空を駆ける姫御子
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閑話4 ~彼女達の日常
前書き
閑話4。ブログにて連載していた本編には影響ない短編シリーズ(裏御子!)の中から三本を統合して再構成したもの。ほぼ書き下ろし。
時の流れは優しくもあり、残酷だ。あたしが執務官になってから随分と経つが、未だにあの頃の仲間と定期的に連絡を取り合っているかと思えば、今は何をしているのかわからなくなってしまっている者もいる。今はそれぞれの道を歩いている仲間達。瞼を閉じれば、鮮やかに思い出すことが出来るあの頃の思い出。今から語ることになる思い出は、全てあたしが経験した物もあるし、人から聞いた物をあたしが一部再構成した物もある。中には本当に──── 夢のような話もある。昔話をしてしまうほど年齢を重ねてしまったとは思いたくはないが、今日はほんの少しだけ。語りたいと思う。
──── いい? これは夢なのよ。
さて、あたしが間抜けにも囚われた上に監禁され、あわや貞操の危機であった忌まわしき事件の傷も少しずつ癒え始めた頃。アスナがぽろっと口を滑らせてくれたお陰で、お兄さんにあたしの下着が見られたことが発覚した。暗雲のようなあたしの心を癒やす為にバカスバルに制裁を加える事で、今の晴れ渡る空のようにすっきりしたので取り敢えずは良しとしよう。
あたしは定番となりつつある中庭のテラスで束の間の休息を楽しんでいた。心地よい陽射しと、美味しい紅茶。早朝訓練の疲れもあり、不覚にもあたしが船をこぎ始めていた頃に訓練用のカーゴパンツを誰かに引っ張られる感触で、あたしの意識は覚醒した。あたりを見渡しても誰もいない。
寝ぼけていたのかと首を傾げていると、また裾を引っ張られた。あたしがそちらへ意識を向けるとそこにいたのは──── アスナだった。こちらを不思議そうに見上げている。
「どうしたの、アスナ」
「……なにしてるの?」
「何してるって……見ての通り休憩。あたしに何か用?」
あたしに尋ねられたアスナは、何も答えずに硝子玉のような瞳をあたしに向けるだけだった。そうしている内に結局アスナは何も言わずに隊舎へと戻っていく。大抵何を考えているかわからない娘だが、今日はそれに輪を掛けてわからない。いったい何がしたかったのか。左手首に巻かれている時計を見ると、もう休憩も終わる時間だった。今日の時間泥棒は随分と仕事熱心らしい。あたしは冷めてしまった紅茶を飲み干すと、隊舎にあるロッカールームへと急いだ。
六課職員であるあたし達の日常業務は割と地味だ。魔導師と言えば派手なイメージがあると思うが、平時に於てはデスクワークが主な仕事になる。今日の訓練での自己評価や、各種報告書などをやっつけて凝り固まった体を解すように伸びをする。ふと気が付けば、アスナがいない。先ほどまでいたキャロの姿も見えない。
「スバル、アスナとキャロって何処行ったの?」
スクリーンに齧り付いて報告書を四苦八苦しながら仕上げていたスバルが面倒くさげに答える。
「二人なら資料室。なのはさんのお使いだよ」
なるほど、キャロのお手伝いか。あたしは自分の分を仕上げてしまったし、スバルの手伝いでもしようかと思った時に、キャロがアスナの手を引いて戻ってきた。仲の良いことだ。アスナは持ってきた資料を両手に抱えるようにしてなのはさんへと渡す。アスナが満足そうな顔をしながら戻ってきたのを横目で見ながら、スバルの報告書を手伝ってやるのだった。
食堂にて夕食。寮に帰って自炊する人間もいるが、あたし達は専ら食堂でお腹を満たしていた。スバルは相変わらず何処に入るんだと思うほどの量だし、アスナはいつも通りの小食だ。オムライスを食べていたアスナが、身を乗り出しながら手を伸ばす。あぁ、ソースを取ろうとしているのか。あたしが取ってやろうと思ったところにアスナの隣で食事をしていたフェイトさんが、ひょいとばかりに手を伸ばして取ったソースをアスナに渡す。
「……ありがとうございます」
「ううん。……アスナ? ピーマンとか残したらだめだよ」
アスナの好き嫌いの多さは昔からで、しかも筋金入りと来た。あのお兄さんが為す術もなく白旗を揚げたほどだ。よくオムライスを食べているのを見かけるが好物らしい。……兄を少しだけ思い出した。手が止まったあたしをスバルが見ている。この娘は昔から変なところで鋭いのだ。あたしは誤魔化すようにただ、思いついた話題を口にした。
「オムライスは好きよね、あの娘。お兄さんと一緒にこっちに来た時に、食べたって聞いたことがあるけど」
「小さい頃って、アス」
スバルがそこまで口にしたところで、食堂に入ってきた八神部隊長がスバルへと声を掛けた。食事中ではあるけれど緊急らしい。慌ただしく八神部隊長に付いていったスバルの背中を見送る。スバルが何を言いかけたのか気にはなったが、後で聞けば良いと考えパスタをやっつける為に食事を再開した。
今日も一日が終わる。だが、それは明日の始まりでもある。シャワーを浴びて重くなった髪を少しだけ煩わしく思いながら鏡の前へ座る。こうやって髪を下ろした姿を見ていると、アスナに似ている。あの娘が六課へ来たばかりの頃に後ろ姿だけで間違われたことが数回あった。聞けば、アスナもそうらしい。……唐突に違和感が襲ってきた。今日は、何かが──── おかしい。
よくわからない。何がおかしいのかも。だけど、あたしの頭は確実にそれをおかしいと言っている。思い出せと訴えかけてきている。こんな場合は必ずどこかにある筈だ。あたしがそう感じた物が。朝からの行動、情景、交わした会話を全て思考する。考えろ。考えろ。考えろ──── 気が付けば、あたしは寝間着のまま部屋を飛び出していた。
あたしが部屋を飛び出して、目的の場所へ辿り着こうとした時。廊下の先にその人物は立っていた。廊下の突き当たりにある窓へ寄りかかるようにしてこちらを見つめている。
「その表情から察するに思い出したみたいね。……ティアナ・ランスター?」
その人物は。その少女は、あたしを珍しい生き物を見るように佇んでいる。
「あなたは……なに? そんなことはどうでもいいわ。あたし達のアスナをどこへやったの?」
どうしてこんな馬鹿げた事態に気が付かなかったのか。本当に──── 馬鹿げている。昼休みに中庭で会ったアスナはあたしを見上げていた。キャロに手を引かれて戻ってきたアスナ。持ってきた資料を両手で抱えるようにしてなのはさんへ渡したアスナ。テーブルのソースを身を乗り出しながら取ろうとしていたアスナ。アスナは──── 小さくなっていた。見た感じはキャロやエリオよりも年下だったような気がする。
「思い出すはずはないんだけどね。あなたの頭脳は『思考』することに特化しているのかしら」
そんなことはどうでもいい。あたしは一瞬でバリアジャケットを身に纏うと同時に、ホルスターからクロスミラージュを引き抜く。それを見ても少女は眉一つ動かさない。
「……過去のアスナと、あなた達が知っているアスナ。つまり未来のアスナと入れ替わっちゃったのよね。あぁ、理由は話さないわよ? もう解決しちゃってるし、意味は無いから。……まったくあの男は、おろおろするばかりで役に立たないし。で、私が出張ってきたというわけ。私は友達で家族らしいしね」
少女が言っていることを何一つ理解出来なかった。あの男? アスナの家族? あたしの混乱をよそに少女は尚も話し続ける。
「眠りなさい、ティアナ・ランスター。明日になれば全て元通りよ。あなた達の日常が帰ってくるわ。……私はあなた達の『物語』には関わらないし、関わるべきじゃない。私は彼に会った時にそう決めた。あたしのような存在や、出鱈目な力を使って我が物顔で暴れてる人間なんて気分が悪いでしょ?」
いったい、何を言ってるんだろう。
「じゃ、帰るわよ。アスナ」
いつの間に来ていたのか、少女の傍には小さなアスナがいた。今のアスナをそのまま小さくしたような容姿。髪型だけが今と違い、あたしのように左右で結わえている。少女はアスナを抱きかかえると、あたしに目の前から姿を消した。本当にフィルムのコマ落としのように消えてしまった。呆然としていたあたしに強烈な睡魔が襲ってくる。抗う気も起きないほどの眠気に、あたしはあっさりと意識を落とした。消える寸前にアスナが言った言葉を思い出しながら。
……酷い夢を見た。最悪だ。あたしが目を覚ましたのは見慣れた自分の部屋だった。ご丁寧にもきちんとベッドで寝ている。あたしを起こしに来たスバルへ昨日のことを聞いてみたが、何も憶えていなかった。いや、正確にはあたしの知らない日常だった。更には頭の心配までされた上に、今日は休めと言われる始末だ。ホスピスの患者を見るようなスバルの視線が腹立たしかったので一発殴った。
屋外訓練場で雲を数えていたアスナへ声を掛ける。アスナは何も答えなかった。アスナが何も答えない時は興味が無い時か──── いや、いい。どうせ夢なのだから。
「今日も疲れたね、ティア」
「そうね……アスナ、帰るわよ。プリン奢ってあげるわ」
「どうしちゃったの、ティア。……やっぱりどこかおかしいんじゃ」
酷い言いぐさだ。別におかしな事じゃない。本人たっての願いなのだから、少しくらい優しくしてやってもいいだろう。
「さ、早く行くわよ」
──── 未来のわたしをおねがい
~胡蝶の夢 了
「アスナのこわいモノって何?」
地球での派遣任務を終えた二日後。アスナが地球から連れ帰ってきた蛙の件で、シグナム副隊長からがっつりと説教を食らい、八神部隊長がこの件の落としどころに頭を悩ませていた頃。あたし達は中庭のテラスでお茶をしていた。今日は普段よりも人が多く、あたし達以外に八神部隊長となのはさん、フェイトさん。ちびっ子二名にシグナム副隊長がいた。
六課男性陣から「人間大砲(人を吹飛ばすと言う意味で)」と言う不名誉なあだ名を付けられたアスナは、つい先ほどの訓練時に『エリオロケット』なる技を披露し、フェイトさんから小一時間ほど説教を食らった。どんな技かは名前から察して欲しい。当の本人は、何処吹く風で頭に蛙を乗せたままキャラメルティーを飲んでいた。その話の流れかどうなのかはわからないが、唐突にフェイトさんから発せられた言葉が冒頭となる。
問いかけられたアスナは小首をかしげて暫く考えていたが、ゆるりとフェイトさんに顔を向けると、訳のわからない事を言い出した。
「……まんじゅうこわい」
今この場にいる人間で、アスナの発言にツッコミと言う名のボールを投げ込もうなどと考える人間は誰もいない。それらは大抵の場合、全力で打ち返されるのがわかっていたし、関係の無い観客にまで被弾する可能性があるからだ。……一人を除いては。
「そうなんだ。……ここにちょうど、お饅頭が」
何で持っているんだとも思ったが、一瞬口を開きかけた八神部隊長が我慢したので、あたしも沈黙を守ることにする。フェイトさんは取り出した饅頭をアスナの目の前に置いた。
「蛙さんのお名前、決めたんですか?」
キャロが一連のやり取りなど最初からなかったようにアスナへと質問した。
「……まだ考え中」
どうせ妙な名前に決まってる。アスナのネーミングセンスは、スバルとは違うベクトルで変な事を知っている。頼んでもいないのに地球へ連れてこられた為に恐らく珍妙な名前になってしまうであろう不幸な蛙に心の中で手を合わせていると、アスナが目の前に置かれた饅頭を口の中へ放り込んだ。なのはさんが俯いている。肩が震えているところを見ると笑うのを我慢しているようだ。
「何で食べちゃうの?」
フェイトさんの疑問は尤もだ。フェイトさんにとってはだけど。
「……こわいから食べた」
「そうなんだ。……え?」
フェイトさんの隣に座っていたなのはさんが、鼻から漏れたような笑い声を上げる。我慢できなかったようだった。フェイトさんの頭に咲いているお花は今日も元気いっぱいだ。
「なのは? どうしたの?」
「な、なんでもないよ? 笑ってないよ?」
我関せずとチーズケーキをつついていた八神部隊長がとうとう口を開いた。
「……フェイトちゃん、『落語』って知っとる?」
「ラクゴ? 聞いた事はあるけど……」
「フェイトちゃん、暫く地球におったんやけどなぁ。フェイトちゃんが地球におった時に憶えた日本の文化ってなんや」
「え? えっと……ポケモン?」
「何言うとるんや、この子。アスナちゃんはよう知っとったなぁ」
この人はフェイトさんやなのはさんには割と容赦が無い。あたし達のような関係らしい。キャロとエリオがフェイトさんの頭を撫でて慰めていた。
「……おにいちゃんにおしえてもらった。うたまるは妖怪」
また、トンチキな事を言い出した。八神部隊長は先ほどと同じように何かを言いかけたが、やはり口を噤んだ。妖怪で嫌なことを思い出した。ミッドチルダにはない概念である『妖怪』なるものをあたし達が知らないとみるや、アスナは懇々と三時間にも渡って妖怪講座を開いてくれた。お陰であたしとスバルはミッドチルダでも三本の指に入る妖怪博士だ。全く嬉しくない。因みにその三本はアスナとスバルとあたしだ。
「結局、アスナは何が怖いの?」
フェイトさんはアスナの弱みを握って何がしたいんだろうか。アスナは少しだけ考えて口を開いた。
「……働きアリの大半は……働いていない。こわい」
「え。そうなの? 働き蟻なのに? 働き蟻の大半がニートだったなんて……怖いね、エリオ」
「え? え、えっと……はい、こわい? ですね」
無茶ぶりされたエリオは何とか言葉に詰まりながらも答えた。偉いわよ、男の子。八神部隊長が何とかしろとばかりに、なのはさんへ視線を送る。八神部隊長の真摯な視線をまっすぐ受け取ったなのはさんは、そっと目を逸らした。あぁ……今やっと理解した。あたし達で言うところのアスナのポジションが、フェイトさんなわけか。
結局、『この娘に怖いもんなんてあるわけねーじゃん』と言う至極当たり前な結論にたどり着こうとした時に、八神部隊長に一人の女性が近づいてきた。確か……受付の女性だ。
「八神部隊長、お休みのところ申し訳ありません。面会希望の方が、いらっしゃってるんですが」
「うん? 今日は誰も予定は入ってへんで?」
「それが……アスナさんのお身内の方だそうです」
アスナの背後にお花が咲き誇ったのを幻視する。アスナに会いに来る身内など一人しか思い浮かばない。
「その……『このたびは愚妹がご迷惑をおかけしました』と」
アスナの背中に咲いていた花が見る見るうちに枯れていった。どうやら、アスナが勝手に地球から生き物を連れてきてしまった事実は既に耳に入っているらしい。アスナは胸に留められているPinsを油の切れたブリキのおもちゃのような動きで見つめる。
「……告げ口したな」
『い、いや。黙っているわけにもいかないだろう。いずれバレ』
アスナはそっと自分の胸からPinsを外すと、キャラメルティーがまだ半分残っているカップへ沈めた。哀れ、ボブ。アスナは音もなく立ち上がると八神部隊長をまっすぐ見つめながらこう言った。
「……自分探しの旅に出ます」
来なくてもいいのに来てしまったボランティアのような事を言うと風のように駆けていった。因みにその方角をまっすぐ行くと海だ。まぁ、あの子には関係ないけど。一方的にサボタージュ宣言をされてしまった八神部隊長がそれを許すはずもなく、シグナム副隊長を見る。シグナム副隊長はそれだけで理解してしまったのか、全身から『面倒くさい』オーラを出しながら立ち上がりアスナを追いかけていった。
「こらーまてーきりゅうー」
お気持ちはわかりますが、もう少しやる気を出してください。
結局、シグナム副隊長では捕まえられず、あたし達まで狩り出され大捕物となったわけだが、ここでは割愛する。このお茶会で明らかになった事と言えば、アスナの怖いものは怒ったお兄さんだったというよく考えればわかる当たり前の事実と、フェイトさんがアスナとは違う方向の天然だったという特に知りたくもない事実だけだった。
余談ではあるが、この数日後。忙しい八神部隊長の代わりに、フェイトさんがアスナをお供に本局へお使いに出かけたが二人揃って本局内部にて迷子になり、職員に保護されるという六課解散まで語り草になる珍事を引き起こす事になる。
これを機に八神部隊長から『フェイトとアスナ混ぜたら危険』と言う戒厳令が敷かれ、フェイトさんが落ち込み、アスナがぶんむくれた事は言うまでもない。さて、最後にこれだけは言っておかなければなるまい。
何か喋りなさい、スバル。
~アスナの怖いもの 了
────── おまえの最大の不幸はな? 俺と出会った事だ。
──── AM 10:32
高町なのははその日。幼い頃からの親友の一人であるフェイト・T・ハラオウンから齎された情報に内心驚愕していた。数年前。彼女が死力を尽くして敗れ去った相手。彼女にとって多くの大切な物を蹂躙し、犯し──── 彼女を晒うかのように姿を消した。彼女は……敗れたのだ。管理局のデータには残っていない。当然だ。高町なのは一人だけの因縁の相手。彼女は無言で立ち上がると、フェイトに短く礼を言い六課のオフィスを後にした。
フェイト・T・ハラオウンは廊下の先へと消えていく高町なのはの背中を見つめていた。数年前の戦いはフェイトにとっても無関係では無かった。彼女は……自分を守る為に闘ってくれたのだから。自分は今回もきっと。足手まといになってしまう。その悔しさを代弁するかのように拳が握り込まれる。フェイト・T・ハラオウンは廊下の先へと消えていく高町なのはの背中を見つめていた。その背中が。誰かに助けを求めているかのように、フェイトには見えた。
──── AM 9:48
「アスナ? 何処行くの?」
桐生アスナが何処へ行こうと彼女の勝手ではあるのだが、彼女のスタイルを見れば思わず聞いてしまうのも頷けた。いつものカーゴパンツにタンクトップ。これは問題無い。だが、彼女がアクセサリの如く装備しているオプションが問題であった。首には手ぬぐい。手には軍手を嵌めており、花壇用のスコップにビニール袋。ティアナ・ランスターには、これから畑へ出かける農夫にしか見えなかった。
「……花壇の花がげんきないので、みみずをとってきます」
ティアナは花の成長とミミズの関連性を暫し疑問に思ったが、少し考え思い至る。
「土が豊かになるんだっけ」
「……そう。土をたべて、うんこする。それが肥料」
「糞だってば。ま、頑張んなさい。……いってらっしゃい」
ぱたぱたと駆けていく華奢な背中を見つめる。代替え手段などいくらでもあるというのに、彼女は態々手間の掛かる方法を選択する。店舗で購入できる人工的に作られた肥料。安全な栄養剤。花の免疫力を高める薬品、etc。だが、あの少女はそれらを使う事を良しとしない。ティアナにはどちらが良いのかは判断出来ない。
「楽しそうだからいっか」
ティアナはそう呟くと、踵を返し隊舎へと戻っていった。視界の端には彼女が最近植えた向日葵が楽しげに揺れていた。
──── AM 11:48
荒い息を隠そうともせず、高町なのはは壁に手をつく。逃げられた。ここまで追い詰めたにも拘わらず、だ。彼女は思う。わたしはまた──── 守れないのか。ごくりと唾を飲み込むと、まるでアルコールのように喉を焼いた。何故か、高町なのはの脳裏に仲間達の姿が浮かぶ。だが、彼女はそれを振り払うかのように頭を振った。戦いの爪痕が生々しいそこを暫し見つめ。高町なのはは、重い体を引きずるようにして戦場を後にした。
──── PM 01:16
「なぁ、フェイトちゃん。なのはちゃんは何しとるんや。いや、ちゃうな」
──── 何と闘っとるんや
フェイトの肩が揺れる。明らかにいつもとは様子が違う高町なのはに、彼女が気づかない筈はなかったのだ。
「朝から上の空やし、昼食も取ってへんやろ? 一体……何をやっとるんや」
「……ごめん。はやて。私の口からは言えない。だけど、きっと。きっと大丈夫だから」
八神はやては食堂の天井を見上げる。高町なのはは筋金入りの頑固者だ。あの『事故』以来、それは改善されたと思っていたが、どうやら違うらしい。八神はやてが天井の染みを数えるという不毛な作業を終え、フェイトへと口を開きかけた時。食堂の入り口から小さな影が飛び込んできた。
「エリオ、どうしたの?」
エリオは乱れた息を整えるのも忘れ。慌てたように彼女たちへ伝える。悲しき『事実』を。
「なのはさんが倒れて……医務室に運ばれましたっ」
──── PM 01:34
スバルが昼食を終えて中庭へ顔を出すと、アスナを見かけた。ティアナから聞いてはいたが、本当に農夫のようだった。
「あれ? アスナ帰ってたんだ。ティアから聞いたよー。見せて見せて、みみず」
「……もう土のなかです」
「そっかぁ、残念。……ティアどうしたの?」
「あんな袋一杯、捕ってこなくても良いじゃない。……夢に出そうだわ」
帰ってきたアスナは、いの一番に捕ってきたミミズをティアナへと見せたのだが、どうやらお気きに召さなかったらしい。透明なビニール袋一杯に蠢くその姿は、嫌いな人にはトラウマものだろう。
「……ちょっと、夢中になった。それと、こ」
何かを言いかけた桐生アスナを遮ったのは、隊舎から中庭へと飛び出してきたフェイト・T・ハラオウンだった。その尋常では無いフェイトの樣子を見て、彼女達の顔に緊張が走る。フェイトは彼女たちのテーブルへ走り寄ると、三人の顔を今にも泣きそうな表情で見つめた。そして。
「ティアナ、スバル、アスナ。お願い」
──── なのはを助けて
──── PM 08:27
満身創痍。足を引きちぎられ滑稽にも、男に出来たのは芋虫のように這いずりながら物陰へ隠れる事だけだった。口からは品のない憎悪と悪態が転び出る。当然と言えば当然で、男をここまで追い込んだ者など今までいなかったのだから。男は痛む足を庇いながらも、どうやって逃げ果せるかを考えていた。
男の優れた察知能力はまるで役に立たず。男の力も、自慢のスピードもだ。だが、まだ自分は生きている。生きてさえいれば又、快楽の日々が待っている。次は殺してやる。だが男は知らない。彼は生粋の狩猟者だと言うことを。唐突に感じた気配に男が後ろを振り向くと──── それはそこにいた。
無感情な瞳が男を見下ろしている。化け物に出会ったかのように体が動かない。男は何処で間違えたのか。あの女をまた狙ったことか。それとも、こいつに出会ってしまったからか。……あぁ、そうだ。こいつは化け物だ。最初から勝てるはずも無かったのだ、こんな化け物に。男の畏怖などまるで意に介した風もなく。それは只、淡々と。男の息の根を止める為に動き出す。
──── 彼に狙われて生き残る術などないのだから。
「で? なのはさんの部屋に出たゴキブリを退治したのが、それ?」
「……アシダカグモの軍曹君です」
『伍長』の次は『軍曹』か。二つとも階級の簡略化の為に管理局でも随分昔に廃止された階級だ。
「何で軍曹?」
「……つよいので」
「あぁ、そう……」
テラスにあるテーブルの上に威風堂々と佇んでいるのが、アシダカグモと言うらしい。でかい上に足が長い。足を含めると10cm以上はある。見た目は悪いが、このアシダカグモ。アスナ曰くゴキブリなどを補食する益虫らしい。人間を自分から咬んだりもせず、万が一咬まれても毒などは無い為、たいしたことは無いとの事。加え夜行性で大人しく、捕食する対象がいなくなると勝手に出て行くそうだ。更にアシダカグモの唾液には殺菌作用があり常に自分の体を殺菌しているという綺麗好き。他の害虫のように疫病を運ぶ原因にもならない。だけど、見た目が怖いと言うか、気持ちが悪い。あぁ、だから不快害虫なのか。
森でミミズを捕っている時にアスナの肩によじ登ってきたので、そのまま連れてきたとの事だった。なのはさんは八神部隊長からお説教中。それはそうだ。ゴキブリを退治する為に部屋で暴れた挙げ句、ストレスで倒れたら怒られるに決まっている。フェイトさんの話によると、数年前に当時住んでいた寮にゴキブリが出たそうだ。食材やデザートなどを食い散らかした挙げ句に、フェイトさんに向かって飛んできたのを、なのはさんが庇って……ご愁傷様としか言いようがない。
「だって、ゴキブリだよっ、悪魔の使いだよっ。魔法少女の敵なのっ」
力説するなのはさん。明らかにおかしなことを言っているが、妙な迫力があった。なのはさんは追いかけてきた八神部隊長に首根っこを掴まれ、そのままずるずると引きずられていった。お説教の途中で逃げ出してきたらしい。
今テーブルにいるのが、あたしとスバル。エリオとキャロ。そして、シグナム副隊長とヴィータ副隊長だ。それ以外はあたし達を遠巻きに見ている。そりゃ、こんな大きな蜘蛛がテーブルに鎮座していれば誰でも近寄りたくはない。アスナが蜘蛛の前に手のひらを出すと、腕を伝って肩へと移動した。
蜘蛛が移動したのを確認するとアスナが徐に立ち上がる。嫌な予感でもしたのか、遠巻きに見ていたフェイトさんが後ずさりした。何の予備動作も無くフェイトさんへと駆けだしていくアスナ。可愛らしい悲鳴を残しながら、フェイトさんが全速力で逃げていく。フェイトさんは蜘蛛がダメらしい。もしかしたら虫全般がだめなのかも知れないけど。こうして六課にまた伝えられることになる珍事が一つ増えたわけだ。
最後に蛇足。アシダカグモこと軍曹君はアスナの部屋へ居候を決め込む事にしたようだ。部屋の先住民が心配ではあったが、なぜか軍曹君は襲わない。不思議ではあるが、アスナだから仕方ない。大半がニートの蟻軍団に、地球から連れてきたアマガエル。諜報活動が得意なハエトリグモに、今度はゴキブリハンターのアシダカグモだ。ペットのラインナップとしては色々と間違っている気がするが、これもアスナだから仕方ない。そもそも部屋に食べ物などを出しっ放しにしなければゴキブリなど出ないし、出たとしてもちょいちょいと……あたしは部屋の隅にいたそれと目が合った瞬間に部屋を飛び出した。彼に助けを請う為に。
──── え、雌なの?
~這い寄る影 了
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