三年目の花
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1部分:第一章
第一章
三年目の花
「一年で種を撒き、二年で水をやり、三年で花を咲かせる」
野村克也はヤクルトの監督に就任した時にこう言った。これを聞いて多くの者は笑った。
「幾ら何でも無理だろう」
そう思っていた。
この時ヤクルトは確かに若手が成長してきていた。だが優勝する戦力にはないと誰もが思っていた。
「確かに前よりは強くなったな」
以前のヤクルトは万年最下位のしがない弱小チームであった。三試合して一勝すればいい、そうした雰囲気があった。当時最下位にはならなかった。阪神という他を寄せ付けない程の弱さを誇ったチームがあったからである。流石に阪神よりは強い、と冗談で言われていた。
「弱いからヤクルトが好きなんだ」
こういったやせ我慢めいた台詞もあった。マゾヒズムと言えばそうなる。ヤクルトファンもヤクルトも長い間馬鹿にされていた。
彼等を最も馬鹿にしていたのが『自称球界の盟主』とその信者共であった。
所詮この連中は野球を愛してなぞいない。そこまでの品性も知能もない。ただ長嶋や王を見ていればそれでよく偽紳士が勝つのを見たいだけである。劇場化された正義、いや偽善に酔いしれているだけなのである。
そうした連中の嘲りにどれだけ耐えただろう。ファンは来る日も来る日もヤクルトを応援していた。
だが弱いのは確かだった。チームの雰囲気はいい。フロントと選手の関係は他球団とは比較にならない位良好であった。ヤクルト程そうしたことに恵まれているチームはなかった。
しかしそれは強さとは結びつかない。プロとしての気迫に欠けていたのだ。それはヤクルトのチームカラーと言ってしまえばそれまでだ。そういった執念を見せるチームではなくあくまで野球を楽しんでいるチームであった。
そのカラーは野村の前任者関根潤三の時もそうであった。彼は戦術よりも育成に興味のある人物であった。
彼はまずは若手の広沢克己、池山隆寛に目をつけた。試合前のバッティング練習は目を細めて見ていた。
「あいつ等は去勢しちゃ駄目なんだ」
そう言って打席でも思いきり振らせた。三振してもよかった。それで関根は怒らない。ただし弱気なプレイには怒った。
「監督は消極的なプレイには厳しかったですね」
こうした意見がよく出てきた。彼によりヤクルトの選手達は育てられていたのだ。
そこに野村が入った。彼は当初ヤクルトに合うかどうか危惧されていた。
「関根さんは明るかったけれど野村さんはなあ」
こうした意見があった。野村はその外見と囁き戦術等に見られる独特の知略からとかく陰気な人物と思われていたのだ。これは仕方ない一面もあった。そうした戦術を使うのは事実であるからだ。
しかし野村程その実像を知られていない人物もそういない。彼は実際はなかなか洒落とユーモアのわかる人物なのだ。
「わしは陰気な男やからな」
よく笑ってこう言った。自分を図々しくひねくれた人間であるとことさらに主張する。だがその本質は違うのだ。
彼と長年に渡って戦ってきた闘将西本幸雄は彼を高く評価していた。こういう話がある。
野村が南海の監督を解任され孤立無援の状況に陥った時のことである。新年の年賀状に当時近鉄の監督をしていた西本からのものがあった。そこには筆でこう書いてあった。
『頑張れ』
と。西本は野村に何としてもこの苦境を乗り切って欲しかったのだ。
西本は野村のことをよく知っていた。決して嫌いではなかった。だからこそ励ましたのだ。これが西本であった。彼はただの闘将ではなかった。人間としての度量の広さと温かさも併せ持っていたのだ。
「西本さんはわしを買い被ってくれとるわ」
そう言いながらも西本への感謝の気持ちは決して忘れなかった。野村は西本に対してはあくまで誠実かつ謙虚に対応している。
「野村さんはああ見えても優しいんですよ」
「いい人ですよ。繊細で」
こうした意見も多い。彼を知る者はよくこう言う。
「あの人ははにかみ屋かんですよ。だからわざとあんなことを言う」
「本当は困っている人を見捨ててはおけない。そういう人なんですよ」
人生の辛酸を舐めてきた。だからこそであった。そして彼は心から野球を愛していた。
暇があればテレビで試合を見る。高校野球もだ。彼は野球に全てを捧げていた。
これについてもとかく言う人がいる。だが彼を批判する者は彼を全く知らないからだ。彼は野球を本当に愛しているのだ。
「愛とかそういった言葉はわしには合わへんな」
そしてまた減らず口を言う。しかし常に野球のことを考えている。
「ほんの球遊びや。しかしそれが本当に難しくて楽しいんや。だから野球を止められへん」
誰よりも野球を愛している彼はヤクルトの監督になっても当然の様に野球のことだけを考えていた。目指すのは一つしかなかった。
「優勝や」
そして三年目で優勝する、と言ったのだ。
ヤクルトで、である。巨人の様なチームではない。もっともこの当時の巨人は投手力を中心としたスマートなチームであり監督である藤田元司も至極まともな人物であった。あの『史上最強打線』という愚劣極まる滑稽な程醜悪で奇怪な看板を掲げた荒唐無稽な異常極まる打線を掲げたりはしなかった。この様なもので悦に入ることができるのは野球を冒涜しているからに他ならない。
また当時のセリーグには巨人に匹敵するチームもあった。広島や中日も強かった。とりわけ広島の粘りは驚異的なものであった。
そうした状況であった。野村は人材を着実に育てていった。まずは司令塔である。
この時ヤクルトのキャッチャーは秦真司であったが彼はそれに満足していなかった。
「もっとええキャッチャーが必要や」
ヤクルトの打線は揃ってきている。守備は池山のそれは雑だが運動神経がかなりいいのでショートは問題ない。セカンドの笘篠賢治はいい。ニ遊間はしっかりしている。サードのハウエルも普通に守備範囲こそ狭いが肩はそこそこある。ファーストの広沢が不安だがニ遊間がしっかりしていれば問題ない。
外野は飯田哲也がいる。キャッチャー、セカンドとめまぐるしくコンバートしていたがその俊足と強肩を買った。彼をセンターに置けば守備はかなり固くなる。レフトには荒井幸雄だ。そして問題の秦はライトにした。
「守備は不安やがな」
だがその打撃を買った。何よりも彼は貴重な左打者である。勝負強さと共にそれを考慮した。
攻撃にもなかなか秀でていた。しかしそれだけでは勝てない。ヤクルトの弱点はそれではないのだ。
投手である。人材がいなかった。
エースには岡林洋一がいる。そして西村龍次。伊東昭光に内藤尚行。先発は数はいた。だが岡林以外は確実な人材はいない。甚だ心許なかった。
それをカバーするにはやはりキャッチャーであった。その弱体投手陣を上手くリードし、勝利に導くことのできるキャッチャー。野村はそれ以上のものを考えていた。
「野球はまずキャッチャーからや」
キャッチャー出身である彼の持論であった。野村はキャッチャーをリードするだけの存在とは考えていなかったのだ。
リードやキャッチング、肩だけではない。グラウンド全体を見ることができ、的確な指示を出せるキャッチャー。文字通りの『司令塔』を欲していたのだ。
それに白羽の矢を立てたのが古田敦也であった。野村は彼を徹底的に鍛えた。
「わしはグラウンドにまで指示を出すことはできん。あとは選手の問題や」
その指揮官である。彼の采配や考え方を叩き込んだのだ。
送球フォームもチェックした。打撃も。時にはロッカーの抜き打ち検査までしている。キャッチャーの在り方を教える為である。
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