至誠一貫
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第二部
第一章 ~暗雲~
九十三 ~謎の少女~
「確かなのだな?」
「はっ。念には念を入れましたので」
疾風(徐晃)の言葉に、一同の顔が曇る。
司隷に入った我が軍に、寝耳に水の知らせが入った。
董卓軍挙兵……夢であればどれだけ救われた事か。
だが、現実から目を逸らす事は許されぬ。
「しかし、月殿には数千の兵しかいなかった筈。仮に事実としても、あまりに無謀ではないか?」
「星の言う通りだ。詠がついていながら、そのような事はあり得ぬだろう」
「ですが、事実は事実として受け止めるしかないでしょう。愛紗同様、私にも信じられない事ではありますが」
稟だけではなく、雛里も風も同感のようだ。
いや、私も疾風の報告を疑うつもりは毛頭ない。
ただ、信じたくない……それが、皆の気持ちというだけの事だ。
「疾風、それで軍勢の数は?」
彩(張コウ)が険しい表情で訊ねる。
「今確認させている。ただ、数千という事はないだろう。あまりにも旗の数が多すぎるのだ」
「となると、何処からそれだけの軍勢を集めたのか……。少なくとも、俄には無理よね?」
「はいー。百や二百増えたのなら、偽兵という可能性もありますけどね」
「…………」
「雛里、どうかしたのか? さっきから、ずっと考えて込んでいるのだ」
「ええ。ちょっと、気になる事を耳にしていたので」
全員の視線が、雛里に集まる。
慌てて、帽子を目深に被る雛里。
「あわわ、で、でも間違いかも知れないですし」
「構わぬ、申せ。風聞の類でも、手がかりになるやも知れぬ」
「は、はい」
おずおずと、雛里は顔を上げた
「董卓さんは、以前軍勢の大半を自主的に解散されたと聞きました。間違いありませんか?」
「その通りだ。讒言を受けて、身の潔白を証明する意味でな」
「……その兵士さん達が、雍州で解散を告げられた後にそのまま、雍州に潜伏していたらしいのです」
「潜伏? どういう事だ、雛里?」
「私も、あくまでも噂で知った程度ですけど。董卓さんの判断に不満を持つ方がいて、その方が指揮を執っていると」
「……面妖な話ですな、主」
「だが、そのような大軍が人知れず潜伏するなど不可能だ。だが、何進殿からも白兎(董旻)からも、何の知らせはない」
「うむ。少なくとも、何進殿や白兎殿が、私や疾風に何も知らせぬまま……という事はあり得ぬな」
影で糸を引くのは、宦官共と考えて良かろう。
だが、協皇子が洛陽におらぬ以上、強硬手段としては些か解せぬ。
「雛里ちゃん。その噂の事、詳しく調べる必要がありそうですねー」
「そう思います。ご主人様、風さんと一緒に確かめる事にします」
「うむ、頼む」
と、表が不意に騒がしくなった。
「只今、軍議中です。暫しお待ちを」
「道を開けよ。火急の用じゃ!」
あの声は……盧植だな。
「盧植殿と、恐らくはもうお一人がおられる筈だ。お通しせよ」
「はっ!」
すかさず、血相を変えた盧植と協皇子が飛び込んできた。
「土方! 月が挙兵したとは真か!」
「待たれよ! 如何に勅使とは申せ、無礼でござろう!」
彩と愛紗が、二人を遮ろうとする。
「良い」
「し、しかしご主人様!」
「……盧植殿。もはや、隠す意味もござるまい」
「……然様ですな」
盧植と協皇子は互いに頷き合う。
「私は劉協だ。故あって、名乗りを上げなかった事、許せ」
「な……何ですと!」
星と風、稟、疾風以外の者は、程度の差こそあれど皆が驚く。
「にゃ? お姉ちゃん、誰なのだ?」
「こ、これ鈴々! この御方は協皇子にあらせられるぞ!」
「良いのだ、関羽、張飛。それよりも土方、真なのだな?」
「はい。詳細はまだにござりますが、挙兵そのものは間違いないようでござる」
「何とした事だ……」
協皇子は、肩を落として項垂れた。
「土方殿。陛下はご無事なのでしょうな?」
「それも未だ。疾風、至急確かめよ」
「ははっ!」
稟を除き、各々が天幕を出て行った。
「私はどうすれば良い。姉上にもしもの事があれば……」
「気を確かにお持ち下され、皇子。土方殿は頼れる御方、きっと大丈夫ですぞ」
「とにかく、微力を尽くします。お二方は、知らせが入るまでお待ち下され」
頷くより他のない二人。
まだ幼い協皇子には、酷な事であろうな。
凶報が入ったとは申せ、軍を留め置く事も出来ぬ以上、進軍は続く。
洛陽に迫るにつれ、次々に情報が集まってきた。
旗こそ月の物だが、兵は雛里が申していた通り、大半が雍州で去った者らのようだ。
それを率いるのは、李カクと郭シ。
「二人とも、月殿のかつての麾下だったようです」
「霞ちゃんが以前、涼州に行く事を不服とした一部が立ち去ったと言ってましたね。どうやら、その軍を率いているようですよー」
「しかし、疾風、風。月殿にそのような麾下がいたとは聞いた事がないぞ?」
「彩ちゃんがそう思うのは当然ですよ。軍の指揮はそこそこ出来るようですが、粗暴なので詠ちゃんに嫌われていたという話なのですよ」
「ふむ、元々冷遇されていたという訳か。……だが、その程度の地位しかない者が、この規模の軍を率いているというのがわからぬな」
「ええ、星の言う通りです。黒幕は別にいるとして、何者かが知恵を授けている……そう見るべきでしょう」
覆面の軍師、蔡和が申していた輩だな。
それが馬謖ではないと判明したものの、その素性は未だにわからぬ。
「月様の麾下で、詠とねね以外に軍師たる資質を持つ者がいたかどうか……か」
「思い当たらないのだ……」
「わからぬものは仕方あるまい。それで疾風、李カクらの動きは?」
「は。弘農には然したる兵も置かれておらず、一気に洛陽に入ったようです。その後、月殿の名で挙兵が広められたとの由」
「あまりにも手際が良すぎますわ。全て、予定されていた事としか思えません」
「紫苑さんの仰る通り、この挙兵まで全て織り込み済みだと思います。善悪はともかく、戦略としては壮大なものですね」
「雛里、感心している場合ではありませんよ。……殿下、今後は我らに一任していただけませんでしょうか?」
「無論だ、郭嘉。今の私には何の力もない、お前達が頼りなのだ……頼む」
ほう、率直に頭を下げるか。
くだらぬ誇りなどには固執せぬ……王者たる素養はあるようだな。
だが、最早この王朝は救えまい。
此度の事を収めたとしても、このような事態になる時点で権威の失墜は誰の目にも明らかだ。
私や月には取って代わる気などないが、他の者は果たしてどうであろうか?
……生まれてくる時代が悪かった、そうとしか言えぬな。
「疾風。出来れば月や白兎ら、せめて何進殿とは連絡を取りたいのだが」
「……はい。警戒が殊の外厳重なのですが、何とかやってみます」
「頼む。星も手を貸してやってくれ」
「お任せを」
「風。此度の事、霞や恋らもいずれ知る事になるであろうが、月の危機とあれば黙っている筈がない。どう動かすかだが……」
「はいー。ただ、迂闊に動けば月ちゃんの立場がますます危うくなりますから。特に心配なのは恋ちゃん達ですね」
「確かに。ねねも抑え役としては不向きです、それどころか煽り立てる事も考えられますし」
腕組みをする稟。
「とにかく、軽挙妄動は慎むよう釘を刺しておくべきだな。急ぎ、二人に使者を」
「御意ですよー」
「御意」
さて、後打つべき手はないか。
「も、申し上げます!」
息を切らせながら、兵が駆け込んできた。
「何事だ! 軍議中だぞ」
「も、申し訳ありません」
「愛紗、火急の用件のようだぞ。話を聞いてから怒鳴っても良かろう」
「う……」
彩に諭され、愛紗は顔を赤くして黙り込む。
「構わぬ、申せ」
「はっ! 洛陽城外の村が、襲われているとの知らせが」
「な、何じゃと!」
盧植が血相を変えて兵に詰め寄る。
「落ち着いて下さい、盧植様」
「し、しかしだな黄忠殿」
「構いません。続けて下さい」
柔和な紫苑の物言いに、兵も落ち着きを取り戻したようだ。
「いずれも二、三百程度のようですが、食糧や秣が奪われ、逆らう者は殺されているとの事です」
「それで、何処の賊の仕業なのだ?」
「そ、それが……」
奥歯に物が挟まったかのような物言いだな。
……なるほど、そう言う事か。
「襲っているのは賊に非ず。軍の仕業、そうだな?」
「……は。しかし、よくおわかりで」
「消去法で申したまでの事。他に報告は?」
「いえ」
「では、下がって良い」
「ははっ!」
兵が出て行くと、全員の視線が私に集まった。
「……あの、ご主人様。村を襲っているのは、まさか……」
「……私も、そうは思いたくありませんが」
「でも、たぶんお兄さんの想像している事と、風が思い浮かべた事は同じだと思うのですよ」
三人の反応で、皆も気付いたようだ。
……いや、鈴々だけは首を傾げているか。
「馬鹿な! 月が庶人に危害を加えるような筈がない!」
「いえ、殿下。月殿の指示ではなく、恐らくは李カク、郭シが率いる兵の一部が暴走したものかと」
「じゃが、徐晃。内情はいざ知らず、世間では全て董卓の指示と受け止めるであろう」
「……いずれにせよ、看過する訳には行きますまい。殿、出陣の下知を」
彩だけではなく、愛紗も紫苑も頷く。
確かに、黙って見過ごす訳にはいかぬ。
……だが。
「奴らの目的は、一体何であろうか?」
「目的? 決まっているであろう、月の悪名を広める事で、奴らの御輿として月を祭り上げるという魂胆ではないか」
吐き捨てるように言う協皇子。
「確かに、それもありましょう。ですが、それだけでしょうか?」
「では、何だと言うのだ?」
「わかりませぬ。ただ、隠された目的がある事だけは間違いありませぬ」
「……何故、そうも断言できるのだ?」
「勘、とでも申しましょうか。僭越ながら、殿下よりも拙者は数々の謀略を目の当たりにしております故」
「そうか。だが、このままでは庶人の苦難が増すばかり。何とかならぬのか?」
「いえ、速やかに鎮圧に向かいまする。彩、騎兵の中から精鋭五百を選抜しておけ。紫苑、同様に弓兵から五百を」
「はっ!」
「御意ですわ」
「ではご主人様。お二方にお任せするという事でしょうか?」
「いや、私が率いる事にする。皆は留守を頼む」
即座に、各々が止めようとする。
が、私も引き下がるつもりはない。
「皆、私の身を案じての事であろうが、心配は要らぬ。私なりに考えての事だ」
「大丈夫だ。殿の身は、全力でお守りする」
「ええ。歳三様を妨げるような真似はさせないわ」
彩も紫苑も、誰もが認める実力者だ。
私だけでも危険はないであろうが、皆に要らぬ心配をかけても仕方あるまい。
「愛紗と稟は留守を頼む。鈴々は、殿下と盧植殿をお守りせよ」
「御意!」
「はい」
「応なのだ」
どうせなら、もう一つ手を打っておくか。
「彩、紫苑。兵らにこれを用意させよ」
二人は驚いた、当然であるが。
僅か四半刻で準備を整え、一千の兵が陣を出た。
最も近い村までは、指呼の距離である。
「土方様、あれを!」
「火の手が上がっているようだな」
「何と言う真似を!」
「許せないわね」
二人のみならず、兵全員が怒りに身体を震わせている。
いや、私も無論怒りは覚えている。
だが、それを露わにする訳にはいかぬ。
「彩。騎兵を率いて、村の反対側に廻れ。そして、頃合を見て一気に攻めかかれ」
「承知しました。では!」
「紫苑。弓兵を二手に分け、村の周囲に潜ませよ。彩の攻撃で逃げ出す者を、片っ端から射よ」
「はい!」
彩はすぐさま駆けて行く。
紫苑は、兵は分けたが自らは私の傍から動こうともせぬ。
「ふっ、護衛という事か」
「そうですわ。歳三様に何かあったら、愛紗ちゃん達に申し訳が立ちませんから」
「良かろう。だが、兵らの指揮は良いのか?」
「ご心配には及びませんわ。それぞれに、信頼の置ける子が率いていますから」
「ほう。紫苑がそこまで申すのなら、さぞや優秀な者なのだな?」
「うふふ、それはどうでしょう。歳三様のお眼鏡に適えば宜しいのですけど」
「私が紫苑を信じている以上、その者らも当然信じる事になる。それだけの事だ」
と、紫苑がふう、と溜息をつく。
「如何致した?」
「いえ。ただ、歳三様はどうしてそうなのか、と」
「……何かおかしな事を申したか?」
「おかしくはありませんわ。そう、おかしくは」
そう言いながら、また溜息を重ねる紫苑。
「こ、黄巾党だーっ!」
「そ、そんな馬鹿な!」
乱暴狼藉の限りを尽くしていた兵共が、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
「一人たりとも逃がすな! 敵は我らを虐げてきた官匪共だ!」
「応!」
号令をかける彩、そして兵らの頭に巻かれている黄色の布。
無論、嘗て黄巾党が自分たちの象徴としていた格好である。
何より、我が軍には元黄巾党の者も多いのだ。
芝居をせずとも、見事に板についている。
「死ねっ!」
「うぎゃっ!」
李カクや郭シの兵は、無力の庶人には当然強い。
だが、彩は名だたる猛将、率いる兵も猛者揃い……相手になる筈もない。
抵抗を試みる者らもいたが、忽ち斬り伏せられていく。
中でも、彩の無双ぶりが際立っていた。
長沙以降戦らしい戦もなく、それでいて緊張を強いられていた故、鬱憤が溜まっていたのであろうか。
「歳三様。敵兵が此方に」
「よし。数名やり過ごし、その後に一斉に放て。やり過ごした者は紫苑、頼むぞ」
「お任せ下さい。では、合図を」
「はっ!」
紫苑が請け負った通り、弓兵隊は一糸乱れぬ動きを見せた。
矢一つ一つに無駄がなく、確実に敵兵を仕留めていく。
「ま、待ち伏せだ!」
「クソ、斬り破れ!」
自棄になった者共が、私の方へと向かってくる。
「近寄らせませんわ!」
番えた矢を、まさに神業とも呼ぶべき迅さで放つ紫苑。
眉間に首筋、急所を的確に射貫いている。
あの弓に狙われては、私とて躱す自信などない。
堪らず、敵兵は再び村の方へと駆けていく。
「ほう。態々死にに来たか」
「ひっ!」
返り血を浴びた彩が、槍を手にニヤリと笑う。
美麗な顔立ちだけに、より凄みが増している。
「ま、待ってくれ! 降伏する!」
一人が剣を投げ捨てると、生き残っていた者が次々に倣った。
「頭! どうする!」
彩が片目を閉じて見せた。
ふっ、何処までも芝居で押し通す所存か。
ならば、久々に武州時代の言葉遣いで返すとするか。
「俺ぁな、官軍は皆殺しと決めてんだ。そうだろ、張の字?」
「だな。なら、やっぱあの世へ送ってやらぁ」
「頼む! 命だけは!」
「金か? 金ならあるぞ、全部やる!」
恥も外聞もないとは、正にこの事だな。
「お頭。有り金を差し出すと言うのなら、命だけは……どうかしら?」
紫苑までも、いつもの柔らかな口調ではなく、凄みを利かせるとは。
「おいおい、黄の字。そいつは甘いぜ? ぶっ殺して、有り金いただこうぜ?」
「まぁ、待て。おい、おめぇら」
私は、恐怖で身を竦ませている敵兵の一人に近づき、胸倉を掴んだ。
「ひっ!」
「おめぇらの頭はどいつだ?」
「あ、あ、あれです!」
震える手で、敵兵は別の一人を示した。
なるほど、確かにちょっとした指揮官のような風貌だ。
「よし。おい、そいつをあの大木に縛り付けろ」
「へい!」
我が軍の兵が数人がかりで、その男を取り押さえた。
「な、何しやがる!」
「お頭の命だ。悪く思うな」
「や、やめろ! やめてくれ!」
男は足掻くが、屈強な男達の前では無駄な抵抗に過ぎなかった。
指示通りに大木に縛り付けられ、男は絶望の色を見せる。
私は剣を抜くと、男に近づいた。
兼定は愛紗に預け、顔の下半分を覆っているせいか、敵は誰も私には気付かぬようだ。
「おい」
「な、な、何の用だ?」
「おめぇに、聞きたい事がある。全部喋って貰うぜ?」
「お、俺は何も知らねぇ! ほ、本当だぜ?」
「そうか。なら、死ね」
そう言い、私は剣を振り下ろす。
「ひぇぇぇぇっ!」
無論、即座に斬り捨てるつもりなどない。
剣先はぴたりと、男の髪に触れる程度で止めていた。
ふと、足下から異臭が漂い始めた。
「お頭。そいつ、漏らしてますぜ?」
「へっ。びびって小便漏らすとはだらしねぇ」
「あらあら、いい年して。お頭、ちょっと的にするわね」
見ると、紫苑は弓を構えている。
「や、やめろっ!」
「手が滑ったら許してね。弓にはあまり自信がないの」
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」
立て続けに放たれた矢は、男の頭上、脇の下、股間などに一寸だけずれた箇所に突き刺さる。
「う~ん、やっぱり下手ね。じゃ、今度は目玉でも狙おうかしら?」
「や、やめろ、止めてくれ! 話す、何でも話す!」
その時、背後で微かな気配を感じた。
人影が、素早く立ち去ろうとする。
「逃すか!」
「はっ!」
彩の投げた槍が人影の行く手を遮り、紫苑の弓は衣服ごと傍の木に縫い付けた。
「そ、そいつだ! そのチビ助が、俺達にやれって指示したんだ!」
件の男が叫ぶ。
すかさず、兵が駆け寄り、縛り上げた。
頭を覆っていた布が取り払われ、素顔が露わになる。
身の丈は、鈴々や雛里と同じぐらいか。
そして、やはり幼く見える。
「黄巾党を装うなんて、どういう了簡よ……土方」
少女は、冷たくそう言い放った。
後書き
武州訛りはかなり怪しいです。
べらんめぇ調を表現するのも難しいですね……。
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