~烈戦記~
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第九話 ~元凶~
またしてもまたしてもまたしても…ッ!
私は怒りに拳を握り締めていた。
それは私が任務を終え、先に関で豪帯様の帰還をお待ちしていた時の事だ。
"豪統様!凱雲様!洋班様の軍が見えました!"
"ッ!"
"来たか!"
私と豪統様は洋班…もとい豪帯様を北門近くの宿で待っていた。
私はともかく豪統様は豪帯様が関を立たれてからのこの約2日間どれだけ心配を重ねながらこの瞬間を待っていた事か。
私が帰還してからは尚更な事だ。
私からの報告に豪統様は涙を流されて悔やまれた。
何度も自分を責められ、何度もそれをなだめた。
本当なら私が豪帯様をお守りせねばならないのだ。
これは私の責任だ。
それから一日はただただ豪帯様の安否を心配しつづけた。
そしてその時は来た。
…だが、私達の心配は思わなぬ形で訪れた。
簡単に…とは言っても洋班を刺激しない程度に礼を尽くしてから、二人で豪帯様をお迎えした。
…だが、豪帯様は軍の後ろをただ一人で馬を引き連れて歩いていた。
何か嫌な予感をしながらも豪帯様に近付いてみた。
だが、その顔には生気は無く、明らかに何かあったのを物語っている表情だった。
"大丈夫か?何があった?"
そんな豪統様の言葉に豪帯様は。
"…今はほっといて"
と答えられた。
その言葉でとうとう私は憤怒を堪えきれずに関内へ向かう洋班の名を力の限り叫んだ。
その怒声は関内にもそれは響き渡り、兵は皆唖然としていたのを覚えている。
豪統様に止められ、兵士に止めらるも怒りの余り全てを蹴散らしながら兵団の前を行く洋班を目指した。
兵団の先頭についてみれば黄盛の後ろに隠れながらビクビクしている洋班がそこにいた。
"貴様!覚悟はできているだろうな!"
"なんの事だ凱雲!貴様無礼だぞ!"
"お、俺は何もしちゃいない!何もしちゃいない!"
"よ、洋班様?"
そんなやり取りをした後に周りにいた兵士達が私に事情を説明してくる。
そこでやっと豪帯様はあれ以来手を出されていないと知る。
…だが、それでも悔しさや怒りは収まらなかった。
だが。
"凱雲!いい加減にしろ!"
その言葉で我を取り戻した。
そして私はその後に豪統様から謹慎の処分を受けて今自室にいる。
なんてあり様だ。
本来ならこんな時こそ私が一番冷静さを保たねばならないのに。
これでは豪統様の補佐は失格だ。
実の親が耐えているというのに私は…。
ドガンッ
ピシッ
石でできた壁にヒビが入る様な音がした。
案外壁は厚いのだな。
そんな事を思いながら自分の拳を見る。
その拳は赤く滲んでいた。
あの凱雲があそこまで取り乱すとは…。
私は自室で夕陽を窓から浴びながらそんな事を考えていた。
それというのも私の子帯を思っての事だとはわかってはいるが、やはりこの関を守る者としてはあの様な行為は避けて欲しかった。
せっかく洋班様も関での目的を終えて帰られる時が来たのだ。
あまり帰られる前に刺激して欲しくない。
『…』
だが、あの凱雲が冷静さを失うなんて何年ぶりだろうか。
それくらい彼にとっては衝撃的だったんだろう。
…勿論それは私も同じだ。
帯のあの表情。
その顔が今でも鮮明に思い出される。
関に来た時、一緒に北門の整備をした時、その時々の表情からは想像なんてできないくらいに疲れ果てたその顔を見るのは親として何より辛かった。
そしてその原因は私の招いた事だった。
私が親として、官士としてしっかりしていればこんな事にはならなかったんだ。
『…すまない』
そんな言葉が漏れた。
だが、もうそんな事は言ってられない。
もう翌日には目的を終えた洋班様はこの関から出ていかれる。
やっと終わったんだ。
だからこそ、もう二度と私達に不幸が訪れないようにしっかりと洋班様の気を損ねないよう、また洋循様への報告も兼ねてしっかりと"種"を準備せねば。
私は再び目の前にある紙に筆を走らせる。
もう少しだ。
もう少しだけ待っていてくれ帯。
そしたら私が見せたかったモノ全てを見せてやる。
もう苦しむ必要のない世界を。
…そうだな。
だが、やはりあの帯の様子は気がかりだ。
だからこの仕事が終わったら少しだけ帯様子を見に行こう。
…いいよな?
私は沈み掛けた夕陽に照らされながらひたすらと筆を走らせた。
『…ふー』
『お疲れ様でございます』
俺は用意された部屋の寝床に身体を投げた。
人を切る事がこんな疲れるなんて。
確かに興奮によって余分に疲れたのもあるが、名剣を持ってしても人の肉を引き裂くまでの動作や相手の行動によって身体中の筋肉を使った気がする。
正直な話し怠いのだ。
『…よっと』
寝床の上で仰向けになり、自分の手のひらを見てみる。
そして今日の村での事を思い返す。
なんというか、同じ生きた人間を自分の手で斬り殺すというのはもっと何か感じるものがあると思っていた。
それがどうだ?
あまりに呆気なく死ぬもんだから最初こそは鳥肌がたったもんだが、後半にはどうしたら綺麗に切り裂けるかとかどうにかして真っ二つにできないもんかとかそんな事を考えながらただひたすら腕を振っていた記憶しかない。
"なんというか飽きた"
それが今日の感想だった。
『…では、明日の出発に備えて準備を整えてまいります』
『あ?』
すっかり忘れていたが、この黄盛は律儀にも部屋までお供をしてきたようだ。
…まったく。
ここの田舎共とは違い、こいつは媚の売り方をしっかり心得ているようだ。
こんな些細な事をしてでも従順さや献身さを見せてこその目下だろうに。
だから奴らはこんな辺鄙な場所から出られないのだ。
出来損ない共め。
『あー、待て待て』
『はい?』
俺は黄盛を呼び止めた。
急に呼び止められた黄盛は何故呼び止められたのかわからないといった表情をしていた。
…まぁ無理も無いか。
こいつは"幾つもの戦場を経験してこられたのだから"な。
『なー、その事なんだがな?』
『その事と言いますと?』
あーじれったい。
そのくらい察しろ筋肉馬鹿め。
『その明日の準備についてだよ阿保』
『それがどうかなさったのですか?』
イラっときた。
だが、今日初めて人を切った事で悲鳴を上げていた筋肉が急な動きを拒んでいた。
そのせいもあって、俺は枕元の机にある小物を握るも投げ付ける事をやめた。
『はぁー…よっと』
精一杯の力で身体を起こす。
『お前は何か物足りねぇって思わねえか?』
『?』
『はぁー…』
既に暴力を諦めた分溜息しか出なかった。
説明するのも面倒だがぐっと堪えた。
『いいか?今日の賊狩は俺の初戦なんだぜ?つまり、今日は俺にとっては記念すべき日なんだ。』
『はぁ…』
『だが、実際その記念すべき戦はどうだった?』
『どう…と言われましても』
ガツッ
『あだッ!?』
『だーかーら!!俺が言いてえのは記念すべき日にしてはしょぼいんじゃねえかって事だよ!』
等々手元の小物を投げ付けた。
そうだとも。
俺様の記念すべき初戦が、こんなにも地味でいいはずが無い。
俺はもっと地方で野ばらしにされている賊共何万を根絶やし、そこの民草から感謝され、官士共からも一目置かれ、ついには都より将軍位を賜ると共に"皇宮校尉"として召し抱えられ、晴れて皇帝のお膝元で出世街道まっしぐら…。
それが俺の計画だった。
だが…。
『実際に討ち取った賊の規模はなんだ?たかだか100~200そこらの小賊ではないか。そんなもの報告したところで笑われるのが落ちじゃないか』
『はぁ…確かに誇れた功績では有りませんが…』
『そこでだ!』
『?』
俺は手招きして黄盛をそばに寄せる。
きっとこれを聞けばこいつも驚くだろうよ。
ちょっとした期待に胸が膨らましながら屈んだ黄盛の耳元に顔を近ずける。
『…蕃族だ』
『蕃族?』
本当に察しの悪いやつだ。
『蕃族を俺らで根絶やすんだよ』
『な、なんと!?蕃族を我々で!?』
ドガッ!
『あだッ!?』
『声がでけえんだよ!』
『す、すみません!』
こいつは本当に頭に何か入ってるのか?
こっちがわざわざ声を小さくしているというのに…。
『し、しかし、良いのですか…?聞いた話しでは蕃族とは確か友好関係を結んでるだとか…』
『なーに気にするな。あんなもの豪統が蕃族に対抗できないもんだから勝手に言ってるだけさ。逆にそれを我々が打ち滅ぼしてみろ?それこそ我々は大手柄だ。それに本当に同盟を組んでるにしても相手は蛮族だ。何を気にする必要がある』
『しかし、豪統はそれを知って黙っているかどうか…』
『はぁー…。お前は本当に考え無い奴だな、黄盛。頭を使え頭を』
『…?』
『何も馬鹿正直に"出陣します"なんて伝える必要なんかねぇんだよ。なんたって俺は州牧の息子なんだぜ?それに俺達には俺達の兵2000がある。つまり…』
『豪統には伏せて蕃族を討ちにいくと?』
『そうだ!中々わかるようになったじゃねえか!』
『ははっ…。では、出陣は何時になさいますか?一応我々は明日の昼には関を出ると…』
『今からだ』
『は?』
『今から蕃族を潰しに行く』
『い、今からですが?』
黄盛が窓の外を見る。
既に日は山に隠れつつあった。
『夜に抜け出すという事ですか?』
『そうだ!それに夜の方が蕃族だって不意を突かれて大混乱!これぞ兵法!これぞ知将の戦い方だ!』
『それはいい作戦にございます!では早速準備をさせます!』
『あ!待て!』
『はい?』
俺は部屋から飛び出そうとする黄盛を呼び止めた。
多分しっかり言って置かないといけない気がするからな。
『いいか?誰にもバレないように慎重にな?』
『わかってございます!この黄盛にお任せを!』
お前だから心配してんだよ阿保。
そして黄盛は部屋を出て行った。
ククッ…。
夜が楽しみだ。
ガヤガヤッ
準備を急げッ!
さっさとせねばばれてしまうぞッ!
ガヤガヤッ
外が異様にうるさい。
こんな日も落ちた時間にいったい南門で黄盛は何をしているのだろうか。
僕は関に帰って来て直ぐに北門とは反対側の南門近くの宿に来ていた。
理由は二つ。
一つは自分の部屋には居たく無かったからだ。
今は本当に心の底から誰とも会いたくない。
それが父さんでも。
…しかし父さんはそんなこっちの気も知らないで慰めに来そうだったから。
『…はぁ』
父さんのいき過ぎた優しさにはたまに凄く嫌な思いをさせられる。
そして二つ目は洋班にできるだけ会わないためだ。
多分北門だと明日の帰り際には必ず洋班が通る。
それに、父さんが用意した洋班の部屋だってどこにあるかは知らないし、無いとは思うがもしかしたら北門周囲の良い宿を借りているかもしれない。
そうなら尚更出歩いている洋班に会いかねない。
もう洋班の顔も見たくない。
明日は腰抜けだの弱虫だの言われるだろうが、それでも洋班に会わなければそれでいい。
そして選んだのはこの南門だ。
こちら側は北門に比べて若干ではあるが、内陸側に位置する北門よりも高い宿屋は無く、どちらかと言うと蕃族と頻繁に交易している流れ商人が一時的に借りるような宿しかない。
…それに。
コンコンッ
(帯坊、飯は戸の前に置いて置くからな!腹減ったら食いな!)
そうなのだ。
ここの宿は昔からの付き合いで僕が父さんとケンカをした時や、父さんと凱雲が偶然出掛ける事になった時に良く来ていた場所なのだ。
そのせいもあってここの主人は僕が来ると何時も何も聞かずに宿に泊めてくれる。
そして今みたいにご飯も用意してくれる。
…あとでしっかりお礼言わなきゃな。
僕は枕に顔を沈ませながらそんな事を思った。
そして、少し宿主の好意に胸が暖かくなるが、直ぐに昼の事を思い出しその温もりは冷めた。
…今日死んだ人達の中にはこんなやり取りをしていた人達もいたんだろうな。
僕は自分と宿主との間に起きた些細なやり取りをあの村と重ねた。
穏やかな日常。
みんなが気を使い合いながらも気さくに、そして時には小さなケンカをしたりしながら流れていた日常。
その中で昼に宿に泊まりながら宿主とたわいも無い会話をしている二人。
…だが、そこに急に剣を持った兵士達が押し寄せて来て訳もわからずに斬り付けられてそして…。
ギュッ
より一層強く枕に顔を押し付けた。
僕はどうして止められなかったんだ。
あの場では反対意見を言えたのは兵士達より位の高い僕か黄盛しかいなかった。
だからこそ兵士達の、そして僕の意見をしっかり諦めずに主張し続けるべきだったんじゃないか?
…それが死ぬ事になっても。
でも僕は途中で諦めて黙認した。
最善を尽くしたか?
いや、最善なんて尽くしちゃいない。
それこそ死ぬ気で喰いついていればなんとかなったかもしれない。
それなのに僕は…。
もう涙も出ない。
何度も何度も同じ言葉を繰り返している内にいつの間にか涙は乾いていた。
そのせいか、異常に喉が乾いていた。
だが、自分の喉を潤す為に水を飲むのに抵抗を感じていた。
涙が出なくなった今、死んだ人達への謝罪の仕方がわからない。
泣く事で許されるとは思っていないが、それでも罪悪感を誰に示すでもなく感じているというのを示せなくなった今はこの乾きこそが泣く事に変わる死んだ人達への謝罪の仕方のような気がしていた。
死んだ人達はこの乾きすら感じる事はできない。
水を飲んだ時の生きている実感や
清々しさなんてもっての他だ。
そんなものを僕が感じる資格なんて無い。
僕は何十、何百の人殺しを黙認したんだ。
『…ごめんなさい』
枯れた喉から無気力にそんな言葉をひじりだした。
ガヤガヤッ
早くしろと言っているだろ鈍間共!
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
それにしても外は相変わらず煩いな。
あのデカブツはこんな夜中に兵士達に何を怒鳴り散らしているんだ。
僕は懺悔に懺悔を重ね疲れて、無気力に外の声に耳を傾ける。
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
貴様ら!兵士だろ!
戦前にそんなに無気力でどうするか!
ガヤガヤッ
ん?
戦?
戦とはなんだ?
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
ドンッ!
『…っち』
部屋の外から部屋の壁に向かって何かがぶつかる音がした。
まったく…なんて迷惑な。
これじゃあ僕以外の人達も眠れやしない。
第一南門にこいつらが何の用なんだ。
昼間に賊討伐と言って村を襲ったばかりだろうに。
それに賊退治なら内陸側である北門に集まるべきだろう。
南門なんて城壁を越えた先に蕃族しか…。
『…え?』
一瞬嫌な予感が頭を過る。
そしてそれによって急にぼけていた頭が冴えてくる。
そうだ。
戦ってなんだ?
賊退治が終わった今戦なんて起こるわけがないだろ。
もう目的を終えた奴らは明日の朝には州都に戻るだけなのにどうしてまた戦準備なんか。
しかもその目的の方角は明らかに蕃族を目指している。
それは南門に来ている時点で明確だ。
賊が関より外側にいるのを突き止めたからか?
いや、そんなはずは無い。
関に来てそんな情報は聞かないし、荀山すらあまり知らないような奴らが僕達より先に関より外の情報を掴めるとは思えない。
第一そんな情報があればあの村は犠牲になる必要はなかったんだ。
じゃあ残る目的はなんだ?
蕃族…か?
いや、そんなはずは…。
だが、相手は洋班だ。
もしかしたら…。
僕は枕元にある鉄鞭を手に取り部屋を出た。
『貴様ら!!何度言わせるんだ!!早くせねばバレるだろうが!!急げ!!』
気だるそうに身支度を整える兵士達の中を進んで行くと、そこには夜の静けさ、とは言っても昼よりも静かになった辺りに響き渡る声で仕切りに叫ぶ黄盛がいた。
まぁ黄盛がいるのはわかっていたから驚く事はなかった。
それよりもだ。
『黄盛さん!』
『ん?…ゲェッ!!』
分かりやすいくらい"しまった"と言わんばかりの表情の黄盛を見て想像に現実味が帯びてくる。
『何でお前がここに!?』
『それはこっちの台詞です。貴方達はここで何を?』
『う…うぐぅ…それはだな…』
『蕃族ですか?』
『ギクッ!?な、何故それを!?』
何だこの人。
わざとやってるのか?
だが、今の反応で想像は確信に変わった。
…まさかあの村だけでは飽き足らずに蕃族を襲おうとするなんて。
洋班という男はとことん想像の遥か上を行く人間だという事を再認識させられた。
『…まさか、僕にばれてまで出陣されようとは思いませんよね?』
『グギギィ…し、知るかそんなもの!これは洋班様直々の命令だ!それに貴様らは逆らうのか!?』
『やましい事だとわかってるからこんなコソコソとした真似をするんでしょ?』
『ウッ…』
よかった。
僕にはこの暴挙を止める事ができる。
あの村は救えなかったが、その犠牲を無駄にする事だけは止める事ができそうだ。
それが罪滅ぼしだとは思わない。
けれど、それでも僕にとってはこの事が支えになった。
あの村の虐殺からしっかりと何かを学べたと。
そして新たに起きそうになっていた虐殺を止める事ができたと。
僕は罪悪感から少し救われた気がした。
『では黄盛さん。兵士達を引き上げて休ませてあげてください。明日からはまた大変な行軍になるのですから』
『し、しかし…』
ザワザワッ
兵士達からは安堵の空気が流れる。
そりゃそうだ。
ここに来てからというもの、休憩という休憩も取らずに今日まで頑張ってきたんだ。
その上でまた戦闘をしなければいけない状況で待ったの声が掛かったのだ。
しかも、黄盛は押せば折れそうだ。
あと少し…。
僕は一息にケリをつける為に息を吸い込んだ。
『もし引いて下さらないのであれば僕は父さんに…ッ!?ゲホッ』
『?』
しまった。
喉が枯れ過ぎてむせてしまう。
しかも思ったよりも喉の渇きはひどかったらしく、今の一言で喉が割れたような痛みを感じる。
僕はその場に座り込んでむせた。
『ゲホッ!ゲホッ!ゴホッ!』
苦しい。
吐き気に近い感覚が喉を襲うが、出てくるのは乾いた空気だけだ。
僕は涙を目に浮かべて咳を続けた。
が、それが奴に思わぬ反撃のスキを与えてしまった。
『こ、こいつを捕らえろ!』
『!?』
黄盛は急にそう叫ぶと僕に目掛けて走り出した。
周りの兵士達も急な命令に唖然としながらも、こちらを追う構えに入り始めていた。
口封じをする為と悟った僕は急いで逃げ出そうとする。
…が。
ドンッ
『え?』
後ろにいたであろう人影にぶつかる。
一瞬状況が理解できなかった。
『おいおい黄盛。これはどうゆうことだ?』
『よ、洋班様!?』
僕はふと顔を上げるとそこには飽きれながら僕を見下げている洋班の顔があった。
マズイッ!?
僕は洋班を押しのけて逃げ出そうとする。
…が。
ガシッ
『おっと!逃がさねえぜ!』
僕はそのまま洋班によって羽交い締めにされてしまった。
『クッ!ケホッ、は、離せ!』
『バーカ!離すわけねぇだろーが!』
完全に身動きが取れない。
捕まった。
『ウヲォォ!』
『ん?』
そしてそこへ猛烈な勢いで黄盛が走ってくる。
…嘘だろ。
『洋班様ァ!そのまま捕まえといてくださぁぁい!』
『お、おい!?まさかお前!?』
『ぐらぇぇぁあぁぁ!!』
『ま、ま…!!』
『ウオラァァ!』
ドガンッ
『ガッ…ハッ…ッ!』
『うぐぅ!?』
猛烈な痛みが腹を襲う。
身体中の皮が拳のめり込んだ場所へと吸い込まれる気がした。
そして肉は裂ける様な痛みと骨の軋む感覚に襲われ…そして。
ドサッ
僕の意識は無くなった。
『はぁ…はぁ…』
な、何とか口封じはできた。
『うぐおあぁぁぁ!!』
だが、なんか嫌な予感がする。
な、何か俺はやらかしちまったのか!?
駄目だ!
頭が回らない!
洋班様に羽交い締めにされたガキに向かって拳を叩きこんだが、ガキは意識を失い、そして後ろにいた洋班様も猛烈に苦しがっておられる。
はて…何なんだこの違和感は。
『がぁぁ…ッ!』
『あ、よ、洋班様!』
い、いかん!
とにかく洋班様が苦しんでおられる!
駆けつけなければ!
『うぎぎぃ…ッ!』
『だ、大丈夫ですか!?』
『だ、大丈夫なわけ…あるかぁぁ…ッ!』
『…あ』
やっと興奮から冷めて理解した。
俺は…洋班様ごと拳で貫いてしまったんだ。
ドガッ
『アガッ!も、申し訳ございません!アダ!?』
バキッ
『ふざけんな!ふざけんなぁ!』
何なんだこいつは!?
何なんだこいつは!?
自分の上司毎拳を叩きこむ奴があるか!
しかも捕まえた時点でやりようは幾らでもあるだろ!?
なのにこいつは!!
俺はその後少しして直ぐに兵を率いて関を出た。
そしてその間ずっと鞘にしまった剣で俺の馬の隣を歩きながら謝り続けるこの男を殴り続けている。
非常識もいいところだ!
馬鹿もいいところだ!
こいつの言い分的には豪帯に見つかってから相当混乱したらしく、豪帯が咳き込んだ時には気絶させて口を封じる事しか頭になかったようだ。
そして、待つのに飽きた俺が来て豪帯を羽交い締めにしたのを契機と見て拳を叩きこんだ…と。
こいつには絶対に大事な事は任せられないと悟った。
第一、あれだけ気をつけろと言っていたのにも関わらずあっさり豪帯に見つかりやがって…。
ドガッ
『ふぎぃ!』
既に顔中あざだらけな黄盛は耐えきれなくなったのか等々地面に膝をついた。
こんなもんじゃない。
俺は人間越しに拳をくらってあれだったのだ。
もし豪帯に避けられでもしてたら…。
それを想像して背筋が凍った。
こいつは確かにどうしようもない馬鹿だ。
だが、徐城一の怪力は嘘では無いらしい。
それどころかこの国一なのかもしれない。
そう思うと、自分の手元にいるこの黄盛の怪力に心強さを感じると共に、後ろで荷車の上で縄に縛られて気絶している豪帯に気の毒さを感じた。
人間越しであれなのだ。
それを直接、しかもあんな小さく華奢な身体で受けたのだ。
もしかしたらこいつは目を覚まさないかもしれない。
…そうなると凱雲が黙ってはいないだろうが、だが黄盛がいる。
最近は全く頼りにならなかったこいつだが、こいつの腕力は身を持って体感したんだ。
腕っ節ならあの凱雲に負けるはずはない。
現に既に勝っているしな。
『お、お許しを…』
『…ふん。馬に乗るのを許す』
『!?は、ははッ!!ありがたき幸せ!!』
ボロボロになりながらも許しを乞う黄盛の姿を見て流石にこれ以上はという気持ちと筋肉痛な身体に鞭を打って殴り続けたのもあって疲れたという理由で許してやる事にした。
こいつでなければ拷問の末に打ち首の所だ。
そうこうしながら森の中の道に馬を進めた。
行軍を続けていると月明かりだけの森の暗がりの中で先の方に村のようなものが見えた。
『洋班様!見えましたぞ!』
ギロッ
『ひっ!?』
『…』
こいつは話を聞いていたのか?
まったく、夜襲だというのにこいつは…。
『…声でけぇよ』
『す、すみません…ッ』
普段なら有無も言わさずに殴りつけるところだが…。
『ふぁ~…ねみ。』
今の俺は深夜という事もあり、行軍の途中で眠気に襲われていた。
既に身体中の関節も動く事を拒み、必要最低限の動きしか許容しない。
『…よ、洋班様?眠いのでございますか?』
『あ?…あ~』
『でしたら蕃族はまだこの村だけではございませんし、少し引いた所に陣を構えて明日を待つのも…』
『あ~?せっかく目の前まで来たんだ。さっさと片付ければいいだろうが』
『はッ』
『では後は任す。さっさと終わらせて陣を敷け』
『了解しました!おい貴様ら!』
夜の暗がりの中でまたも黄盛の声が響いた。
そんな黄盛が苛立ちを覚えたが、
もう言うのも面倒だと思いその行為を不問にすることにした。
『これより目の前の蕃族に夜襲をかける!』
ザワザワッ
『いいか!』
オーッ!
『一気に叩き潰す!』
オーッ!
『我に続け!』
その叫び声と共に幕は切って落とされた。
兵士達の雑踏はさっきまでの夜の静けさを飲み込んでいく。
そんな中で俺は波行く兵士達が横をすり抜けて行く中で馬をゆったりと歩かせた。
ドンドンッ
部屋の戸が忙しなく叩かれた。
いったいなんなのだろうか。
謹慎中の人間に、しかもこんな夜に面会などとは常識の無い者もいたものだ。
それとも、それ程に急な大事なのだろうか?
私は床から寝ぼけた身体を起こして戸を開いた。
『が、凱雲様!』
そしてそこにいたのは豪帯様が昔からお世話になっていた南門近くの宿の宿主だった。
その事から豪帯様関係の事だという事をすぐに悟る。
そしてその悲しげな表情や目の前で息を整えているところから只事では無いことも悟る。
私の寝ぼけた身体から嫌な汗が滲み出てくる。
明日で全て終わるというのに今度はなんだ?
『…宿主、いったい何があった』
私はできるだけ頭を冷やしながら冷静に言葉を並べる。
『凱雲様!お、落ち着いて聞いてくれ』
『わかっておる。なんだ?』
『たい、ご、豪帯様が今日私の宿に来たんですが…その…』
『…』
やはり豪帯様か。
私は無言で次の言葉を待つ。
『例の余所者達に…連れさられた』
『…なん…だと?』
意味がわからなかった。
余所者達というのは大体予想できる。
だが、あの餓鬼共が今更豪帯様を連れさる理由がどこにある?
しかも、いったいどこへ?
『ど、どういうことだ!?いったいどこへ連れさられた!』
『が、凱雲様落ち着いて!』
理由がわからない今、豪帯様がどんな危険な目にあっているのか想像できない分焦りが募る。
私は宿主の肩を揺らし、返答を促した。
『わ、私にもわからないですが兵隊を連れて外の方へ…』
『外とはなんだ!?北門から出て行ったのか!?』
『い、いや…』
『なら外とはなんだ!?』
北門では無いならいったい兵士を引き連れて何処へ行けるというのか。
豪帯様を人質に州都へ赴くならまだ理由は色々想像できた。
だが、宿主の言う外というのがそれで無いと聞いて尚更想像ができなくなる。
いったい宿主が言う外とはなんなのか。
…頼むから大事で無いでくれ。
『み、南門から…』
『…み、南門?』
一瞬わけがわからなくなる。
何故南門なんだ?
何故そこに豪帯様が必要になる?
いったい奴らの目的は…。
"蕃族"
『』
頭にその名が過り、身体中の体温が消し飛ぶ。
自分が思いついてしまった可能性に絶句した。
もし仮にもこの予想が当たる事があっては豪帯様だけでは済まない。
それこそここら一帯を巻き込む一大事だ。
私は自分の予想を必死に否定した。
『そ、そういえば確か余所者の一人の大男が口々に"夜襲だ!"だの"急げ!"だの叫んでいました!』
だが、宿主の言葉でその予想は確信へと変わる。
『だ、だから多分豪帯様は蕃族のいる方へ…ヒィッ!?』
宿主が何かに驚いて部屋から飛び退いて尻餅をついた。
だが、今の私の意識にはそんな些細な事に割かれる余裕は既に無くなっていた。
『あいつらぁぁぁ!!』
『ひぃぃッ!』
私は尻餅をつく宿主を横目に兵舎へと向かった。
ドンドンッ!
豪統様!豪統様!
ドンドンッ!
『…んむ。なんだこんな夜中に』
私は床の中で目を覚ます。
いったい誰なんだ?
仮にもここの関の責任者の家にこんな時間に訪ねてくるなんて。
声からして官士や兵士では無いようだが。
私は気怠さを押し殺して戸へ向かった。
『あ、豪統さん!大変だ!』
『ん~…なんだ、南門の所の…』
『そんな事はいいんです!!大変なんです!!』
訪ねて来たのは昔からの付き合いの宿主だった。
宿主の声が耳を劈く。
…まったく勘弁してくれ。
私は寝ぼけた頭を必死に起こそうとする。
『わかったわかった。聞くからまず、声の高さを…』
『豪帯様と凱雲様が!』
『ッ!?』
その名を叫ばれて一気に目が覚めた。
そして目が覚めて気付くが明らかに只事ではない表情をしていた。
『…宿主、あの二人に何かあったのか?』
『豪帯様が余所者達に連れさられました!』
『なんだって!?い、いったいどこへ…』
『蕃族です!』
『は、蕃族だと!?』
『はい!兵士達を引き連れて南門より…あ、豪統様!?』
私は余りの急な事に眩暈がしてさっきまで寝ていた寝床に腰を落とした。
『だ、大丈夫ですか!?』
混乱した頭の中を整理する。
まず、余所者とは十中八九洋班様達の事だろう。
そして、その洋班様達が派兵された兵士達を引き連れて帯共々蕃族に向かって…。
『あぁ…なんという事だ』
どう考えてもいい予想が出せない。
洋班様達はきっと昼の戦果だけでは物足りずに蕃族討伐へ向かったのだろう。
では、いったい荀山の村の民はなんの為に犠牲に…。
私の築き上げた蕃族との友好関係は?
そして何より…。
『蕃族と戦争なんて無謀すぎる…』
今の蕃族相手に戦争なんて"無謀"なのだ。
今現在の国としての蕃族の認識とは、辺境の森の中に住む文明の遅れた少数民族、所謂蛮族と位置づけられているのが実は違う。
彼らは関を越え、森を抜けた先に広大で肥沃な領土を持ち、そこには無数の河川が流れ、文明も彼ら独自の文化と交易路を持つ。
そしてその環境を周りから包み隠すように広い森や深い谷、険しい山々に囲まれていて、我々を含めた外国からの侵略を受けずらい地なのだ。
そのせいもあり、戦時の大乱の中でもその領土を守り抜き、今も細々とではあるが交易相手を旧国"烈"から現在の"零"へと変えて共存してきた。
私もここの関主をするまでは間違った認識を持っていたが、交易を管理するにあたってその認識を改めるにいたる。
そしてそれを私は上へと何度か上訴はするのだが、一行に信じてもらえないばかりかこうして派兵までしてくる有様だ。
そして話しは戻るが、その蕃族を相手にするとなると一本縄ではいかない。
それこそ国の大事、我々のような一拠点程度が独断していい類のものではない。
それをあの洋班様は…。
私は全てを投げ出したくなる衝動に駆られた。
だが、この国の問題にはこの国からご恩を受け、この関を任せられた一武官として逃げるわけにはいかない。
そして何より、この問題に自分の息子が巻き込まれているのだ。
親として逃げるわけにはいかない。
『だ、大丈夫ですか?』
『…宿主、大丈夫だ。続けてくれ』
私は頭を抑えながら話しの続きを仰ぐ。
『はい…そしてこの話しをまず通りかかった凱雲様の屋敷で凱雲様に伝えたところ凄い剣幕で…』
『何故まず私では無く凱雲に話した…?』
『そ、それは私も迷いはしたのですが、急を急ぐと思いまして勝手ながら凱雲様にも伝えようと…。も、申し訳ございません!』
まったく…。
これでは軍の規律も何もありはしない。
この宿主は私達に気を効かせてくれたのだろうが、謹慎中の人間が上司の許しも無く政治や軍事に関わるのはいただけない。
また、報告だってまずは上司で上司から部下だ。
…民との距離が近すぎるのも考えものだな。
『まあいい。以後はまず何があっても私に報告してくれ』
『…はい』
私はバツの悪そうな宿主の隣を避けて部屋出る。
『宿主』
『…え?』
『ありがとう』
『は、はい!』
私は急いで南門へ向かった。
『これより豪帯様の保護、及び派兵団の進軍を止めに向かう!最悪蕃族との戦闘になるかもしれん!心しておけ!』
オーッ!
私の予想は的中した。
多分凱雲の事だ。
あんな事を聞けば兵を叩き起こして兵糧も用意しないまま出陣するだろう。
そう思って真っ先に南門へ来てみれば案の定800の兵が凱雲の鼓舞を受けていた。
『凱雲!』
『む、豪統様ですか』
凱雲が私に気付く。
そして馬を降りて私と凱雲は対峙する。
『謹慎中の身で勝手に兵を繰り出す事、お許し下さい。しかし…』
『話しは聞いた。一刻を争うのだろう』
『はい。では出陣をお許しに?』
『いや、出陣は私がする』
『駄目でございます』
凱雲は即答してくる。
しかし、凱雲も凱雲で最近私に良く逆らうようになった。
いや、そんな事はどうでもいい。
『凱雲、これは命令だ。それにお前は今きんし…』
『では豪統様のお身体に何かあった場合に誰がこの関を纏めるのですか?』
『しかし!私が行かねば洋班様は止められん!』
『誰が行ったところであの方は止められません!』
『ぐっ…』
遠回しに私でも無理だと言われたが、確かにそうだ。
だが、凱雲に任せてはきっと荒業時になるに決まっている。
それはいけない。
それにあそこには帯が…。
そうだとも。
私はただ単に帯がこれ以上私の知らない場所で危険な目に会うのが嫌なのだ。
『下手をすればあの蕃族を相手にしなければいけないのです。その時にもしも豪統様に何かあっては…』
『しかし、今あそこには私の息子が…』
『豪統様!』
『!?』
凱雲が私の肩をがっちりと掴む。
その喧騒に驚き言葉が詰まる。
『豪統様。今度こそ…今度こそは豪帯様をお守りしてみせます。だから…私を信じてください』
『…凱雲』
顔は伏せていて表情は見えないが、掴まれた肩から凱雲の心情がヒシヒシと伝わってきた気がした。
凱雲は先日の帯の怪我に未だに責任を感じていたようだ。
私は私の手で、親として自分の息子を守りたい。
だが、凱雲の言うように私が行っても何にもならない。
そればかりか、私に何かあればあの関は私では無い違う関主を迎える事になる。
…そうなれば、せっかくの民の平和も崩れてしまいかねない。
それは今までついて来てくれた関の人間達への裏切りだ。
私が責任を持って彼を守らなければ。
『凱雲、命令だ』
『…』
『…必ず息子を無事に連れて来い』
『!?』
『それと蕃族との戦は絶対にあってはならない。何としてでも洋班様を止めてこい。いいな?』
『ははっ!!』
凱雲が再び馬へ戻る。
『凱雲!』
『はい』
そんな凱雲に私は呼びかけた。
『…頼んだぞ』
『…お任せあれ』
そして凱雲率いる800の兵は洋班様の後を追って関を出た。
『…遅かったか』
兵を走らせてどのくらいがたったのだろうか。
私の目の先にある村からはこの時刻には不釣り合いな光が当たりを照らしていた。
あの光の正体は兵士達の篝火であろう。
そして兵士達が村で篝火を灯しているとなると、既にあの村は…。
『…』
私はそれについて考える事をやめた。
今は憐れみをしている暇は無い。
もし、仮にあの場で2000の兵だけで陣を構えているのであればそれは自殺行為だ。
一瞬このまま放置して合法的に洋班を排除できないかと思い浮かんだが、不毛だと踏んで諦めた。
仮に洋班が死ぬ事があっても、蕃族の民には既に手を出してしまったのだ。
もう戦は回避できないだろう。
『…』
本当にどうしようもない事をしでかしてくれた。
蔑すもうとすればする程に怒りの言葉は湧き上がって来るが、今はとにかくこれから重要になるであろう貴重な2000の兵力と豪帯様を回収する為に村へ急いだ。
『洋班様、粗方死体の処理が終わりました』
『…ん』
『仮の陣容も整えましたゆえに、今夜はここで夜営ということで…』
『…ん』
『…では洋班様の天幕へ…』
『待たれい!』
『ん?ゲェッ凱雲!?何故貴様がここに!?』
『…ん?凱雲?』
丁度村の中央では大きな篝火の下で洋班と黄盛がいた。
辺りは今にも夜営をしますと言わんばかりの天幕を張り巡らせていた。
ちらほら見える兵士達はここ連日の酷使によって疲労の様子が隠しきれていないようだ。
…これでは仮に陣を襲われる事があれば守り切るどころか逃げ切るまでにどれだけの被害が出る事やら…。
『洋班様…早急に兵を関までお引き下さいませ』
『あ…?』
『貴様!何を寝ぼけた事をぬかしておる!この夜営の状況が見えんのか!?』
『…ここでの夜営は自殺行為でございます。既に蕃族にはこの村襲撃の報はいっているはずです。ですので陣を捨てて早急に…』
『蕃族相手に陣を捨てて逃げろだと!?ふざけるな!第一こんな時間に兵を出してくるわけが…』
ジャーンジャーンッ
真っ暗な夜空に陣銅鑼の音が響いた。
…予想はしていたが早すぎる。
『な、なんだ!?』
『なんじゃ!?』
『蕃族だ!!さっさと兵を退け!!』
『貴様ら!!』
蕃族領側より少し遠くの小高い丘の上から声がした。
そしてそちらを見れば月明かりに照らされた騎馬武者が単騎で影を見せた。
…まずい。
『だ、誰だ!』
『我が名は形道晃!蕃族の王、刑道雲が第一子なり!貴様らこそ何者だ!?見たところ賊の類ではないな!』
『ふふふ…聞いて驚くな!?我々は…』
ドカッ
『あだっ!?』
『…ん?』
『俺の名は烈州州牧が第二子、洋班!貴様ら蛮族を討ち取りに来た男だ!』
『…何?零の官軍か?』
『そうだ!降伏するなら今のうち…』
『どういう事だ!貴様らと我ら蕃族は同盟関係にあるはずだろ!』
『はぁ!?蛮族風情が調子に乗るなよ!貴様ら蛮族なんぞと我ら高等民族が同盟など組めるか!』
『何!?貴様らぁぁ!』
『待たれよ!!』
『…ん?その声は』
堪らず声を張り上げた。
『凱雲!そこにいるのは凱雲か!?』
『いかにも!』
刑道晃が私に気付いて声をあげる。
『凱雲!これはどういう事だ!?何故同盟を反故にするような真似を!?』
『…』
『答えろ!』
私は何も答える事ができなかった。
言い訳や謝罪の言葉で住むような事では無い事は十分に知っている。
…だが、今の私にはそれ以外の言葉が思い当たらなかった。
『…っち!豪統だ!豪統を出せ!』
刑道晃は痺れを切らして豪統様の名を叫んだ。
『あんな蛮族相手に臆病風に吹かれる下っ端なんぞ関に置いて来たわ!それより来るのか!?来ないのか!?』
『…成る程。そうなっておるのか』
刑道晃は何かを察してくれたようだ。
一瞬心の中で誤解が解けた安堵が過るが、かといって現状は未だに最悪のままだ。
誰が命令してようが関係無い。
我々は蕃族の民に手を出したのだ。
その事実は変わらない。
『そちらで何が起こっているのかは知らん。だが…』
刑道晃は言葉を濁らせ、変わり果てた村の姿を見渡した。
村には蕃族の民の姿は無く、見える人影は全て陣銅鑼によって目を覚まして戸惑う兵士達だけだった。
『貴様らは我が同族に手をかけた。その事実は変わらない』
『あ?さっきから何をぼそぼそと…』
『黙られよ関越えの民よ。私は今そこにいる凱雲と話しておるのだ』
『んだと貴様!』
『凱雲』
刑道晃は隣にいる洋班を無視して話を続けた。
『長き間柄ではあるが、私には私の義務があり責務がある。それは軍人としてわかるな?』
『…あぁ、わかっておる』
そうか…。
やはり駄目か。
私は手綱を握りしめた。
『洋班様…』
『あ?なんだ?』
そして刑道晃にバレないように横目で洋班に喋りかける。
『…私達がこの場を引き受けます。ですので洋班様は合図を出しましたら急いで兵士達を纏めて下さいませ。…そして』
『逃げろってか?』
『…では、行くぞ』
刑道晃が腕をあげる。
あれが振り下ろされれば戦闘が始まる。
『…はい。洋班様、どうか決断を』
『ふざけるな!蕃族相手に我々高等民族が退けるか!黄盛!』
『洋班様!』
『はっ!ここに!』
『蛮族共を蹴散らせ!』
『御意!』
だが、私の努力も虚しく洋班は戦闘の意思を固めた。
駄目なのか!!
そして刑道晃の腕が振り下ろされた。
『かかれ!』
『かかれぇい!』
二人の男の声は夜空に交差し、戦闘の幕は切って落とされた。
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