人理を守れ、エミヤさん!
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全滅の詩、語れ薔薇の皇帝
『暴君』ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。
彼の皇帝の悪名の殆どは、実は後世の脚色ばかりであり、実際に彼一人の責任と言えるのは弟を、母を、妻を殺したことだけと言える。しかしそれさえもネロの二番目の妻ポッパエアの讒言に惑わされたがためとも言われていた。
諸悪の根源はこのポッパエア。諸説あるが近年になってそういった説が有力視され、ネロ帝が打ち出した「人の知恵の限りを尽くした施策」の数々を再評価する動きも活発になっている。
しかし、情緒不安定で、自分勝手であり、自意識過剰気味だったのは確かであった。
彼の皇帝は自らを「芸術家」と自認し、黄金宮殿を建築。それ自体の耐久性の高さは評価され、ローマン・コンクリートと評されるに至った。
が。それは栄光の一幕でしかない。
ネロ帝は歌が好きで、数千人に及ぶ観衆を集めコンサートと称して自分の為のショーを開くのを楽しみとし、「青年祭」と称した私的な祭典まで興したという。
更に詩人としての才覚も一流のものであると信じて疑わず、ネロは民衆を集めて幾度も独唱会を開いたとか。
しかし、ネロ帝に詩人としての才覚はなく、ネロ帝の聞くに堪えない歌に民衆から逃げ出す者が続出。ネロ帝はこれを見越して劇場の出入り口を塞いだというからなんとも言えない。このために堀をよじ登ってでも脱出する者が頻発し、死んだふりをして棺桶に入れられて外に運び出された者も出たというのだから驚きだ。
ネロ帝の親友の一人などはネロ帝の演奏があまりに退屈だったため眠ってしまい、これが原因でネロ帝から絶交を申し伝えられたというエピソードまであった。
他にも部下の美人な妻を略取しただとか、見目麗しい美少年を去勢し妻にしただとか……身勝手で独善的な振る舞いには枚挙に暇がない。
暴君と謗られるに足る下地は確かにあり、そういった観点から見れば個性的の一言では流せない人物だったのだろう。
だが、それでもネロ帝は後世、神格化されるほどに民から慕われ、ネロ帝の死が後のローマ内戦の引き金になるほどの影響力を持っていたのは確かだった。
一世紀の華、ネロ・クラウディウス。彼の皇帝は、性根がひん曲がっていることを考慮に入れても傑物と評するに値する人物だったのだ。
「……」
ワイヤーを芯として編まれたロープで手足を拘束され、口に猿轡を噛まされた華のような美女を見下ろした。
我が目を疑う。力なく地面に横たわり、擦りきれた紅いドレスを纏った女が……あのネロ帝だと? 俺は念のため、アサシンに声もなく問いを投げた。
(切嗣。この女性が、かのネロ帝だという確証は?)
(自分でそう名乗った。このネロ・クラウディウス、生きて虜囚の辱しめは受けないなんて言ってね。現時点では『自称』ネロ帝だが、僕を敵と見るなり自害しようとした点から信憑性は高いと判断した。かの騎士王が女だったこともある。ネロ帝が実は女でしたというのも必ずしも否定できたことではないと踏んだまでだ)
(…………)
一々尤もである。歴史の真実には頭の痛くなることが多々あるが、これがはじめての経験というわけでもなかった。
まあ問題は、だ。切嗣がネロ帝を捕縛し、縛り上げて近くまで運んできた後、それを持ってアルトリアらの前に運んだのはこの俺だということだ。
嫌に冷たい眼差しのアルトリア。ジト目のマシュ。冷ややかに薄い笑みを浮かべるオルタに囲まれては、さしもの俺とて動揺せずにはいられない。
俺は咳払いをして、声を震えさせないように意識しながら本題に入る。
「……俺のサーヴァントが、この場にいる者の他に一人いる。クラスはアサシンだ。そのアサシンが彼女を発見し、拘束。俺に処断を任せるために運んできたらしい」
と、ここまで言って、反応を窺う。
「……では、どうして彼女に見惚れていたのでしょうか」
ぐさりと刺してきたのはオルタだった。俺は俺の全知全能を懸けて応える。なぁに、こういう修羅場を幾度も捌いて不敗を貫いてきたのだ。問題ない。
「この女性の顔立ちが、どことなくアルトリア達に似ていたからな。拘束されてる姿に倒錯的な魅力を感じたんだ。すまない、不躾な視線だった」
「っ……」
アルトリアとオルタはその遠回しな誉め言葉に攻め気を鈍らせた。
実際、ネロ帝らしい女性の顔立ちはアルトリアに良く似ていた。しかし武人ではないためかどこか丸みを帯び、印象にも少々の灰汁があるように思える。
二人の反応を受けて、よし、いける――と、思ったら。今度は伏兵に横腹を刺された。マシュだ。ジト目のまま少女はぼそりと呟いた。
「……でも先輩、胸見てましたよね。似ても似つかない部位です」
カチン
アルトリアとオルタの目が、ネロ帝の胸部に向けられる。横向けに倒れているためか、腕に挟まれぐにゃりと形を歪めている豊かな双丘――凍りついた空気の中、俺の心眼はこの場に残された唯一の活路を導き出す。間を置かず瞬時にそこに飛び付いた。
「――彼女の名をアサシンは聞き出している。ネロ・クラウディウスというらしい。言うまでもなく、この時代の中心人物と言っても過言ではないだろう」
「……ネロ帝ですって?」
「彼女がですか」
その名を出すと、アルトリアとオルタの目から私情は消えた。
危機は去った。くだらない危機だったが、チーム瓦解の地雷でもあった。上手く回避できてよかったと心から思う。
頭を振り、俺も思考から弛んだものを絞り出す。戯れ合い、互いの緊張を緩めるのはこれで充分だ。
俺は肯定し、提案する。
「そうだ。現時点ではあくまで『自称』だがな。が、今の俺たちにとっては貴重な情報源に成り得るという点では、自称でも一向に構わない。話さえ聞けるならな。彼女を起こし、話をしようと思うが、どうだ?」
「……そうですね。では、起こしましょうか」
アルトリアがマシュを見る。どこか納得してない風な膨れ面のマシュだったが、この流れに逆らうだけの棘はなかったらしく、しっかりと頷いた。
まず、マシュに言って持ち物を調べさせる。また自害されそうになると、止めるのも面倒だ。
ボディチェックをしている光景から目を逸らし、何も持っていません、とマシュが報告してくるのを待って、俺は手足の拘束を解き猿轡を外すように言った。
そして、体を揺すり、マシュがネロ帝を起こす。
苦しげに呻き、華やかな美貌の皇帝は目を開いた。
「っ……!? な、なんだ貴様らは! 余をローマ帝国第五代皇帝、ネロ・クラウディウスと知っての狼藉か!」
「知らん」
跳ね起きるなり飛び退いて間合いを離し、鈴の鳴るような美声で誰何してきたネロ帝に、俺はばっさりと切り捨てた。
気色ばむネロ帝を尻目にザッと考えを纏める。
今、ネロ帝は起き抜けに見知らぬ者達に囲まれていて、些か動揺している。そして手元に護身のための武器がないことも身ぶりだけで確かめているのも見えた。
……手に武器がなく、見知らぬ者らに囲まれ冷静さをまだ取り戻せていない。この場合は、こちらがイニシアチブを握るのは容易だ。俺は彼女が何かを言う前に、さっさと名乗った。
「俺の名は衛宮士郎。こっちがアルトリアに、オルタとマシュだ。俺の仲間がボロ小屋の前で貴女が蹲っているのを見つけ、話し掛けようとしたところ、いきなり自裁しようとしたから無力化し一旦眠って貰った。俺達はローマの民ではないが貴女を狙う者でもない。その証拠として一切の危害を加えないことを誓う。……把握して貰えたか?」
「……」
長々と語り聞かせていると、ネロは注意深く俺、アルトリア、マシュ、オルタを順繰りに見渡し、やがて無理矢理にでも落ち着いたのか、皮肉げに苦笑した。
「……では、余は貴様らを敵と早とちりして自害しようとしたのだな」
「そうなる」
「……ふ、無様極まる。余ともあろう者が、敵意の有無すら見抜けぬとは。……手間をかけたな。詫びとして何かを取らせてやりたいが、生憎と財は全てローマに置いてきた。なにもくれてやることは出来ぬ」
「富は要らない。だが情報はほしい。何があったか、話してくれないか」
俺はローマのある方角――深紅の大樹が侵食する帝国を指差し、ネロに訊ねた。
俺の物言いは、本来不敬とも取れる。ネロはそれに不快感を示すだろうと思っていたが、あてが外れた。
敢えて怒らせて気力を沸き上がらせようと思ったのだが、言葉遣い程度の不敬に目くじらをたてるほど狭量ではない、ということだろうか。
だとすれば、少し気まずかった。器を測り損ねたのもそうだが、一度この口調を使ったがために止め時が掴めない。……仕方ないか、と妥協した。
「……其の方ら、もしやカルデアとやらの者達か?」
「っ、……ああ。どこでその名前を?」
ふと、黙り込んでいたネロが口にした単語に、俺は目を見開く。ネロは淡く微笑んだ。不敵に笑おうとして失敗した、今に命の尽きそうな顔だった。
……嫌な感じだ。これは、死相である。
「他にも知っておる。マスター、サーヴァント、聖杯に、人類史の焼却……。よもや余がその責を負うことになるとはな……」
「……失礼、ネロ帝。貴女に触れる無礼を許してほしい」
「ふ。構わぬ、好きにせよ。先の見えた命だからな」
俺は断りをいれ、ネロの肩に手を置いた。そして彼女の体に解析の魔術をかけ――俺はすぐさまマシュに指示を飛ばした。
「っ! マシュ、カルデアに通信をいれろ! 大至急だ!」
「えっ? あ、はい!」
俺はすぐにネロの体を横たえた。
召喚サークルに手をかざし、マシュはカルデアに呼び掛ける。だが、繋がらない。
「先輩!」
「繋がるまでやれ! ネロの応急処置だけはこっちでやれる!」
――ネロは死に瀕していた。
全身になんらかの呪いが纏わりつき、ネロの体を植物に置換していっていたのだ。
このままなんの処置もしなければ長くは保たない! 俺は己とネロの間にラインを通じる。ネロは乾いた笑みを浮かべた。
「ローマだ……」
「……なに?! 何を言ってる! 分かるように言え!」
「ローマ建国の祖、かの神祖ロムルスは、槍をパラディウムの丘に突き刺し、大樹と化させた。その大樹の成長は、ローマ建国の伝説そのもの。現世に甦った神祖は、再び、ローマの建国を再現した。そうだ、神祖は余を、今のローマを否定し……ぐ、」
どこかうわ言のように呟き、ネロは苦しげに呻いた。よろよろと首を左右に振る。
「……いや、違う。神祖は、ローマだ。それがローマを否定するなど、有り得ぬ。何者かが、神祖を歪めたに違いない……。許せぬ、それだけは、決して許せぬ……! よりにもよって、神祖にローマを否定させるなど……断じて、許せるものか……!」
「……話は後で聞くことにした。痛いぞ、死ぬほど。だから死力を尽くして耐えろ! 生きたいなら!」
俺はネロの耳元で叫び、魔力をネロの体へ強引に流し込んだ。ぐああ! 体を海老反りにし、絶叫するネロ。
体内の呪いを、無理矢理に魔力で洗い流しているのだ。ネロにとって未知の痛みは、爪の先に針を刺されている痛みを十倍に拡大しているようなものだ。
一度で洗い流せたのは、呪いの十分の一。一旦、中断して声をかけた。
「……あと九回、今のに耐えてくれ。そうしたら、少しは寿命が延びる」
「ふ、ふふふ……痛い、痛いな……。が、よい。この痛みが、生の証ならば。……だが、分かっているだろう。余のそれは、余がローマだからこそ蝕むもの。神祖の槍に触れたのだ、逃れても一時の誤魔化しにしかならぬ」
「それでも、やらないよりはましだろうが!」
今度は、ネロは叫ばなかった。歯を噛み締め、全身から脂汗を垂れ流し、死に物狂いに耐えていた。
――こんな様で、よく今まで生きてたな!
俺は内心で怒鳴る。ネロの体は、体内の三割が樹木と化していたのだ。普通なら死んでいる。だが、生き永らえていたのは生への執念か、それとも古代の人間に特有の神秘的な生命力故か。
九回、全てにネロは声ひとつあげなかった。
見事、と称える。息も絶え絶えにネロは口許だけで微笑んだ。
「どう、やら……本当に、余を……助けてくれて、いるのだな……」
「……」
「もう、ローマは呑まれ、余も槍の一部となるところだったが……。まさか、はは、まだ立ち上がるだけの……力を手にできるとは……感謝、するぞ……エミュア・シェロ」
「……士郎だ。が、まあシェロと呼ぶのはいい」
それと、と。一瞬、懐かしい何かを思い出しかけた士郎だったが、すぐに気を取り直して言った。
「所詮は一時しのぎだ。呪いそのものは貴女の体と、魂そのものにまで絡み付いている。俺にはそれを遅らせ、ある程度押し留めるのが限界だよ」
「充分……だ。……すまぬが、少し眠ってよいか? ローマから、こんな辺境まで、休む間もなく逃げてきたのだ。流石の余も、少し疲れた……」
「ご随意に、皇帝陛下」
「ふ、……其の方ほど、敬語の似合わぬ男もおるまいな」
そう溢したきり、ネロはぐったりと泥のように眠りについた。布団と敷布団を投影し、ネロをそこに寝かせる。
俺は嘆息し、マシュを見た。マシュは首を左右に振る。まだカルデアとは繋がらないらしい。ここは、霊脈に設置した召喚サークルなのに。
まだ続けろ、と目だけで指示し、俺はアルトリアとオルタに言った。それは、ネロのうわ言を聞く内に得た確信だった。
「最悪だ、二人とも」
「何がでしょう」
「この時代が修正不能になるのに、もう瀬戸際まで来ている。――ローマは実質滅び、全ての国土は大樹に呑まれ、まだ拡大は続くだろう。人理が完全に修復不可能に未だなっていないのは……」
「ネロ帝が生きているから、ですか」
オルタの言葉に、うなずく。
「この時代の中心人物で、唯一、一世紀の原形として残っている皇帝ネロ。彼……いや、彼女が死ねば、歴史の修正は不可能だ。分かるな、二人とも。ネロ帝は絶対に死なせるわけにはいかない、彼女の死は俺達の敗北を意味する」
鉄を噛むような心地で言い切り、俺はマシュを見る。
マシュは、パッと顔を輝かせた。
「繋がりました! カルデアとの通信が復活しました!」
『ああっ! やっと繋がった! マシュ、士郎くん! 無事かい!?』
「ロマニ!」
俺は食いつくようにして怒号を発する。気を呑むように激しく、反論を許さぬように。
「大至急、手配してほしいことがある。頼めるか?!」
『えっ?! あ、ああ! なんでも言ってくれ! 出来ることならなんでもする!』
「よし、なら技術部に言え、聖杯の解析は後回しだ、すぐに使うように指示しろ!」
『ちょ、ええっ?!』
ロマニが驚愕したように声を張り上げた。そんなむちゃくちゃな! 何があるかわからないのに、そんなことはさせられない! と。それは道理だ。
だが、
「四の五の言ってる場合じゃないんだよ!!」
血を吐くように怒号する。そして今、俺達の置かれた状況を教え、何がなんでもネロを死なせるわけにはいかないことを伝える。
そのために、聖杯を使わねばならない。
ネロを蝕んでいる聖杯を使った呪いに立ち向かうには、同じく聖杯を使うしかなく。これからの戦いを思えば、とてもじゃないがネロを単独で動かすわけにはいかない。
故に、だ!
「ネロを聖杯で治療後、聖杯でネロをカルデアの職員だと世界に誤認させ、カルデアのマスターとして運用する!」
『はあっ!? そんな無茶な!』
「無茶でもやらなきゃ世界が滅ぶ! 特異点が修正されればネロ帝の不在もなかったことになって、カルデア職員のネロは残り続けるだろうさ!」
『それは!? それがどういうことかわかってるのか、士郎くん!!』
「わかってる! 悪魔でも鬼畜でもなんとでも呼べ! 俺個人の呼び名よりも、人理を守護する方がよっぽど大事だろうが!! ええ、違うか!?」
違わない、違うはずがない、故に俺はロマニに頼むのだ。これからのために。
「ネロ帝をマスターに設定し、クー・フーリンをサーヴァントとして付ける! とりあえず、今は治療だけでいい。ネロ帝が起きたら説得する。俺達と共に戦ってくれと。身勝手にも、自分を捨ててくれと!」
聖杯で、カルデアのマスターを一人増やす。
悪魔的な発想だった。最低の、外道の考えだった。
だが、これ以上ない効果を望める起死回生に繋がる策でもあった。
ネロ帝は、恐らくこの悪魔の契約を結ぶだろう。
例えカルデアに生身のネロが加わっても、人理が修復されるとネロは『いる』ものとして歴史は進む。世界の修正力とはそういうものだ。
説得できなければ、諦める。無理強いしても意味がないから。だが、俺は確信していた。ネロは、この手を掴む。それほど追い詰められている。立ち上がり、戦うために、万策を尽くす覚悟があり――そのためなら世界を捨てることが出来る英雄だと感じさせられた。
ロマニは、やけくそのように髪を掻き毟り、了解したよくそぉっ! と怒鳴り返してきた。
『ただし、説得はそっちがしてくれよ! 失敗したらダメだからな!』
「わかってる。……すまん、ロマニ」
『ボクに謝ったって意味ないでしょ!』
其の通りだ。
「まったく……」
俺は、地獄に落ちるかもな……。
――安心してください。その時は、私達も共に参ります。
三人の声が、心を軽くしてくれた。
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