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カサンドラ

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第八章


第八章

「よし。ではギリシアから多くの土地と貢物を差し出させ」
「はい」
「それで講和としよう。すぐにギリシア側に告げよ」
「わかりました」
 こうしてトロイアはギリシアに講和、それも彼等にとってかなり有利な条件を提示したうえでのものを提案した。その中にはヘレネをトロイアの者とする条件もありギリシアにとっては甚だ屈辱的なものであった。しかしそれでもギリシア側はその講和を無条件で受け入れたのであった。
「おかしいな」
 最初にこれを妙だと思ったのはヘクトールだった。
「あのプライドの高いヘレネスがあの条件を全て受け入れるとは」
「確かに」
「それは」
 彼の側近達も同じ様にいぶかしんだ。
「それも戦争の元のヘレネ殿までこちらに引き渡すなぞ」
「あまりにも妙です」
「私もそれはないと思っていた」
 ヘクトールがこの講和をいぶかしむ理由はそこにあった。
「だが。それでもだ」
「はい」
「彼等は首を横に振りました」
 側近達は口々に言う。
「何かあるのでしょうか」
「ギリシアに」
「そうなのかもな」
 ヘクトールもまたカサンドラの予言を信じてはいない。だが彼はそれとはまた別の、彼自身の持つ聡明さでそれを察していた。そうしてここで言うのだった。
「とりあえずはだ」
「どうされますか?」
「民達はできるだけすぐに街から避難できるようにしておけ」
「街からですか」
「このトロイアからだ」
 こう言うのである。
「よいな。それで」
「何かあった時の為ですね」
「アキレウスは倒れた」
 ギリシア側にとっては痛恨の出来事であり今トロイア側が強気に出られるようになっている根拠だった。しかしヘクトールはそれに楽観していなかったのだ。
「まずはな」
「確かに」
「しかしギリシア側にはまだ多くの英雄がいる」
「そういうことですね」
「英雄だけではない」
 彼はこうも側近達に告げた。
「神々もだ」
「神々も」
「ヘラ神とアテナ神がまずあちらにおられる」
 パリスに選ばれなかった二柱の女神達だ。まず彼等がギリシア側にいるのである。
「そしてゼウス神やポセイドン神もな」
「あの普段は仲の悪い御二人までもが」
 ゼウスとポセイドン、それにハーデスは兄弟でありそれぞれ天界、海界、冥界を治めている。オリンポスの神々とはゼウスが治める天界の神々であると言ってもいい。それに対して後の二人はそれぞれ別の世界の主神なのだ。そういった事情があり三柱の神々の仲は決して良好とは言えないものがあるのだ。それは彼等もよく知っていることであった。
「それに馬だったな」
「はい、馬です」
「馬はポセイドン神のものだ」
 ポセイドンは海だけではなく馬の神でもあるのだ。
「余計に気になる。ここは」
「やはり油断は禁物ですか」
「我等だけでも備えを解くな」
 ヘクトールは側近達に告げた。
「いざという時にはだ。よいな」
「はっ、それでは」
「そのように」
「そういうことだ。それではな」
「わかりました」
 こうしてヘクトールの側近達と兵達は危急に備えることにした。トロイアとギリシアの講和は滞りなく結ばれギリシア側からまず多くの貢物を贈ることになった。その中にこれ以上はないという程の大きな木馬があるのを見てカサンドラはその整った顔を蒼白にさせた。
「やはり・・・・・・木馬が」
「仰る通りですね」
 しかし彼女の横でこう言う者がいた。
「カサンドラ様の」
「えっ!?」
「カサンドラの仰る通りですね。やはり」
「貴方は確か」
 その若い士官の顔には見覚えがあった。あの時ヘクトールとアキレウスの一騎打ちではなくパリスがすべきと進言したあの士官だ。その名は。
「イオラトステスです」
 謹んで礼を述べたうえでの言葉だった。
「以後お見知りおきを」
「イオラトステスですね」
「はい、そうです」
「わかりました。それで」
 カサンドラはあらためて彼に声をかけた。
「貴方はあの木馬をどう思われますか?」
「カサンドラ様と同じです」
 木馬を見上げながら答えるイオラトステスだった。
「やはりあの木馬は」
「そうですか。貴方は」
「私は。信じます」
 彼の方から言ってきた。
「カサンドラ様の御言葉を」
「えっ!?」
「信じています」
 こう言うのである。
「貴女の予言を。必ず当たるのだと」
「貴方は・・・・・・まさか」
 ここに来てようやく出会えたことがわかった。彼こそはこの世でただ一人自分の予言を信じてくれる者だったのだ。それはトロイアにいたのだ。カサンドラは今このことを知り喜びを感じずにはいられなかった。
 しかしであった。もう木馬はトロイアの中に入ってしまっている。皆それを貢物だと思い早速宴の用意をはじめている。危機は目前に迫っていた。
「けれど・・・・・・もう」
「既に私の兵達は持ち場に着かせています」
 だがここでイオラトステスはこう彼女に話したのだった。
「何が起ころうとも。御安心下さい」
「何が起ころうともですか」
「そうです。せめてトロイアの者達だけは」
 強い声での言葉だった。
「救いましょう。何があっても」
「・・・・・・はい」
 少しだけ明るい顔で頷くことができた。最早トロイアの滅亡は避けられないことはわかっていた。だがそれでもトロイアの者達だけは。彼女はそこに希望を見出せるようになっていたのだ。
 
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