カサンドラ
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第九章
第九章
真夜中だった。突如木馬の腹が開きそこからギリシアの兵達が雪崩れ出た。彼等は瞬く間に木馬の周りで酔い潰れている者達を切り次に城門を開けた。そこから待ち構えていたギリシア軍が雪崩れ込みトロイアを瞬く間に陥落させてしまった。
「ギリシア軍だ!」
「ギリシア軍が来たぞ!」
兵達が慌てて叫ぶ。しかしその彼等からまず殺され城内は阿鼻叫喚になっていく。
パリスが討たれ王も王妃も宮殿の中で炎に包まれる。その炎が誰によるものかはわからない。
市民達は血に酔うギリシアの兵達に襲われる。しかしその彼等の前にある男が姿を現わした。
「この者達はやらせぬ!」
ヘクトールだった。彼は己の危惧が当たってしまったことに歯噛みしながらもそれでも武器を手に己の部下達を率いギリシア軍を防いだ。そうして門の一つを護りそこからトロイアの者達を逃がした。
「逃げろ!そこから逃げろ!」
「ヘクトール様!」
その彼に一人の若い将軍が声をかける。
「ギリシア軍は宮殿を焼いています!」
「父上は如何された!?」
「・・・・・・・・・」
将軍は無念の顔で首を横に振るだけだった。それが何よりも意思表示だった。
「おそらくは」
「そうか。では母上も」
「パリス様は討たれました」
彼は次にパリスのことを述べた。
「見事なお最期でした」
「そうか。ならばよい」
「パリス様、ここは私が」
将軍は続けてこう名乗り出た。
「ですからお早く。お逃げ下さい」
「いや、私は最後にする」
しかしヘクトールはこう言って彼の申し出を退けた。
「最後の最後まで。ここを護る」
「トロイアの者達をですか」
「そうだ。アイアネアース」
ヘクトールは彼の名を呼んだ。
「そなたはここから脱出したトロイアの者達を集めよ」
「私がですか」
「今それができるのはそなたしかおらぬ」
だからだというのである。
「だからだ。わかったな」
「ヘクトール様・・・・・・」
「トロイアは敗れた」
ヘクトールの目の前では業火に燃え盛る宮殿とトロイアの街がある。人々は逃げ惑い泣き叫びギリシアの兵士達の雄叫びが夜の闇の中に聞こえ煙の中で人々が彼等の剣に倒れていく。それを防ごうとするトロイアの兵士達もその中に飲まれ次々と倒れていく。敗北は明らかだった。
「だが生き残る。何があろうともな」
「だからですか」
「そうだ。だからこそだ」
あらためてアイアネアースに顔を向ける。顔の半分が業火の輝きを受けて赤くなっている。そしてもう半分は夜の闇で暗く。人ツの顔でありながら二つの色に彩られていた。
「そなたが行け。いいな」
「わかりました。それではまた」
「然る場所で落ち合おう」
今はこう言うだけであった。
「よいな」
「はっ」
ヘクトールの言葉に対して頷きそのままそこから姿を消すアイアネアースだった。ヘクトールは剣を手に戦いギリシアの兵達を寄せ付けない。そうしてトロイアの者達を少しでも多く逃がすのだった。目の前に天にまで届かんばかりの紅蓮の炎を見ながら。祖国を焼き尽くさんとするその炎を。
カサンドラはイオラトステスと共にトロイアの中を逃げ惑っていた。その間多くのギリシアの兵達に襲われたがその度にイオラトステスの剣が煌き彼等を退ける。そうして遂にトロイアの城壁のところにまで来た。
「ここからです」
「ここから?」
「そうです。ここから飛び降りれば助かります」
イオラトステスは必死に駆けながら後ろにいるカサンドラに対して声をかけた。右手に血塗られた剣を持ち左手で彼女の手を掴んでいる。何としても離すまいとこれ以上になく強く握っている。
「ですから」
「けれどトロイアの高い城壁は」
「御安心下さい」
彼は言うのだった。
「その場所は下は川になっていますから」
「川!?ではあそこですね」
「そうです。あそこです」
トロイアの者ならばこれでわかることだった。街のすぐ側を流れているその川なのだ。トロイアの者達の水瓶にもなっていた川だ。
「あそこなら飛び降りても」
「それでは。今から」
「はい、もうすぐです」
また答えるイオラトステスだった。
「ですから。宜しいですね」
「ええ。それでは」
カサンドラもまた必死に駆けながらイオラトステスの言葉に頷く。しかしだった。
前と後ろからギリシアの兵達が現われた。あともう少しというところで。
「待て!」
「降伏せよ!」
彼等は口々に叫びながら二人に迫る。その手に持っている剣や槍は城を焦がす炎により朱に映し出されている。身に着けている鎧や兜も真っ赤になっている。
「そうすれば命は取らぬ」
「だが」
「イオラトステス・・・・・・」
カサンドラは彼等が自分達に迫るのを見て顔を蒼白にさせた。ここまで来て、そうした思いもあり絶望に心を支配させていった。
「もう。これで」
「いえ、ご案じなさいますな」
しかしここでイオラトステスはこう言うのであった。
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