至誠一貫
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第一部
第四章 ~魏郡太守篇~
四十六 ~父娘~
南皮から戻り、早一週間が過ぎようとしていた。
「疾風(徐晃)、ご苦労」
「いえ。これが私の役目、お気遣いは無用に願います」
真面目な疾風らしく、律儀に頭を下げる。
私の前には、詳細に記された報告書が並べられていた。
黄巾党の乱が終息し、郡内は平静を保っている。
幸い、荀彧のいなくなった袁紹は、以前のような警戒すべき存在ではなくなっている。
今、懸念すべきは中央の、朝廷を巡る情勢……それが、皆の一致した見解であった。
ここ冀州は洛陽に近いだけに、それを極力、詳細に把握しておくに越したことはない。
その点、私の許には、疾風と風がいる。
情報を重視する私にとって、この二人はどれほど得難い存在かわからぬ。
疾風は的確な情報収集に長け、風はその分析に長けている。
新撰組があれほど迅速に活動できたのも、偏に山崎ら監察の存在が大きかったと、私は信じている。
「やはり、何進さんは巻き込まれているだけのようですねー」
そう言いながら、報告書を手に取る風。
「ああ。とにかく何皇后という方はお気が強い上に、何としても弁皇子を後継者に、と躍起になっておられるからな」
「陛下も何故か、後継を明言されておられないようですしねー。このままでは、確実に争乱が起きるのですよ」
「……だが、その中に飛び込むかのように、月が洛陽に向かう事になった。疾風、それはどのように見られているのだ?」
「はい。協皇子と月殿が昵懇の仲、というのは周知の事実です。皇子ご自身の意思はともかく、宦官共からすれば、何進殿が持つ軍という力に対抗する、有力な手駒と考えているようです」
「恋ちゃんに霞ちゃん、閃嘩(華雄)ちゃんと武将が揃っている上に、兵士の皆さんもなかなかにお強いですからねー」
「それに、詠殿とねね殿もいる。協皇子の名を借りて、宦官共が何を強いるか」
私の脳裏に、宮中で出会った二人の皇子の姿が浮かんだ。
……仲の良い姉妹、そんな印象があった。
少なくとも、当人らが相争うつもりは毛頭なかろう。
月といい、このような醜悪極まりない権力争いに巻き込まれるべきではない存在ほど、周囲に利用されるとは……何とも不条理の限りだ。
「そう言えば、月殿は道中、此処に立ち寄られると聞きましたが」
「うむ。并州から司隷への道中、本来ならば真っ直ぐに向かわねばならぬところであろうが」
「それを咎め立てするような方もおられないでしょうしねー。詠ちゃん達と、善後策を立てる絶好の機会なのですよ」
「そうだな。皆で、話し合えば道が開けるやも知れぬ。疾風、引き続き情報収集を頼むぞ」
「はっ、お任せを」
「風も、良いな?」
「勿論ですよー。お兄さんの頼みが、風の何よりのやり甲斐なのですよ」
私は、大きく頷いてみせた。
その夜。
「…………」
「寝付かれませんか、歳三様」
「……起きていたか」
そっと、私の背に、稟の手が置かれる。
「隣にいるのです、気付いて当然です」
「そうか」
臥所から起き上がり、窓の傍に立つ。
今日は、朧月夜か。
……今宵の月のように、洛陽に向かって居るであろう月の心中も、朧気に霞んでいるのであろうか。
「月殿の事が、気がかりですか」
「ふっ、稟にはお見通しか」
「ふふ、そのぐらい予想できなくては、歳三様の軍師は務まりませんからね」
そう言いながら、私の隣に立つ稟。
「……少しばかり、昔語りをするが、良いか?」
「はい、伺いましょう」
「……私は、父の顔を知らぬのだ。生まれる三月前に、労咳で死んだらしい」
「…………」
「それ故、私は父子の繋がり、というものが実感できぬのだ」
「それで、月殿に父、と呼ぶ事を赦されたのですか?」
「……さて、な。今となっては、我が事ながらわからぬが。成り行きとは申せ、そのような心づもりがあったのやも知れぬな」
「ですが、月殿は真の家族の如く、歳三様を敬愛しています。血の繋がりはなくとも、余所目には父子、と映りますよ」
「無論、そのつもりでいる。……それ故、父として何を成すべきか、正直思い悩むところでもある」
稟が、私の腕を取った。
「……如何致した」
「あまり、お一人で思い詰めないで下さい。歳三様には、私がついています。いいえ、私だけではなく、風も、星も、皆がついているではありませんか」
「だが、お前達には日頃から負担をかけている。私的な事で、更なる荷を負わせる訳には参らぬ」
「それこそ、水くさいというものですよ? 歳三様が月殿を家族、と思われているならば、私達にとってもそれは同じ事です」
「稟……」
「確かに、月殿が今、洛陽に赴かれるのは得策ではありません。ですが、そのまま并州におられれば平穏なままか、とも思えません。戦乱の世は、目前に迫っていますから」
「…………」
「それに、歳三様の今一つの懸念も、まずは何か手を打たなければ始まりません」
「それも、気付いていたか。流石だな」
「世間では、歳三様を鬼、と見なして恐れるばかりの輩もいます。ですが、私達は歳三様の本質を知っていますから」
「……私の知識通りに事が進めば、あの仲の良い姉妹は引き裂かれる。思い上がりかも知れぬが、看過は出来ぬのだ」
「ならば、その為の策を立てよ、と一言お命じ下さい。結果で後悔するよりも、見過ごす事での後悔が大きいならば、やってみせるだけの事です」
「……わかった。ならば、その為の手立て、皆と進めよ」
「御意」
稟には、一切の迷いも躊躇いもない。
私とした事が、気の迷いとは……これでは、いかぬな。
「さ、歳三様。明日に差し障ります、お休み下さい」
「うむ」
私は、稟の手を握り返す。
「歳三様……」
「良いな?」
「……はい」
稟は、そっと眼を閉じた。
一月後。
月が、ギョウへと姿を見せた。
無論、詠を始め、皆が付き従っている。
あまり大仰にしては、どのように揚げ足を取られるかわからぬ故、入城は夜半、密かに行わせた。
引き連れた兵を宿舎に向かわせた後、主立った者が皆、謁見の間に集まった。
「お父様。お久しぶりです」
「うむ。壮健で何よりだ」
「はい」
可憐な微笑みは変わらぬが、どこか翳りが感じられる。
やはり、これからの事で不安を抱いているのか。
「詠、霞、恋、閃嘩、ねね。皆も、よく月を支えてくれた。私からも、礼を申すぞ」
「ボクは、月の為なら何だってする。それだけよ」
「せやな。ウチも、月か歳っち以外のトコにいるつもりはあらへんよ」
「……恋は、月も歳三も好き。みんな、家族」
「私は、月様の親衛隊長。当然の務めだ」
「恋殿あるところに、ねねは常にありますぞ!」
各々が口にする言葉は、相も変わらぬ。
結束が微塵も崩れぬのは、流石は月というべきであろうな。
彩(張コウ)や愛里(徐庶)らも名乗りを上げ、互いの主が預かっているなら、と真名を交換。
……改めて、壮観な顔触れが揃ったな。
「少し遅いが、再会を祝して宴と致そう。愛里、準備は良いか?」
「はい!」
「星。あれの用意も出来ているな?」
「愚問でござるよ、主。霞、お主も楽しみにしているが良い」
「おっ、何や何や?」
「……お腹空いた」
「恋は相変わらずなのだ」
賑やかな宴になる事、請け合いだな。
愛里心づくしの料理に、酒もふんだんに用意させたのだが。
……女子ばかりなのだが、この減りようは何の冗談か、とも思いたくなる。
特に、酒の減り具合が尋常ではない。
「かぁーっ! 歳っち、何やのこの酒?」
その犯人の一人は、ひどく上機嫌だ。
「気に入ったようだな、霞」
「あったり前や。こないな酒、ウチよう知らへんで?」
「それはそうだろう。我が主直伝の、異国の酒だからな」
犯人のもう一人は、秘蔵中の秘蔵というメンマを山積みにして、こちらもご満悦だ。
「殿は本当に博識だ。このような酒、確かに初めてだ」
「一度いただいた時よりも、更に美味になっていますね。蘇双なる者、相当に研鑽を積んだようですね」
彩と疾風も、負けじと杯を傾けている。
「月様。もう一献」
「へう~。でも、美味しいからいただきますね」
「ちょっと、閃嘩。アンタ、月に飲ませ過ぎじゃないの?」
「いや、月様には今宵、思う存分過ごしていただく。詠と言えども、邪魔はさせん」
……まぁ、私が口を挟む世界ではないようだな。
「ささ、ご主人様も」
「愛紗。私があまり過ごせぬ事は存じていよう?」
「むう。今宵ぐらい良いではありませぬか?」
口を尖らせる愛紗。
……うむ、相当に酔っているな、これは。
「あ~もう! 歳っち、アンタ最高や!」
そう言いながら、霞はバシバシと私の背を叩く。
この細腕の何処に、これだけの力があるのであろうな。
「全くだ。主、私の酒もお受け下され」
そう言いながら、反対側に寄ってくる星。
二人とも、その豊かな腕を押し当ててくる。
……男冥利に尽きるのやも知れぬが、安易に流される訳にはいかぬ。
「むー。霞ちゃんまで、お兄さんに密着するとは許せないのです」
「そ、そうれす! 歳三しゃま、わたひの酒を」
呂律の怪しい稟、何を思ったか、大ぶりの杯を一気に口に含んだ。
そして、いきなり私に抱き付いてきた。
「おわわわわわ、り、稟さん……大胆過ぎます」
真っ赤になる愛里を余所に、稟は私に口づけしてきた。
生温い酒が、流し込まれる。
「な、何をするのだ稟! 離れろ、離れんか!」
「い~や~れ~す~よ」
愛紗が稟を引き剥がそうとするが、何処にそのような力があるのか、私にしがみついて離れようとせぬ。
「稟! 如何にお前とて、歳三殿は譲らぬぞ!」
「お、疾風、やる気だな。では、私も加勢するぞ」
……既に、収拾は不可能のようだ。
数少ない素面の筈の元皓(田豊)に眼を向けたが、
「にゃははははっ! 元皓、大好きだぞ~!」
「ちょ、ちょっと嵐。飲み過ぎだってば」
……救いを求めるだけ、無駄か。
「ふう……」
混沌としたまま、宴は次々に酔い潰れた者が出て、なし崩し的に終わりを告げた。
元皓と嵐は姿が見えず、愛里は真っ赤になりながら早々に退出したようだ。
蘇双の酒は確かに美味ではあるが、少々破壊力があり過ぎたらしいな。
あの霞や星までもが、あり得ぬ量を過ごした結果、今は食堂の床に伸びている始末だ。
私はその場を抜け出すと、井戸へ。
皆の移り香を消すのは無粋やも知れぬが、兵や庶人に見せられた姿ではない。
ざぶざぶと、水音だけが静寂を破る。
冷たい水が、私の心身を引き締めてくれる。
「どうぞ」
と、傍らから手拭いが差し出された。
「……月か」
「はい。ふふ、大変ですね」
「今宵は無礼講、とは確かに申した以上、何も言えまい。月は酔っておらぬのか?」
「いえ、だいぶいただきましたが?」
首を傾げる月は、傍目には酔っているように見えぬ。
……全く、この小さな身体の何処に、あれだけの酒を過ごせる秘訣があるのか。
そう思いながら、月から手渡された手拭いで、顔を拭う。
「あ、お背中拭きますね。屈んで下さい」
「わかった」
膝を曲げた私の背に、小さな手が触れた。
同時に、吐息が肌をくすぐる。
「大きいんですね、お父様の背は」
「……月も、父御の覚えがないのか?」
「……はい。私が物心つく前に、他界しましたから」
一瞬気落ちしたようだが、それを振り払うかのように、私の背を拭き始めた。
「どうですか? 痒いところがあったら言って下さいね?」
「うむ。もう少し、上を頼む」
「はい。こうですね?」
懸命に手を動かす月。
……これが、私が知る歴史では、多数の人命を奪う暴君と同一人物だと、誰が信じようか?
儚げで、純真で。
「月」
「何でしょうか、お父様?」
「……お前は、私の娘。そう思うが、良いか?」
「ど、どうなさったのですか? 急に」
「いや。今までは、曖昧なまま、好きに呼ばせていたつもりであったが。お前が良ければ、正式に父子の関係を結びたいのだ」
「お父様……」
月の手が、止まった。
「……私の事なら、お気遣いは無用です。きっと、上手くやって見せます」
「お前の悪い癖が出たな。何でも、一人で抱え込もうとするな」
「え?」
「お前が努力家という事も、人を惹き付けるものを備えている事も確かだ。だが、これからお前が向かう場所は、魑魅魍魎の世界だ。お前の美点が、そのまま利用される恐れもまた、十二分にある。それも、承知しているのであろうが」
「…………」
「だが、お前一人が重荷を背負う事はない。無論、お前が望まぬならば話は別だが」
「そ、そんな事ありません! お父様は、本当に素晴らしい方ですし……わ、私も、本当のお父様だと思っています」
「そうか。……月、泣きたい時は泣くが良い。困った時には遠慮は要らぬぞ?」
「お父様……お父様っ!」
そのまま、月は私の背に抱き付いた。
嗚咽が聞こえ始めた。
……このまま、暫し時を過ごすしかあるまいな。
「すう、すう……」
翌朝。
月は、安らかな寝息を立てている。
……私と共に寝る事を望んだ月を、突き放す理由など何処にもなかった。
無論、月は我が子、手を出すつもりは毛頭ないのだが。
そのまま、朝を迎えた次第だ。
彼女を起こさぬよう、そっと臥所を出る。
「お父様……」
長旅の疲れが出たのであろう、このままそっとしておいてやるとしよう。
その日は、殆どの者が二日酔いになっていた事は、言うまでもない。
例外は元皓だが、見事なまでに窶れ果てていた。
……嵐が、妙に活き活きとしていたのとは、酷く対照的であった。
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