特殊陸戦部隊長の平凡な日々
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第3話:ハイジャック事件-3
ゲオルグが一通りの事務作業を終えてふと顔をあげると、夕暮れの光が
部屋の中に差し込み、床をオレンジ色に染めていた。
時計を見ると時刻は5時10分。
ゲオルグが帰ると宣言した時刻を既に過ぎていた。
(帰るか・・・)
ゲオルグは椅子の上で組んだ手を上にグッと伸ばすと、大きくひとつ
深呼吸をしてから机に手をついて立ち上がった。
脱いでいた制服の上着を羽織り、ネクタイを少し直して部屋を出る。
通路を歩いて正面玄関から外に出ると、昼間よりも少し冷たい風が
ゲオルグの頬を撫でる。
(まだ朝晩は少し寒いな・・・)
ゲオルグはわずかに身体を震わせると、両手をポケットに突っ込んで自分の方へ
歩いて行く。
ゲオルグの足は黒いスポーツカーの前でとまる。
ドアを開け、運転席に乗り込んだところでゲオルグは通信ウィンドウを開いた。
そこにはエプロンをしたなのはが微笑んでいた。
『どうしたの、ゲオルグくん?』
「これから帰るよ」
ゲオルグの言葉に、なのはは少し顔を曇らせる。
『大丈夫? 出動があったのに早いね』
「大丈夫だよ。 あとのことはみんなに任せておけばいいし。
それにヴィヴィオとの約束もあるしな」
なのはは画面の中で首をひねりながら何かを思い出そうと宙に視線をさまよわせる。
しばらくして、急にポンと手を叩いた。
『そっか。 今日は一緒にトレーニングする日だね』
「そういうこと。 じゃあ、後でな」
『うん。気をつけてね』
なのははウィンドウが消える直前、最後ににっこり笑った。
ゲオルグは通信を終えると、シートベルトを締めて車を発進させた。
30分ほど走り、ゲオルグの運転する車は住宅街へと入っていく。
シュミット邸はこの閑静な住宅街の一角にある。
自宅に着いたゲオルグは車庫に車を停めると、助手席に置いた鞄を手に取り
玄関に向かって歩いて行く。
ポーチに立ったゲオルグが呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてパタパタという
足音がドアの向こうから聞こえてくる。
ガチャリという音とともにドアが開き、中から現れたのは金髪の少女だった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
笑顔で迎えに出てきた愛娘に、ゲオルグは微笑みかけると
家の中へと足を踏み入れた。
「ママは?」
「キッチンでご飯を作ってるよ」
「そっか、ありがとう」
ゲオルグはキッチンへとその足を向けようとした。
が、後からその手を引かれ足を止める。
振り返るとヴィヴィオが不安そうな表情を浮かべてゲオルグの顔を見上げていた。
「どうした?」
「約束・・・覚えてるよね?」
「トレーニングのことだろ? もちろん覚えてるよ。
そのために急いで帰ってきたんだから。
着替えたら行くからヴィヴィオも着替えておいで」
「うんっ!」
ゲオルグの言葉に、パアっと花が咲くような笑顔を見せたヴィヴィオは、
自分の部屋へと向かって駆けだした。
2階へとあがる階段に足を掛けたところで立ち止まり、ゲオルグの方を振り返る。
「ありがとっ、パパ!」
そう言ってヴィヴィオは階段を勢いよく駆け上がる。
その様子を微笑ましく思いながら見送ると、ゲオルグはキッチンへと向かう。
キッチンへと入ったゲオルグは、夕食を作る妻の後ろ姿を見つけた。
「ただいま」
ゲオルグが声をかけると、彼女は料理の手を止めて彼の方を振り返った。
「あ、ゲオルグくん。 お帰りなさい」
なのははそう言うとエプロンで手を拭きながらゲオルグの方に近寄っていく。
ゲオルグは手に持っていた鞄を床に置くと、歩み寄ってくる妻を抱き寄せた。
そしてお互いの唇を軽く合わせる。
結婚から4年近く経っても、友人たちから熱々と評されるこの夫婦の日常である。
「早かったね」
「まあな。 ヴィヴィオとの約束もあったし」
「楽しみにしてたみたいだよ。ちょっと前からそわそわしてたし」
「判ってるよ。 だからサッサと着替えて行かないとな」
「そうしてあげてよ」
ゲオルグはなのはに向かって頷くと、足元の鞄を再び手にとって振り返った。
と、そこに明るい茶色の髪をした男の子が立っていた。
驚いたゲオルグは踏み出そうとしていた足を急に止めたために
その場でたたらを踏む。
「おっと・・・。 ただいま、ティグアン」
「おとーさん、おかえり!」
男の子は白い歯を見せて笑いながら、ゲオルグに挨拶する。
この幼児こそゲオルグとなのはの間に生まれたシュミット家の長男である。
名をティグアン・シュミットという。
「おとーさん、あのね、きょうね、ぼくおえかきしたんだよ」
「へえ、何を描いたんだ?」
ゲオルグがそう言うと、ティグアン少年は後ろに回していた手を
大きくゲオルグの方に突き出した。
その手には一枚の画用紙が握られていた。
「おとーさん!」
その画用紙には人の顔と思しき絵が描かれていた。
少々バランスの悪い配置となっている目鼻の上には黄色い髪がある。
ゲオルグはティグアンと目線を合わせるように屈む。
「これがおとーさんか。 上手に描けてると思うよ」
「ほんと!?」
ゲオルグの言葉にティグアンは首を傾げて尋ね返す。
ゲオルグはティグアンに向けて微笑みながら大きく頷いた。
「うん。 ママもそう言ってたろ?」
「ママにはみせてないよ。 おとーさんにさいしょにみせたかったもん」
「そっか。 ママにも見せていいかな?」
「うん!」
ティグアンは勢いよく頷き、リビングの方へ駆けていった。
(ティグアンが俺の絵をねぇ・・・。あっという間に成長してくなぁ・・・)
ゲオルグが感慨深げにティグアンから渡された絵を見ていると、
後からパタパタという足音がする。
「あれ? まだ制服なの? ヴィヴィオはもう庭にいるよ」
背中越しになのはから声を掛けられ、ゲオルグは立ち上がった。
「今、ティグアンに絵をもらったんだよ」
「ティグアンに? どんな絵?」
「俺の似顔絵だってさ」
ゲオルグはその手にある絵をなのはに手渡す。
絵を見たなのはは柔和な笑みを浮かべた。
「よく描けてるね。 ゲオルグくんの特徴もよくとらえてるし」
「俺もそう思うよ。 ホント子供の成長ってのは早いよな」
「そうだね。 ついこの前までよちよち歩きだったような気がするもん」
「元気に育ってくれてよかったよ」
「そだね。 でも、まだまだこれからだよ」
「だな」
肩を並べてティグアンの描いた絵を見ながら話す2人のもとに、
ヴィヴィオの声が届く。
「パパー、まだなのー!?」
待ちきれなくなったヴィヴィオがゲオルグを呼ぶ。
「お姉ちゃんの方は待ちきれないみたいだよ」
なのははゲオルグに向かって苦笑する。
「判ってるよ、すぐ着替えてくる」
ゲオルグはなのはに向かってそう言うと、トレーニングウェアに着替えるべく、
夫婦の寝室がある2階へと階段を駆け上がった。
最近になって本格的に格闘技をはじめたヴィヴィオにとって、
近距離戦を得意とするゲオルグは格好の練習相手である。
トレーナーを務めるノーヴェの"いろんなタイプの相手とスパーしたほうがいい"
との言葉もあり、ヴィヴィオは貪欲にスパーリングの相手を求めた。
アドバイスしたノーヴェ自身はもちろん、学校の友人の中で同じく
格闘技を嗜む者ともジムで共にトレーニングするようになった。
そうした中、ゲオルグともトレーニングをともにするようになるのは
自然なことであったと言えよう。
今日は父娘でトレーニングを共にする日である。
トレーニングウェアに着替えたヴィヴィオは庭で準備運動をして
身体を温めつつ、ゲオルグを待っていた。
「パパ、まだかなー?」
屈伸運動をしながら呟くヴィヴィオの耳に玄関ドアの開く音が届く。
庭の芝生を踏みしめる音がそれに続き、ヴィヴィオは音のする方へ振り返った。
「もう、パパ遅い!」
歩み寄ってくるゲオルグに向かって頬を膨らませながら不平を言う
ヴィヴィオの頭を、ゲオルグは苦笑しながら軽く撫でた。
「ゴメンな。 それで、ヴィヴィオはもう身体はほぐし終わったのか?」
「うん」
「じゃあ、あと少しだけ待っててくれな」
ゲオルグはそう言うと、その場でストレッチを始める。
「なあ、ヴィヴィオ」
「えっ!? 何?」
芝生の上に座り込んでストレッチをしているゲオルグを眺めていたヴィヴィオは
急に声を掛けられて少し慌てて返事をする。
「学校はどうだ? もう3年生も終わりだよな」
「うーん、今はちょっとだけ大変かな。テスト期間だし。
でも、すっごく楽しいよ。 お友達と遊んだり、あと格闘技もね」
そう言ってにっこり笑うヴィヴィオの顔を見て、ゲオルグは微笑を浮かべる。
「そっか・・・」
そう言ってゲオルグは自分の少年時代を少し思い返す。
友達らしい友達もなく、飛び級につぐ飛び級で周囲からのやっかみを集める。
そんな日々を思い出し、ゲオルグの表情は少し暗くなった。
「パパ・・・?」
ヴィヴィオに声をかけられ、ゲオルグはハッと我に帰る。
「なんだい?」
努めて明るい笑顔を作るゲオルグであったが、ヴィヴィオは不安げな表情で
ゲオルグの顔を見上げていた。
「どうしたの? なんか、パパが泣きそうな顔をしてるように見えたんだけど。
わたし、何か悪いこと言ったかな?」
「そうじゃないよ」
ゲオルグは小さく首を振るとヴィヴィオの長い金色の髪を指で
梳かすようにしながら言う。
「ヴィヴィオの話を聞いてたら、ちょっとパパの子供のころのことを思い出してね。
羨ましくなっちゃったんだよ」
「そうなの?」
こくんと首を傾げるヴィヴィオに向かってゲオルグは頷く。
「うん。 パパは学校を楽しいと思ったことないからね」
「・・・パパの子供のころの話って聞いたことないかも」
「聞きたいのかい?」
ゲオルグが尋ねると、ヴィヴィオは少し考えてからこくんと頷く。
「そっか。 また機会があればね」
ゲオルグはそう言って立ち上がる。
「さ、お待たせ。 いつものようにまずは走ろうか」
「うん!」
ゲオルグとヴィヴィオ、2人のトレーニングはいつも
30分のランニングで始まる。
"どんなスタイルにしろ、戦技は足腰が基本"というゲオルグの
ポリシーから来るものである。
2人は自宅を出ると住宅街の中を走り始めた。
ヴィヴィオの息が少し弾む程度のペースでゆっくり走る。
だが、それではゲオルグにとってはペースが遅すぎるので、
ゲオルグは足首にウェイトを付け、ももを高くあげるように意識して走ることで
負荷を増やしている。
2人は時折すれ違うご近所さんたちに挨拶しながら、近くの小高い丘の上にある
公園を目指して走る。
やがて、丘を登る坂道を登りきって公園に到着すると、2人は立ち止まって
弾んだ息を少し整える。
「帰るか」
「うん」
ゲオルグの言葉にヴィヴィオが頷くと2人は再び走り始める。
今度は来た道を自宅へと向かって走る。
公園から15分ほどかけてシュミット邸に戻った2人は
数分間休憩すると庭の真ん中で向かい合って立っていた。
「じゃあ、いつもどおり最初は俺からは攻撃は仕掛けないから」
「うん。 じゃあ、お願いしますっ!」
ヴィヴィオはゲオルグに向かって深く一礼すると、
その小さな拳を握ってゲオルグの方に向かって駆けだした。
ゲオルグの懐に潜り込んだヴィヴィオは、その拳をゲオルグの腹に向けて突き出す。
(また速くなったな・・・)
ゲオルグはその心中でヴィヴィオのスピードに舌を巻きながらも、
それを外面には出さずにヴィヴィオの突き出した拳をひらりと
身体を1/4回転させてかわす。
ゲオルグがそうしてかわすことを予測していたかのように、
ヴィヴィオはゲオルグのわき腹をめがけてさらなる突きを放つ。
(ん? 読まれた?)
ゲオルグはヴィヴィオの的を射た追撃に少し驚きながらも、
外見上は平然とその拳を回避してみせる。
(さて、次はどんな手でくるかね・・・)
一呼吸置くだろう、そんなゲオルグの予測をヴィヴィオは裏切って見せる。
「えぇーいっ!」
威勢のいい掛け声とともにヴィヴィオの回し蹴りが
ゲオルグの方に向かって飛んでいく。
(おぉっと・・・)
ゲオルグは慌てて跳び下がり、ヴィヴィオの足を避けようとする。
腰を引いてヴィヴィオから遠ざかったゲオルグの臍のあたりを
ヴィヴィオのつま先がかすめる。
(あぶねぇ・・・)
ホッと息をつく間もなく、ヴィヴィオの次なる攻撃がゲオルグを襲う。
胴を狙ってきたこれまでの攻撃とは違い、ゲオルグの足元にヴィヴィオの踵が
迫っていた。
(ったく、手が早いな!)
ゲオルグはヴィヴィオのスピードに感心しつつ、地面を蹴って宮中へと飛び上がる。
そのまま後方宙返りでヴィヴィオとの間合いをあけようとする。
だが、それを許すヴィヴィオではなかった。
ゲオルグが顔をあげたときには既に肘を突きだした形で
ゲオルグに向かって飛んできていたのである。
「・・・チッ!!」
ヴィヴィオの速攻に思わず舌打ちしたゲオルグは、この組み手が始まってから
初めて厳しい表情を浮かべる。
(避けるには距離が足りないか・・・くそっ!)
回避をあきらめたゲオルグは、左足を後に引きわずかに腰を落として
ヴィヴィオの突撃を受け止める態勢を整える。
直後、バシッという音とともにヴィヴィオの肘をゲオルグが手で受け止めた。
「・・・っ!」
ヴィヴィオはわずかに顔をしかめると、即座に飛び下がり
ゲオルグから距離をとった。
一方、ゲオルグも厳しい表情を崩していなかった。
(くうっ・・・大人モードだったらやられてたな・・・)
ゲオルグはヴィヴィオの肘うちを受け止め、衝撃でしびれている手を何度か振る。
5mほどの距離を置いてお互いを睨みつけるようにしながら
シュミット家の父娘は構えを解かずに向かいあった。
しばらく無言で向き合っていた2人であったが、不意に2人ともがほぼ同時に
表情を緩めて構えを解く。
「ずいぶんとやるようになったじゃないか。 びっくりしたよ」
「えへへ・・・、そうでしょ?」
自慢げに笑うヴィヴィオに向かって、ゲオルグはニカッと笑いかける。
「もう、受けだけの組み手は必要ないかもな。 意味がなさそうだ」
額に浮かんだ汗をぬぐいながら、ゲオルグは呟くように言う。
「そうかな? そんなこともないと思うけど・・・」
「ま、その辺の判断はノーヴェに任せるさ。
なんたって、ヴィヴィオの師匠だからな」
ゲオルグが片目をつぶりながらそう言うと、ヴィヴィオは一瞬ぽかんとしてから
にっこりと笑って大きく頷いた。
「それじゃあ仕上げにもう一本やろうか」
ゲオルグがそう言うと、ヴィヴィオは真剣な表情で頷く。
「レーベン、頼む」
《はい》
レーベンの声がした次の瞬間、ヴィヴィオの身体が光に包まれる。
その眩いばかりの光が収まってくると大きく変わったヴィヴィオの姿が露わになる。
体格は大きくなり、身長はなのはと同じくらいまで高くなり、
全体的に女性的な体つきになっていた。
そして、その身を包むのは黒を基調にしたバリアジャケット。
長い金髪はサイドポニーにまとめられていた。
ヴィヴィオはゆっくりと目をあけ、何度か軽くジャンプしたりして
己の身体の感触を確かめると満足げに頷いた。
「うん、問題なさそう。 ありがとね、レーベン!」
《どういたしまして》
少し低くなった声でヴィヴィオは大人モードへの返信を補助してくれた
レーベンに感謝の言葉を述べる。
対してゲオルグの方もヴィヴィオと同じく黒を基調とした騎士甲冑を身にまとい、
その右手にはレーベンが握られていた。
「あれ? 今日はレーベンを使うの?」
「まあな。 今日は少しだけ本気を出してみようかと思ってね」
目線を落とし四肢を脱力させた状態で、何度かレーベンの握りを
確かめるように握りなおす。
そして脱力状態のまま、ゲオルグはゆっくりと顔をあげた。
「・・・っ!!」
ヴィヴィオが思わず息をのみ、半歩後ずさりする。
「なあ、ヴィヴィオ・・・」
呼びかけるゲオルグの声は普段の優しい声とはまるで違う、
低く冷たい声であった。
「圧倒的な力の差の前に膝を屈する心の準備はできたか?」
そう言ってゲオルグはにやりと嗤う。
それはヴィヴィオが見たことのない父の顔だった。
だが、戦場でのゲオルグを知る人は言うだろう。
"この顔こそゲオルグ・シュミット2佐の顔だ"と。
(ひょっとして・・・パパを本気にさせちゃった?)
ヴィヴィオは初めて己の父に対して畏れを抱いていた。
だが、一方で格闘家としての高揚感も感じていた。
ヴィヴィオは注意深くゲオルグの様子を観察する。
確かに不敵な笑みを浮かべ四肢を脱力させた姿は恐怖に値する。
だが、表情や声色から受ける印象とは違って、殺気は感じられない。
そこにあるのは純粋な闘気のみ。
それに気付いてヴィヴィオは父に対する恐怖を奥にしまい込むことができた。
(かなり真剣だけど、いつもの優しいパパだ)
ヴィヴィオは目を閉じて大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
再びその両目が開かれたとき、ヴィヴィオの表情には力がこもっていた。
「・・・いきますっ!」
ヴィヴィオが意気込んで芝生の大地を蹴る。
ゲオルグとヴィヴィオの距離が一気に縮まり、ヴィヴィオは拳を握り振りかぶった。
(いけるっ!)
ヴィヴィオは命中を確信し、ゲオルグに向かってその拳を伸ばす。
その瞬間だった。
ゲオルグがその顔面に浮かべていた笑顔を消し、鋭い目でヴィヴィオの目を
睨みつけたのは。
(えっ・・・!?)
ゲオルグと目が合った瞬間、ヴィヴィオは自分に向けられている目線に
込められているものが何なのか理解できなかった。
だが、常人よりもすぐれた洞察力を持つ彼女は、否応なく数瞬先の未来を
予測してしまう。
(このまま突っ込んじゃ・・・ダメ!?)
だが、彼女の足は既に地面から離れており、彼女の体重と速度が生み出す慣性は
彼女をゲオルグの元に運ぶのに十分すぎた。
(もう、止められないっ・・・ならっ!!)
ヴィヴィオは覚悟を決めてゲオルグの顔に拳を向けた。
その時、ヴィヴィオの目はゲオルグの腰がわずかに下がるのをはっきりとらえた。
次の瞬間、ゲオルグはヴィヴィオに向かって地面を蹴った。
レーベンを握った右手の手首あたりでヴィヴィオの拳をはね上げる。
「っ・・・!」
ヴィヴィオが悔しげな声を漏らす。
しかし、それでゲオルグの動きは終わらなかった。
左の前腕でヴィヴィオの鎖骨あたりを抑えるようにして体当たりをすると、
庭に数本植わっている木の一本にヴィヴィオの身体を押し付ける。
「うっ・・・」
肺から無理やり空気が押し出され、ヴィヴィオが苦しげな声をあげる。
思わず一瞬目をつぶり再びその目を開いたとき、ヴィヴィオの視界の下端あたりに
銀色に鈍く光るものが映る。
(なに・・・?)
視線をわずかに下に動かしそれが何かを確認したとき、
ヴィヴィオは思わず息をのんだ。
自分の喉に刃が突きつけられていたのである。
それを握る彼女の父は鋭い目でヴィヴィオの目を見続けていた。
「パパ・・・」
ヴィヴィオが小さく声をあげると、フッとゲオルグの目から危険な色が消える。
そして戦場を駆ける軍人の顔が、徐々に父の顔へと変わっていった。
それと同時に彼女を立ち木に押しつける力も弱まり、最後にはその手は
彼女から離れた。
ゲオルグの服が騎士甲冑からトレーニングウェア姿へと変わる。
右手にはレーベンはもう握られていなかった。
その右手をゲオルグはヴィヴィオの頭をポンと乗せた。
「大丈夫か?」
「うん・・・」
ヴィヴィオは小さく頷くと大人モードを解除する。
小さくなった彼女の背に合わせるように屈んだゲオルグは、
ゆっくりと彼女の髪を撫でた。
「ゴメンな、怖かったか?」
「ちょっとだけ。 でも、パパはパパだって思えたからそんなに怖くないよ」
ヴィヴィオはそう言って笑う。
次に悔しそうに顔をしかめる。
「でも、本気のパパには全然かなわなかったなぁ・・・」
「それは仕方ないよ。 パパだってまだまだヴィヴィオには
負けていられないからね」
ゲオルグが苦笑しながら言うと、ヴィヴィオはわずかに頬を膨らませた。
「でも、悔しいんだもん・・・」
そして父の顔を見上げてニコッと笑う。
「だからもっといっぱい練習して、いつかパパより強くなるんだから!」
「期待してるよ。 でも、無理はしないようにね」
「はーいっ!」
満面の笑みを浮かべてヴィヴィオはその右手を高く上げた。
「2人とも、そろそろご飯だよ」
家の方から声がして2人がそちらを見ると、エプロン姿のなのはが手招きしていた。
その時、ちょうどヴィヴィオのお腹が鳴る。
「・・・お腹すいちゃった」
小さく舌を出しながら苦笑してヴィヴィオが言う。
「そうだね。パパもお腹がすいたよ。 ヴィヴィオは汗を流しておいで」
「うん」
ヴィヴィオは大きく頷くと浴室に向かって歩いて行った。
ゲオルグは庭に張り出したリビングルームから続くウッドデッキに上がると、
なのはの隣に立ち、ヴィヴィオの小さな背中を見送った。
「おつかれさま」
そう言ってなのはがタオルを差し出してくる。
「ん、サンキュ」
ゲオルグはタオルを受け取ると、額に少し浮かんだ汗をぬぐう。
「ゲオルグくんの目から見てどう? ヴィヴィオの成長は」
「またずいぶん強くなったとは思うよ。ノーヴェの指導のおかげだろうな」
「・・・ゲオルグくん、ちょっとだけ本気だったしね」
なのはは苦笑してゲオルグの顔を見上げる。
ゲオルグはなのはの肩を抱いて、長く伸びた髪をゆっくりと手で梳いた。
「ほんの少しね。 ヴィヴィオには少し悪いことをしたかな、とは思うけど」
ゲオルグの言葉になのはが首を横に振る。
「身近に高い目標があるっていうのは悪いことじゃないと思うよ。
あの子は向上心が強いからきっと大丈夫」
なのははそう言ってニコッと笑い、ゲオルグの側から離れていく。
少し離れてリビングの中からゲオルグの方を振り返ってみる。
「さ、ご飯にしよ!」
「そうだな」
ゲオルグは微笑を浮かべてなのはの言葉に頷いた。
この日の夕食はなのは手作りのハンバーグがメインディッシュだった。
ダイニングテーブルの上にはサラダボウルとご飯茶わんや汁椀も並ぶ。
なのはとの結婚からもうすぐ4年を迎えようというゲオルグにとって、
箸を使った食事は慣れたものである。
「ねえ、パパ」
ゲオルグが醤油風味のきのこソースがかかったハンバーグを箸で切って
口に運んでいるときに、ヴィヴィオが声を発した。
「・・・・・なんだい?」
ゲオルグは一旦はしを置いて口の中のハンバーグを咀嚼し終えてから
ヴィヴィオの方を向いて答える。
「あのね、お願いがあるんだけど・・・」
おずおずと上目づかいで話すヴィヴィオに、ゲオルグは微笑を向ける。
「言ってごらん」
「春休みにフェイトママたちと一緒にお花見に行くでしょ。
そのとき、学校のお友達も一緒に行っちゃダメかな?」
「パパはかまわないけど・・・なのはは?」
ゲオルグがなのはに話を振ると、なのはは落ちついてゆっくりと
口の中の食べ物を咀嚼して、味噌汁を少し飲んでから口を開く。
「わたしもいいよ。 今年のお花見は賑やかになりそうだね」
なのははヴィヴィオに向けてにっこり笑って言う。
「ありがとう!」
ヴィヴィオも両親に向かって笑顔で感謝の言葉を述べる。
「ママ・・・」
話がひと段落し全員が食事を再開しようとした時、なのはの隣に座っている
ティグアンがなのはの袖を引く。
「どうしたの、ティグアン?」
なのはがティグアンに目を向けると、ティグアンは不安げな表情を見せる。
「あのね、ジュリアちゃんはおはなみにくるかな?」
「ジュリアちゃん? フェイトちゃんが来るから来ると思うよ」
ジュリアはフェイトとシンクレアの間に生まれた女の子である。
なのはがティグアンの問いかけに答えると、ティグアンは嬉しそうに笑った。
その様子を見ていたゲオルグがティグアンに尋ねる。
「ティグアンはジュリアちゃんが好きなのか?」
訊かれたほうのティグアンは少し考えるように首を傾げたあと、
ゲオルグの目を見た。
「うん、だいすきだよ!」
満面の笑みを浮かべたティグアンが迷いなく言う。
ゲオルグはそんなティグアンを微笑ましく見る。
「そっか。ジュリアちゃんもティグアンのことが好きだといいね」
「うん!」
ゲオルグの言葉にティグアンは大きく頷いた。
夕食後、片づけを終えたゲオルグとなのははリビングのソファに並んで座り、
お茶を飲みながら話をしていた。
時刻は午後9時すぎ。
ティグアンは既に寝入っており、ヴィヴィオはテスト勉強のために自室にいる。
最初、なのはの教導から始まった2人の話は、今朝あったハイジャック事件の
話題へと移っていった。
「・・・へぇ。 お義姉さん、今は次元港にいるんだね」
「うん。 俺も知らなかったけどな。 それなりにうまくやってるみたいだよ」
「よかったじゃない。 復帰するときはずいぶん大変だったんだし」
「まあな。 ただ、あそこまで元気になる必要はなかったんじゃないかと思うけど」
「ひょっとして叩かれたことを言ってるの?」
なのはが上目づかいでゲオルグの顔を見る。
ゲオルグはなのはと目が合うと苦笑して自分の頭をそっと撫でた。
「叩くっていうか殴るだよ、あれは。 まだちょっと痛いしな」
「どれどれ?」
なのははソファの上に膝立ちになると、ゲオルグの頭頂部をじっと見る。
「あ、ほんとだ。 たんこぶになってるね。 痛そう・・・」
「痛いんだよ。 ったく、人の頭をグーで思い切り殴るとかあり得ねえだろ・・・」
ゲオルグは顔をしかめて言う。
「まあ、それはそうかもしれないけどさ、お義姉さんもゲオルグくんのことを
立てようとしてくれてのことなんでしょ? ありがたいことじゃない」
「俺としては、そんなことはどうでもいいんだけどな」
ゲオルグは憮然とした表情で、ソファの背に身体を預ける。
なのはは膝立ちのままゲオルグの両足をまたいでゲオルグと向かい合うと、
ゲオルグの目をじっと見た。
「なんだよ?」
不機嫌さをにじませながらゲオルグが問うと、なのはは真面目な顔をして
ゲオルグを見下ろしながらゆっくりと口を開いた。
「わたしとしてはゲオルグくんのそういうとこは好きなんだけど、
管理局の人間としてはお義姉さんの気持ちは大事にしてほしいと思うの」
「どういう意味だ?」
ゲオルグが問い返すとなのははそのほっそりとした顎に指を当てて首を傾げ、
考えこむような仕草をしてから、もう一度ゲオルグの顔を覗き込む。
「わたしは戦技教導官だから若い子たちと接する機会が多いんだけどね、
ゲオルグくんのところって若い陸戦魔導師にとってはあこがれの部署なんだよ」
「そうか? 苦労ばっかり多いとこだぞ」
ゲオルグが肩をすくめて苦笑すると、なのはもそれに合わせるように苦笑する。
「そうかもね。 でも、特殊陸戦部隊のメンバーになるってことは
自分の力を認められるってことだよね。
それに、特殊陸戦部隊はたくさんのテロ事件を解決に導いてるし、
陸戦部隊の最精鋭だって局内では認識されてるもん。
若い子たちがあこがれるのも判るし、その指揮官であるゲオルグくんが
威厳ある人物であってほしいっていうのも判ると思うの」
なのはの言葉にゲオルグは呆れたような顔を見せる。
「んなの知ったことか」
ついでゲオルグは両手を広げる。
「と言いたいとこだけど、若い連中の夢を大事にしてやるのも俺らの役目・・・か。
なのはの言うことは判ったよ。 以後気をつけるよ」
ゲオルグの言葉になのははニコッと笑う。
「ありがと。 でもね・・・」
なのはがゲオルグの頭を抱き寄せる。
「わたしが好きになったのは、シュミット2佐じゃなくてゲオルグくんだからね」
「なのは・・・」
なのはがゲオルグの頭を抱き寄せた結果、なのはの胸に顔を押し付ける格好になった
ゲオルグがくぐもった声をあげる。
「ん?」
なのはが首を傾げると、ゲオルグの手がなのはの肩を押す。
なのはの胸から顔を離したゲオルグがなのはの顔を見上げる。
「息苦しい!」
顔を赤くしたゲオルグはなのはに向かってそう言うと、肩を上下させて
少し弾んだ呼吸を落ちつかせる。
きょとんとしてゲオルグの様子を見下ろしていたなのはが不意に噴き出した。
「にゃははは・・・、ゴメンね」
「ゴメンね、じゃねえよ。 死ぬとこだったよ」
「でも、好きでしょ? わたしのおっぱい」
なのはは妖艶な笑みを浮かべると、長い髪をまとめていたゴムを引き抜く。
「・・・そりゃあ好きですとも」
ゲオルグはニヤリと笑い、なのはの頬に手を添える。
そして首の後にその手を滑らせると、なのはの顔を自分の方に引き寄せた。
目を閉じ、2人の唇が接触しようとした瞬間、リビングの扉が開く音がした。
その瞬間、なのははゲオルグの膝の上から飛び降り、もと座っていた
ソファのゲオルグの隣に腰を下ろす。
「ママー、パパー。 わたし、もう寝るねー」
そう言いながらリビングに入ってくるヴィヴィオ。
彼女の目が両親を捕えた時には、2人はソファの上に並んで座っていた。
「うん。 おやすみ」
「おやすみ」
なのはとゲオルグがそう言うと、ヴィヴィオは小さく頷いた。
「おやすみなさい」
そしてヴィヴィオはリビングを出て自分の部屋へと戻っていく。
2人は耳を澄まし、階段を上がっていくヴィヴィオの足音を聞いていた。
かすかにドアを閉める音がしたところで2人はホッと息を吐く。
「危ないとこだったな」
「だね。 あまりにもタイミングよくてびっくりしちゃったよ」
そう言って2人は揃ってクスクスと小さく笑う。
しばらくして、なのはがゲオルグの腕をつつく。
「ね。たまには一緒にお風呂に入らない?」
「いいのか?」
「もちろん」
「じゃあ、一緒にはいりますか」
そう言ってゲオルグはなのはの手を取り立ち上がると、
バスルームの方へと歩いて行った。
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