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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 前編
  Deep psyche

「……ここは……?」

 マサキが目を開くと、そこは宿の自室ではなかった。何処まで続いているかも解らない空間に、白いもやがかかっている。
 不審に思ったマサキが辺りを見回すと、更なる相違点が浮かび上がった。
 マサキが身に着けていたのは、洒落っ気を全く感じさせない革装備ではなく、また、右腰に下げてあるはずの曲刀も見当たらなかった。代わりにマサキの身を包んでいたのは、薄いグレーストライプが入った仕立てのいい黒のビジネススーツ、ネイビーにホワイトのピンドットが入ったネクタイで、手には愛用のノート型PCやタブレット端末などが入ったバッグ。マサキが雅貴であった頃、つまり、マサキがSAOに囚われてしまう以前、学会などに向かう際に着用していたものだ。

「これは……?」
「橋本―!」

 驚くマサキに追い討ちをかけるように、どこからか声が響いた。やがて、もやの中から紺色のブレザーを着た少年が姿を現す。彼はニコニコと笑いながらマサキに近付くと、さも当然そうに馴れ馴れしく肩に手を置いて喋り始めた。

「でさ~、あのモンスターのブレスが――」
「分かる分かる。俺なんてこの前――」

 と、反対側からも一人、同じ制服に身を包んだ少年が現れた。それからも、一人、また一人と男女問わず現れては、マサキの傍に立って話し始める。瞬く間に、マサキの周囲はざわざわという喧騒で満たされる。やがて、新たな人物の出現がなくなったときには、その場にいる人物は、実に多種多様になっていた。
 グループを作って雑談にふけるもの、辺りを走り回るもの、座って弁当を食べ始めるもの――。

「…………!」

 ここで、今まで辺りを覆っていたもやが一瞬にして晴れた。真っ白だった空間には、木と金属でできた机椅子が並び、前方には大きな黒板が居座っている。
 気付けば、マサキはその席の集団の最後列、左隅に座っていた。両サイドを最初に現れた二人が囲み、途切れることのないトークが続く。その周囲では、相変わらず少年たちがバタバタと騒ぎ、少女たちがきゃあきゃあと喚く。
 そしてその光景が、マサキの記憶というアルバムの中に存在する、一枚の写真と合致した。そういえば、今自分を取り囲んでいる二人には見覚えがある。名前も知っている。
 否、二人だけではない。向こうで取っ組み合いを始めた男子も、さらに向こうで数人の仲間と金切り声を上げる女子も、たった今前方のドアを開けて入って来た、スーツ姿の初老の男性も――。

「学校……なのか……?」

 小さな呟きが、震える口をついて飛び出した。マサキは響き渡った起立の号令にも耳を貸さず、首を左右に振り、視線を(せわ)しなく動かす。マサキの視界に飛び込んでくる光景は、その全てが、マサキが今いるこの場所が2年前まで通っていた中学の教室であることを物語っていた。

 戸惑うマサキの胸に、不意に懐かしさが湧いた。
 何を今更、と頭の中で誰かが嗤う。――大体、ここがあの学校だとどうして断言できる? そんな確証など、この世界のどこにも在るはずがないのに。
 だが、取って付けたような屁理屈では、マサキは止められなかった。無意識的に右手を突き出して、前の席に座る男子生徒の肩を掴もうとする。
 あと5センチ、あと3センチ。
 そして、震える指と肩との距離があと1センチを切ったとき、彼の姿が音もなく掻き消えた。

「なっ……!?」

 突然の事態にマサキは目を見開いた。咄嗟に体ごと腕を前へ伸ばす。だが、その手が何かしらの物体に触れることはなかった。


「クスクス……クスクス……」

 どれくらいだろうか、そのままの姿勢で硬直していたマサキの耳に、陰湿な笑い声が流れ込んだ。
 マサキはゆっくりと顔を上げ、周囲を窺う。すると、マサキの周囲の席はぽっかりと穴が開いたように無人になっていて、代わりに空間の壁際から、マサキに対して冷たい視線が浴びせかけられた。
 妬み、哀れみ、嘲笑、蔑み。この世に存在するマイナスの感情全てが、視線や笑い声、時々耳に届く陰口としてマサキに向けられる。
 そして、皮肉にもその光景が、この場所がどこなのかを証明して見せた。

 ――ああ、そうか。やっぱりここは、学校だったのか。
 マサキの口から、力のない笑みが漏れた。椅子に座り直して目を瞑り、手で耳を塞ぐ。マサキの中から、光が、音が、ゆっくりと消滅していく。
 ――そうだ、これでいい。あんな奴らに自分のことなど、何一つ解るわけがないのだから。
 マサキは一度鼻をならすと、自分を覆う冷たい闇に身を委ねた。今まで見ていた光が、聞いていた音が、水平線に沈む夕日のように、微かな残響を残して消えてゆく。
 すると、光が薄らいでいくのと呼応するように、マサキの周囲に人影が現れた。マサキと同じくビジネススーツを纏い、愛想のいい、しかし上辺だけの笑顔を振りまきながら、それぞれ二つずつついた手と舌をせかせかと動かす。夕日が沈むに比例してその人影は数を増し、具現した人の波がさらに消えかけた日の光を遮っていく。
 やがて夕日の本体はその姿を全て水平線の下に隠し、空に零れた光の滓も、とうとう最後の一つとなった……その時だった。

『……いよ、……は』

 そのほとんどを闇と静寂が覆った世界で、最後になった粒から一つの言葉が響いた。それは声と、光と呼ぶにはあまりにも静かで。しかし、音と、色と呼ぶには、少しばかり眩しすぎた。

「…………?」

 マサキは閉じた瞳を、栓をした耳をそちらに向ける。するとその粒は瞬く間に肥大化し、溜め込んだ光を爆発させた。強烈なフラッシュは眼球を覆う厚い(まぶた)をも貫き、その奥に隠された、暗闇に順応しきった網膜を灼いた。
 膨大な光が殺到し、漂白された視界の中で、マサキは光の粒が存在した場所に一つの影を見たのだった。


「……ッ!」

 マサキは右手でこめかみを揉みながら、未だチカチカと異常を訴えている両目を強引に開いた。ぼやけた視界がゆらゆらと霞む。
 だが、目が訴える異常が治まっても、視界が回復することはなかった。それもそのはず、今マサキの視界を奪っているのは、マサキに纏わり付いた霧だったのだから。

 マサキはそこに気が付くと、足を前へと踏み出した。途端に、ぬるり、という嫌な感触が、その霧がいかに濃密で鈍重かをマサキに知らしめる。にもかかわらず、疎ましく思ったマサキが掻き分けようと手を動かすと、それはまるで意思を持った生物のようにマサキの手を避け、結果、マサキは霧に触れることさえかなわない。

 マサキは顔をしかめながらも前へと進む。自らを束縛する不快な霧から逃れようと、細い体の筋力を全て使って足を運ぶ。
 しかし、マサキを覆う霧は薄くなっていくどころか、さらにその密度を高めていった。最初は薄めたスライム程度だった粘度は、十メートルほど進んだ頃にはジェル程度まで高まっていて、それ以上足を動かすことさえ困難になる。
 それでも諦めず、マサキは前へと進んだ。纏わり付く空気を力の限り振り払い、掻き分けて体を運ぶ。

『……いよ、……キは』

 前回よりもはっきりとした声が、何処からともなくマサキを撫でた。その声に導かれるように、マサキは歩いていく。すると霧に覆われた視界に、一つのシルエットが浮かぶ。その影は徐々に形をはっきりとしたものに変えていき、やがてそれが人の形をしていると判断がついた。――その頭部が、ライトブラウン一色に塗られていることも。

「……トウマなのか?」
「…………」
「こんなところまで出張って来て、一体何の用だ」
「…………」
「おい、聞こえているのか? 返事くらいしたらどうなんだ?」

 度重なるマサキの質問に全て沈黙を以って答えたトウマは、やがて緩慢な動きで振り返る素振りを見せた。

(やっと話を聞く気になったか)

 マサキがそう思ったのも束の間、何処からか突如湧いたゾクリという悪寒が、背中を駆け上がった。それは背中から首へと移り、頭まで進んだところで、二つの表情に姿を変えた。
 ――クラスメートが浮かべていた、対象の全てを否定したような笑み。スーツのビジネスマンが浮かべていた、感情のない、乾ききった笑み。その二つがマサキの脳内で再現され、そしてそれは、たった今振り返りつつあるトウマの顔にも同じものが張り付いているのではという疑懼をマサキの思考に植えつける。

「……止めろ」

 いつになくしゃがれた声が、マサキの唇から漏れた。だが、それの言葉は彼には届いていないのか、もしくは届いているのに彼が動作を止めようとしていないだけなのか、トウマの行動を阻害することは出来ない。

「……止せ、止してくれ……!」

 マサキが必死に呼びかけるが、尚もトウマは無反応だった。そしてついにトウマの体が四半回転し、整った横顔が露になった。その顔に設置された唇は、微妙に端が吊り上がっていて……。

「うわあああああああっ!!」

 マサキは彼らしくない声を上げ、反転しつつ駆け出そうとする。が、粘つく霧に足を取られ、それでも無理に体を捻った結果、マサキは体勢を大きく崩した。足元に沈んだ、特に重くべとついた霧にその体を埋める。

「ぐっ……!」

 痛みではなく体に這い纏わった感触に対して、マサキは小さく呻いた。体を貫いた衝撃を、頭を振って追い出しつつ、再び立ち上がろうと四肢に力を込める。

『……しいよ、……サキは』

 立ち上がりかけたマサキに、背後からの声がぶつかった。これまでで一番はっきりとしたそれは、聞こえなかった部分を推測させるには十分な程の感情を携えていて。

「止めろ!! ……俺は……俺は優しくなんてない!!」

 電磁波が分子を振動させて温度を上げるように、マサキの心を揺さぶって、ヒートアップさせた。
 堪えきれなくなったマサキの口から、何かを拒絶するような叫びが飛ぶ。
 ……すると、その叫びに反応したように、ただの濃い水滴の集合体であったはずの周囲の霧が変化した。幾千もの触手、あるいは植物の(ツル)の様な姿形になったそれが瞬く間にマサキに絡みつき、体を縛った。続いて地面までもが底なし沼のように変形を遂げ、巻きついた蔓ごとマサキを飲み込んでいく。

「ぐっ!? ぐあ、ああああああっ!!」

 マサキの心を恐怖が支配し、悲鳴とも絶叫とも取れる叫びを上げる。だが、その声に答える者は誰もおらず、マサキは暗黒の地中へと吸い込まれた。その途端に、途轍もない眠気が襲う。

「対……の深そ……か……了。つ……て……に移行。身……具現……不可能? そ……な……じゃ……何……でき……!」

 何処からかやってきた遠鳴りのようなか細い声が耳を抜けていくのを感じながら、マサキは押さえられなくなった睡魔に意識を奪われたのだった。


「…………ッ!!」

 ガバッ! という掛け布団とシーツの摩擦音と共に、マサキは横たわっていた体を起こした。すぐさま首を左右に振り、現在位置を確認する。
 窓から覗く灰色の雲、その雲を通り抜けることに成功した何割かの光がぼんやりと照らす机椅子、その他諸々の調度品。それらはここが宿の自室だということをはっきりと物語っていて、マサキは安堵した。背中を伝う不快な水滴を寝巻きのシャツで拭い、足を床に下ろす。部屋に備え付けられたポットからコップに水を注ぎ、渇ききった喉へと送り込む。

「んん、ん……?」

 コップに入った透明の液体を全て流し込み、尚も不快感を訴える喉に二杯目を提供しようとしたマサキの視界に、メールの受信を示すアイコンが瞬いた。
 何とはなしにウインドウを開き、送り主と内容をチェックする。そして浮かび上がったフォントには、驚愕の文字が綴られていた。

 From: 茅場 晶彦
 Main: おはよう、橋本君。朝早くにすまないね。私にも私なりに色々とこなさなければならない面倒ごとがあって、このような時間になってしまった。許してくれたまえ。

 さて、それでは本題といこうか。
 どうやら、この世界での出会いが、君に幾らかの影響を及ぼしているらしいね。この世界の創造主としては、実に喜ばしいことだ。これからもこの世界を楽しんでもらえたらと願っているよ。
 それと、このメールに君へのささやかな贈り物を同封しておいた。知り合いである君を巻き込んでしまったことに対してのお詫びとでも考えてくれ。ウイルスやバグの類は仕込んでいないから、安心して使うといい。……そうだね、数日中には使うべきシチュエーションがやってくるのではないかな?
 では、ゲームクリア目指して頑張ってくれたまえ。

 ……そうそう、一つ書き忘れていたが、君へのお詫びはもう一つある。今後、もしこのゲームに関して質問があれば、私の名前にメールを送るといい。答えられる範囲で、質問に対する返答を出来るだけ早くすることを約束しよう。では、また。

「ふうん。お詫び、ねぇ……」

 マサキは半透明の文面を訝しげに睨んだ後、通常プレイヤーには備わっていない、添付欄のファイルをタップした。すると、マサキの胸の前に青いポリゴンが集まり、淡い光を放ち始めた。やがてそれは徐々に形をはっきりとさせていき、光が収束して具現化した物体が、マサキの両手に乗ったときには、誰もが知る武器へと変貌を遂げていた。
 マサキは両手に握られたその物体をしげしげと眺めた。
 僅かに反りが入った、片手直剣などと比べると異様なまでに細いシルエット、濃紺で統一された(つか)と鞘、鈍い金色に輝く(つば)。――未だこの世界では存在が確認されていない、日本刀。その中でも打刀(うちがたな)と呼ばれる種類のものだった。

「……こいつは、なかなかにいい物を貰ったのかも知れないな」

 呟きながら、マサキは柄を右手で握り、鯉口(こいくち)をきった後に引き抜いて――。

「なっ……!?」

 目を見開いた。これが刀であるならば、否、堅塁であるならば必ず必要な部位……刀身が、存在しなかったのだ。何度見直しても、柄から伸び、鞘に収まっているはずの銀色の刃を確認することができない。
 ――やはり、どこかにバグが存在していたのだろうか。
 そんなことを考えつつ、再び柄と鞘をくっつけて、指で鞘の真ん中辺りを突く。すると、武器のステータスを表示するウインドウが通常通りに開かれた。
 固有名《蒼風(あおかぜ)》。武器カテゴリ《風刀(かぜがたな)》。真っ先に目に飛び込んだ情報が、マサキの驚きをさらに肥大化させる。

(刀ではなく《風刀》……。となると、刀身が存在しないのは仕様なのか? 確かめるには《風刀スキル》とやらを習得しなければならない訳か。……全く、茅場の奴がスキルも一緒に送ってくれさえすれば、こんな七面倒臭いことをせずとも済んだんだが……)

 マサキは溜息をついて思考を断ち切った。情報が少なすぎる。今考えても、どの道答えなど出ないのだ。
 マサキがウインドウを呼び出そうとして右手を振り上げると、乾いたノックの音が部屋にこだました。続いて、よく知る声がマサキの鼓膜を震わせる。

「マサキー、飯行こうぜー」
「……ああ、今行く」

 マサキはドアの向こうのトウマにそう答えると、右手の刀をもう一度見やり、今は何の使い道もないそれを、アイテムストレージに収納した。

「……ハァ……」

 まだ朝だというにもかかわらず体にのしかかってきた疲労感に、マサキは思わず今朝二度目の溜息をついた。体の中心部、胸の奥底がどんよりと重苦しく、そこから吐き出された息もまた、千鈞の重みを持っている。
 マサキは外気に触れた瞬間に下へ下へと沈んでいく息をまたぎ、頭をぼさぼさと描きながらドアを押した。

 ――二〇二三年、三月六日。一万人を対象としたこのデスゲームも開始から五ヶ月を迎え、最前線は二十二層にまで到達した、ある朝の出来事であった。 
 

 
後書き
さて、ようやくオリジナルスキルが登場いたしました。その名も《風刀》。果たしてどんなスキルなのか。マサキ君はこのスキルをどう扱うのか。今後にご期待ください。 
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