「冥王来訪」の感想


 
コメント
>また会津藩は北海道の土地をプロイセンに譲渡しようとしましたが、未遂で終わりました。

もしこの譲渡が成功すれば、アイヌ人についてはいいことかもしれません。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>アイヌ人についてはいいことかもしれません。
国内外にアイヌについて誤解があるのは否定しません。
親ソ、親露的な立場から、日本とアイヌの関係が邪険であったカノ嘘宣伝がなされ、アイヌ独立論がまことしやかに海外で流布されていますが、アイヌ自身が和人との同化を望んでいた面もあります。

 アイヌ民族の起源は定かではなく、13世紀ころに蒙古の領土拡大を受け、今の沿海州から樺太、北海道に移住してきた勢力です。
当時の樺太にはすでに日本人が多数進出していましたし、北海道にはすでに奈良時代の際に朝廷の役所がありました。
 平安前期以降の朝廷の衰微によって、その存在は発掘調査まで忘れられたものでした。
ただ鎌倉幕府や室町幕府は蝦夷地を流刑地として利用していました。

 アイヌが日本の文献に出てくるのは14世紀、室町時代になってからです。
既に多数の和人が居留しており、津軽の安東氏が道南を収めていました。
15世紀になると下北半島から蠣崎氏(かきざきし)、後の松前氏が移住してきて、勢力を拡大し、樺太まで影響力を持ちます。

 何度か和人と抗争を続けてきたアイヌ人ですが、製鉄技術を持たなかったのと、部族間の抗争が激しかったので、その数は減りました。
 また酋長制を取っており、その酋長がアイヌ人の娘を10人や20人妻に迎えるので、若い男性が結婚できないという問題もありました。
 あと遺伝学調査からかなりのアイヌ人が梅毒に感染していたことも大きいでしょう。
梅毒は、母体を通じて胎児に感染すれば、不妊や疾患の原因になり、重篤な内臓疾患や知的退行を残しました。

もっともペニシリンが発明されるまで、梅毒は全世界で猛威を振るっていましたから、仕方ない面があります。

 あと現代のアイヌ人は遺伝子を調査すると、日本人と変わりません。
それは養子縁組や通婚で、日本人の血を多く受け入れたためです。
明治後期までは、アイヌ人の間でもいかに多くの和人の血を入れたかを自慢したと言います。
子供があっても、日本人から男児を養子にもらうことがあったそうです。
(このことはアイヌ人の子孫である砂澤陣が述べていることです)

江戸幕府はアイヌ人の反乱や陳情から、蝦夷地の管理を松前藩から取り上げて直轄地にしていました。
その際、日本人と同じように文字を学ぶこと、差別の対象であった悪癖である入れ墨の禁止、妾の数を5人以下にすることを布告し実行しましたが、アイヌ人自身にも非協力的な部族がいたので完全には浸透しませんでした。
 松前藩時代は、アイヌ人は独自の衣装や髪形をするように命じられて、居留地も別でした。

 明治になって、新政府は彼らの事にさほど関心を持っていませんでしたが、北海道への移住者との間で詐欺や土地に関するトラブルが続発すると、帝国議会に陳情書が持ち込まれます。
その陳情を基にした法律が土人保護法です。
 1970年代ごろまで問題視はされていなかったのですが、連合赤軍系の過激派が思想を持ち込んだのが大きいです。
彼らは、テロリストで思想家であった太田竜の『窮民革命論』を北海道に持ち込んで、北海道庁爆破事件や北海道神宮放火事件、白老町長襲撃事件を起こしました。

 太田竜は樺太出身で、その人生のほとんどを反米活動に費やしました。
日本共産党から、革共同、社会党、日本赤軍、毛沢東主義者、環境保護活動家、ユダヤ陰謀論に軸足を移しましたが、一貫して親露反米でした。
 人物としては非常に大人しい人ですが、いったん興奮すると冷めやらないたちで、それが遠因で一つの組織に長くいられない人でした。


 長々と語りましたが、大多数のアイヌ人は既に同化していて、自分がアイヌ人であるか知らぬ人が多数です。
アイヌ系であることをこだわるのは北海道アイヌではなく、樺太アイヌでしょう。
彼らは、樺太から本土への引き上げの際に、いろいろと支援を受けていましたし、今アイヌの衣装とされるものは樺太アイヌ由来だと、若いころ太田竜と行動を共にしたアイヌ研究者などは言っておりました。

小生は、アイヌ問題に関してはわざわざ差別を掘り起こすようなことはすべきではないと考えております。