追憶は緋の薫り
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
ずっとお待ちしておりました
六月中旬の空は晴れ渡り幾つもの水溜りで占めていたグラウンドも久々に解禁となり、血気盛んな者たちは放課後を除いては活き活きと動き回り泥だらけのサッカーボール必死の形相で追いかけている。
梅雨の中休みに入って二日目だが、どうやら予報では今日の十五時頃には選手交代が迫っているらしい。
すっかり溜まった陽気を追い払うため引違い窓を全開にしたのだがどうやらそれは相手の思う壺だったらしく、四時限目の我らが担任の授業中から少し風が強くなり、廊下側の席でノートにペンを走らせる生徒の頬まで冷たく撫でた。
『ずっとお待ちしておりました……主様』
「……」
弁当を軽く食べ終え、そう言えば前回期末前に小テストをすると見た目年齢三十代後半の英語教師が言っていたことを思い出し、教科書とノートを机に載せ数ページめくるが二、三分も経たずに手を休めて窓の外を眺める。
(あぁ……今日も良い天気だなぁ)
どこか棒読みのようになってしまったのは言うまでもなく彼の心があの朝を彷徨っているからである。
あの日から少し早い夏風邪を引いてしまったのか頭痛が続いている。
ほとんどはイライラしてくる程度なのだが特に目覚めた時は思わず顔を顰めてしまうほど鈍い痛みが疼き、まるで辞職を迫られても最前線に立ち続ける政治家のようになかなか退いてはくれない。
何なんだこの頭痛はと、呟く度記憶の中の自分に跪く同じ顔を持つ二人が代わる代わる答えてゆく。
『これから頭痛・眩暈・吐き気など風邪に似た症状が表れるでしょう』
『……しかし、それは覚醒の予兆に過ぎません』
『貴方が真に我らの主に目覚める時、華宵殿の封印は解け全てをお話致しましょう』
『…………いずれまたお目に掛かりましょう』
淡々とした口調の金髪よりも口数の少ない銀髪の青年の方は事務的で、心からそんな言葉を発していると思えなかった。
……いや、そもそもあれが夢か幻の類ではないという保証はどこにもない。
紫紺が何かを発する前に一段と強くなった雨垂れに思わず折り畳み傘の中軸へと持ち替えた。
布地が悲鳴を上げるのではと心配になるほど叩きつけるそれは去年の夏、日本列島を襲ったものを連想させる。
それはものの一分足らずで元に戻ったのだが傘を上げた先にはもう二人の姿はなく、来た時と同じく向かい合う稲荷が雨に打たれているだけだった。
「東雲、今日のテスト範囲を教えろよ!」
「っ!?」
不意に声を掛けられ一気に現実に引き戻された彼はどういう顔をすれば良いのか躊躇った。
いつの間にか昼休みは終わっていたようで、ありとあらゆる理由で教室からどこかに姿を消していたクラスメートたちが教科書を机に広げたり手にしたりしてざわめいている。
右耳のすぐ横から聞こえてきた声にため息を吐き、瞳だけを動かす。
「……1,050円になります」
「ん~、そっか。じゃあ、今度Cコースを奢ってやるよ、ジュース付きで」
「交渉成立」
机に広げた教科書をそのまま右にスライドさせペンの先でちょんちょんと軽く叩いた。
桜井太一とは小等部からの付き合いで、最早腐れ縁といっても過言ではない。
紫紺が簡潔に済ませようとする時は必ず気分か体調が優れない場合が多い。
太一はそれをよく知っていた。
『熱があるならそう言えよ。…先生だって鬼じゃねぇんだし』
『……いやだ。そんなの自分に負けているみたいだ』
「何笑っているんだよ?…………勃ったか?」
ある日に交わされた何気ない会話を思い出し、どうやら知らず知らずの内に口元が緩んでいたらしい。
ノートに走らせるペンの動きが止まったのをどうやら教科書に印刷されてある胸の谷間までザックリ開けたノンスリーブ姿のグラマーな女性を見ていると疑っているようだ。
その顔はみるみる冷たいものへと変わってゆくが焦りの色はなく、逆にいたずら心が太一を嫌らしくニヤけさせた。
「心配すんなって。俺はお前以外興味ないからさ」
「あっそ」
爆弾発言にも拘らず言われた本人もまたクラスメートでさえ動じる様子はなく、各々限られた時間の中暗記するのに精一杯なのか教室のどこかでは誰かが授業中ノートに書いたらしい訳を朗読する声が響いている。
彼らは慣れていた。
この白梅学院は幼稚部から大学院まであるのでほとんどの生徒はそのままエスカレーター式に進学していく。
だからであろうか複雑な情報が網目状のように張り巡らされ、新参者にはなかなか踏み込められない壁が無意識の内に距離を置いていた。
倉皇している中、五分の時はあっという間に流れテストが配られる頃には予報よりも早い雨が窓の外を濡らし始め、その勢いは次第に激しいものへと変わり放課後になると掃除を終えた帰宅部の生徒はいそいそと家路に着いた。
一階の空き教室からはそれとは別にチッチと鳥のような鳴き声が響き、雨音で満たされた校舎にその名残を残さず消えてゆく。
世に名だたる進学校とは言え少子化などの問題は影を落としていて、ほんの十年程前にはどこの教室もひしめいていたそうだが今では教職員たちの追憶の中でしかいない。
「大分、元気になったなぁ」
「あっ、青野先生っ!」
いつの間に入ってきたのだろう、右肩を掴まれ反射的に振り返ったその先にはお得意のあの爽やか過ぎる笑顔があった。
あまりのことで危うく手にしたスポイトを落としそうになったがどうにかその場で踏みとどまる。
今は自分独りではない。
左手の上ではまるで母親にねだるが如く甲高く鳴く一羽のひな鳥がいる。
昔から動物に懐かれやすく無責任にもエサやりなどをして可愛がっていたのだが、いつも何らかの形で自分の前からいなくなることも多かった。
子供の頃はそれを嘆いたり時にはそれを罵倒したりもしたが彼らの幸せを思うとそれ以上何も言えなかった。
そうして高等部に進学してから立ち上げたのがこの小動物部だ。
部とは言っても今のところ部員は自分しかいないし、活動内容もウサギや鶏などの飼育係と大差ない。
強いて上げるとしたら張り紙を校内や学院中の掲示板に張ったりして積極的に飼い主を探すことくらいだろう。
部の申請を提出した当初は予想通り突き返されそうになったが、当時他のクラスの副担任だった彼が何とか説得して今に至る。
「しっかし、安逸を第一に考えるお前がこうしてケガした鳥とかの世話をしているなんて意外だよな」
スポイトの中の水を飲ませ終えてもまだ元気に鳴くひな鳥を見て意味深に笑う。
自分でも変だと思う。
ただあの時は変わるのを待つのがとても嫌でその勢いで突っ走ったのではないかと反省している。
「先生には野球部との掛け持ちにさせてしまって……すみませんっ」
「何言ってるんだ!学生時代の内にいろんなことを経験しておくべきだぞ。いざ社会に出た時に必ず役に立つ日が来る」
「そっ、そうですか?」
落とさないように気をつけて近所のスーパーの裏から持ってきたダンボールの中にある巣に戻す。
まだ小さなひなには大きすぎて一人ではそこから出ることは叶わないが、いつか成鳥のように大空を羽ばたく日が来るだろう。
「ところでどうしたんですか、部室に来て。青野先生はあくまで野球部がメインでしょ」
申請当初の契約ではそう固く念を押されたのを良く覚えている。
白梅学院大学高等部は甲子園に何度も出場する強豪校でも有名で何十年前に一度優勝しているらしく、校長室前のガラスケースには今も尚ギラギラ輝くトロフィーを見ることが出来る。
「そのことなら案ずるな。あいつらなら校内のどこかでヘタレている頃だろうからな」
意味もなくこちらにウィンクを投げ掛けた。
野球部員たちに何を命じたのだろう、この男は。
はぁと、とりあえずその場凌ぎの生返事を口にして置く。
窓ガラスの外は相変わらずの雨で、花壇に咲く色鮮やかな植物たちが健気にもそれを受けている姿はまるで何かに怯えているように見えた。
「なぁ……東雲」
どうせこの雨音だ彼には届かない、そう高をくくっていた紫紺に今まで聞いたこともない冷たい声色が頭から浴びせられた。
視線は窓の外を向いたまま、再び動物の発するありとあらゆる臭いの混じった部室に戻すことを躊躇われた。
動悸はバグバグうるさく響き指先でさえ動かすのは憚られる。
「…………はい?」
誰だ、その言葉を飲み込み代わりに唇を切ったのは搾り出したような声だった。
「お前さぁ、最近なんで俺のことを避けているんだ?」
「さっ、避けてなんて……」
否定しようとして言葉が続かなかったのは彼にも身に覚えがあったからだ。
確かにここ最近、青野に対するものはあからさまに「避けている」を指していた。
校内を歩いている時に目聡く発見してわざと遠回りして教室に戻ったり、授業でどうしても距離を縮めてしまいそうな時はサクサクとことを済ませて対処して来た。
だが、普通こちらにその気がなくても相手は傷ついているはず、特に理由らしきものが見つからなければ尚の事ここは素直にそれを認めるべきだろう。
生唾を飲み下し恐る恐る視線を戻すが彼は怒るどころかどうした?と、笑っている。
良かったと、安堵したのも束の間だった。
いきなり紫紺の年相応の青年よりも細い首に骨で角ばった両手を回された瞬間、脳裏に一週間前夢で見たあの光景がフラッシュバックする。
あの時首を絞められたのは自分ではないはずなのにどうしてか感覚が、触覚が、あの犯人を連想させた。
「なっ?!……何をっ」
気持ちが悪い、今にも吐き出しそうになるのを押さえて眉を寄せて苦笑してみる。
あれはただの夢だ、きっといつものように生徒をからかっているだけなんだと、必死に湧き上がる肯定を打ち消す。
……だが、現実はそんな彼を嘲笑った。
回された両手は豪雨で冷え切っている大気と反して熱い。
本気だ、みるみる身体中から血の気が失せてゆくのがわかる。
意識を無視してガクガクと震え出す自分が情けなくて涙が込み上げてきた。
「そうしてるとやっぱり女子にしか見えないよなぁ。東雲が男じゃなきゃ結構俺の好みなんだが…」
「どこをどうして漏れたのか知らないがお前をこのまま生かしとくとこっちのリスクが高くなるんでな。諦めて成仏しろよ」
何て理不尽で身勝手な都合だ。
しかし、そう思った所でこの状況が変わる訳でもなく、まるで首の脂肪を楽しむかのようにゆっくりとした調子で両手に力が込められ始めた。
「っ!?」
思わず目を強く閉じる。
あぁそうか夢の中の「僕」もこんな気持ちだったのかと、思えば不思議と震えが治まった。
(このまま死ぬのか……)
願ったりかなったりじゃないか何を今更と嘲笑うもう一人の自分がいた。
……結局、あの人たちには何一つ返すことは出来なかった。
(母さん、父さん、花桜……桜井……真倖…………卯月っ)
次々に思い起こされる顔に涙が一筋頬を伝う。
彼らにとって自分は良い人間だったろうか。
出来の良い……なんて恐れ多いことは言えないが出来るだけ迷惑は最小限に抑えようとこれでも心掛けてきたつもりだ。
そうであって欲しいと言うわがままなのかもしれないが、願わくは彼らに幸せがあらんことを…………。
『……本当にそれで良いんですか?』
それに耳を疑い、弾かれたように目を見開く。
今のは紫紺の回想の中の声ではない。
まだ呼吸は出来る方だが言葉を紡ぐには限られている。
……だが、彼には全く覚えのない甘い大人の色香を持つ女性のものだった。
「ほ、ほぉ……まだ無駄口を叩く元気があったとは…………それじゃ本気で行こうかっ!」
一瞬怯んだ様子を見せたが何かを言い聞かせるかのように頭を振った瞳孔には刃が宿っていた。
「そうはさせるかっ!!」
今度こそ殺される、再び目を閉じるのと何かが部室を暴れまわる音が響いたのはその直後だった。
突如自由になった首元に冷えた大気が戻ってくる。
疑問で体が停止してしまう前に赤子が産まれて始めてするように泣いた。
先程まで青野に掴まれていたであろう箇所にはまだ湿り気を帯びた体温が生々しく残っている。
「大丈夫かっ、紫紺!」
へなへなと力無くその場に座り込む自分に駆け寄ってくる声には覚えがない。
先程の騒ぎを聞いて駆けつけてきた非常勤の教職員か守衛の誰かだろうと咳き込むのに夢中であることに気付かないフリをした。
こんな性格だ、彼の名を呼ぶ者は限られている。
だから聞き間違いだろうと思い込みたかったのだが背中を擦る手の温もりに感化されたのか、また一暴れでもしそうな青年の右耳を今出来る限りの力で引っ張ってやる。
「イテテテテっ!?…………何するんだよっ」
「それはこっちの台詞だっ!」
死にたくない…そんな思いに気づかせられたのだから……。
「助けに来るんだったらもっと早くに来いよっ……っ……バカ左近っ」
「わ、悪かったよ……ってお前っ!?」
怖かった…、死ぬことが恐ろしくて堪らなかった。
誰かに縋ってしまう弱さをとうに捨てたはずだったのに機会を得ればひょっこり顔をもたげる、何ともげんきんな奴だ。
「思い出したのか、全てを…」
着物の袖で涙をそっと拭い、ごく自然に紫紺の華奢な体を抱きしめた。
背中に回された手があまりにも優しく擦ってくれるから余計に涙腺が緩んで困る。
「あぁ、思い出したよ……君が誰なのか……僕が何者なのか」
きっと、これでも加減はしてくれたのだろう、鳥たちがいる机以外はまるで不法投棄された家電製品のようにあちらこちらに散らばってはあるが窓ガラスも部室にも損傷はなさそうだ。
「……」
部室には物音に驚いて羽ばたいた鳥たちの羽根が飛べない主の代わりに宙を舞い、そして……はらはらと堕ちていった。
願わくは部室の外で壁に背垂れている人物には降り積もらんことを……。
後書き
『もうこれ以上お前とは住めない』
「だからっ……僕はっ」
ページ上へ戻る