至誠一貫
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一部
第四章 ~魏郡太守篇~
三十七 ~獅子奮迅の嵐~
「ふんふん、なるほどね」
「魏郡の前太守時代は、かなりの悪政を敷いていたとは聞いていたが……ここまでとはな」
稟と風、そして元皓(田豊)が、それまでに調べた事を皆に伝えている。
新たに加わった嵐(沮授)と彩(張コウ)は、あまりの根深さに半ば呆れながらも、真剣に聞き入っていた。
「でもお兄ちゃん。悪い奴はあの三人ってわかってるのだ。なら、証拠を集めて処分で終わりじゃないのか?」
「そう、単純に事が運べば良いが。そうは参らぬのだ、鈴々」
「はにゃ? どうしてなのだ?」
「元皓。説明してやってくれ」
「はい、太守様」
元皓は頷き、皆を見渡す。
「皆さんもご存じかとは思いますが、今の官吏は任子制と、郷挙里選のどちらかで選ばれています。勿論、僕や嵐もそうですし、疾風様も同様だったと思いますが」
「ああ。洛陽と言えども、それは同じだ」
「任子制は世襲制度の一種なので、ここでは省きます。郷挙里選は、その地方を治める長官、つまり郡太守と相、そしてその土地の有力者との合議で任用される制度です」
「う~、元皓の話は難しいのだ……」
「鈴々、後で私が説明してやる。まずは、黙って話を聞け」
「わかったのだ」
愛紗に諭され、鈴々は素直に頷く。
「では、続けますね。つまり、郡太守だけの判断では登用出来ず、土地の有力者、つまり豪族の意向が色濃く反映さえる仕組みなんです」
「要するに、どんな阿呆だろうが、豪族の推薦さえ得られれば、大抵の場合は太守も賛成せざるを得ないって訳さ」
相変わらず、嵐は容赦がない。
「そして、郡太守もまた、その土地で選出される事が多い。つまり、なあなあの馴れ合いで決まったり、豪族のゴリ押しがあれば太守が反対でも官吏になれたり。無論、推薦した者には相応の責任が生じる筈なんだが、今の朝廷には、それを監査する機構は実質、存在していないんだ」
「疾風様が仰せの通りです。ですから、本当の意味で官吏となるべき人よりも、その地方に取って都合のいい人物ばかりが官吏になる傾向があるんです。……それは、この冀州に限った事はありません」
「だからこそ、さっき聞いたような害虫共でも、のうのうとしていられる訳か」
彩が、吐き捨てるように言う。
「そして、鈴々様の疑問ですが。そう簡単に処分出来ない理由は、大きく二つ挙げられます。皆さん、おわかりでしょうか?」
「一つは、奴らもまた、この土地の豪族と繋がりがある。だから、迂闊に処分すれば、豪族共の反感を招く……そんなところか?」
「はい、星様。ここ冀州も、豪族の力は決して無視出来ません。彼らの支持を失う事は、即ちこの地の統治に多大な悪影響が出る事になりますから」
「もう一つだが。問題は奴ら三人だけの事ではない。この魏郡全体に、奴らと繋がる根が張り巡らされているのではないか?」
「愛紗さん、正解。だから、今強引な手を打てば、最悪旦那はこの魏郡にいられなくなっちゃう、って訳さ」
嵐の言葉に、皆の表情が曇った。
「調べれば調べる程、根が深い事がわかりまして。正直、頭を抱えたくなりました」
「今の朝廷の縮図みたいなものですからねー。風も稟ちゃんも、今すぐいい知恵は浮かばないのですよ」
地道に、根気よく政道を糺す。
それにより、庶人の支持を広げ、同時に豪族の切り崩し工作を行う。
それが可能ならば、そうすべきだろう。
……だが、飢饉と黄巾党の余波はまだまだ残っている。
手を打つならば、まさに待ったなしの状態である。
「太守様。何か、お考えはありませんか?」
「うん、おいらもそれは気になってたんだ。旦那、さっきから何か思案顔だし」
二人だけでなく、皆が私を見ていた。
「悠長な事を言ってはおられぬ、と思ってな。とにかく、我らには思いの外、時がない」
皆、頷く。
「稟、風、それに疾風。首謀格三名についての、不正はどの程度でまとめる事が可能か?」
「はい。三日、いただけますでしょうか?」
「明日にでも、と言いたいところですけど。状況証拠だけでは、言い逃れされてしまいますからねー」
「手の者を密かに各地に走らせております。やはり、三日はいただきたいかと」
「良かろう。元皓、三人を手伝ってくれ。ただし、秘密裏に、だぞ?」
「はい、太守様」
手段を選んでいる場合ではない。
この際、荒療治もやむを得まい。
各々が役目のために散っていき、場には鈴々と彩だけが残った。
そこに、
「土方殿、宜しいですかな?」
声の主は、郭図らだった。
何やら意味ありげな笑みを浮かべ、立っている。
「何用か?」
「実は、落款をいただきたいのですが」
「落款だと?」
「はいはい。まずは、こちらへ」
明らかに、何かを企んでいるが、拒む理由もない。
黙って頷くと、連中に続いた。
「お兄ちゃん、鈴々も行くのだ」
「では、私も参ろう」
城内を少し歩かされ、文官の溜まり部屋らしき場所に着いた。
その奥に、竹簡が堆く積まれている。
それも、尋常な量ではない。
「あれ全て、太守の落款が必要なのです。それも、急ぎですが」
「……何故、そこまで溜め込んだ?」
咎めたつもりだが、古狸共は平然としたもの。
「私共も、好きでこのようにした訳ではございませんがな」
「然様。太守殿が戦死され、後任の方も定まらず」
「代理すら立てられぬ有様でしたからな。必然の事ですな」
深刻ぶっているが、その眼は嫌らしく光っている。
「……ならば。私が着任し、既に一週間が過ぎている。それまで、何故報告がなかったのだ?」
「黒山賊の事がありましたからな」
「土方殿がご多忙故、気を遣ったのですがな」
「ま、そんな次第ですが。お役目です、直ちに取りかかっていただけますかな」
散々に好き放題を言うと、三人は去って行った。
「あ奴ら! 殿を何だと思っておる!」
「お兄ちゃん、ぶっ飛ばしたら駄目か?」
怒り心頭の二人。
「待て。今此処で怒りに任せて動けば、ますますおかしな事になる。自制せよ」
「クッ……」
「う~、もどかしいのだ」
気持ちはわかるが、私まで同調する訳には参らぬからな。
それにしても、よくもここまで積み上げたものと、感心する他ない。
……文官ならではの嫌がらせ、それが多分にあるな、これは。
とは申せ、放置する訳にもいくまい。
それこそ、職務怠慢と、あらぬ訴えをされかねぬ。
「誰か、これを執務室に運んでくれぬか?」
その場にいた文官に声をかけてみる事にする。
が、
「今日はもう、勤務時間を過ぎていますので。では、お先に失礼致します」
全員が、そう言いながら引き上げていく。
誰一人として、私と眼を合わせようともせぬ。
……ここまで、露骨に非協力的な態度に出るか。
「待て、貴様ら!」
後を追いかけようとする彩を、羽交い締めにする。
「と、殿! お放しなされ!」
「落ち着け。武官のお前達が文官に手を出したとなれば、お前達もただでは済まぬぞ」
「し、しかし……あの態度。許し難い」
「今は、堪えよ。一時の感情で、全てを台無しにするつもりか?」
「…………」
どうにか大人しくなった彩を解放する。
「とりあえず、このままでは片付かぬ。運ぶしかあるまい」
「殿?」
「お兄ちゃん? まさか、自分で運ぶつもりか?」
「文官はもうおらぬ。だが、いずれも急ぎと釘を刺されているのだぞ?」
「……何と、理不尽な……」
「……わかったのだ。それならば鈴々が、運ぶのだ」
そう言うと、竹簡を抱え始めた。
「お兄ちゃん一人に、任せっきりは良くないのだ。鈴々は頭は良くないけど、このぐらいなら出来るのだ」
それを聞いた彩も、竹簡に手を伸ばす。
「ははっ、鈴々の言う通りだ。殿の、せめてもの手助け、私もさせて貰おうではないか」
「二人とも、そのような事はせずともよい」
「へへ~ん、もう始めちゃったのだ。今更、止められないのだ」
「然様。それよりも殿、急ぎませぬと執務室が埋まってしまいますぞ?」
二人は、かなりの量を抱えて歩み出してしまっていた。
「……相わかった」
だが、ただ二人に運ばせる訳にはいかぬ。
女子に力仕事を押しつけるなど、男として己が許せる事ではない。
そう思い、私も竹簡を手に取った。
「あ、張コウ将軍……。な、何をなさっておられます!」
あれは……預かっている、韓馥の兵か。
「何、文官の怠慢で殿が困っておられるのでな。私にやれる事をしているまでだ」
「い、いけません。仮にも、あなたは私達の指揮官ではありませんか!」
「元指揮官、だ。今の私は、お前達に対する権限は、何もない」
「いいえ! 我々が従うのは、張コウ将軍ただお一人です。おい、みんなを集めろ!」
「お、おい! 誰もそのような事は頼んでいないぞ」
彩が叫んだが、兵士は頭を振る。
「頼まれなければ動かない、我らはそんな考えは一度たりとも持った事はありませんよ。張コウ将軍が信じた太守様なら、我々だって信じますよ」
「お、お前ら……」
そうしている間にも、騒ぎを聞きつけたのか、元義勇軍の兵達も駆けつけてきた。
「土方様! それに、張飛様まで」
そして、韓馥の兵共々、次々に集まり出す。
結局、何百という兵が集まり、人海戦術での竹簡運搬が開始。
絶望的な多さに見えた山も、流石にあっという間に片付いた。
……その分、執務室が文字通り、埋め尽くされてしまったのだが。
「皆、ご苦労だった。この通りだ」
頭を下げた私に、
「殿、お止め下され。これは、私が好きでした事」
「そうそう。お兄ちゃんは気にする事ないのだ」
兵達も、皆笑顔で頷いている。
本当に、私はよき仲間を得たものだ。
……さて。
皆が去り、執務室を埋め尽くす竹簡の一つを、手に取った。
広げて読み進め、ふと手が止まる。
落款とは、印の事。
……だが、私にはその印がない。
それに、何処にどのように印を押すのか。
何一つ、聞かされていない事に、今更気付くとは。
尋ねようにも、文官は皆、引き上げてしまっている。
古狸共には、聞くだけ無駄であろう。
……ううむ。
頭を抱えていると、
「旦那、いるか……って、何じゃこりゃ」
呆れながら、嵐が顔を覗かせた。
「全て、私の落款待ちの竹簡だ。しかも、悉く急ぎとの念押しがあった」
「やれやれ、あの阿呆共の嫌がらせか。しっかし、やり方が本当に陰険だな」
そうだ、嵐に尋ねてみるとするか。
「嵐。すまぬが、私は落款の事、何も聞かされておらぬ。様式も含めて、な」
「……そっか。旦那は引き継ぎなしに、いきなり太守になったんだっけ。じゃ、おいらが教えてやるよ」
そう言って、嵐は竹簡の一つを広げる。
「旦那、落款自体はどんな物か、知ってるかい?」
「私の国では、印の事を指していたが。嘗ては、花押であったようだ」
「ああ、それそれ。印を使うのは、陛下とかごく一部の人だけでね。郡太守だと、花押が普通だね」
ふむ。
印が必要となれば、その日数が必要になるが、それは避けられたようだな。
「それで、書簡の最後。その部分が、落款を記す場所になってる」
「様式は?」
「昼行灯は、姓と字にしてたけど。旦那は字がないんだよね? だったら、姓名でいい」
「なるほど」
私は筆を持ち、嵐が示した場所に、花押を記した。
「これで、この竹簡は落款済み、という訳。後は文官に渡すだけなんだけど……そういや、文官は?」
「……うむ」
私は、先ほどまでの経緯を、簡潔に述べた。
「はぁ? するとあの阿呆共だけじゃなく、連んでいる文官共まで、旦那を見捨てて帰っちゃったって事かよ?」
「そうだ。だが、今の私が如何に指示をしたところで、連中は従わぬ」
「酷すぎるぜ、それ。だいたい、これだって仕分けすらしてないしさぁ」
嵐はいくつか、竹簡を開いていたが、
「……旦那。アンタ、完全に舐められているぜ?」
そう言って、手にした書簡を机に広げた。
「見ろよ。庶人からの訴状だけどさ、これ……県令の仕事だぜ?」
「県令? それならば、前任者がそのまま残っている筈だが」
「だから、舐められてるって言ったんだよ。……にしても、これは職務放棄だな」
と、嵐は眼を光らせた。
「旦那。今日の当番だった文官、名前はわかるか?」
「それならば、出勤の記録を照合すれば良い筈だ」
「よし。……でも、その前にこれ、仕分けが必要だな。ちょっと待ってろよ」
嵐は、弾かれたように飛び出して行く。
そして、稟に元皓、更には星と愛紗、疾風、そして一旦下がった筈の彩までも、連れて戻ってきた。
「嵐、一体何だと言うのだ……な、何だこれは?」
文句を言おうとしたのであろうが……。
尤も、誰しもこの量を見て、驚かぬ方が無理というもの。
「旦那が困ってるんだ。みんなで手分けしようぜ」
「嵐。だが、皆には各々、任務を与えてあるのだぞ?」
「わかってるよ、旦那。だから風さんと鈴々は外したんだって」
……無茶をしているようで、見るべきところに誤りはない、という事か。
「稟さんと元皓は問答無用。疾風さんも元官吏なんだし、愛紗さんは私塾を開いていたんだろ? 星さんも読み書きちゃんと出来るんだし、彩さんは昼行灯の仕事を手伝っていたし。ほら、みんな問題ないじゃないか」
「……強引ですね。ですが、確かにこれでは、歳三様が身動き取れないのはわかりました」
「それならそうと、ちゃんと説明してからにしてくれれば良かったのに。嵐はいつも強引過ぎるよ」
稟と元皓は、溜息をつく。
「はいはい、無駄口聞く暇があったら、さっさと始める。愛紗さんと星さんは、まず無関係の書簡を選り分けて。彩さんと疾風さんは、内政と軍事の選り分け。稟さんと元皓は、更にそれを精査。おいらは、旦那の横にいて手伝いに専念する。さっさとやっつけちまおうぜ?」
そして。
外から、チチチと鳴き声が聞こえた。
雀の囀りか……?
私は、凝り固まった肩を回しながら、席を立つ。
「すうすう……」
「ムニャムニャ……」
執務室は、まさに死屍累々、といった風情であった。
皆、着の身着のままで、思い思いの場所で眠っている。
……この状態で、よく各々の寝る場所があったものだ。
結局、竹簡の山は見事、片付いた。
大半は県令や県長など、本来は郡太守の処まで持ち込まれぬものばかり。
それ以外も、重要な案件はほんの僅か。
嵐曰く、代理すら立てられない非常時であれば、文官の協議で決を下しても構わぬものが殆どらしい。
……さて、顔でも洗って参るか。
「おや、お兄さん。おはようですよ」
井戸のところで、風と出くわした。
「うむ、おはよう」
「……酷いお顔ですねー。徹夜してしまいましたか?」
「……ああ。そう言う風こそ、一睡もしていないのではないか?」
「いえいえ、風は何処でも眠れますからご心配なく。でも、いきなり稟ちゃんと元皓ちゃんを連れて行かれたのには、ちょっと困りましたけどね」
「済まぬ。二人にも、手伝わせてしまったのだ」
「仕方がないのです。……お兄さん、ちょっと」
と、風は手招きをする。
私が屈むと、そっと耳打ちをしてきた。
「郭図さん達の事、動かぬ証拠を見つけたのですよ。風も頑張りましたから」
「……そうか。良くやったな、風」
その頭を、そっと撫でてやる。
「ちゃーんと、後でご褒美はいただくのですよ。それよりお兄さん、善は急げって事で」
「……うむ」
井戸水を汲み上げ、冷たい水で気を引き締めた。
その後で。
私の事を罵倒しようと手ぐすねを引いてきた古狸共に、処理を終えた竹簡を突きつけた。
「ま、まさか……あ、あれ全部を……?」
「そうだ。急ぎ、と申したのはその方らではないか」
「あ、あははは、さ、然様でしたな」
全員、顔が引き攣っていた。
……さて、古狸共に引導を渡す時が来たようだな。
ページ上へ戻る