渦巻く滄海 紅き空 【上】
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三十三 崖底蛙
実際に死んでいるわけではないが、まるで死屍累々と折り重なっている音忍達。
大蛇丸との会談後に待ち伏せし、逆に返り討ちにあったのだろう。容易に導き出される答えに、多由也は面倒臭そうに肩を竦めた。気絶しているそれらを踏み越え、急いで屋敷を出る。
陰鬱な屋敷内に反して外は澄んだ空気に満たされていた。西の空で月が影ろい、東の空では曙の炎が立ち上ってゆく。地平線近くの赤い帯が闇を突き破り、みるみる強烈な光を放ち始めるのを、多由也は暫し足を止めて見入っていた。
夜明けは近い。
清々しい爽快感を全身で感じながら、多由也は野を駆けた。目を覚ましたらしい野兎が物憂げに毛繕いしている横を猛然と走り抜ける。驚いて弾かれるように飛退いた兎が目を丸くした。草を蹴散らす。
やがて見えてきた背中目掛けて、彼女は思い切り飛び付いた。
「おいこら、ナルト!!」
鬼気迫る表情で、多由也はナルトと顔を合わせた。きょとんと目を瞬かせる彼に向かって、息急き切って話し掛ける。
「帰ってきたんなら顔見せろよ!【念華微笑】の術なんかで誤魔化されねえぞ!!」
「…約束の十日目には帰ってきただろう?」
「君麻呂の顔見たって意味ねえんだよッ!」
不思議そうに首を傾げるナルトに、多由也は不平を申し立てた。ナルトの身を心配していた故の発言だっだが、彼には伝わらなかったらしい。
君麻呂の名を聞いてナルトは顔を曇らせた。気遣わしげに「君麻呂は大丈夫か?」と訊ねる。
「アイツが骨を形成出来るのは知ってんだろ。幻術対策だってお前が前もってしといたんだろうが」
やや不安げな表情を浮かべるナルトに、心配ねえよ、と多由也は答えた。
彼女の言う通りたとえ体罰をされたとしても、君麻呂の能力の前では意味を成さない。一番効果的な精神攻撃――即ち幻術も、彼の病を治療した際にナルトが処置を講じておいた。従って同胞であるはずの音忍達に注視されてはいるものの、誰も君麻呂に手を出せない状況なのだ。
「それよりお前の読み通りだったぜ」
急き込んだ、しかしどこか楽しげな口調で、多由也はどかっと傍の岩に腰掛けた。傍らに佇むナルトを見上げる。
「まさか自分自身を囮にするたぁ、誰も思わねえからな」
そう笑うと彼女は隠し持っていたモノを懐から取り出した。多由也から渡されたソレにナルトは注意深く目を通す。推測通りの内容に彼は僅かに眉を顰めた。
「まったく。大蛇丸様の部屋を物色するなんざ、命がいくらあっても足りないくらいだぜ」
「お疲れ様」
多由也の労をねぎらって、ナルトは今一度、彼女が秘かに撮影してきた数枚の写真を眺めた。
大蛇丸と会う直前、ナルトは【念華微笑】の術で多由也に連絡をとった。大蛇丸の部屋を詮索するよう頼んでおいたのである。君麻呂も注目を浴びている今、自由に動けるのは多由也だったからだ。
故にその間、自らが囮となって大蛇丸と彼の部下達の目を向けさせる。またザクに関してナルトが沈黙を貫いたのは、彼の身の安全を保障するためであった。
ナルトは同班のドスとキン、二人を同時に失ったザクを少なからず気にしていた。だからせめて大蛇丸の毒牙にはかからぬよう、今回の会談で取り計らっておく。
相手の言葉や反応を深読みする大蛇丸の性格を逆手に取って、敢えて黙する。そうすれば少なくともザクをただの捨て駒にはしないだろう。
「どう見ても、ソレ、大蛇丸様が木ノ葉の誰かと繋がってるって証拠だよな。それも里の上層部と」
自らが撮ってきた写真を覗き込みながら、多由也は眉根を寄せた。彼女の言葉に答えぬまま、ナルトは瞬時に指先から青白い炎を出現させる。写真は音も無く、虚空に溶けてしまった。
ちろちろと宙を舐める炎を握って揉み消す。多由也に見守られる中、事も無げに「大方、火影の椅子を狙う者だろうな」とナルトは答えた。
「それはどういう、」
「ダーリンッ!!」
多由也の質疑を断ち切って、香燐がナルトに駆け寄った。初めて見る顔に、多由也のこめかみがぴくりと反応する。なによりダーリンという呼称が気に触った。
「帰りが遅いから迎えに来たぜ」
「迎えだと?」
ナルトより先に多由也が声を上げた。一歩前に出る。
「気色悪い呼び方しやがって。失せろ、この眼鏡女」
「あ?」
多由也の存在に今気づいたらしい香燐もまた、ひくりと口端を動かした。多由也に眼を付ける。
「初対面で眼鏡女とか呼ぶ奴に、呼び方云々を文句言われる筋合いなんかねえな。つ―か、お前こそ消えろよ。ウチとダーリンの邪魔だ」
「ハッ!邪魔なのはそっちだ。今はウチがナルトと話してんだよ。出しゃばってくんじゃねえ!!」
「出しゃばってんのはどっちだ!ウチはダーリンに命救われたんだぞ!!」
「それがどうした!?ウチのほうがナルトとつき合いが長いんだ!ぽっと出の眼鏡なんざお呼びじゃねえんだよ!!」
額を小突き合わせる。互いに互いがナルトに好意を持っていると把握した少女達は、鬼も逃げ出すのではないかというほどの物凄い形相で相手を睨みつけた。
何が原因でこのような険悪な空気になったのか理解出来ないものの、彼女達の口論に口出ししてはいけないと、ナルトは直感した。大蛇丸以上の緊張を覚えたと、後に彼は語ったという。
滝が飛沫を上げ勢いよく流れ落ちる。激しさを含む水飛沫は太陽光に反射し、空に小さな虹をつくり上げた。
鮮やかな色彩の架け橋に、滝近くで水浴びをしていた女性達が歓声を上げる。同時にその茂み向こうで、少女の弾んだ声がした。
「ほら見ろ、エロ仙人!【口寄せの術】成功だってばよ!!」
虹ではなく蛙を前にして飛び跳ねる。はしゃぐナルを自来也は呆然と見つめた。次いで視線を蛙に向ける。ナルに貰ったお菓子をバリバリと頬張っているガマ竜を目にして、彼ははあ~…と溜息をついた。眉間を押さえる。
「……確かに【口寄せの術】は出来とる…。だがのォ、」
そこで言葉を切った自来也はズイッとナルに顔を寄せた。心底呆れ返った声を出す。
「それでどーやって闘うっちゅーんじゃッ!!」
「は……」
はしゃいでいたナルが目を大きく見開いた。自来也を見て、ガマ竜を見て、そしてまた自来也を見る。視線を何度か往復した後、彼女はガクリと膝をついた。
「戦力にならんもんを呼んでど~する!?」
すっかりしょげているナルを見下ろしながら、自来也はもう一度深々と嘆息した。
そもそも【口寄せの術】はチャクラをかなり消費する術である。未だ下忍であるナルではチャクラが足りない。せいぜい小さい蛙を呼びだす程度だ。忍犬ならともかく蛙の戦力は大きさで決まる。
(例外もあるがのォ…)
妙木山にいるであろう師を思い浮かべる。口元に苦笑を湛え、自来也はナルの頭をがしがしと撫でた。
「でもまあ…【口寄せの術】――時空間忍術は成功だ。その感じを忘れるんじゃないぞ」
唇をきゅっと結んでいるナルの顔を覗き込む。自来也の慰めの言葉に、彼女は益々顔を歪めた。掻き消えるほどの小さな、しかし落胆が込められた声を漏らす。
「…こんなんじゃ、ネジには勝てないってばよ……」
ナルの一言を耳にして、自来也は常日頃悩んでいた考えを思い巡らした。
手っ取り早い方法は確かにある。だがかなりの荒療治であるため、流石に逡巡する。
しかしながら強い光を宿したナルの瞳に圧し負け、自来也は静かにかぶりを振った。小さく、「悪く思うな、四代目よ…」と詫びの言葉を呟く。
「え、」
声が途切れる。出し抜けに気絶させられ、ナルはその場に崩れ落ちた。
岩場に激突しかける寸前、彼女の身をそっと受け止める。同時にガマ竜の姿が煙と共に消えていった。
(身の危険や感情の昂りが九尾のチャクラを引き出す鍵なら…)
気を失ったナルの身を背中に乗せる。水浴びする女性達のはしゃぎ声を背にして、自来也はナルを背負い上げた。
(…その鍵の使い方を体で覚えさせるまでだ)
目を覚ますと、己の師が険しい顔つきで見下ろしていた。
「…わしは本来、女には優しいのだがのォ」
少しばかり躊躇する素振りを見せる自来也を、ナルは不思議そうに見上げた。なぜか足下から風が吹いてくる。
ナルと視線を合わせるために自来也は腰を屈めた。やはり彼女の瞳は先ほど同様強い光を湛えている。強くなりたいといった想いを感じ取り、自来也は今一度吐息を吐いた。
「死にたくなかったら自分でなんとかしてみせろ」
そうして彼女の額を思い切り突いた。
浮遊感。
無重力状態のまま、ナルは後ろを振り返った。そこはくすんだ銀の光を帯びた岩肌が複雑に絡み合う、目も眩む断崖絶壁だった。
一瞬空中に留まる。直後、辺りはめまぐるしく回転し、ナルの身体は崖下へ吸い込まれた。
「うわぁああぁああああぁ――――――――ッッ!!!!」
何が起こったのかわからぬまま、崖底へ真っ逆さまに墜ちてゆく。
上下左右、遠近高低といった方向感覚が失われ、前方の深い闇にナルは引き寄せられていった。正気を保とうとするが、耳元で轟々とした異様な風の音が彼女の耳を圧倒する。辛うじて維持していた思考力が『死ぬ!!』と泣き喚いていた。
チャクラを練る。パッと頭に浮かんだ【口寄せの術】の印を無意識に彼女は結んだ。途端、ポンッといった軽い破裂音と共に小さな煙が立ち上る。煙の中で「な、なんじゃぁ!?」と驚いた声がした。
ガマ竜ではない。小さなじいちゃん蛙が驚愕の表情を浮かべている。ナルは慌ててその蛙を掻き抱いた。
「ごめんってばよ!!」
唸る風の中で謝る。じいちゃん蛙を庇うようにナルはその身を縮こませた。
眼前の光景が渦と化し、その中心を加速しながら突き進む。連なった岩肌の一つがナルの目の端に映った。
(これにつかまらなきゃ…じいちゃん蛙もオレも、死ぬ!)
必死にチャクラを練る。四肢に力を込め、タイミングを見計らい、手を伸ばす。指先が岩肌の一つを確かに捉えた。
(今だ!!)
つるり、と滑る。ナルの意図を裏切って、岩肌は彼女がしがみつくのを拒んだ。
険しく切り立っているにも拘らず、絶壁は滝の水滴でつるつるとしているのだ。岩壁から滴る雫が視界の中でキラキラと踊る。全身に降り注ぐその露の玉を、ナルは愕然と見つめた。
自身の叫び声が遠くで聞こえる。バラバラになった意識の中でナルは他人事のように(ああ。死ぬんだ)と確信した。
だが胸に抱き抱えた蛙の存在が、彼女の正気を呼び戻す。
(じいちゃん蛙だけは…ッ!)
突然口寄せしてしまった蛙だけは助けなければならない。使命感に駆られ、ナルは再びチャクラを練った。
だが彼女のチャクラはもう、とうに枯渇していた。今しがたの【口寄せの術】でほとんど使い切ってしまったのだ。
目の前が真っ暗になる。
刹那、前方に広がる暗黒の果てから、ナルは誰かの声を聞いた。
《アイツに従うわけではないが、お前が死ぬとわしも死ぬからなぁ…》
ドクン、と心臓が高鳴った。
「ダーリン。この間渡したあの巻物、役に立つのか?」
多由也と一悶着起こした後、宿に辿り着くなり香燐はナルトに猫撫で声で話しかけた。
ナルトに頼まれ事をされていた多由也への反発。自分も役に立つ事をさりげなくアピールしている彼女に気づかず、ナルトは頷きを返す。
「勿論。香燐のおかげで彼の起きる時間がわかったんだから」
素直に礼を述べるナルトに香燐は嬉しげに頬を染めた。だがすぐさま「けどあの巻物、別に変わったところなんて見当たらなかったぜ」と怪訝な表情を浮かべる。
木ノ葉の里に帰還してすぐに香燐はナルトに頼まれ、月光ハヤテを木ノ葉病院へ連れて行った。病院前に置き、呼び鈴を鳴らしてすぐ身を隠したため、自身の姿は見られていない。
その際、ハヤテの懐から落ちた巻物を香燐は咄嗟に拾い上げた。その事を包み隠さず話し、ナルトに巻物を手渡したところ、彼の顔色が変わったのだ。その瞬間を香燐はよく憶えている。
「試験官が『地の書』を持っていても何等不思議じゃねえだろ。何処が役に立つんだ?」
自らも中忍試験を受けていた香燐は訝しげに首を傾げた。中忍第二試験の題材となる『天地』の巻物の一つを試験官だった月光ハヤテが所用していてもおかしくはない。
「コレが今回の試験に使われたものならな」
香燐から渡された『地の書』を懐から僅かに取り出して、ナルトは意味ありげな発言をした。そのまま窓から外を覗く。一時の静寂の中、宿の天井裏から微かに鼠の足音が聞こえた。
ナルトから問い質すのを諦めた香燐だが、これだけは言っておかねば、と口を開く。
「…ところで。多由也とかいう女の時もそうだったけど、この会話、【念華微笑】の術でしたほうが良かったんじゃないか?」
誰かに聞かれたら…、と懸念する彼女に、ナルトは視線を向けた。一瞬天井を仰ぎ、静かに微笑する。
「いいんだよ」
(わざと教えているのだから)
耳元で、ぴちょんと澄んだ水音がした。
薄暗い天井に渡された幾重もの鉄パイプ。錆ついたその一部から落ちる水滴が、彼女の傍らで円を描いた。
薄暗い飴色の液体の中で、ナルは目覚めた。床を満たす水上で仰向けに横たわる。天井を仰ぐと、鉄パイプから滴る雫が見えた。
ゆっくり身を起こし、ナルは周囲を見渡した。足首まで浸かる水面が再び円を描く。やがて風とは似ても似つかぬ獣の唸り声が廊の奥から聞こえてきた。
声を頼りに廊下を伝ってゆく。廊下伝いの道中で、ナルは何度も唾を呑んだ。物凄い威圧感が全身にひしひしと突き刺さる。同時に、見知ったチャクラだ、と直感が囁いた。
薄暗い廊下の向こう。明るい光と、そしてソコにいるであろう声の主の許へ、ナルは足を踏み入れる。歩く度に撥ねる水の音がやけに大きく響いた。
目の前に聳える巨大な鉄格子。瞬間、射抜くような赤い双眸と目が合い、ビクリと身を強張らせる。
《お前の方からわしに近づいて来るとはな…》
「お…お前は、」
鉄格子、いや廊下全体がビリビリと揺れるような。底力のある声がナルの身体に大きく響く。格子に貼られた『封』の紙を目にして、彼女は前方に立ちはだかるその者が何なのか思い当った。
「――――九尾……っ!」
九尾の巨躯を前に、押し寄せる恐怖。それをぐっと抑えて、彼女は九尾を強い眼光で見据えた。
「お前、強いんだろ?だったら…じいちゃん蛙を助けられる力を貸してくれ…ッ!!」
《蛙…?そんなモノのためにここまで来たのか…?》
予想外の言葉に九尾は目を瞬かせる。理解し難いといった視線を向けられ、ナルは眉を顰めた。声を張り上げる。
「オレのせいで危険に晒されているのを、見過ごすわけにはいかないんだってばよ!!」
そう断言するナルを、格子を透かして九尾はじろじろと見やった。《人間は皆、自分の命しか大切にしないものだろおォオ》とまるで奇妙なものを見るようにナルを吟味する。
「そりゃ自分の命は大事ってばよ。でも勝手に口寄せしたのはオレなんだから、蛙のじいちゃんだって助けたいに決まってるってば!」
至極当然のようにきっぱりと答える。ナルの決然とした態度に、九尾は一瞬言葉を失った。
爛々と輝く青い瞳は、以前会った少年の姿を彷彿させる。ここでもし力添えを断ったとしても、ナルは決して諦めないだろう。
何があっても蛙共々生きてみせるといった固い信念。口先だけで終わらせるつもりはないといった強い意志。
小さなその身がどこか大きく見え、九尾は口角を吊り上げた。
《ククク…ッ、グワハハハハハハ!!》
突然の哄笑にナルの小柄な身が吹き飛びそうになる。足を踏ん張ってその場に留まる彼女の姿を、九尾は愉快げに眺めた。
《面白い。自分も蛙も助かりたいか。実に人間らしい勝手な言い分だ…!》
一頻り笑った後、鉄格子の合間からチャクラのみを引き渡す。真っ赤に燃える赤きチャクラがナルの身を捉え、螺旋状に渦巻いていった。
《―――だが、気に入った》
刹那、ドクン、と再び心臓が高鳴った。
煙が立ち上る。
崖上まで昇る【口寄せの術】の白煙を、彼はじっと俯瞰していた。
やがて晴れゆく煙と相俟って、自来也の目が信じられんとばかりに大きく見開かれる。
「おいおい…。まさかガマブン太だけじゃなくあのお方まで呼び出しちまうとは…」
驚愕を孕んだ声を漏らす。彼の眼下には自らの躯を活かして落下を食い止めるガマブン太の姿。
そしてナルの腕に抱えられた…自来也の師であり二大仙蝦蟇の一人―――フカサクの姿があった。
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