月下遊歩
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月下遊歩
「ほら、たまには外に出てみるのもいいだろ?」
「……」
9月8日。本日、中秋の名月がこの日本の秋空に輝くというので、俺と……俺の連れを一緒に引き連れて、少しばかり外の散歩をしようかと、このこの時期にしては珍しく底冷えする夜の11時も過ぎる頃に俺たちは家を出た。
月明かりに照らされスラッと伸びる大小二つの影が、細道に月影を受けて横たえる。
久しぶりに二人で外を出歩く、懐かしい感覚。自宅に背を向け、細い平坦な道を当て所もなく二人で連れ添って歩く、何でもない当たり前であるべき光景を、ここ何ヶ月ぶりに味わったことだろうか。
「ゆき、寒くないか?」
「……寒い。帰りたい。」
俺の袖を引っ掴んで、一向に離そうとしないゆき……引きこもりで、寂しがり屋な俺の連れ。俺の冬用の厚いコートを羽織って、首には襟巻きを巻きながら、俺の隣をとぼとぼとした足取りで歩く。
「まぁ、そうも言わないでくれよ。」
「……」
袖を手繰り寄せて、俺はゆきの手を掴んで自分の袖に引き込んで、寒くないようにとゆきの手を握りしめる。
無理やり連れてきたんだ。雪が寒いというのならば、俺が何とかしよう。
平坦な道はどこまでも続き、周りにはたわわに実をつけた稲穂が寒風に騒めく。月明かりが仄暗く照らす世界にぽつんぽつんと灯る、白熱灯の街燈の灯りに誘われるように歩く俺たちの、その頭上に輝くまん丸お月さんも、今日という特別な日を精いっぱい漫喫しているかのように爛々と輝いていた。
「見ろよゆき。あのまぁるいお月さんをさ。」
「……」
声をかけて、ゆきの手と繋がる俺の手をちょいと引くも、ゆきは顔を上げようともせずに、俯き加減でただ黙々と細道を行くだけである。空にぽっかりと浮かび、煌々と煌めくお月さんに、興味も湧かないのかとも思うのだが、どうにもそのようだった。
俺は一つ、小さく溜息をついた。
「いいお月さんなんだがなぁ。」
「……知ってるよ。」
「じゃあ、見ないのかい?」
「……」
ゆきは俺の質問に答えることもなく、黙りこくったまま。それからのゆきも無言のままで、俺の隣をただ俯いたまま歩き続けるだけだった。
んー……ゆきには困ったもんだな。
俺は横目の端に俯くゆきの姿を捉えて、そのままゆきの歩調に合わせて歩を進め行く。時おり街路灯の明滅する光に目を細めながら、素っ気ない態度をとっているようにも見えて、それでも強弱緩急をつけてきゅっと握ってきて離さないゆきの手を、俺もぎゅっと握り返して離さない。この道、果てのないような気すらしてくるなか、俺たち二人並んで歩き続ける。
ゆきなりに思うところがあるってんのはわかってるさ……。
ゆきが過去に負った心の傷跡がどれほど深いか、俺にはわからない。何年もの間、ずっと家に引き篭もって暮らし続けてこなければならなかった、その傷の深さは如何程のものなのか。
だが、それでもと。それでも、ゆきにはただ引き篭もっているだけの人生を歩んでもらいたくはないって、もうどれほど前からだろう。ずっと思ってたんだ。いくら過去にいざこざがあったからといって、ここで立ち止まっていてどうするというのか。前を見て、上を見て歩こうと、俺のこの口からゆきの面と向かって声を大にして諭してあげられたら、それほどいいか。俺の力でゆきを立ち直らせることができたならば、きっとそのときには俺も、ゆきの添い人として恥ずかしめもなくいられるだろうにと、もう幾年も前から思ってはいたんだ……。
「……なぁ、ゆき。」
「……ん。」
「もう少しだけ、先まで行こうか。」
「……」
無言は肯定か否定か。無言ではわからずとも、ゆきの小さな頭は小さく縦に揺れ、月明かりに照らされて仄白くぼんやりと染まる黒髪も、つられてさらっと靡いた。艶やかな髪が夜の空に舞い、月明かりを青白く映す。寒風にこの身が晒されていることすらも忘れそうなほどに雅な美しさを醸す、夜の刹那。思わずに見惚れ、それと同時に僅かながら寂しさを覚えた。
……なんとかせねばなるまいに。ゆきの意志がどうであれ、添い人としての俺の意志は変わらない。
つい先刻までは果てなき道と思えた道も、今や確固たる目的を胸に携えてみれば、終わりも見えてくる。果てしのない、果てある月下の道を行く。ゆきの襟巻きのたるみを整えて、しっかりと巻き直す。暖かかろうとゆきの手を握る俺の手ごと、羽織るコートのポケットに引き入れてつつ、そっと視線をゆきに合わせれば、頬に朱を滲ませ、俯くその顔に張り付く表情は変わらねども、なるほど。可愛らしいじゃないか。
「ゆき、顔が赤いぞ。」
「……うっさい。」
小さくつぶやくと、紅潮した頬を背けた。
月下の遊歩道は、街燈の明かり灯らぬ場所でも仄かに明るい。道行くに不足ない明るさを注ぐ中秋の名月は、幾度と顔を擡げども飽き足りぬほどにその美しさを見せつけ、ここぞとばかりに煌めき、俺の心を魅了する。一つ足を休め、拝みたくもなる。
田園地帯を両側に、田舎の農道とでもいうべきか月下の遊歩道。その道を行く俺と、連れ立った一人の引き篭もりは、ようやっと目的となる場所をこの目に捉えた。
「あそこまでだ。がんばれよ、ゆき。」
「……ん。」
玄関の引き戸を閉めてどれほどの時間が過ぎたか。小一時間も歩いたようにも、十分ほども歩いていないようにも感じる。眼前に広がる小高い土手は、月光照らす小高く茂る草木に覆われて、秋夜の寒風に揺れ動く。土手の上に一本、力強く伸びる太木は桜か。葉も風に散り散り、枝葉しなる桜のその荘厳な姿は、遠く離れた俺たちが行く農道からでも、その溢れんばかりの荘厳さを肌から目から耳から感じる。
「……」
相も変わらずにゆきは俯いたままに前を見ようともしないが、でもまあ今は良い。
俺はゆきの手を引き、足早に月下の遊歩道を駆けた。
風が頬を撫ぜる。左の腕が、寒風を切る。鼻腔を突く、冷えた空気は突き刺すような痛みを添える。どれもそれもみな、秋の訪れ。秋の風情を肌で感じる。情緒を駆り立てる。
寒風切るのが左の手ならば、俺とゆきとを繋ぐのはもう一方の右の手。後れをとるゆきの手を、しっかり握って離すまいと俺の手に力が入る。しっとりと汗ばんだゆきの手と俺の手。この時期、既に夜は冷えるが、ゆきのおかげで冷えぬ身も心もまた、俺の情緒を駆り立てた。
本当にいいものじゃないか、こういうのも。なぁ、ゆきよ。
「っと。」
俺が駆けるのを止めた、土手の一歩手前。月明かりに仄暗く浮かび上がる土手は、長い長い道のりの、ようやく折り返し地点と言ったところか。それとも、ひどく長い道のりを出立始める場所となれるか……。
「し、しき……はやい。」
息を切らせ、手を膝につき息を整えるその姿はさながら、病弱な少女のそれであるが、疲労困憊な様子のゆき。俺は肩に手を乗せた。
「大丈夫か?」
「……う、ん。」
酷く苦しそうに肩を上下に揺らせて、深く深呼吸を繰り返すゆき。大分きつそうではあるがしかし、ここまで来たならば休息を今とろうが一分遅れようが同じもんだ。むしろ良い景色を拝みながら、溜まった疲労を吹っ飛ばした方が両得ってもんじゃないか。
「さぁ、ゆき。あと、ここを登りきるだけだぞ。」
「……え。」
「さ、走れ!」
ほとんど休む間も与えずに有無も言わさず、俺はゆきの手をぐっと引き寄せては、急勾配の土手を一目散に駆けた。夜露に濡れる草を掻き分けては進み、俺のあとをひーひー言いながら必死についてくるゆきのためにと、道を開く。背の高い若草は、いざ行かんとする俺たちの行く手を阻むが、そんなもので阻みきれるものか。
「……」
「はぁ……はぁ……」
大分苦しそうに、大きく息を吸っては吐くゆき。夢中に駆けたせいもあってか、場所はいつの間にやら土手の上。登り切った俺と、無理やり俺に引っ張られて登らされたゆきの二者が、ようやく土手の上へと立つ。俺の横で肩をひどく揺らし、膝に手をつき、乱れた呼吸に苦しむゆきの様子を尻目に、俺は目の前に広がる美しき素晴らしき眺望へと想いを巡らせた。
「……」
そして、俺はゆきと手を別つ。
「……し、しき?」
「ゆき。こっち。」
俺は土手を少しだけ下り、比較的登り来るときよりかはなだらかな斜面に雄々しく茂る若草の絨毯の上へと、躊躇もなく寝転がった。夜露がコートを濡らし、湿り気が背中へと伝うが、そんなことはどうでもいい。そんな気分だ。
「……しき、汚れるよ?」
「いやいや、そんなことは気にならんさ。」
「?」
不思議そうな顔を浮かべるゆきに向かって、俺はちょいちょいと手招きをする。
「え?」
「ゆきも。」
「……」
未だに乱れた呼吸を整えていたゆきのその表情が、徐々にだが引き攣った。
俺は若草の絨毯の、俺の背中を押し返さんとする弾力をこの背に楽しみながら、ゆきに視線を向けた。逆さに映るゆきの引き攣った表情と、どことなく寂しそうな様子を視界に収めつつ、手招きは止めない。
「……汚れちゃう。」
「来てみなって、ここいい景色なんだぞ?」
「……」
そうは言ってみても、やっぱりゆきはどことなく乗り気ではないらしく、その場でもじもじとしながら両手を両腿の間辺りで通わせていた。
しかたないな……。
「っこらせっと。」
俺は気合の掛け声を一つ、若草に片手を突き、力強く立ち上がった。そのままもと来た斜面をゆっくりと登り上がり、斜面上でもじもじとこちらへ来たそうに、でも今までの他人とも自然と言う自然とも触れあうことがなかった生活からの躊躇もあったのだろう。来たくても来ることができないでいた、ゆきの後ろに立った。
確かに、服が汚れるのは嫌だってことも理由の一つだろうけれど。そんなこと些細なことだろうよ。
「……」
今まで……俺は雪に少し、優しくし過ぎていたのかもしれない。
「……しき?」
「待ってて。」
ぽんっとゆきの頭に手を乗せて、一つ。二つと撫でた。俺は左手をそのまま真っ直ぐに立つ、ゆきの膝裏にかけて。もう一方右手は同時に、背中から右肩にかけて這わせるように支える。そのまま一気に俺は左手に力を込めて、ゆきの足をはらうように持ち上げれば、ゆきの身体は軽々と浮いて、俺の腕と胸元にすっぽりと収まった。
「……え?」
「ゆき、軽いね。」
ボーっとしたゆきの目は徐々に見開き、月明かりにさらされた頬は仄暗くてもわかるほどに赤みを帯びていった。
ゆきを横抱きするのも久しぶりか。俗に言うところのお姫様抱っこってやつだ。
ゆきの身体を両手と胸元で支えながら、ゆきの暖かさを身体で感じる。ゆきの長い髪が風に舞い、俺の手元に掛かる感覚がくすぐたい。
「し、しきっ、おろしてっ……」
「んー、そこまで行ったらな。」
俺は体を強張らせたまま微動だにしないゆきを抱きかかえたまま、寒風に騒めく若草を踏みしめて、先ほどまで俺が身体全体を寝そべらせて休めていた辺りまで歩を進める。
さすれば見えてくる、眼下に広がる、どこまでも広大な平原地帯に生い茂る若草に、青々とした壮年迎えの逞しい草。月明かりに仄暗く光を放つは、コスモスの鮮やかな色彩か。芒の黄金色に熟した穂もまた、この秋空にぽっかり浮かぶ名月の仄かな灯りをその身に受けて、秋風にその身を揺らしていた。
どこまでも広がる広大な平原。遥か先に見えるは既に雪を被った連山と、山頂から麓まで生え伸びる、これまた広大な山林。幾つも見える山頂のなんと素直な形か。全ての山々は連なれど、一つ一つの山は綺麗に山と呼ぶにふさわしい形をしている。全ては月下に、全てが仄暗く青白く光を返し、その様はなんとも雄大で雅で、日本の美を彷彿とさせた。
流石に、この眺望はゆきの心を射止めたか、ゆきも俺の腕のなかですっかりこの景色に魅了されているようだった。
「どうだゆき。良い眺望だろう。」
「……うん。」
土手の傾斜に生い茂る、草原の端に居る俺とゆき。しばらくは眼下の光景を楽しんでいたけれども、俺は若草の絨毯の上へとそっと、ゆきを落とさないように腰を下ろした。同時にゆきを、胡坐を掻いた俺の股上へと座らせる。
「……ん。」
股上にすぽっと収まる。その後ろから、肩越しに両の腕をまわして、ゆきの胸元で交差させてぐっと引き寄せた。俺の胸元から首元辺りにぽすっと加わる、僅かな重みと温もり。それだけで、不思議と寒さは感じなかった。
「……しき。」
「ほら。」
俺が夜の秋空を指さす。ゆきもつられたように俺の指を追って空を見上げた。俺と一緒に空を見上げては、名月へと視線を通わせるゆき。前を見て、空を見上げる。
……ようやくだ。
「どうだ、今宵の月は美しかろう。」
「……」
時おり流れ来る雲の間を縫い縫い顔を覗かせる、中秋の名月の名に相応しい、今宵の満ち月。昨日のそれよりも一回りも二回りも大きく映るのは、今宵の雰囲気のせいか。それとも、本当に大きくなってしまったのか。青白く光り輝く名月は、眩しいくらいに俺とゆきの瞳にその姿を映し、叢雲すらも透かし、月影を散らす。
月に叢雲、花に風とはまさに、今の眼前に広がる光景にこそ言える言葉ではないか。
「……月、綺麗。」
「……ようやく、前を見てくれたな。」
「え?」
少々、驚いたような口調で俺の方へと疑問符を投げかけてくるゆきに、俺は胸元で交えていた右手を解き、ゆきの髪へと通した。黒くて長くて、強めな風に吹かれてもさらさらと下へ架かる髪を、一度となく何度も梳き通す。しばらく俺の方へと顔を向けようとしていたゆきも、やがて前へと顔を戻して再び、夜の空へと頭を擡げた。
月下に晒された黒い髪に映す、蒼然たる月影。髪に手を通しながら、左手は変わらずゆきの身体を引き寄せて、望月を見た。
「……こういうのも、いいね。」
「……」
ぽつりとゆきが漏らした、その一言。心が跳ね上がり、ゆきの身体を支える俺の手に力が篭る。目の前の少女を想う愛しさが込み上げては、溢れんばかりに心を満たす。思わず、顔をゆきの髪に埋め、きつく抱き寄せる。
「し、しき……?」
ゆきの……その一言が、俺にどれほどの悦楽をもたらしたかわからない。ただ、嬉しかった。だから、不思議と言葉が溢れてきたのかもしれない。
「……月、綺麗だな。」
顔をゆきの髪に埋めながら、俺もぽつりと自然に言葉を漏らした。ゆきが手を添わせる、ゆきを胸元で支える俺の手。触れた手が、俺の手に沿って添った。
「……うん、ありがと。」
落ち着いた声で、ゆきはそう言葉を紡いだ……。
………
……
…
帰路につく、俺とゆき。来た時と全く同じ道を月下の下、歩を進める。まだ俯き加減でいることが多いゆきも、時おり顔を上げて周りの景色に目を向けたり、望月を眺めるように顔を擡げることができるようになっていた。その折節のこと。
「んー……」
「ゆき、どうした?」
小さな口元に左人指し指を当てて、考えるように空を見据えては唸るゆき。右手は、俺の左手と一本棒だ。
「……ん。ちょっと、ね。」
「?」
ゆきはどことなく言いづらそうに俺をちらちらと視線だけ交わしながら、もじもじとしている。でも特に催促はせずに、ゆきの次の言葉を、ゆきの目をしっかりと見据えながら待つ。幾度か、ゆきが視線を迷わせていたが、しばらくの逡巡の末、ようやっと俺の方をしっかりと見据えた。
「……今日さ。一杯、やろ?」
「え?」
「月みながら、一杯……」
消え入るような声が俺の鼓膜を震わせたかと思うとすぐにゆきは顔を伏せて、俺の手を引きながら自ら先を進み始めた。
「……」
今までのゆきからは想像もつかん一言が漏れ出したと思えば、ゆき自ら俺の手を引いて帰路を先行くその姿に、俺は自然と口元に笑みが浮かんでくる。笑いすらもこみ上げてくる。
……これはどうも、隠し通すにも隠し通せなさそうだ。
「……しき。」
「ん?ああ、もちろんいいとも。」
俺はゆきに手を引かれるがままに、帰路を……ゆきの後に続いて辿る。
「んじゃ、早く帰ろうか。」
「……ん。」
ゆきは嬉しそうに。そして、擡げた頭には頭上の名月を映す黒髪が靡き、喜を醸す瞳に映るも見事な望月で……。周りで騒めく柿木も、芒野も、一軒の藁屋根も、遊歩道も、みながみな望月の月桂に飾られて、ゆきと俺の行路を尻押ししてくれているかのようでもいて……。
少しづつでもいいさ。前に進んでくれるなら。
俺は……ゆきに連れられて、日も変わった10月10日の夜の田舎道を、月下の下で月影を頼りに……手を引かれるゆきの後姿を頼りに、俺は今宵の大吟醸はさぞかし美酒であろうなと、心に仄かに灯る暖かな灯火を確かに感じながら、中秋の名月の下で、ゆったりと月下遊歩を楽しむのであった……。
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