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蛭子

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第三章


第三章

「あの」
「言わずともわかっておる」
 主人と思われる男が腕を組んだまま厳しい顔でこう言った。
「新聞の広告を読んだのであろう」
「はい」
 彼はそれを聞いて素直に頷いた。
「お金のことですが」
「本当だ」
 そう言うと横にいる自分の妻に顔を向けた。そして一言言った。
「前金を」
「はい」
 妻はそれに頷くと無言で袖に手を入れた。そして札束を彼の前に差し出した。
「えっ」
「前金と言った筈だ」
 主人は重厚な声でまた言った。
「聞こえぬのか」
「いえ、それは」
 彼は戸惑っていた。いきなり今まで見たこともないような札束を前に差し出されて戸惑わない方が不思議というものであった。今まで慎ましやかな暮らしをしていたのでこんな札束なぞ見たこともなかったのだ。
「遠慮はいらぬ。とっておけ」
「はあ」
 彼は言われるがままにそれを受け取った。そして懐の中に入れた。
「ここまでわざわざ来てくれた。それへの運賃もある」
「そうだったのですか」
「それであたらめて聞きたい」
「はい」
 彼は懐にそれを入れてから顔を主人に向けた。
「もう広告は見て知っておると思うが」
「この屋敷の使用人でございますね」
「うむ」
 主人はまた頷いた。
「それでじゃ」
「はい」
 また不気味なものを感じていた。彼はそれに耐えながら話を聞いていた。
「まず金のことは約束する」
「はい」
「住むところもな。屋敷に一室を用意してある」
「有り難うございます」
「食事もある。身の周りのことは一切気にしなくてよい」
 まるで夢の様な話である。しかしそれでも不安は大きくなっていくばかりであった。ここまでいい話だと裏があるのでは、と今更ながら思うのであった。
 彼はその不安を抑えられなくなってきていた。そして問おうとした。だがその前に主人が言った。
「してその仕事だが」
「はい」 
 言いそびれてそのまま応えた。
「まず聞いておくがどのような仕事でもいいな」
「勿論です」
 約束通りの金が貰えるのならどんな仕事でも構わないというのは確かにあった。それを見ると多少裏があっても乗ってみたいと思えた。
「本当だな」
「はい」
 また応えた。だがその念の入れ様にやはり不安を感じた。
「わかった」
 主はそう言うとすくっと立ち上がった。
「では来るがいい」
 そして部屋を出て彼を案内した。こうして彼は再び暗く長い廊下を歩くことになった。
 だが今度はそれ程長くは歩かなかった。すぐに庭に出た。そして岩場で草履を履きそのまま庭を進んだ。それから庭の端にある蔵の側にまでやって来た。見れば立派な構えの蔵が並んでいた。その立派な外観と中にあるであろうものを考えるとやはり大きな家であるのがわかる。
 主はその中の一つの前にまで来た。そして懐から取り出した鍵でその蔵の扉を開けた。
「来るがいい」
「はあ」
 主はまた彼に来るように言った。彼はそれに従い中に入った。主は彼が入って来たのを確かめると懐からまたを取り出した。見ればそれは燭台であった。
 それに火打石で火を点ける。それからまた中に入った。蔵の中はあちこちに多くのものが置かれていた。
 見たところここには家宝やそういったものはなさそうであった。古い服やそういったものばかりのようだ。単なる物置のようであった。
 主はその蔵の中央に来た。そしてそこで立ち止まると屈みはじめた。何か床をガサゴソとしていた。
「!?」
 彼はそれを見て不思議に思った。この蔵の下に何があるのか、と思った。そしてまた不安になってきたのであった。
「よし」
 主はそう言うと立ち上がった。そして彼の方へ顔を戻してきた。
「ではまた来てくれ」
「はあ」
 増々不安が募ってきた。主は下へ降りて行く。それを見る限りどうやら階段を使っているようだ。彼はその下に何があるのか怖くなってきていた。
 しかし主の言葉に逆らうことはできなかった。その言葉には他の者に対して絶対に服従を強いるようなそうした威圧感があった。彼はそれに対することはできなかった。そして言われるがまま主について階段を降りたのであった。
 中は上よりもさらに暗いものであった。蝋燭のか弱い火ではあまり見えない。だがその微かな灯りを使って階段を降りる。一歩一歩少しずつ進んでいく。すると下の方に何かが蠢いたように見えた。
「!?」
 だがそれは闇の中に消えてしまった。それは一瞬であるが赤いように見えた。それが何なのかとてもわかりはしなかった。彼の心の不安はさらに高まった。
 主が降りてからすぐに彼も降りた。その中はうす寒く、そして何もないようであった。だが蝋燭に照らされた主はその何もない中に何かを見ているようであった。
「キヨ」
 彼はふと呟いた。
「キヨ。起きているかい」
 彼はまた呟いた。まるで何かを呼ぶような声であった。そしてその声には奇妙なことに愛おしささえあった。それまでのまるで押さえつけるような威圧感は弱まっていた。そしてそこに愛おしさが混ざっていたのである。実に不思議な声になっていた。
「何処にいるんだい?キヨ」
「御父様」
 不意に闇の中から声がした。
「私はここです」
 そしてその闇の中から何かが出て来た。彼はそれを見て思わず息を呑んでしまった。
「な・・・・・・」
 その娘は這って主の前にやって来た。見れば灯りに照らされこの奥の暗い部屋もうっすらとであるが見えていた。
 布団があり、そして箱が数個ある。見れば箪笥もある。そこから人が暮らしている部屋であるとわかった。そう、ここは今姿を現わした娘の部屋であったのだ。
 だがこの娘は彼が見てまず絶句するに足る娘であった。顔はまるで紙の様に白く人形の様に整っている。少し切れ長の目はまるで絵に描いた様な美しさであり小さな口は桜の様な色であった。長い髪は絹の様にしなやかでありその色はまるで夜の空の様に黒かった。彼が今まで見た女の中でもとりわけ美しいと言えた。そして絹の着物を身に纏っていた。まるで姫の様な美しさであった。
 だが、だがこの娘は彼が言葉を失わせる様な娘であったのだ。何と自分の父の前まで這って来ているのだ。身体が異様に小さく感じられた。だが身体が小さいのではなかった。見れば顔も胴も普通であった。違ったのは他の者にはある筈のものがないのである。それはまるで蛭の様であった。
「どうかしたのですか?」
「今日は御前に話しておきたいことがあってな」
 主は先程と同じ色の声で言った。
「これから御前の世話をしてくれる人だ」
「そちらの方が」
 キヨと呼ばれたその少女はそれを聞くと顔を彼の方に向けた。うつ伏せになったままゆっくりを顔を上げてきた。
「新しいお世話の方ですね」
「そうだ」
 主は頷いた。
「くれぐれも粗相のないようにな」
「わかりました。私がこの様な身体であるばかりに」
「それは言うな」
 主は悲しそうな声で娘に対して言った。それは父親としての声であった。
 
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