夫婦蕎麦
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
4部分:第四章
第四章
そこに箪笥が一つあってちゃぶ台が部屋の真ん中にある。そして小さなテレビが一つ。このテレビもやっと買った家の宝物である。なお白黒である。
「俺の蕎麦が完璧でねえ?言ってくれるな」
「そういえばそんなこと言ってたわね」
和栄は夫のその言葉を聞いて述べた。
「確か」
「俺の蕎麦が完璧じゃねえだと」
とにかくその言葉が腹に立って仕方がないのだった。
「言ってくれるな、あの野郎」
「けれど美味しいっていうのは言ってたのよね」
「ああ」
それもはっきり聞いていた。だから確かに頭にきているがそれは極限まで高まってはいなかった。流石にまずいと言われてはこれに留まらなかった。
「それはよ。言ってたけれどよ」
「けれど完璧じゃないって」
そのことが和栄には不思議でならなかったのだ。
「どういうことかしら」
「わかるかよ。しかし俺の蕎麦の何処がいけねえんだ?」
彼にはどうしてもわからないことだった。
「俺の蕎麦の何処がよ」
「考えてみればおかしいわよね」
「おかしいなんてもんじゃねえよ」
まだ怒りながら話す。
「ったくよ。何が何だかよ」
「まああんた落ち着いて」
とりあえず夫を落ち着かせることにした。そうでなくては話にならないからだ。
「落ち着いてお茶でも飲んで」
「おうよ」
女房が差し出したそのお茶を飲む。熱いお茶を少しずつ飲んでいるうちに気持が少しばかり落ち着いてきて。そのうえでまた話すのだった。
「それにしても妙だな」
「妙だなって?」
「いやよ、俺の蕎麦って言ったんだよ」
彼は今度はこのことを女房に話した。
「俺のってな。何かそこに妙に引っ掛かる感じでな」
「言ってたんだね」
「そうだよ。そこが気になるな」
いぶかしむ顔でまた女房に述べた。
「一体何だってんだ?俺の蕎麦の何処が悪いんだ?」
「そうだよね。蕎麦はあんたが作って」
「おうよ」
「後片付けは私がする」
今度はこのことを話すのだった。
「後片付けはね。それがうちの店だよね」
「おうよ、俺が蕎麦を作っておめえが片付けやら掃除やらする」
忠義もそれについて言う。
「それがうちの店の仕事だよな」
「そうだよね。役割を分担してね」
「それで俺の蕎麦なんだよ」
彼の誇りでもあることだ。
「俺のな。けれどそれが駄目なのか?」
「駄目じゃないと思うけれど」
「だよな。けれどあいつそれで何であんなこと言ったんだ?」
考えれば考える程わからない話だった。忠義にとっても和栄にとっても。
「あの客は。俺の蕎麦じゃ駄目なのかよ」
「駄目じゃないと思うけれどね」
「だよな。まああいつ今度も来るって言ってたよな」
「ええ」
「その時また勝負だ」
目の光を強くさせて言う。彼は客と勝負をする蕎麦屋である。今それをはっきりと見せてこれからのことに思いを馳せるのだった。
それから暫くはあの客の姿も見えず二人は普通に屋台をやっていた。だが蕎麦の評判を聞いてか客が増えてきて。前にも増して忙しくなっていた。
「あんた、ざる一丁だって」
「おうよ」
注文を受けた和栄の言葉を受けながら蕎麦を作っていく。
「今度はかけだよ」
「わかってるぜ」
応えながら素早くかつ見事な動きで蕎麦を作っていく。あまりにも忙しいので注文は和栄が受けている。そしてつゆやだしを入れるのも彼女がやっていた。
「薬味を入れるのはこれでいいよね」
「おうよ、そうだよ」
かけに入れられている葱を覗いて答える。
「それだけ入れればいいぜ」
「あいよ、じゃあ出すね」
「葱は少ないと駄目なんだよ」
彼はこう女房に告げた。
「少ないとな。けれど多過ぎても駄目なんだよ」
「蕎麦を生かす為にだよね」
「そうだよ、その通りだよ」
女房の言葉に頷いてみせる。
「蕎麦は生き物だからな。加減が大事なんだよ」
「わかったよ。それじゃあ」
「しかしおめえよ」
あらためてその蕎麦を見ながらまた言う。口を動かしているが手も動かし続けている。
ページ上へ戻る