ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド編
恐怖の元凶
数時間前の戦意や闘志がすっかりと消え失せたトールバーナ中央広場に、どこか気の抜けた足音が響いた。先ほど、今は亡きディアベルの代役として、彼の率いたC隊の一員であるリンドが噴水の縁に登り、解散の声をかけたが、本来起こるはずであっただろう歓声や拍手は、遠くから鳴り響くNPC楽団による演奏の大きさとさして変わらないほどに貧弱で、とても攻略が成功したとは思えない。
「さて、俺たちも帰るか」
「…………」
マサキは答えが返ってくる前に歩き出した。遅れて、無言のままにトウマが後を追う。戦闘後、トウマは終始無言で、その顔には時折ちらつく陰が浮き出ている。周囲のプレイヤーは彼の表情をボス戦の疲れによるものと解釈し、また自らも疲弊していたために、特に気にする素振りを見せることはなかった。
しかし、これまでに何度もこの表情を見てきたマサキは、大きな懸念を抱いていた。
今まで彼がこの状態になった時、そのほとんどは非戦闘中で、そのために戦闘への悪影響はほぼなかった。だが、これからもそんな幸運が続くという確証はない。もし彼が戦闘中に不安定な状態に陥り、修正が間に合わなかった場合、それがきっかけとなって二人ともゲームオーバー、などというBADENDも、十分に考えられうる結末なのだ。いくらマサキでも、目の前でそれなりに深い付き合いの人間が死んでしまう事態は、あまり寝覚めのいいものではない。そうなる前に原因を取り除くか、あるいは彼と別れる必要がある。
「トウマ、一体何があったんだ?」
「いや、何でもない」
マサキが探りを入れるが、返ってくるのは要領を得ない返事ばかり。何か長文を話してくれれば、マサキの洞察力は真実の扉を少しでも開くことが出来るのだろうが、ここまで口数が少ないとそれも不可能だ。
マサキはこれからを憂い、小さく溜息をついた。頭の中に渦巻く、いつもの自分との思考回路の差には気付かずに、宿への歩みを進める。この瞬間、マサキは今日を休養日とし、攻略は明日から望むことを決定した。
マサキたちを見下ろす太陽は、既に半分ほど傾いていた。
仮眠前に設定しておいたアラームがゆったりとしたロックを奏でるのを、トウマは重い布団の中で、目を開けたまま聞いた。素早くウインドウを操作して音を止め、しかし体は布団から抜け出そうとしない。
部屋の外では、冬の短い日照時間が既に終わりを告げ、星のない闇が広がっている。夕食の時間が差し迫っている証拠だ。
トウマは、硬いベッドの上で寝返りをうった。ちらりと瞳を移動させ、時計の針を見る。もう約束の時間まで、10分もない。
――いっそ、このまま隠し通してしまおうか。
今まで何度も頭をよぎり、その度に切り捨ててきた誘惑が、かつてないほど甘いささやきをトウマの心に送り込んだ。その甘言に、心は今までで一番大きく揺らぎ、惑う。
――いや。
トウマはその誘いを振り払うようにして跳ね起きる。彼が時折見せる言動から、彼の頭脳が相当に明晰だろうことは分かる。例え今隠したとしても、そう遠くない未来に、必ず見抜かれてしまうだろう。
それだけならまだいい。だがもし、その事実が周囲の者に露呈してしまった場合、自分だけではない、自分を開始直後のパニックから救ってくれた彼まで、謂れのない誹謗中傷を受けてしまうかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならないことだ。今自分が行動を起こせば、まだ間に合うのだから――。
トウマは震える心から勇気を振り絞り、宿一階の食堂へ繋がる階段を下りた。
トウマが葛藤の末に食堂へ向かう10分ほど前、マサキは初期設定の無機質なアラーム音で意識を覚醒させた。設定をいじれば自分の好きな曲を流せるらしいが、所詮これはアラーム。起きられれば何だって構わない。マサキは一度伸びをすると、首筋に手を当てながら、トウマとの夕食を約束した刻限の15分前に食堂へ向かった。
「お待たせいたしました」
ウエイトレスから受付までをこなす女性NPCが、湯気の立つコーヒーカップをマサキの前に置いた。彼女が一礼して下がり、マサキはコーヒーカップに注がれたカプチーノに口をつけた。
久々となるコーヒーを胃に送りながら、マサキは少し顔をしかめた。
このSAOでは、現実世界の飲食物のうち、ポピュラーなものは大体が再現されている。食べ物で言えばパンやサラダ、飲み物では紅茶やコーヒーなどだ。何故かその中に白米や緑茶が入っていないのは、この世界観を壊すと判断されたためか、ただ単に茅場が日本食を嫌っていただけなのか。
茅場の真意は不明だが、プレイヤーの中には、その一点に対して相当な不安を持っている者が少なからずいた。彼らは戦闘の傍ら、「料理スキル」なるものをひたすらに上げ、白米の生産に挑戦したものの、熟練度が足りないのか、ことごとく失敗した。挙句の果てに、耐えかねたプレイヤーが暴動を起こしかけたのは、記憶に新しい事件である。
閑話休題。
マサキが不機嫌になった理由は簡単、カプチーノの味のせいだ。
このSAOで料理を食べる手段の一つとしてNPCレストランが存在するわけだが、この質が酷い。今マサキがいるレストランはかなりマシな方だが、それでも現実で店をやっていけるレベルではない。今目の前にあるカプチーノも同様で、マサキが現実で飲んでいる、高級豆を高性能コーヒーサイフォンでじっくりと淹れたものとは天と地ほどの差がある。マサキは効率や合理性を重視するが、仕事中に飲むコーヒーは作業の精度に関わってくる物である為、こだわりを持っているのだ。
(まあ、ないよりはマシか。アルゴの情報だと、層が上がれば質も良くなるらしいし)
渋い顔をしながらも納得し、マサキは一度カップを置く。すると、視線の先にあるドアが開き、何やら思いつめた表情のトウマが姿を表した。彼はいつもより少し遅めの歩調でマサキの座るテーブルへと近付き――、だが、いつものように対面に座ることはなかった。テーブルの真横で立ち止まり、真剣な表情でマサキを見下ろす。その爽やかな顔立ちに、最大の不安を映しながら。
「……マサキ、話がある」
「聞こう」
「……パーティーを解消してほしい」
その一言で、二人の間に流れる空気が一気に張り詰めた。マサキは突然の依願に少しだけ切れ長の目を丸くしたが、すぐに持ち直し、探るような視線をトウマに向ける。
「理由は?」
「……俺は、マサキと一緒にいちゃいけない奴だから」
「抽象的すぎるな。……とりあえず座れ」
「嫌だ」
「…………」
トウマはマサキの提案をはっきりと拒絶した。ここで座ってしまったら、二度と立ち上がれない気がしたから。
マサキはカプチーノを飲むことで間を取ろうとする。トウマは震える唇を必死に動かした。
「俺……実はビーターなんだ」
「ビーター」。トウマが確かに発したその単語が、緊張の糸をちぎれる寸前まで引き伸ばした。立っている足は震え、心臓はいつ破裂してもおかしくないほどに鼓動速度を速め。そして頭の中では、ゲーム初日から色あせない濁声が、延々とリピートされていた。
トウマの突然の宣告にも、マサキは顔色一つ変えなかった。トウマが不安な表情を覗かせるのは、大抵がビーター、あるいは元βテスター関連の話のときだったため、その辺りにNGワードが潜んでいるであろうことは、もう数日以上前から予測していたからだ。
――だが。
マサキには予測は出来ても、理解は出来なかった。元テスターであることを糾弾されるのが怖いのは分かる。だがそれを差し引いても、彼の怯えようは明らかに想定される範囲を超えている。
マサキはもう一口カプチーノを口へ運ぶと、不安を全身から放出しているトウマに尋ねた。
「何があったのか、話せるか?」
「……ああ」
僅かの時間の後、トウマは立ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
『……以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の――健闘を祈る』
僅かな残響を残して、がらんどうの赤ローブが消えた。それは現れたときと同じく唐突で、今起きたことが現実なのか、一瞬判断がつかない。
――出来ることなら、夢であってほしい。
しかし、その願望は、トウマよりも早く現実を認識したプレイヤーたちによって打ち砕かれた。広場のあちこちから上がった悲鳴や怒声が、今目の前で起きていることが紛れもない現実であることを、強制的に頭の中に叩き込んでいく。
「ああ、あ……」
痙攣した声帯はまともに声を出すことさえ出来ず、漏れ出たのは掠れた響きのみ。四肢から力が抜け出て、トウマは力なくその場に座り込んだ。喉がカラカラで、一瞬だけ漏れ出た叫びも、もう発することが出来ない。『脳を破壊し、生命活動を停止させる』という一文だけが、脳内を一人で突っ走る。
そして、トウマの脳内を駆け巡る不安や動揺が光速に達し、意識がショックで意識が遠のきかけた頃。広場で一つだけ、他とは違う声色の叫びが上がった。
「……そうや! βテスターや!!」
いきなり轟いた濁声に、広場はしんと静まり返り、全員が小柄な男に注目を浴びせかける。男は興奮した面持ちで告げた。
「クローズドβテストに当選したモンがこん中にもおるはずや! そん知識があれば……死なずにすむかも知れへん! 誰か、ワイらに攻略法を教えてくれ!!」
「お、おい。それって……」「俺たち、生きれるのか……?」「βテスター! βテスターはどこだ!? 早く出てきてくれ!!」
悲壮感が懇願へと変わった叫びが徐々にその大きさを増し、はじまりの街中央広場に飽和する。
トウマはすぐにでも手を上げようとする。しかし、隣の男性が放った言葉が、その手の上昇を止めた。
「頼む! 出てきてくれ! 俺たちを守ってくれ!!」
トウマははっとして、そこかしこから上がる声に耳を傾け、そして気付いた。彼らの叫びは、自分を死なせないでほしいということ。つまり、今ここで手を上げれば、この広場に残る約9000人を守りきる義務が生じるということなのだ。
そこに意識を向けた瞬間、伸ばしかけた手が嘘のように上がらなくなった。トウマは必死に手を動かそうとするが、9000人の命の重みがそれを妨げる。それでもトウマは格闘を続けるが、その間にもう一度響いた濁声が、手の動きを完全に止めた。
「……何でや! 何で出てきてくれへんのや! βテスターは何処に行きよったんや!?」
「…………あっ!!」
涙混じりになった声の後に、思い出したような叫びが続いた。βテスターを探そうとする目が、全てその男に向けられる。
「そういえば、俺、街の外に向かっていく奴を見た! それも、演説が終わってすぐに!!」
「それ! 俺も見た!! きっとテスターだ!」
「私も! 向こうへ走ってった!!」「俺もだ! 二人組みだった!!」などという発見報告が続く。そして、再び絶望感が滲み出た声が、決定的な一言を投じた。
「じゃ、じゃあ……。テスターは俺たちを……見捨てた、のか?」
その瞬間、広場を包んでいた高揚感は一気に消え失せ、何人ものプレイヤーが膝から崩れ落ちた。一縷の望みを託して残っているテスターを探そうとするものもいるが、彼らの上げる叫びに返事が返ることはなく、叫びは絶叫に、そして次第に怒号へと移り変わっていく。
「クソッ、クソッ!! 出て来いよ、βテスター!! この卑怯者!!」
「お願い! 助けて!! ……何で!? 何で出てきてくれないの!?」
「俺たちが見捨てられたからだよ!! あいつら、持ってる知識で自分だけ強くなるつもりなんだ!!」
一度燃え上がった怒りの炎は留まるところを知らず、みるみるうちに膨れ上がっていく。
「あ……ああ、あああ……」
四分の一まで上がっていたはずのトウマの手は、この時点でもう地に着いていた。この集団の中で自分だけが孤立しているという不安と恐怖が加速度的に膨張し、トウマを呑み込んでいく。
そして、その恐怖が最大になった瞬間、トウマは全速力で広場から逃げ出した。
後書き
変なところで切ってすみません。予想以上に話が伸びて、字数が大変なことになってしまいそうだったので……。
やっぱり、プロットをもっと細かく作ったほうがいいのかなぁ……。
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