするその笑顔は、まるで気まぐれな猫のよう。
妖艶さも無く、狂気含んだ色も無く、今度は知性の光が輝く。
「でもさー。今回の戦、夕の言った通りにした方が面白くなるんだよね。相手が曹操軍だからこそ出来る事ってあるみたい」
「……私聞いてないよ?」
「戦の前に言わないとダメだったから黙ってたんだー。今回は即応重視の遊撃陣、相手の軍師と夕の力量が色濃くなる戦場なわけ」
「それって……」
「ふふっ、斗詩が兵を元気づけようと、何にも変わんないんだよ。ただ……あんたが楽進か于禁を殺せるかどうかは、甘い考えを捨てられるかどうかが大事かもー」
曖昧な説明では分からずに首を傾げる斗詩。
明は一度だけ後ろを振り返り、大切な少女に想いを馳せているのか甘い吐息を一つ。ゆっくりと振り向いてから……
「あんたが鍵、だよ? あたしと同じこと……ひひっ、出来るかな?」
舌を出して笑った。
「いい? あたし達がする事はね――――」
後にゆっくりと零されていく説明は、斗詩の顔をまた蒼ざめさせた。
震えが強くなって言葉を紡げない。もう決められているから、反論など許される状況では無かった。やると言ったら、明と夕の二人は必ずやる。
「あとさ、あたし達に秘密でなんかしてない? この戦の事だけじゃなくて、さ」
恐怖でこじ開けられた心の隙間に差し込まれるは槍の如き問いかけ。唐突に話を変えて頭の中を覗くのは彼女達がよく使う心理掌握の手段。
冷たい視線が突き刺さり、ギクリと身体を跳ねさせそうになった。
心の奥底まで見透かそうかという瞳には殺意の色が揺れる。機械的で人形の如きその眼は、斗詩に対して敵か否かを尋ねていた。
信頼は無く、信用も無く、返答を間違えば此処で殺されかねない。
思い浮かぶのは一つ。麗羽からの、且授を助ける為に下された命令。不手際で誰かにバレる事が無いようにと独自で動いているから、監視の厳しくなっている明にさえ伝えられていなかった。
斗詩は迷った。この場で言ってしまっても良いモノか。幸い、誰も周りには居ない。聞こえるはずも無い。
喉の渇きを潤そうと生唾を呑んだ。呑み込んだモノはやけに重く感じた。
「ううん。私が動いてちょこちゃんと田ちゃんの邪魔するわけにはいかないし、言われた事くらいしかしてないよ。怪しい動きは郭図さんに疑われちゃう、でしょ?」
浮かべたのは普段の微笑み。真っ直ぐに目を見つめて逸らさず。
自分でも驚くほど自然に、嘘が口から零れた。協調に重きを置いてきた彼女だからこそ。鉛のような重苦しい罪悪感が肩に乗った気がした。
彼女は怖かった。この目の前の女が、夕の予定外の動きをした自分をどうするのかが分からなくて。そして、麗羽と猪々子を見捨てられるのが、何よりも怖かった。
ふーん、と目を細めて見て来るも、明は深くまで聞こうとはしなかった。
「あんたの事、“信じてるから”」
有り得ないと思いつつも頷き返して、くるりと背を向けた明の斜め後ろを着いて行く。
脅迫の類。聞こえは良くても逃げを許さない強固な鎖。
――ちょこちゃんが信じてるなんて事は無いだろう。私が同じように狂ってないのもあるけど、文ちゃんみたいに素直で真っ直ぐじゃないから、信じて貰えない。でもこの戦が終わって、且授様も助かったなら……信じてくれるよね。どうか全てが上手く行きますように。
願いを紡いで天を仰ぐ。
曇天の空は心の内を表しているかのようにも見えて、湧き上がる哀しみで泣きそうになった。
†
戦前の舌戦、などというモノは必要とされていない。
開けた平野で面と向かい合い、矢の届かないと判断された距離にて、甲高い女の声と共にその戦は始まった。
「突撃ーっ!」
大槌を前に突き出す斗詩が先頭で掛け声を上げ、並み居る袁紹軍の兵士達は雄叫びを上げて曹操軍に突撃していった。騎馬は無く歩兵のみ。そして斗詩も明も動かない。
武将には劣るが、それでも兵達よりも武勇に優れている将達が指揮し、軍としてのカタチは為されている。
反して曹操軍は突撃してきた部隊をまず矢で射た。直射、曲射の数はイナゴの群れと見紛うかという程……と言っても、押し掛ける軍の全面に照射する事など出来はしない。
射た場所は左右。倍を有する敵から包囲されるのは危うい為に。
曹操軍中央には楽の旗。突出した袁紹軍中央は周りの惨状に目も呉れずに突撃し、激突する―――――前に、異質な攻撃を受けた。
白く輝く、まぁるい珠だった。先頭で構えていた灰髪の少女が脚を振り抜いた瞬間に発せられた、わけの分からないモノ。
光ったのは分かった。速度が速いのも理解出来た。ただ、兵士達はそれが何かだけが分からなかった。
後続は突撃してきている。一度走り出したなら、その程度の訳の分からないモノに怯えて脚を止めるわけにもいかず、群れを成して突撃する袁紹軍前列が避け、その珠が後続の兵にぶつかった。
瞬間、大きな爆音が響く。衝車が城の扉をぶち破る音より尚大きい、今まで聞いた事が無いような音だった。
肉が舞った。血が飛び散った。脳漿が弾けた。骨が四散した。三人か、否、纏まっていた為に五人は死んだ。
異質な音は思考を凍結させる。軍の脚が止まった。止めなければならなかった。それほど大きな音だったのだ。
強制的に突きつけられた脳髄の空白には、理解出来ないモノへの恐怖が湧いてくる。血を浴びた者に、肉の掛かった者に、脳漿がへばりついた者に、骨が突き刺さった者に……。
それは余りに凄惨な死に方であった。
楼閣の上から飛び降りるか、大槌で思いっ切り叩き潰されるか。いや、それでも足りないであろう。
目の前で走っていた人が弾け飛んだのだ。人というカタチを保てなくなったのだ。自分達の手の届かない所から、敵はそれを行ったのだ。
中央は恐怖を、目視出来ない他の場所は疑問を、そうして軍には混乱と隙が出来上がる。
脚が止まった突撃に意味はあるか……否。
左右はまだ矢の雨が降り注いでいた。そして中央は……土煙を上げて来る曹操軍に突撃を返された。
迫りくる敵に恐怖を覚えながらも、どうにか自分達も突撃を仕掛けたのだが……一人の兵士は、灰色の三つ編みが揺れているのを見た。大きな打撃音と共に、隣の男が消える。見やれば後続の兵を巻き込んで吹き飛ばされていた。間もなく、丸太を叩きつけられたような衝撃を胸に受けて、自分も同じようになった。遅れて胸が痛んだ後、その兵士の思考は真っ白になり、口から吐き出された血の味を最期に動かなくなった。
其処には少女が一人立っていた。浅黒い肌にキズを幾多も拵えて、背から闘志を燻らせて。
鋭い眼光に射抜かれた兵達は脚が竦んで腰が退けた。自分達は武器を持っているというのに、その少女は手甲を付けているだけで丸腰に見えるのに、誰も近づこうとしなかった。いや、出来なかった。
「……我が名は楽進。死にたい者から前に出ろ。弾けて死ぬか、殴り飛ばされて死ぬか、蹴り飛ばされて死ぬか、どれかを選べ」
獅子の如き眼光は強者を表す。圧しかかる裂帛の闘気は力の優位を決定させる。
『見ろ、あの傷の数を。どれだけの戦場を抜けてきたのか、歴戦の古強者に違いない』
ああ、これは自分達ではどうしようも無いモノだ……兵達はソレに勝つ事を諦め、どうにか逃げようと、弱い者から倒そうと、普通の兵士に向かっていく。そうして彼女に背を向ければ、無慈悲に殺されるだけだというのに。
中央先端は、たった一人の武将によって支配され、打撃音と剣戟が鳴り響く中で狩り場となった。
「うーん……なんかおかしいの」
戦場にしては緩い声を発して、沙和は首を傾げていた。
凪の突貫は計画通りに行えた。左右は、大量に運んできた矢を降らせた事によって脚が鈍り、漸く近接しての戦闘に突入した所だった。
何も問題はない。本来なら、稟への称賛を唱えるはず……であるのに、疑問と違和感が頭に浮かぶ。
敵将の旗でも一番警戒すべきモノはまだ出てきていない。聞いたことのない名前が並んでいるだけであった。
顔良と張コウがまだ後方で悠々と待っている。それはいい。まずは何に於いても兵数を減らさなければならないのだから。
たった一度の戦闘で決着が付くとも思えないが、あまりにも“出来すぎている”。
早々とそれを見切った彼女も、やはり一角の将の才覚を持っているのだろう。
沙和の仕事は凪の露払い。後方で指揮を代わりに行いつつ、自分の部隊を振り分けもする。
柔軟な対応力が彼女の武器にして力。徐晃隊のような連携は無いが、彼女一人で幾多の小隊を操れる。補佐に特化したその指揮方法は、兵達の男くささに反して何処か優しく思えた。
幾分経っても戦況は変わらない。雄叫びや怒号が激しく耳を打つ戦場は、あまりに真っ当で、あまりに普通過ぎる。
練度が違えば戦い方も違う。曹操軍の士気は今回の戦を前にして嘗てない程に高まっている為に圧される事も無く、兵士一人にしても二人、ないしは三人と相対出来るのではなかろうか。
倍を有する袁紹軍は、寡兵の曹操軍に押し込まれている。凪の存在あってこそではあるが、それでもこれはおかしいと感じた。
――秋蘭様が注意してくれてなかったら、勝てると思って押し込んだかも。
双剣を翳して指示を出しながら、そんな事を考えていた。
沙和は部隊を突出させない。押し込みながらも、左右の自軍の旗をしっかりと見て、楽進隊と于禁隊が出過ぎる事を制していた。
ただ、このまま膠着してしまうのも拙い。矢はその内尽きる。野戦に運べる矢の数はそれほど多くはない。ましてや……
――秋蘭様の部隊がアレをしたら……こんなに凄いんだ。
雨のような矢が接敵後も途切れなければ尚のこと。
左翼に配置されている秋蘭は、秋斗が考案した参列突撃の戦術をそのまま弓部隊に応用していた。兵列から繰り出される矢は一斉照射では無く時間継続を優先してのモノ。途切れる事のない矢が、正確な距離を測って繰り出されれば、これほど恐ろしいモノは無い。
問題は残存数に関して。まだ敵の主力は出て来ていない。それでもこの方法を続けるのは下策にも思えるが……こればかりは策を立てた稟を信じるしかなかった。
後方を一寸見やった。組まれた一段だけの移動櫓に立っている稟がこちらを見ていた。しかし、指示らしき動きは何もない。
焦れる心を抑え付けて、沙和は戦場で指示を出し続けた。
「ほら、ぼさっとしてないで直ぐに整列する! 玉引っこ抜かれたいか!」
「サーイエッサー!」
噎せ返るような戦場には似合っているようで似合っていない声で、罵倒に似た鼓舞を放ちながら。
†
戦場の空気というのは読み取れるモノには分かり易い。
敗色であれ、勝ち気であれ、何処を攻めればどうなるか……長く戦場に浸っていればいる程に、手に取るように分かる感覚が増して行く。
袁家の三人は若い。夕も、明も、斗詩も、老練な武将達と同じモノを持つには戦場の経験が足りない。
しかしながら、経験が足りずとも、人の感情を読み取るに長けている二人は、その大きなうねりにも似た空気に敏感であった。
膠着状態の戦場で被害は増えるばかり。敵には目立った動きも無いが、そのまま力押しするだけでは欲しい結果は得られない。
「そろそろやろう」
「んー、そだねー。こっちまで怯えと負けの雰囲気が伝播しちゃったら意味ないし」
二人が示し合せる様が余りに自然で……これから起こす事が確実に成功すると斗詩には感じ取れた。
「ホ、ホントにやるの?」
それでも、愚かしい事だと分かっていても、聞かずにはいられなかった。これがどれだけ有り得ない策であるのか理解していたから。
「あったりまえじゃん? あんたはお綺麗なままで行けばいい。憎まれ役の汚れ仕事はあたしの本分だからさ」
「生きるか死ぬかはあなた次第。退き時も好きにしたらいい。もうこれで、私が描く結果には足り得るから」
どちらもの瞳は濁っていた。昏い暗い闇色の黒と、扇情と歓喜が濃い黄金。
兵の命がどうなろうと知った事では無いとでも言いたげな、残酷で冷徹な二人。
本来ならば熱く燃やさなければならないはずの斗詩の心は、今までにない冷気に包まれていた。
「はい、これが合図。猪々子と一緒で、あんたにもコレ使って貰うから」
渡されたのは金属で出来た笛。徐州で猪々子の部隊が徐晃隊の屍から回収したモノ。一個部隊での突撃を知らせる為に袁紹軍が使うと決めていたモノ。
受け取り、首に下げてみた。黒麒麟の嘶きと呼ばれる、元袁術軍に恐怖を植え付けた証を。
猪々子とお揃いであるのは嬉しかったが、街の人達を守る竹笛なら戦場以外で使えるのにと、斗詩は場違いな考えが頭を過ぎった。
「中央の後列は元袁術軍の兵士達を並べてある。その音は嫌でも耳に入ってしまうから、あなたの突撃は味方を殺す事は無い。全力で駆けて」
合図があればその方を見やるのは戦場では自然な事。其処に騎馬の群れが突撃してきたのなら、逃げ出すのも当然である。散々辛酸を舐めさせられた笛の音なら尚更上手く行くだろう。
「んじゃ、あたしが夏侯淵の方に向かったらやっちゃってー。楽進は“氣弾”と体術を使うから、一騎打ちするなら馬から降りないと分が悪いよー」
決定された策は曲がらない。元より斗詩の意見で変わる事は無かったが、これから行われる策を思えば、彼女の優しい心に悲哀が湧くのも詮無きかな。
苦悶を刻みながらも、彼女は頷いた。自分が守りたいモノは、彼女達と共に掴み取らなければならないのだから、と。
「氣弾って最初の音のアレだよね? うん、分かった。
でもちょこちゃんも無理しないで。麗羽様も、文ちゃんも、心配して待ってるんだから」
心配を向けられ、キョトン、と目を丸くした明は、くつくつと喉を鳴らして、後に盛大に腹を抱えて笑い出した。
「ひひ……あはっ、あははははっ!」
「えぇ……? 私なんか可笑しい事言ったかな?」
わたわたと慌ててから夕の方を見ると、彼女も可笑しそうに笑っていた。
「ふふ、気にしないでいい。明はきっと、本初と文醜が心配する様子を想像して笑ってるだけだから。でも……あの二人が心配してるとこ、想像出来る?」
「……」
そわそわとしながらも帰ってくるを疑わず、遅いですわねぇ、と腕を組んでいる麗羽。
こちらの事など何も心配せずに、よっしゃ突撃だぁー、と楽しげに戦場を駆けている猪々子。
そんな二人が思い浮かんだ斗詩は、自分の発言の有りえなさに少し笑えた。
「……っ……た、確かに無いね」
「斗詩、あんた、くくっ、最っ高……あー、お腹痛い。猪々子が目をうるうるさせて心配してるって? そんなさ、あたしが苛めたくなるくらい可愛いわけないじゃん」
「つまり、そんなに可愛くなったら食べてしまいたい。そういうこと?」
「それはダメっ! あ……」
急な夕の発言に思わず漏らした一言。明と夕は呆気に取られるも、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あれ? ヤキモチ妬いちゃうんだ♪」
「文醜に報告しよう」
「もう! 違うもん! 私は別に――――」
「はーい、ごちそうさん。気分も解れただろうからそろそろ行くよー。じゃあ夕、行ってくるねー」
「ん、頑張って」
顔を紅くして否定する斗詩の言葉を終わらせずに途中で遮り、明はひょこひょこと前方に歩いて馬に跨り、早々と進んで行った。
「うぅ、二人共あんまりだよぉ……って、待ってよちょこちゃん! 田ちゃん、行ってきます!」
一度振り向き手を振った。
たたっと駆けて行く斗詩の背を見送って、夕は何処か満たされたため息を一つ零した。
斗詩も平穏な時間には不可欠なのだと思えた。これなら、さらに明の心も解されていくだろう、とすら。
「……こんな時間が増えるなら、こんな家に出来るなら、この居場所も存外捨てたモノじゃない」
遠くを見れば土煙が上がっている。人の負の声が連鎖して耳に響くが、心は一筋たりとて落ち込まない。
「その為にあなた達の命を生贄に捧げよう。名前も知らない兵士達。
私には近しい人だけいればいい。私はあの人とは違うから、私達が幸せならそれでいい。奪われないように平穏は作るけど、それも全部私達の為」
声に出して言ってみれば、チクリ、と胸が痛んだ。
罪悪感の痛みなのか、それとももっと違うナニカなのか、夕には分からなかった。
見上げれば、空の曇りはまだ晴れない。薄い所もあるがやはり空は見えず、光は差し込んでいなかった。
†
一つの指示を出した。
斗詩の部隊とあたしの部隊、そして夕を守る精鋭部隊を残して陣容に間を開けた。
遊撃の型を取ってはいたけど、中央の縦列もこれで終わり。どうせ向こうは軍師が接敵される事を想定して、複雑な陣容を組んでいるだろう。
こっちには強力な突撃手段が全くないから無意味なのに。斗詩の引き連れる部隊は、騎馬がたった二百しか居ないのだから。
列を組んでいるだけで戦っていない兵士が見える。がら空きのその背中は、あたし達の事を信じて疑っていない。当然だ。誰が共に戦う味方の事を疑えるのか。
これからする事は通常ならば下策。それも人の道を外れた策。しかし曹操軍には有効な手段。兵力が違う現在の状況だけで使えるモノだ。
敵軍師にとって一番困る嫌がらせ。敵将にとって実力が試されるお遊び。敵兵にとっては……生き残る為だけに戦える原初の舞台。
――“頭で測れる戦の在り方にしない事”
夏侯淵だけはあたしが止める。曹操が居ない状況でこっちの兵士の士気も最低線は持ってるから、あっちの士気を落としつつ、指揮系統への混乱を齎さなければならない。
楽進と于禁には分からないだろう。練度の低い中途半端な兵士達が、如何に粗雑で、如何にめんどくさくて、如何に不可測な存在であるのか。
黄巾如きと同じにしないで貰おう。あんな下らないモノとは全く違う。
理不尽に晒されながらも敵を殺さんとする兵士達が、この場だけ生き残りたいと願う強い想いが、這いずって足掻いて苦しんで狂気に堕ちる彼らが……どれだけあたしのお腹を膨らませてくれることか。
身体が熱い。血が滾る。背筋に来るのは抑圧されていた情欲。自然と、笑いが込み上げてきた。
「ひひっ、此処からはあたしの居場所にしてあげる。生きたきゃ殺しな、命を輝かせな、脳髄の空腹を満たしな。ヒトゴロシの狂気は、生きてるって叫びたい本能は、殺されたくないって抵抗は、殺したいって怨嗟は……みぃんな須らく無くせないモノだからね♪ あたしみたいに大切なモノを心に決めてない限り、秋兄みたいにぶっ壊れてない限り♪」
誰に聞こえずとも言葉を並べた。
口が歪む。嬉しくて仕方ない。みんなみんな堕ちてしまえばいい。戦場は誰しもに平等で残酷なんだから。
「追い詰められたケモノは餓虎のように凶暴だ。ソレを作ろう」
片手を上げるだけで追加の指示を出せば、間隔を開けて一列に並んだ張コウ隊の空気が張りつめる。
「奴等はまだ戦わなくていいって安堵してる。その考えをぶち壊そう」
拳を握るだけで隊のバカ共が槍を身体の脇に寄せた。
「安穏と構えてる甘えん坊達に、死は何処にでも舞い降りるって教えてあげようっ」
声を荒げ、腕を前に着きだした。
整えられているはずの張コウ隊の列は大きく開いた隙間だらけ。彼らは前に歩いて行く。中央の一か所を残して、この広い戦場で各部隊の最後方を目指していた。
傍から見れば異様な光景。戦うでも無いただの行進。敵がいない場所で歩く彼らは滑稽で面白く見えるだろう。
気付いた兵が訝しげに眉を寄せていた。一人、また一人とその異常な行進に目を奪われていく。自分達に近付いてくる彼らに、意識を持って行かれる。
曹操軍は抜いてこない。それが分かってるからこそこんな事が出来る。受けを選んだ時点で正面での攻め合いしか見ていない敵は、あたし達に後手で対応せざるを得なくなる。
漸く、張コウ隊が兵達の近くに並び切った。これから何が始まるんだろう……そう考えているに違いない。否、そう思わない輩が、何処に居る?
――此処は戦場。何処にいても、あんた達に安息なんか無いんだよ。
「あはっ……叫べっ!」
後ろの兵が太鼓を鳴らした。一つだけのその音が、耳をよく澄ましていた張コウ隊全員の腰を落とさせる。
そうして彼らは、重苦しい叫びを重ね合わせた。
『死にたくなければ突撃せよ! 戦わないモノ須らく我らの敵なり!』
一斉に槍が突き出た。等間隔で為された鈍い金属があちこちで突き刺さる。日輪が輝いていたなら、さぞや綺麗な光景だっただろうに。
鮮血が幾多も噴き出した。断末魔の叫びがどれだけ上がったか分からない。並べた隊の全員が殺したなら、百五十。
張コウ隊を見ていた兵の唖然とした表情は恐怖に変わる。全員の声が聞こえていたはずだ。
――その命令に従えないのなら、どうなるかは分かったでしょ?
百五十の生贄を以って夕の策は為る。凝り固まった戦をぶち壊し、血みどろで汚い生死のハザマに早変わり。あたしの大好きな、苦しんで足掻いて生きたいと望む絶望の住処が現れる。
大きく息を吸った。騒ぎ出す前に、奴等の心に最後の楔を打ち込まなければならない。
「お前達に退路は無い! 生きたければ敵を殺せっ! 逃げれば殺す、歯向かっても殺す、一人十人殺せなければ、この紅揚羽が頸を刎ねる! 惰弱な兵士に、我が大鎌にて紅の羽を齎さん!」
背負っていた大鎌を手に取って、張コウ隊の列の隙間にぶん投げれば、逃げ出そうと動いていた一人の兵が真っ二つになった。
血が撒き散らされる様は蝶の羽が開くかのようにも、華が咲き誇るかのようにも見えた。
鎖に伝わる感触が心地いい。断末魔の悲鳴が耳に気持ち良さを与えてくれる。綺麗な綺麗な紅色に、うっとりと見惚れてしまいそう。
これで彼らの心の隅々にまで恐怖が行き届いた。
張コウ隊に向かって来るか……否。
散り散りに逃げ出すか……それもまた否。
逃げようとした兵が瞬く間に殺されれば、実力の違いとこちらの本気を理解して、限定された思考は怯えと抵抗と憎しみを芽生えさせる。
それは何処へ向かうか。敵を倒さなければ、彼らに生きる道はない。だから、彼らは味方を押しのけてでも敵に向かう。兵列を乱して最先端に繰り出す兵士達。混乱が助長され、狂気が噴出し、思考は死にたくない想いに引き摺られていく。
弱卒達は烏合の衆になった。擬似的な死兵でもあった。凶悪で粗雑なケモノとなった彼らは、敵を殺すという単純明快な目的の為に命を燃やし尽くす。
混乱しているように見えても向かってくるこちらの軍を見て敵はどう思う……曹操軍ならば当然、正道で抑えようとするだろう。
カチリ、と戦場の空気が変わった音がした。敗色では無く、勝ち気でも無く、混沌とした気味が悪い空気だった。あたしにとっては、ヒトゴロシの仕事で慣れた空気だった。
「いいねー、いい感じだよ? ひひっ、もっともっと狂えばいい。そうして生き残ったあんた達は……」
――あたしへの恐怖で縛られて、より強い兵に生まれ変われる。逃げ出して賊に堕ちる弱者達は、曹操軍が殺してくれる。
これは叩き上げ。戦場で絶対服従の精神を身に沁み込ませる為の、いわば洗礼。秋兄が徐州で新兵を強くしたように、あたしも此処で“練兵”をさせて貰おうか。
漸く戦場に笛の音が響いた。
わざと攻撃させずに開けていた真ん中の部隊に、斗詩が騎馬隊を引き連れて突撃を仕掛けていた。
予定通り、中央だけが真っ直ぐな戦に見えるように仕掛けられただろう。
楽進か、于禁か……どっちも釣れたら儲けモノ。味方を生贄に捧げて得た異質な戦場を掌握しきるには、どちらか一人では足りない。もちろん、夏侯淵はあたしが抑えに行かなければならないが。
見れば矢が止んでいた。さすがに夏侯淵のような将ならばこの戦場の空気に気付くだろう。
如何に速くあたしがあいつまで辿り着くか……それだけが問題。
夕は心配を欠片も浮かべずに待ってるだろう。後ろを振り返って、動かない田豊隊を見ればすぐ分かった。
――大丈夫♪ ちゃんとあたしはあなたを守る為に戦うから。例えどれだけの命を犠牲にしようと、ね。
兵から聞いたからやり方は知ってる。練度が足りなくてもそれくらいは出来る。あたしの部下達は……鼓舞なんかしなくても命令には従順なんだから。
――あの人がいつもしてた事があたしに出来ないなんて……有り得ない。
馬を進めて前を見た。混沌とした戦場が其処にあった。
より一層湧き立つ土煙は戦いの激しさを、断続的に上がる悲鳴は命が容易に散り去る嘆きを、歓喜と怒気を含んだ雄叫びは生きたいと叫ぶ願いを。
一定の戸惑い乱れる兵を残して乱戦となった場所に向けて、引き付けておいた大鎌を一度だけ薙いで指し示す。
「仕事だクズ共。あたしの為に、夕の為に。殺して殺して、血に塗れて死に腐れ。あたしにお前らが持つ命の輝きを喰わせろ。続けっ」
返答を待たずに馬を駆った。静かで冷たい彼らの声が背中を推した。疾駆する速度は全速力。味方だろうと敵だろうと関係ない。もう誰が味方かも分からない。
新兵達は不可測の動きをする第三勢力に等しい。烏合の衆の思考は、敵軍師には読むことなど出来はしない。
だから、あたし達がもっと……掻き乱してあげる。
「死にたい奴から前に出ろ! 紅揚羽、推し通るっ!」
部隊を引き連れつつも単騎掛けで道を切り拓く。黒麒麟がしてきたように、人を殺すだけしか出来ない暴力を、己が身を槍として突き刺すのだ。
敵も味方も、あたし達の道を塞いで動かない奴は皆……敵。
紅い紅い液体が、あたしの心を疼かせる。
絶望に落ち込んだ瞳が、あたしの胸を跳ねさせる。
血と汗と臓腑の匂いが、あたしの脳髄を溶かしていく。
これが世界の在り方だ。争い、奪い、奪われて……醜悪な現実はいつもいつでも変わらない。生きるか死ぬか。死んだらただのクソ袋。
でも、乱世の果てまで生き残れるなら……
――なんになるんだろ。
考えなければいい事なのに思い浮かんでしまうあたしは、もう昔には戻れない。
誰のせいだろう。猪々子のせいかもしれない。変わっちゃった夕のおかげかもしれない。でもきっと……あの人のせいでもある。
人を殺す快感が何処か足りなく感じた。
血に疼く自分の心がいつもより疼いていなかった。
嗜虐的な高揚はあるはずなのに、前までのように気持ちよい感じは小さい。
ただ、頭に夕の笑顔が思い出されたから、力が湧いてきた。
初めてかもしれない。戦で勝ちたいと思ったのは。
初めてなんだろう。本当の意味で夕の為に戦っているのは。
――どれだけ他人が死んでも構わないけど、あの子だけはあたしが守る。だから……
「にひっ♪ あんたには負けないよ、覇王の蒼弓っ!」
遠く、一人の将が馬の上。弓に矢を番えながら……あたしと同じ笑みを浮かべていた。
鷹の如き眼差しは鋭く、背筋に湧く気持ちいい殺気が思考を一つに絞っていく。
――あんたはやっぱり似てると思う。
放たれた矢は一度に三本。鎖を回すだけで叩き落として、同じ笑みを深めて向けてやった。
あいつに楽しいかと聞けば、きっと楽しいと答えるだろう。お互いに倒すだけで自分の大切なモノの為になるのだから、それが嬉しくないわけが無い。
視界は良好。敵兵の動きが若干引いたのは、夏侯淵なりの一騎打ちの合図か。
涼しげな顔で指を立て、ちょいちょいと二回動かしてきた。掛かって来いと笑っていた。やっぱりあんたは似てるよ、夏侯淵。
「あはっ♪ “あたし達の成りそこない”のくせに挑発とか……いいねー、乗ってきた♪」
接敵はまだ遠く。馬が邪魔で仕方ない。だから背に乗って、ぐ……と脚に力を込めた。
敵の兵士は槍で突いても来ずに、矢を打つ事すらして来ない。思いっ切り戦った上でねじ伏せたいと、彼女が伝えているのだ。
あたしもあんたもそんな柄じゃないのは分かってる。でも、譲れないモノってのがあるんだろう。この戦場で決めてしまわないと、誰かにあたしとの戦いを譲らざるを得ないから……そうでしょ?
あたしは夕の為に。あんたは覇王の為に。これをただそれだけの戦いにしたいのだ。
跳躍は曇天に向けて、羽を広げるように両の腕を広げた。
幾本もの矢が夏侯淵から連続して放たれた。空中に出た時点で効率重視の一騎打ちの始まり。そんなもんは分かり切っていた。
身体を回転させ、巻きつかせるように鎖を流して弾くだけでいい。この長さなら、届き得る。
分銅程度ではずらされるから、落下の速度を乗せて大鎌を投げつけた。避けきれない矢が肩を掠める。あいつの馬は、頸が綺麗に落ちた。倒れる前に飛び退き、引きつけの斬撃すら警戒してるとは恐れ入る。
着地同時に睨み合えば、あたしも彼女も、やっぱり同じ笑い方。
ゴクリと生唾を呑み込む音が鳴る。曹操軍の兵士達であっても、この手の見世物に目が無いのか。いや、きっと事前に命じてあるだけ。
「やっほー、久しぶりだね、夏侯淵」
「ああ、洛陽以来だな。健勝そうで何より」
「ひひっ、殺そうとしといてよく言う」
「くくっ、違いない」
ひらひらと手を振れば、にっこりとほほ笑んでくれた。口を引き裂けば、頬を吊り上げてくれた。
ふと、別の殺気を近くに感じた。兵のモノよりも大きくて、夏侯淵並には届かない。
周りの旗を確認したいけど出来ない。目線を逸らすのも侭ならない。この距離なら、それだけで命取りになる。
「……虎視眈々、ってわけ?」
「さあ、どうだろう?」
円形に切り取られたこの舞台はあたし達だけの場……では無いのか。それでいい。どうせ初めから、お綺麗な一騎打ちになんかならないのだから。
「兵が沢山死ぬよ?」
「我らは華琳様の為に」
「楽進と于禁も死んじゃうかもよ?」
「御元に勝利を捧げる為に」
「あんたも此処で死んでいいっての?」
「この身この魂は、我が主と共にある」
忠義の徒に思えるその発言は、狂信と言う名の猛毒だろうに。
「……乱世に華を、って感じだね」
「ははっ、なら私は華琳様の身体か。徐晃隊は声に出して証を示していたが、内に想いを秘めるのも良いモノだと思うがな。
しかし……私が死ぬだと? バカを言うな」
殺気が膨れ上がった。夏候惇のように荒ぶる奔流では無く、揺らめきながらも底が見えない河のような静かで深い威圧感。
「私は死なんよ。四肢を矢で貫かれた貴様が、華琳様の前で跪いて忠誠を誓うだけだ」
自信満々に言い放った。夕の事を知っているから、同じく手に入れると宣言しているわけだ。
桂花と鳳統が夕に勝てると思ってるらしい。外部でこそこそ動き回ってるようだけど、夕はそれさえ読み込み済み。何の為に七乃を幽州に置いたと思ってるのさ。
お前達はこっちが描く戦に乗せられている。曹操の不在も、幽州の動きも、皆あの子が見極めてる。あたしはただ従うだけでいい。
「ひひっ……あははははっ! あんなぺったんこに従うなんてお断りだね。
むしろあんた達が跪いたらいいよ。あー、ぺったんこだと胸が邪魔にならないから地べたに頭こすり付けるのも楽そうでいいじゃん? ふふっ、そうだねー、勝った暁にはぺったんこに際どい服着せて胸の残念さを街々に知らしめてやるってのはどうかな? ほら、王としても負けましたがそれより先に女として負けてますーってね♪」
目を細めた夏侯淵の喉が鳴る。あれは怒ってる奴の笑い方だ。
夏候惇もそうだけど、この姉妹は怒らせたら力が上がるらしい。妹は別かなと思っていたが……今はそれが知れただけでも収穫か。
「貫く矢の本数を倍にしてやろう。閨で鳴いて詫びるのは当然お前だろうがな」
「やん♪ まだ昼間なんだからそんな話やめてよねー。ふしだらは禁止ー」
すっ呆けてべーっと舌を出してやった。ふりふりと腰も振ってみた。出来るだけ軽く見えるように。
ため息を吐いた夏侯淵の空気が緩んだ……ように見えて全く緩まない。
――隙を作っても乗って来ないのは時間稼ぎ、か。楽進と于禁への信頼は高いなら……まーたあたしは時間制限付きってわけだ。
悲鳴と怒号が聞こえた。張コウ隊と夏侯淵隊がぶつかったんだろう。
目を細めた夏侯淵はあたしを見ているようで全体を見ている。弓が主体なだけに視野が広い。
「何処かお前の緩さはあいつに似ている気がするな」
「……秋兄の事?」
親しみが見えたからカマ掛けしてみるも、答えてはくれない。その眼に浮かんだ鋭さの中身が読み取れなくなった。
警戒も猜疑も疑念も含んだソレを抑え込む彼女は、やはり関靖と違って厄介だ。
「……磔にする理由が増えた。
そろそろやろうか、なぁ? 張コウよ」
瞳は歓喜が多大に含まれた色なのに、あたしに寒気を起こさせる程の重圧。
でも、頭の中は変に冷静で、
「ふーん、結局一対一とかしちゃうんだ」
いつものように心は冷えて、
「いいよ。“あんたは死んでも構わないらしいから”」
効率的に目の前の人を肉袋に帰る方策を練り始める。
「やろうよ夏侯淵。楽しく踊ろう」
夏侯淵が弓に矢を番えた。
あたしは大鎌を片手に鎖分銅を回転させる。
名乗りも無く、気合の声も無い。
似てるけど違うから、自分達が望む結果を求めて、あたしとこいつは戦うだけ。
大きな鉄球が視界の端で唸りを上げ、部隊の奴等に飛んで行った。それすら雑な情報として脳髄が処理していく。
深く息を吐いたのは同時。
口を引き裂いたのも同時。
動き出したのもまた同時。
赤と蒼のあたし達は、楽しい楽しい死の舞踏に脚を踏み入れた。
回顧録 ~レイメイノヒカリニ~
今度こそ上手く行く。そう確信出来る程に舞台を整えた。
前の時よりも絆をより強固に繋いだから。
何事もない日常に於いて皆の笑顔が増えたから。
潰れそうになっていた心も、彼女の笑顔の為なら頑張れたから。
ただ、一つの戦いで脳髄には澱みが湧いていた。
嘗て死なせてしまった人を助ける事が出来た。
嘗て生き残っていた人が死んでしまった。
ズレがあった。小さな小さな歪みだった。心の歯車がキシリと音を上げた。
あの時も取捨選択をしていた。自分には当然の事だった。
でも、顔も声も人となりも既に知っていたなら、こんなに違う。
男の妻が泣いていた。前の時には幸せが確かにあった人なのに絶望に堕ちていた。
男の子供が泣いていた。休日に楽しく街を散策していた姿はもう見られない。
失ったのは彼女達では無い。それでも、共に戦った人達だ。
嗚呼、これが自分の罪で罰だ。
全てを助けるなんて、出来る訳がないのだから。
一人誰にも話さずに、背負って行くしかないのだから。
弱い心は救いを求めていた。
じくじくと脳髄の端から黒く染められていくほど。
カノジョニハナシタラササエテクレル
否
カノジョナラチカラニナッテクレル
否
ソウスレバキットセカイヲカエラレル
断じて、否。
優しい彼女は、きっと自分を助ける為に手伝おうとするだろう。
そうして、彼女はまた、命を零してしまう。
それだけは絶対に出来なかった。
だから……
異物な自分は、死ぬまで嘘つきでいいと誓いを立てた。
ゴメンナサイ
ごめんなさい
助けられない人
選んでしまう人
許してくれとは言わないから
必ず世界を変えてみせるから
自分を憎んで怨んで欲しい。
でも世界は……
そんな誓いを嘲笑うかのように
何処までも残酷でしかなかった。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
延津前半はこんな感じです。
袁家を主として書きましたので次は曹操軍に重点を置いて後半。
ではまた
ページ上へ戻る