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追憶は緋の薫り

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悪夢から目覚めれば…

 怖い誰か助けてと、気持ちが流れ込んできそうなぐらい「僕」は走っていた。

 視界が慣れては来たが真っ暗な校内は勝手が判らずどこに行けば今の状態から打破する事が出来るのか周囲を見回すが、平静を失っている瞳には手振れカメラの画面のように映り、探すことさえ困難だ。

 落ち着け落ち着くんだと、何度念じたことだろう。

 そんなことをしても無駄だと解り切っているのに紫紺は祈った。

 元々そう体力がない所為か、「僕」は息を荒くし今にもその場に倒れそうな足に鞭を打って走る。

 校内には慌しく駆けるヒールのコツコツと甲高い音と共に遠くの方からカツンカツンと体重を踏みしめて歩く靴音が響いている。

 「僕」はそれが聞こえるだけでその身を震わせ答えの出ない疑問が胸を占領していく。

 階段を下り終えた頃にはその場に座り込んでしまい立ち上がろうにも腿に力が入らなく、そんな情けない「僕」をあざ笑うようにガクガクと動くだけで一向に前に進まない。

 せめて這ってでもと、手を伸ばした拍子に今一番聞きたくない声が耳を掠めたのを最期に「僕」の視界は途切れた。

 暗闇の中、誰かに呼ばれている気がしたが何かに強く引っ張られる中、それを知る術はなかった。



 紫陽花が良く似合う六月上旬、先月の名残の長雨は梅雨となり地上をその涙で潤し満たしていた。

 時刻はまだ六時十五分、ちらほらと目立ち始めたサラリーマンたちの傘を差す音が閑静な住宅街に朝を告げ短く木霊する。


「いってきます」


 マンションの一角からそろりと姿を現した彼は出てきた時と同じく、ドアノブを握ったまま音を立てずに閉めガチャリと鍵穴を回す。

 この間冬服から夏服に衣替えをしたと言うのに色素が薄い所為なのか、半袖から伸びた腕が酷く寒そうだ。

 ズボンの左ポケットに鍵を仕舞い足音に注意しながらドアを背に歩き出す。

 その頭部に開いている小さな穴には羽根が着いたキーホルダーが括り付けられ、納まり切らないその長さはまるで尻尾のようにだらしなく垂れた。

 手にしていた少し青み掛かった紺色の折り畳み傘を一点のシワもない付属の袋の中から取り出す。

 イジメだったのだろうか昔、小学生の頃気に入っていた傘を盗られてから愛用するようになったがその後、校舎近くの公園で無残な姿で発見されたが当時、クラスの異端であった紫紺が知らぬを貫き通したのは言うまでもない。

 布地に当たって雨粒が弾ける音を聞きながら思考は別の所に行っていた。

 夢から目覚めた瞬間、あまりにもの恋しさに咽び泣いた。

 別段、空気に飢えていた訳ではない。



 ……彼は優し過ぎたのだ。



 あの夢を見始めたのは小学一年生もあと少しと言う三月、その日は長続きの風邪に少々の不安を抱きつつ自室の二段ベッドの下の方で大人しく寝ていた。

 きっと子供ながらストレスを溜め込んでいたからであろうが、あの日網膜に焼きついた映像と断末魔にも似た思考の濁流を今でも忘れることは出来ない。

 その後睡眠がとても恐ろしくなったがそこはやはり年齢相応の少年で、どんなに抗おうとしても瞼が重くなり夢でまた叩き起こされた頃には夜明けを迎えていたが、ラスト数十分間の無声映画に編集されていた。

 良し悪しもないがどうせ見るならばもっと楽しい方が良い。

 駅から一本道にある自宅から歩いて約十五分の小高い丘の上には彼が小等部から通う白梅学院がある。

 文武両道を謳うこの学園には芸能や財界など卒業後も目まぐるしく活躍をする者が多いと入学案内に載っていた気がするが、彼にとってそれは無駄知識に他ならなかった。

 憧れの誰それの後輩になった所で結局は自分がどうなりたいかであって、これはもう死語かもしれないがミーハーになれと言う訳ではない。

 あくまで過去の彼らは宣伝であって直接在校生に手を下すことはないが、感のいい人間は入学する前から気付いていてその何十倍もの覚悟を決めているだろう。

 周囲から自然と比較される自分に……。

 まだ朝の早い高等部の校庭には当たり前だが誰もいない。

 晴れていたのならば朝練のため何らかの運動部がいたりもするのだが、今日はあいにくの雨でグラウンドを占めているのは暑苦しくも群れて走る野球部でも身なりも足取りも軽やかな陸上部でもなく、いくつもの水溜りだった。

 一日開けてから今日で二日目になるがその勢いはまだ治まらない。

 ここまで降り続くと逆にある種の潔さを感じる。

 古めかしい錠前で閉められたままの正門を確認し終えるとそのまま横切り、目の前に差し掛かった橋を渡らずに左に曲がる。

 平均成人男性が二人並んで歩けるくらいの細道をずっと進んだ先には、向かい合う二体の稲荷に護られた華宵殿が時を越えても変わらぬ姿のまま佇んでいた。

 ここに来るのも随分久しぶりである。


「ここに来るのも何年ぶりだ?」


 周囲には彼の他には人っ子一人もいない。

 カバンから取り出したクラッシュゼリーのふたを軽やかな手つきで回して口に含む。

 あの夢に叩き起こされた朝はとてもじゃないが食べる気にはなれない。

 それは小学生の頃も同じだったが、当時は家族に心配を掛けたくなくて胃に押し込めていたけれどやはりそこは無理が合ったようで、ある日とうとう親の目の前で盛大に吐いてしまった。

 それ以後、紫紺の朝食はこれか手軽に食べれるバーやクッキーなどが定番だ。

 最近では母にダイエットをしているからいいわねと、冗談が言い合えるほどになったがそれでも人間の生きる醍醐味の一つでもある睡眠を妨害されることには慣れない。

 目覚めて間もない体にひんやりとした液体が食道を流れ込んでいくのはとても心地が良い。

 頭の中ではまだ幾重にもないであろう過去を遡り、ある人物を見つけたのと左ポケットにねじ込んだ携帯電話からバイブ音が鳴ったのはほぼ同時だった。

 あて先は母親からだった。

 今どこにいるの?また怖い夢でも見た?と、文面からも気遣いが溢れている。

 きっと、鍵を掛ける音に気付いてもぬけの殻の部屋を確認してからたどたどしい手つきでこのメールを打ったのだろう。



……また、あの人を心配させてしまった。



 大丈夫。ちょっと友達と待ち合わせをしているんだと、偽りを送信する。

 彼女は信じてくれただろうか、さらに五分以上経ってもそれに上乗せしたメールは届かなかった。

 風が少し強く吹く。

 木の葉のさやぐ音がまるで「僕」がさめざめと泣いているように聞こえる。

 例え夢とは言え、救うことができなかった自分の愚かさと弱さが有無を言わせずこちらを攻め立てているのではないかと思わせるのだろう。


「……じゃあ、どうすれば良かったんだよ」


「「どうすれば……」って何がだ?東雲(しののめ)


 傘を持つ手に僅かに力が篭る。

 朝の早い時間にこんな人気のない場所で誰かに聞かれるとは想定外だ。

 しかも、この声には聞き覚えがある。

 振り返った先には数学教師で担任の青野先生が実に爽やかな笑顔でおはようと、右手を軽く上げた。


「おっおはようございます…」


「どうした?こんな時間に」


 まだ学校は始まってないぞと言う彼の言葉を意識的にうっちゃり、何故ここにいるのか出来るだけ平静を装って尋ねてみる。

 青野は白梅(しらうめ)学院に勤めてまだ七年で、俗に言う「新米が発芽玄米になった」のが奴だ。

 だからだろうか、その思考と言い行動と言い何かと熱い所がある。


「何を言っているんだ、先生はこれくらいが普通だぞ」


「そっそうですか…」


 やっぱり暑苦しい、改めてそう思う自分がこの場から逃げ出さないことが不思議だった。

 授業や人間性などに申し分はない。

 一教師を捕まえて上から物を言うほど地位や名誉がある訳ではないが、致命的な欠陥を指すならば迷わずそこをプッシュしたいくらい紫紺は苦手だ。     


「……ま、待ち合わせをしているんです。桜井と・・・」


 偽りを飲み込んで笑顔を返したがその目は死んでいた。

 何は口より物を言うとはよく言ったものだ。


「おお、そうだったのか!悪かったな邪魔をして」


「いえ……そんなっ」


 取り繕った良心で引きとめようとするが青野は「じゃあ、また後でな」と、言い残してスタスタと去っていった。

 生徒重視の彼は嫌いではない。

 それまでの過程が骨折り損だが、後は見ての通り操縦しやすい。

 再び一人になり華宵殿に向き直る。

 雨ざらしのそれは寺院にもまた、神社にも思わせた。

 この場所にやって来たのは勿論待ち合わせのためではない。

 あの夢から目覚めても尚、誰かに呼ばれている気がして鳥居の前まで来たがやはり自分以外はいない。

 血色のない頬を緩めて笑った顔が脳裏に過ぎる。

 それを最後に華宵殿に足を運ぶことはなかった。


「…真倖いるかな?」


「……雄黄(ゆうおう)はもういない」


 懐かしむ目と悪戯心がタッグを組んで一歩前に踏み出す彼に、水面に雫が落ちるような静かな声が掛けられたのはその後だった。
身を硬くし、辺りを見回すが誰もいない。


(幻聴……じゃないよな?)


 自慢ではないが、聴力には今まで一度も健康診断で引っかかったことはない。

 目を伏せ次に開いた時にはすべては決まっていた。


「「ずっとお待ちしておりました……主様」」


 ピッタリと揃った二重奏に導かれるまま瞼を開くその先には、雨にも拘らず金銀の派手な髪を垂らして仰々しく跪く二人の青年がどこからともなく現われた後だった。 
 

 
後書き


『熱があるならそう言えよ。…先生だって鬼じゃねぇんだし』


『……いやだ。そんなの自分に負けているみたいだ』

 
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