「冥王来訪」の感想


 
コメント
>支那も一応仏教はかなり早くに来て、本来ならば山のような漢訳仏典と大乗仏教と禅宗の文化があるはずですが、騎馬民族王朝じゃない時は不思議と衰退していますからね……

《劉仲敬訪談 045》:"比如說佛教傳播,那是在南北朝時代。我現在發現,所有的中文學者全都在胡說八道,因爲這裏面的根本問題就不在教義方面。根本的問題就是在於,佛教寺廟就是當時的上海灘的英國人,他們有治外法權。你建一個寺,就有一份治外法權。這就無怪乎南北朝的時候出現了嚴重的戶口問題,大量的戶口流失了。不用問也知道,做官府的編戶齊民是各種吃虧,投充到寺院裏面去是各種占便宜。其實這種事情在日本也有,日本的封建性寺廟是管戶籍、管教育的,所以日本寺廟的僧兵跟朝廷經常打仗,使天皇不斷地發出嘆息,說南都北嶺的僧兵是天下的三絕之一,總之是讓他十分頭疼。當時南北朝時期的寺院就是這樣的,而且這也是蹭了洋大人的福。當時,祆教(拜火教)的寺廟、佛教的寺廟、婆羅門教的寺廟,當然還有比較少的東方基督教派的寺廟,在漢魏帝國和南朝建康流亡政權的眼中是分不清楚的,感覺好像他們都是波斯人,總之都是洋大人,也就是不大能管也不大敢管的那種角色,於是他們的勢力就是這樣壯大起來的。這樣做的結果就導致了三武滅法。三武滅法不是反對宗教本身,而是我不高興我的壯丁和人口被你控制了。你只要把壯丁和人口交出來,其實你念什麽經我們是根本不管的。以後寺院的治外法權就在不斷削弱之中,但是凡是沾點洋教邊的人好像都還是稍微占一點便宜,只是便宜越來越少了。"

また、劉仲敬氏は、織田信長が比叡山寺院を排除しようとした理由は、比叡山寺院が悠久な伝統を持つ勢力でありますから、織田信長の統治に不利だったためであると述べました。織田信長は比叡山寺院の僧侶たちが戒律を破ることを責めるといえば、共産主義屋が資本主義の腐敗を非難することとあまり変わりません。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>三武滅佛
恥ずかしながら三武一宗の法難は知りませんでしたね。
ただ會昌毀佛(会昌の廃仏)に関しては、10年以上前に行われた高野山開山1200年記念の展覧会で、事件に遭遇した慈覚大師・円仁の持ち帰ったとされる仏像や経典を目にしたことは覚えています。

>織田信長が比叡山寺院を排除しようとした
これは、3度目なんですよね。
織田信長の前に、室町幕府6代将軍足利義教と室町幕府管領の細川政元の比叡山攻めが行われています。
足利義教は、元々は義圓という法名で、門跡(皇族や足利将軍家の関係者が務める特定の寺院の住職の事)の一つであった天台座主の地位についていました。
その後、室町幕府の後継者指名によって還俗した人物で、比叡山の問題点を誰よりも知っていた人物でした。
2度目は、管領の細川政元による比叡山攻めで、これは室町幕府内部の政争に比叡山が力を貸したことが原因で、比叡山が焼かれました。
三度目の信長の比叡山攻めの時には、再建されていたとは思いますが、今では信長よりも足利義教の比叡山攻めの方が壮絶だったという説があるほどです。