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蛭子

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第二章


第二章

 それは本当に昔の話であった。日露戦争がはじまったかはじまってもいないかの頃日本という国はまだかっての古い名残が幾つも残っていた。
 いいものもあれば悪いものもある。一概には言えない。そしてその中には影の世界に属し決して表には表われない話も存在するのである。これは飛騨の奥のある村におけるそうした影の世界の話である。
 この時村に一人の若者が招かれた。彼はその村の庄屋の家に使用人として雇われたのである。大きな庄屋であり金もいいと言われて喜んでこの村に来たのだ。
 彼は名古屋の方の生まれだ。街でしがない工員として働いていた。毎日生きるのに精一杯の金を得る為に汗と油にまみれて働くのに嫌気がさしてきていたのだ。その時新聞でふと読んだこの庄屋の話を見てこの村にやってきたのだ。
「こんな美味い話はない」
 彼はまず金を見てこう思った。何と今働いているところの給料の六倍程なのだ。そのうえ食事も住む場所も提供してくれるという。話半分にしてもこんな美味い話は乗るしかないと思ったのだ。
 そして途中まではできてまだ日も浅いと言えた汽車に乗った。ゴトンゴトンと揺られて飛騨の方に進む。だがこの時はとてもそのような山奥にまで汽車は通ってはいない。すぐに汽車を降りそこからは歩いて向かった。
 辛い道であった。山ばかりで細い山道を伝っていった。そうした道を何日も通り村へ向かった。どれだけ歩いたかわからないが何日か歩いてようやく何かが見えてきた。それは人里であった。
「あそこかな」
 彼はそれを見てまずこう思った。深い飛騨の山奥にはああした小さな集落が幾つもあったと言われている。事実ここに来るまでに何度もそうした集落を見てきたし立ち寄っている。だからすぐにあれだと判断することはできなくなっていたのであった。
 まずは集落に入る。それから村人を見つけて声をかける。まずは村の名を聞いてみた。
「ああ、それならここですじゃ」
 気のいい感じの老人がにこりと笑ってそう答えた。
「それでここに何の用ですかの」
「はい、実は」
 彼はここに来た理由を老人に話した。庄屋の使用人の募集を受けてだということも全て話した。だがそれを聞いた時老人の顔に暗い影がさした。
「そうじゃったか」
 彼は俯いてこう呟いた。
「あの、何か」
 彼はそれを聞いてかなり不安になった。
「庄屋さんの家に何かあるのでしょうか」
「すぐにわかることですじゃ」
 老人は暗い顔のまま言った。
「あの噂が本当じゃったらな」
「噂」
「あんたが運がよかったらお知りになられないことですじゃ。しかし運が悪かったら」
「運が悪かったら」
「あんた、狂ってもどうなっても後悔しなさんな」
「後悔って」
 話を聞けば聞く程不安になってきた。
「何なんですか、一体」
「いや、何でもないことですじゃ」
 どういうわけか急に素っ気無い様子になった。
「けれど。覚悟はしておいて下され」
 そう言うと村の奥の方を指差した。
「あそこですじゃ」
「あそこ」
 見れば指差した方に一際大きな家があった。他の家とは全く違い瓦に白い石垣や壁まであった。まるで小さな城である。幾つもある蔵がその家がかなり裕福であることを物語っていた。
「あそこがここの庄屋様の家ですじゃ」
「あそこなのですか」
「では行きなされ。御機嫌ような」
「御機嫌ようって」
 また妙なことを言われたと思った。ここには奉公に来ただけなのにそうした今生の別れのようなことを言われるとは全く思っていなかったからだ。ましてや彼はこれからここに当分いるつもりであったのだ。余所者とはいえ仲良くしたいと思うのは当然のことであった。だがいきなりこう言われたのだ。戸惑わずにはいられなかった。
「全ては運がよかったらじゃ」
 老人はまた言った。
「運がよかったらな。普通にまた会うこともできますじゃ」
「はあ」
 ここまで言われるともう不安を禁じずにはいられなかった。彼は不安で心を満たしながら庄屋の屋敷の方へ進んでいった。
 見れば山に囲まれているがわりかし豊かな村であった。川が多くそれはどれも堤で見事に灌漑されていた。田が広がっておりあぜ道にはあぜ豆があった。山奥とは思えない程豊かなのがよくわかった。
「こんな村で一体何があるのだろう」
 彼はそう思った。あの屋敷、そして庄屋の家に何があるのか全くわからなかった。だが心の中に張り付いてしまった不安は拭い去ることができなかった。そして彼はそのまま屋敷へと進んでいった。
 立派で大きな門を潜り、庭を進むと屋敷の玄関に辿り着いた。そこまでも結構な距離があった。やはり大きな家であった。
 家に入ると中は奥が見えない程であった。何処までも大きな家であった。彼はそこに入るとまず人を呼んだ。
「御免下さい」
 できるだけ大声で言った。
「どなたかおられませんか。求人を見てやって来ました」
「はい」
 程無くして声が返ってきた。そして奥から一人の少女が出て来た。地味な濃い青地の着物を着ていた。その服から彼女がこの屋敷の女中であるとわかった。
「求人を見て来られたのですね」
「はい」
 彼はその少女に対して頷いた。
「それでお話を御聞きしたいのですが。宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 彼女は頷いた。表情を変えるわけでもなくまるで能面の様な顔で頷いた。彼はそれを見て心の中に張り付いてあったその不安をさらに大きなものにさせた。
 その少女に案内され先を進む。暗く長い廊下であった。屋敷の中とは思えない程長い。造り自体は立派なものであったがとても暗かった。そこはまるで牢のようであった。
 暫く歩いてからある部屋に案内された。少女は襖を開けて彼をその中に導き入れた。
「こちらです」
「はい」
 部屋の中からえも言われぬ威圧的な雰囲気が感じられた。それはまるで何も言わせぬようなそうした威圧感であった。彼はそれを感じながら部屋の中に入った。
 そこには並んで一組の男女が座っていた。広いが質素で質実剛健な創りの部屋に二人は座布団を敷いて座っていた。見れば二人共絹の立派な服を着ている。そしてそこに並んで座っていたのだ。
「はじめまして」
「うむ」
 彼は一礼した。二人はそれに頷いた。
 それから彼は少女が出した座布団に正座した。二人と向かい合う形となった。少女はすぐに部屋を後にし部屋には三人だけとなった。こうして話がはじまった。
  この二人が夫婦、そして屋敷の主人であることはすぐにわかった。その服と威圧的な外見からすぐにそれはわかった。彼はこれからこの二人が自分の主になるのだと思った。そして村に入った時にあの老人が言ったことがさらに心の中で大きくなった。それを感じるとまた不安になった。だが今はそれを必死に抑えることにした。そしてあらためて二人に顔を向けたのであった。
 
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