渦巻く滄海 紅き空 【上】
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三十一 黄昏
「まったく…。どこか抜けている点は昔から変わっておらんのう」
しみじみと深く嘆息され、自来也はむすりと唇を尖らせた。渋面のまま、言い返す。
「そう言う爺ぃも、口煩いところは変わっとりゃせんな」
「ほほう?下忍や中忍ならばいざ知らず。たかが抜け忍をお主が取り逃がすとは…。三忍の威厳、ガタ落ちじゃのう」
「説教なら間に合っとる。他をあたっとくれ。…もっとも爺ぃの小言なんぞ、よっぽどの暇人くらいしか相手にせんだろうが」
二人の言い争いで、傍で控えていた畑カカシは我に返った。再不斬の生存を耳にして、暫し言葉を失っていた。だが流石に上司の口論にて正気を取り戻したのだろう。慌てて「まあまあ…お二方、それくらいで…」と割って入る。
カカシの諫言に、自来也は罰が悪そうに顔を背けた。同様に三代目火影も恥じ入るように笠を目深に被り直す。
執務室。火影の重厚な椅子は窓から射し込む光を浴びて、藤色に染められていた。茜色の雲には群青色の絵の具が上乗せされ、ほのかな紅紫の色を交えている。
日没直後の薄明の空を背に、三代目火影は鼻に皺を寄せた。再び蒸し返す。
「抜け忍を拘束もせずに放置するとは…。三忍が聞いて呆れるわい」
「しかしな。猿飛先生」
気まずいのか視線を泳がせながら、聊か丁寧な口調で自来也は弁解する。情けなく眉を下げる彼を見兼ねて、カカシが「もし大蛇丸レベルの忍びがナルを狙っていたらと考えると、再不斬に時間やチャクラを割いてはマズイでしょう」と口を挟んだ。
「…そう、その通り!他にも指名手配犯がいるとしたらナルの九尾を狙う輩かもしれんと思うのが普通だのう」
「調子のいい…。結局その子はいのいちの娘だったのじゃろ。しかも取り囲んでいた男達というのは店の客。常連客をぶっ飛ばしたと、いのいちの娘がカンカンだったぞ」
カカシに便乗して自らを弁護する自来也に、火影は白い目を向けた。
『金髪』というのは確かに間違っていないが、自来也が駆けつけた場所にいたのは波風ナルではなく、山中いの。更には出会い頭に、いのと会話中の男を蹴りつけてしまった。実際は単なる花屋の客だったのだから、いのが怒るのも無理は無い。
「『金髪の女の子』と聞いて早とちりするのは仕方なかろう!?」
「そそっかしいのも相変わらずじゃの」
自来也の子どものような口応えを咎めもせず、三代目火影は呵呵と笑った。悪戯っ子を嗜めるような物言いに、自来也は居心地悪げに身動ぎする。
今回の失態で師である火影に忸怩たる想いはあるものの、若気の至りの数々を指摘されるのは非常に具合が悪かった。それもいい年して、カカシの前での説教など御免こうむる。
すぐさま話題を変えるため、自来也は口を開いた。
「と、とにかく!……大蛇丸が里に潜伏しているのは本当なんじゃな?」
「みたらしアンコ特別上忍の証言もありますし、私自身奴に会いました。間違いないでしょう」
カカシの進言に、自来也の飄々とした雰囲気が消え失せる。三忍と呼ばれるに相応しい精悍な面立ちで、彼は火影の顔を見遣った。
「かと言って、中忍試験を中止するつもりはないのだろう。猿飛先生?」
確信めいた自来也の言葉に、「既に各国の大名達や忍び頭が挙って里に来ている」と火影は重々しく頷いた。
「『伝説の三忍』だろうが抜け忍は抜け忍。それもたった一人のために試験を中止など、里の沽券に関わると言うもの。……今更取り止める事など出来まい」
「だろうのぉ」
「じゃが、大名や要人達を危険に晒すわけにもいくまい。勿論里人にもじゃ」
「では…?」
火影の言いたい事を即座に推し量る。彼の次の言葉をカカシは聞くまでもなく理解していた。それでもあえて、話の続きを促す。
「里の警戒を厳重にしろ。実際に再不斬のような抜け忍が潜んでいる今、事は一刻を争う。アカデミー生や下忍を除いた忍び達に召集を掛けろ。常に二人一組を原則とし、市街を巡回せよ」
命令を下す。厳然たる態度で火影は告げた。
跪き、了承を返したカカシは、はたと思い当る。わざわざ二人一組とした火影の意図に気づいたのだ。
「それは動員令ですか?ならば木ノ葉病院での監視にあたっている忍びも召集致しますか?」
一人で夜の里を警邏していたために意識不明の状態で病院前に倒れていた忍び――月光ハヤテ。万が一の事を考えて彼の病室を監視するよう指示していた火影は、ふむと思案顔で顎を撫でた。
「意識が戻り次第何があったか訊こうと思っておったのじゃが…。目覚める傾向すら見えんのじゃろう?ならば仕方あるまい。忍びの数にも限りがある」
監視を取り下げ、里の警備に徹しろ。その命を、何時に無く険しい表情でカカシは拝した。一礼し、すぐさま執務室を後にする。
カカシの気配が遠ざかっていくのを確認しながら、自来也は火影の傍へ歩み寄った。
執務室の中でも際立って大きな窓。里を見渡せるその一角から外を覗くと、夜の帳が刻々と降りてゆくのがわかる。赤紫と化した里を見渡しながら、自来也は何気なく呟いた。
「里にいる忍び全て、信用出来るのかのぉ…」
決して独り言ではないその呟きを背中で受ける。自来也に、火影は無言を返した。
「敵は外だけではない。内にいる可能性もある…。情けないが、今回の件で身に沁みた」
「里の者は皆、家族じゃ。わしは家族を信じておる」
「果たしてそうかのぉ…?」
訝しげに火影は自来也を振り仰ぐ。非難染みた視線を受けながらも、自来也は言葉を続けた。
「先生のそういうところ。美点でもあるが欠点でもある。信じすぎるのも考えものだと思うがのぉ…」
風が木々を掠め、唸り声を上げる。様々な色合いを織り成す黄昏の空に、自来也は目を細めた。
「コインとて裏表ある。同様に、人間が二つの顔を持っていても何等おかしくはない。そうは思いませんかのぉ…三代目」
太陽はとうに沈んでいた。千変万化に移り変わってゆく空。
里は影を成し、明暗がくっきりと地平線で区切られる。やがて深まる夜の気配が街を呑み込まんと迫っていた。
残照に映える一軒宿。格子窓からそっと外を覗く。片膝を立て、窓枠に腰掛けたナルトは太陽が沈む様をじっと眺めていた。天と地の一線を画する鮮烈な赤が彼の髪を琥珀色に染め、憂いに満ちた横顔をほんのりと色づける。
「ナルト」
物思いに沈んでいた彼を現実に呼び戻したのは、今の今まで散々文句を並べていた再不斬だった。
「ったく…。寿命が縮むかと思ったぜ」
三忍の一人、自来也との対峙について文句を並べていた再不斬は、ナルトの顔を見るなり不平を言い立てた。
それぞれの目的を果たした双方は、根城としているこの宿に今し方帰還したばかりであった。波風ナルとの接触を試みるナルト。その間、ナルから自来也を引き放す再不斬。そして彼に従う白・ドス・キン。
新たに仲間となった香燐は宿で待機し、【神楽心眼】で超広範囲に及ぶ索敵術を行っていた。自来也の足止めを再不斬が失敗した場合、【念華微笑】の術でナルトに警告する役割を担っていたのである。
三忍の一人・自来也との会話は、再不斬にとって冷や汗ものであった。戦闘狂染みた彼でさえも、三忍との闘いは避けたかった。しかしながら祈り叶わず、あわや闘う寸前まで再不斬は追い込まれた。ナルトのように話し合いだけで切り上げるつもりだったのだが、予定が狂ってしまったのだ。
「交渉なんざ俺には土台無理な話だぜ。お前と違ってな」
「………俺も苦手だよ」
「嘘つけ」
予想外の人物が介入した事で、なんとか危地は脱したのだが、どうにも釈然としない。八つ当たりのように「おい、聞いてるのか」と棘を孕んだ声で息巻く再不斬。
だが何時に無く物憂げなナルトの様子に不安を覚え、「どうした?」と逆に気遣いの言葉を掛けた。
「上手く接触出来なかったのか?小娘に会うのが目的だったんだろ?」
「いや…。会えたよ。会って、話もした」
ナルトはそれきり口を噤んだ。再不斬は無理に話を聞き出そうとはしなかった。しかしながら室内を満たす沈黙が、言葉の先を促していた。
「しかし。怪我の功名でしたね」
ナルトの様子を見取って、白が口を挟んだ。
「あの水月という少年のおかげで三忍と闘わずに済んだんですから」
「チッ」
不貞腐れた表情で再不斬は舌打ちした。実際白の言う通りなのだから余計苛立ちが募る。
一方の香燐もまたナルトを弁護したかったが、未だ仲間になったばかりの彼女にとって、不機嫌な再不斬に口応えするのは至難の業であった。先を越され、内心気落ちする彼女をよそに、白は言葉を続ける。
「けれど、一体何者だったんですかね?再不斬さんの首切り包丁を狙っていたみたいでしたけど」
「知るか」
そっぽを向いたまま、言い捨てる。表情を険しくさせる再不斬を恐々と窺いながら、部屋の隅で大人しくしていたドスとキンは先ほどの出来事を思い返していた。
水月と名乗った少年はあれからすぐ再不斬に勝負を挑んだのだ。
何時自来也が戻ってくるかわからぬ状況下。再不斬がその勝負を受けるはずもない。しかしながら執拗に挑んでくる水月に、いい加減うんざりした彼は【水牢の術】の印を結んだ。捕らえて、なぜ首切り包丁を狙うのか尋問するためである。また、通り雨のおかげで、水溜りが至る所に出来ていた。水の術には困らない。
水の円球に閉じ込められた者は内側から破る事が出来ない。脱出不可能の牢獄【水牢】に、再不斬は確かに、水月を幽閉した。
はず、だった。
だが【水牢】の中には誰もいなかったのだ。あるのは牢一杯の水ばかりで、囚人の姿形も見当たらない。戸惑い、術を解く。けれどやはり視界に映るのは、地面に溜まった水ばかり。
「逃げ足の速い野郎だ」
苦々しい顔つきでそう呻いた再不斬の一言に、ドスとキンはその時大いに同意した。探し出してやりたいところだが、自来也の事を考えると、無駄な時間を過ごすのは得策ではない。
結局水月を見つけ出す事も出来ぬまま、再不斬達はその場を後にしたのであった。
回想に耽っていたドスとキンは、ふとナルトに目を向けた。
宿の格子窓から射し込んでくる、朱を帯びた紫紺の光。赤紫に色づく室内にて、彼らは一瞬ギクリと身を強張らせる。ナルトの双眸が、窓の外に広がっている空と同じ色合いをしているように見えたのだ。波風ナルの瞳が澄み切った真っ青な空ならば、今のナルトの眼はどこかもの哀しい夕焼け空を思わせる。
ドスとキンに見られている事など知らず、ナルトは再不斬に視線を投げた。その眼は青い。変わらぬその青に、気のせいだったかとドスとキンは自らを納得させた。
暫しの沈黙の後、ナルトはようやく口を開いた。
「此処―――木ノ葉が、彼女の居場所なんだ」
波風ナルの事を言っているのだろう。ナルトの答えに、だろうな、と腹の内で再不斬は呟いた。
一度波の国で対峙した相手だからこそわかる。あの波風ナルという少女は、ただただ真っ直ぐな人間だ。再不斬は勿論ナルト含め、忍び世界の闇を知る者にとっては眩しいほどの。
伏し目がちで佇む。どこか哀愁を漂わせるナルトに、些か慰めを含んだ声音で「分かり切っていた事だろうが」と再不斬は声を掛けた。
「所詮表は表でしかあり得ない。コインの裏が何時まで経っても表にならねえのと同じようにな」
再不斬の言葉に曖昧な頷きを返しつつも、ナルトは小さく「それでも、」と呟いた。格子窓に目を遣る。痛いくらい眩しい黄昏の光が彼の身を包み込んだ。
「それでも。彼女の…ナルの口から直接、訊きたかったんだ」
軽く目を閉じたナルトが、ややあって顔を上げる。その面差しには、落ち込んでいた様子など微塵も残っていない。
おもむろに取り出した地図と巻物を再不斬に投げて寄越す。受け取ったそれらをちらりと目の端で捉え、再不斬は視線で話を促した。
「ほとぼりが冷めるまで暫く此処に滞在してくれ」
「…例の野暮用か。ジャングルの奥地たぁ、なかなか辺鄙な場所を選んだな」
地図に視線を落とす。ナルトの十日間を粗方理解して、再不斬の唇が微かな笑みを形作った。元々はどこかの忍びが使っていた物なのだろう。「ねこばばしたみたいで正直気乗りしないが…」というナルトの言葉に彼は「ハッ」と鼻で笑った。
「主のいない城なんざ何の意味もねえ。文句言われる筋合いはねえよ」
「いいや。苦情を訴える者はいる。だからその巻物を用意したんだ」
静かに巻物を指差すナルトを、再不斬は怪訝そうに見遣った。指の先を追って巻物を広げる。
「砦周囲に【狐狸心中の術】を幾重にも掛けておいた。残党達が辿り着けないようにね。そいつがなければ決して目的地には着かない」
ナルトの話を聞きながら、興味津々とばかりにドスとキンは身を乗り出した。再不斬の手元を覗き込む。巻物の中には、【狐狸心中の術】を解く術式が施されていた。
特定の区域に入ると、迷路に迷い込んだかの如く同じ場所を永遠に歩かせる【狐狸心中の術】。砦を出る寸前、香燐との散歩中にナルトが秘かに掛けておいたものである。
先ほどとは一転して、すっかり気を良くした再不斬は地図と巻物をすいっと懐に納めた。
「三忍とは言え、修行不足なのがよく解ったからな。この分じゃ、とてもアイツと渡り合えねえ…」
暫く身を潜める事を承諾する。最後のほうは掻き消えるくらいの声量だったが、その言葉尻をナルトは捉えた。ちらりと再不斬を見遣る。ぐっと握り締められた拳が再不斬の決意のあらわれを示していた。
「ドス達も連れて行ってくれ。白も畑カカシと面識があるから危ないだろうし」
大蛇丸の事を考えた上でのナルトの発言に、ドスとキンは異を唱えなかった。反して不満げな様子を隠しもせず白は顔を歪める。対照的に名を呼ばれなかった香燐は心が浮足立つのを抑えられなかった。思わず口元が緩む。
「それで?」
不意に再不斬はくいっと口角を吊り上げた。どこか面白がっている口調で訊ねる。
「お前、わざと残党を残したろう?」
「…なんのことかな?」
再不斬の言いたい事を正確に理解しながらも、ナルトは答えをはぐらかした。
再不斬のような抜け忍がいると知れば、木ノ葉の里は早々に手を打つだろう。警備が厳重になり、今以上に動きにくくなる。故に、言わば『外』であるジャングルの奥地――元空忍・神農の要塞で暫く身を潜める。
だからこそ自来也に「外に目を向けるより内を注意した方が良い」などという忠告をしたのだ。実際この言葉はナルトの考案によるものである。わざわざ姿を晒してまで再不斬が自来也と対面したのも、ナルトの意図に従ったまでの事。
今現在、里の内部にばかり目を向けている木ノ葉は、逆に外に対する警戒が薄れている。従って里の外部にまで目を光らせるとは考えにくい。
加えて空忍の残党をわざと残したのも、再不斬やドス達の修行相手にするためであった。
「…お前のそういうとこ、気にいってるぜ」
「そりゃどうも」
くつくつと肩を震わせ笑う再不斬に、ナルトは笑顔で応えてみせた。
月が薄く空に掛かっている。里の小高い丘目掛けて、宵の明星が微かな光を放っていた。
なだらかな丘陵のあちこちにある水溜りは、真上に広がる群青色の空を鏡のように映している。ある一つを除いて。
ザバリと飛沫を上げる。水を滴らせながら徐々に形成される、人の身体。
地に手をついてゆっくりと身を起こした彼はぶるりと身を震わせた。太陽が沈んでしまったため、気温はぐっと冷え込んでいる。
「ボクは諦めが悪いほうでね…。必ず手に入れてみせるよ」
眼下に広がる里を見据え、宣戦布告する。完全に人間の姿へ戻った水月は、丘上から街を見下ろした。
再不斬に【水牢の術】で水の円球に閉じ込められた際、彼は咄嗟に【水化の術】を用いた。全身を液化することで、あたかも消えたように見せ掛ける。そして【水牢の術】が解かれたその瞬間に、再不斬の足下の水溜りにその身を溶かした。
つまり水月は逃亡したのではなく、再不斬のすぐ傍にいたのである。
里を透かしてどこか遠くを見つめる。昼間と違い圧倒的な静寂を前にして、彼の心がみるみる内に沈んでゆく。だが気力を奮い立たせるように、水月は殊更強い口調で誰ともなしに呟いた。
「『霧の忍刀七人衆』の忍刀を集める。そうすれば、きっと―――」
突然、バサリと羽音がした。弾かれたように水月は空を仰ぐ。彼の頭上を一羽の梟が通り過ぎていった。木の枝に止まり、ぐうるりと首を傾げてみせる。
爛々と輝く金の瞳。ほー…という暗澹たる鳴声が、殺風景な丘上で不気味に響き渡った。
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