相棒は妹
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志乃「絶望という言葉を気安く使うな」
俺は志乃に気を取られた眼前の男を排除し、前方にいる刺又を受け止めた男達に向かって走り出す。
二人が横に並んで歩くのが精いっぱいの通路において、走るのはそこまで苦では無かった。刺又も前に構えれば問題点は無い。
通路の端には縄で縛られた客が座らされ、身動きが取れない。そんな彼らを俺は注意深く飛び越え、男達の先にいる相手に気付かれないように、身を男達の身体で隠しながら走る。
相手の背中がどんどん大きくなり、ついに刺又の攻撃範囲内に入った。それと同時に、男達の隙間から見える俺の姿に気付いた敵と目が合った。
考える暇は無かった。
俺はU字型の窪みに片方の男の顔を差し込み、それを隣にいた男の顔面に向かって勢い任せに振った。
同時に男は互いに顔面を衝突させ、動きが不自然になった。その隙に男から刺又を引き抜いて持ち替える。柄の方を相手に向けて、顔を衝突させた方の男の首に向かって、ビリヤードの球を撞くように突き出す。本当は喉に突いた方が良いんだけどな。
その男は前に倒れ、そこでようやく志乃や五十嵐の姿が確認出来た。顔を衝突させられた男が俺の方に振り返って来たので、今度こそ喉に柄の先を突いた。本気でやったので、男は口から泡を噴きながら倒れた。あっけねぇ。
そんな事を思いながら、志乃がいる前方に目をやったのだが、
「……くそ」
どうやら、俺は一足遅かったようだ。
俺の行動を確認した敵グループの一人が、俺が男に泡を噴かせている間に即座に志乃を拘束したのだ。相手が女という事で、一人で十分と判断したのだろう。とはいえ、五十嵐が巻き込まれなかったのは不幸中の幸いだ。
「この嬢ちゃんがお前の妹か。可愛いじゃねぇか。けどよ、体操服で歩いてるのはどうかと思うぜ」
志乃の両腕を後ろに回して自由を奪っている男が、嘲りの言葉を放つ。……ちょっとこれには同意せざるを得ない。敵に味方する気は毛頭無いけど。
「つーか、ポリ来なくね?今頃ならサイレン鳴っててもおかしくないしよ。もしかして嘘吐いた?」
男は志乃の耳辺りで、しかし通路にいる者全員に聞こえるように声を上げる。志乃は嫌そうな顔で、
「そろそろ放してよ。貴方と一緒にいると気が狂う」
「あ?調子こいた口聞いてんじゃねぇよこのクソガキが」
男がそう口にした瞬間だった。
「……あんたこそ、バカにするのもいい加減にしろ」
その声は、聞く者の心臓を鷲掴みにするように鋭く、冷たかった。これが妹の口から吐き出されたものだと、最初は分からなかった。
恐る恐る妹の方を見やって、俺は少々ビビった。きっと俺だけじゃないだろう。志乃を取り押さえていた男も思わず息を飲んでいた。数十秒前の飄々とした態度はどこにも無い。
今のあいつの表情は、まさしく『無』だった。
表情自体に何も無いという表面での話では無い。細められた目には何の色も映し出されておらず、視線を合わせただけで自分の存在を否定されているような錯覚に陥る。先程までのいつもの謎めいた雰囲気は一気に冷酷なものへと変質した。
まるで、人が変わってしまったかのようだった。
こうした志乃の表情を、俺は知っている。だが、これを見るのは数年ぶりだ。故に怖かった。『絶望』した目をしているこいつが何を言い出すのか。人生を『挫折』させるこいつが、誰かに対してどんな悪魔の言葉を囁くのか。
「……あんた、将来の夢はなんだ」
「お、俺か?」
「あんた以外に誰がいる」
志乃を押さえている男は、眼前の少女のドロリとした目から視線を避け、先程とは大違いの不安や畏怖が混じった言葉を吐きだす。
「俺の将来の夢は、建築会社に就く事だった。そこで家やビルの設計を立てて実現させる。俺の描いた物を立体にして表して、人に喜んでもらう。それが夢だった」
男は素直に答え、再び志乃と目を合わせる。が、それも長くは続かない。男が額に粒の汗を溜めている事に気付いたのはその時だった。
「じゃあ、あんたは何でこんなことをしている」
「それは、だな。大人の事情だ。現実ってなぁ厳しくてうざったいんだよ」
「知ってる」
「あ?嬢ちゃんみたいなガキが人生に絶望すんのは早すぎだろ」
「絶望という言葉を、気安く使うな」
その言葉に、男はおろか室内にいる全員が凍りつく。
俺はヤバいと思った。そろそろ止めないと、面倒な事になる。
そう思った俺は、刺又を捨てるのと同時に走り出して、男から志乃を奪い取る。男は俺の突発的な動きに逆らう事無く、その場で直立したまま動かなかった。目はどこか虚ろで、焦点があっていないように見えた。どうやら、志乃とばっちり目を合わせたようだ。
放棄した刺又を再び手にしてから、志乃に声をかける。
「志乃。大丈夫か」
「大丈夫。ただ、人生をろくなものに費やして夢を追い掛ける事を止めたのに絶望だなんて事を口走った愚かな奴を殺そうと思っただけ」
その言葉に感情は込められておらず、ただただ思った事を率直に言っているようだった。あいつの目には何も映っていない。ドライアイス以上の冷たさを放つ志乃に、俺は思わず背筋を震わせた。
「志乃、一回落ち着け。そこ座ってろ」
「分かった」
俺の指示に素直に従い、志乃は通路の端に座り込んだ。とりあえずは解決といったところだろう。安心は出来ないが。
一体どうして、このような場面でこいつはぶちキレたのか。ついさっきこいつの考えを受け止められた俺でも、それだけは分からなかった。今思えば、あれは志乃の言葉がトリガーとなって始まったような気がする。逆ギレしたも同然だ。
刺又を構え直し、俺は微動だにしない男と向かい合う。だが、俺はともかく相手にも戦う意思は無いだろう。相手の目を、表情を見れば分かる。
それに、ここで不容易な動きをすれば、再び悪魔が目覚めかねないのだ。この場であいつを止められるのは、少なからず俺しかいないんだから。
そして、俺は気付いていた。志乃は、自分を犠牲にしてまで嘘を吐いて、俺に武器を与える時間をくれたという事に。囮となった事に。
なんてバカなんだろう俺は。妹を危険な目に遭わせて。きっかけは分からずとも、こいつをキレさせてしまった。一人の男を今度こそ『絶望』させてしまった。
志乃が言っていた警察が来るというのはデマだ。なら、俺がやる事は一つしかない。
対話だ。
もしかしたら、平和的な解決が出来るかもしれない。この場を傷一つ負う事無く出る事が出来るかもしれない。俺のコミュ力と機転の無さからしてその確率は米粒一つぐらいに小さいが、それでもやらなきゃ何も変わらない。いつまでもゼロのままだ。
その時、虚ろな目をした男の後ろから二人の男が出てきた。銃持ちの二人だ。
手に握られた黒くて重そうな物体を改めて視認する。ああ、これマジでヤバい。パチモンじゃねぇ。
俺は足がガクガク震えそうになるのを、奥歯を食いしばる事で必死に止める。だが、心拍数はみるみる内に上がっていき、いつの間にか呼吸が乱れていた。額に汗が滲むのが分かる。
だが、ここで怖じ気ついたらダメだ。本物の銃を見て冷静でいられるのは異常だ。でも、怖がり過ぎるのも良くない。相手の余裕と安心感は大きくなり、花が少しずつ咲き誇るように確実的なものになる。花びらが散る頃には、俺は撃たれているんだろう。
だから、俺は相手の目を見据え、じっとしていた。視線を逸らしたら負け。その時点で俺と敵の明確な優劣の差が浮かび上がる。
勝てるだなんて思っちゃいない。思ってたら対話なんてするか。
ここに気合いや牽制の意味での奇声が飛び交ったら剣道になるんだろうな。そんなどうでもいい事を思いながら、俺は縮こまった喉を開くべく深呼吸した。歯がガチガチと鳴りそうになるのを堪える。
「……その、アンタ達は何でこんな事してんだ。意味が、あるんだろ」
「君にそんな事を言う必要性を感じないな。それよりも我々の指示に従っていた方が、君達にとっても有利だと思うが」
くそ。会話にもならない。だが、言葉を噛む事無く言えたし、相手はそれに返答してきた。それだけで俺の中の極度な緊張感は幾分かほぐれてきた。
俺の言葉に返してきた、頭を禿げ散らかした男は続いて言い放つ。
「君達は、自分が特別な存在とでも思っているのか。ならそれは間違いだ。確かに、刺又などという非力な物で仲間を撃破したのだろうが、所詮そこまでだ。君の行いは、自身を危険に近づけるだけの自殺行為だ」
「それは正論かもしれない。まず俺は特別なんかじゃないし、アンタらの仲間倒せたのも悪運が強かっただけだ。だけどさ」
俺は一拍置いて、こう口にする。わずかに、ハゲチャビンの持つ銃が動いた気がした。
それでも、俺は素朴な質問を銃持ちに、この室内にいる連中に問い掛けた。
「特に秀でた面の無い、逃げる事しか出来ない高校生が、妹を守るために立ち上がっちゃいけないのか?」
俺には『才能』が無い。いつも皆の後を必死に追いかけて、遅れて何かを掴み取る人間だ。
努力がいつか報われる時が来る。そう信じて剣道を続けてきた。だが、それは間違いだった。
「努力が報われるだなんて思うのは止めろ。努力を努力だと思ってる人は間違い」と、先日のテレビで芸能人が言っていたのを思い出す。その言葉は、俺の頭の中で時折再生され、それについて考える事がたまにある。
そして気付いた。俺は、努力する事ばかり考えていたという事に。『好き』という感情をどこかに置き忘れていたという事に。
努力したのに報われなかったというのを言い訳で散々逃げて来て、結局将来に響くような事までしてしまった。今頃嘆いても仕方ない事は分かっている。
だが、その芸能人は最後にこう締めくくった。
――「報われなくて腹立つ。見返りを求めるとろくな事にならない。好きな事を続ける事が既に報い」
――「どれだけ頑張っても成果に現れなくて結果が違くなっても、努力してきたそのプロセスは決して無駄にはならない」
その言葉は俺にとって衝撃的で、ものすごく身に染みた。思わず涙が滲んだのを覚えている。
俺は剣道で強くなりたかった。でもなかなか上達せず、後輩に追い抜かれる毎日。徐々に『楽しい』と思わなくなった。
しかし、中学校に入って剣道の『楽しさ』を再び覚えた。それは、もっと強くなるという思いに繋がり、努力を始めた。
これがダメだったのだ。俺は、自分が報われる事だけを信じていたのだ。
辛い事をこなせば強くなれる。子供じみた考えだ。今更ながら自分がバカみたいに思えた。
俺はもう剣道をやる気は無いし、竹刀を握る事すら許されないだろう。
だが、それと妹を守る事は別だ。
『才能』の有無、天才、努力……単細胞な俺が拒み、追い求めた存在が、妹を守る事に必要だろうか。答えはNOだ。
努力しなくたって、天才じゃなくたって、身体を張って生意気で小うるさい妹を安心させる事は出来る。一+一と同じくらい簡単な答えに今頃気付いた自分が情けない。
だから、ハゲチャビンの徹底した考えに、俺は異を唱えた。それは間違っている。それは異端していると。
「……その逃げた君に守られる妹は喜ぶのか。君よりも妹の方が人生経験を積んでいるように見えるが」
「当たり前だ。俺の妹は俺なんかよりずっと人生を濃密に生きてんだから」
俺は、そんな気高い妹を誇りに思っている。
後書き
兄貴も退学という挫折を経験し、五月病的な状態になっていましたが、彼の場合その後再び立ちあがっています(妹のおかげでもある)。
それに対し志乃を拘束した男は、一度失敗して諦めて、結果このような犯罪を犯すようになってしまいました。
志乃の対応が違うのはその点です。
彼女は『絶望』という言葉を、新たな道を築き上げるか否かを決める運命の別れ道だと考えているのです。
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