カーボンフェイス
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プロローグ
少し俺の話をしてやろう。
親父は大酒喰らい、お袋はヒステリー、二人ともよく俺を殴った。酒で酔った親父は俺によく言った「お前はできの悪りぃヤツだ。」親父にぶたれたお袋はオレによく言った「アンタなんて産まなきゃよかった。」
忘れもしない1968年の冬のことだ、親父はある朝、俺を一人農場へ連れて行った。手を引かれ歩く俺の身体に小太りの親父の横腹が何度も触れた。生温く波打つ腹は別の生き物のようだった。納屋の奥に連れ込まれた幼い俺はトラクターをこっそり運転させてもらえるんじゃないかと思い、喜んだもんだ。そこで身の丈ほどのシャベルを手渡され、短く「掘れ」と言われた。「どうして?落とし穴を作るの?」俺は聞いたが親父は何も答えない。ドンと背中を押され、よたよたとシャベルをかまえた俺は穴を掘った。息を小さく吸い込むと鼻腔を土の匂いがくすぐり、なにか非日常を思わせる。シャベルを地面に突き立てた時、衝撃で体が震えるのを感じた。砂利や大きな石を退けながら地面を掘り、親父がいいと言うまで延々掘り進める。親父が俺に頼みごとをするなんてめったにない、数がろくに数えられない俺は酒の使いにもならなかったからだ。だが、そんな俺にも一つだけ仕事があった。親父はオイルの臭いを嫌い、煙草が手に入ると俺を呼びつけ火をつけさせた。銀色で細かい掘り込みが施されている重厚なオイルライターが俺の仕事道具だ。こぎみよい音と共にオイルライターから火が灯り、親父が煙草を燻らせているのを眺める、それが日課だった。
掘りづらく感じたのは最初の数分だけで、見る見るうちに穴は深くなっていった。もう自分で出ることはできない。誰か、そう、親父の手助けが必要だ。引き上げてくれる時にきっと親父は俺の手を握ってくれるだろう、親父の手を握るなんていつ以来だろうか、そんなことを考えながら掘っていたと思う。「父さん、もうそろそろいいよね?誰を騙すの?僕も遠くで見てていい?」
返事はなかった。親父は俺を助けてくれなかった。なぜこんなことをするのか理解できなかったし、なぜ親父がニタニタ笑っているのかも理解できなかった。
朝の牧場には管理している者以外ほとんど人が来ることはない。牧場の管理は親父の仕事だ、人が通る道からこの納屋はかなり距離がある。もう俺はこの穴から出ることはできない、そう思うと汗が噴き出した。全身を鳥肌が襲い、体中の筋肉がこわばっていくのを感じた。そうか、この穴は落とし穴なんかじゃない、誰かを落とす必要なんてないんだ。そんなことをしなくたって、そんな手間をかけなくたって、わざわざ穴の中にいる馬鹿がいるじゃないか。
ドフトエフスキーの小説を知ってるか?帝政ロシア時代のシベリア囚人の話だ。囚人達は、シベリアの荒野に連れ出され、一日中、巨大な穴を掘るように命じられる。1日目の仕事はこれで終わりだ。2日目、囚人たちは、前日に掘った穴を全部埋めるように命令される。穴を埋めたらそれでその日の仕事は終わりだ。そして、3日目、囚人たちは再度、1日目に掘り、2日目に埋めた穴を、また掘ることを命じられるのだ。囚人たちは命令通り埋めた穴を掘る。そして次の日、掘った同じ穴を埋めるように命令され、穴を埋める。「同じ穴を掘っては埋める」という繰り返しを与儀なくされた囚人の多くは10日目あたりで狂っちまうそうだ。
だが、俺はこの囚人たちは幸福だと思う。少なくともそいつらは掘っている間は次の日埋めるために生きられることを心の中で理解しているからだ。自分を閉じ込めるための穴を自分で掘っていたと気づいた時のガキの気持ちがわかるか?俺は死ぬ、ここで死ぬ。この小さな納屋の中の小さな穴で誰にも見つかることなく餓死するのだ。それだけは御免だ。精いっぱい息を吸い、大きな声で親父に助けを求めた。僕が何かしたなら謝ります、ごめんなさいもうしません、見上げた負け犬根性だ。だが、当時の俺は無力、両親の顔色を見ながらおどおどと生活しているちっぽけなガキだった。
そしたら穴の上から顔を出した親父が何て言ったと思う?醜悪な憎ったらしいニタニタ笑いを顔に張り付けてこう言ったのさ「俺が今どんな顔してると思う?」
あとのことは覚えていない。たしか散歩に通りかかった老夫婦が見つけてくれたんだったか、とにかくかなりの時間が経っていたはずだ。お袋は親父を責めなかった。目を腫らし、泥だらけで家に戻った俺を一瞥し、シャワーを浴びろと怒鳴り散らした。この家に俺の居場所はもうないと悟った俺はすぐに家を出た。もともと自分の持ち物なんてほとんどない、古いリュックサックに自分の持ち物を入れ、空いた片手でドアを押すと、親父が立っていた。俺を見る親父の目はお袋と一緒だ、相変わらずニタニタしてはいるが感情のこもってない白けた目、本当に俺のことが見えているのだろうか、少なくとも自分のガキを見る目じゃない。不意に親父が俺の方に手を伸ばしてきたのに気づき俺は身構えたが左手がリュックに引っかかりうまく顔を隠すことができない、中の荷物がうるさく音を立てその音が大袈裟に恐怖心を煽った。
親父は俺を殴らなかった、差し出されたその手には銀色のオイルライター。手渡されたそのライターは俺の手には重く、片手でささえるのは非常に困難だった。もう俺は振り返らなかった、親父の顔を見ることもなく家を出た。
このオイルライターが親父からの旅の手向けなんかではなく、どこへ行こうとお前は俺の煙草の火つけだというメッセージだと理解したのは----------------それから数年後のことだ。
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