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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  嗤う三日月、紅の幽光

「エミ……」

 マサキは一瞬、ここが死後の世界なのかと思った。目尻から大粒の涙を落とし、くしゃくしゃに歪めた頬に乱れた髪の毛を貼り付けた彼女の顔は、普段の見る者を吸い込むような花顔とは遠くかけ離れていた。しかしそのひどい顔には今すぐにでも抱き締めて涙を拭いてやりたくなるような愛おしさがあって、マサキの胸を強く衝いた。その衝撃でまだ心臓が動いていると分かった。

「クソが……余計な真似を……!」

 頭上から強い怒りを湛えた低い声が、マサキの頭のスイッチを入れた。この場にいるもう一人が、背後にいるマサキですら感じ取れるほどに明確な殺気をエミに対して発していた。
 ――不味い。
 と思った瞬間、マサキの脳と体が反応し、目の前にあるブーツを掴む。それとジュンがエミを殺すために駆け出そうとしたタイミングが重なり、ジュンはあっけないほど簡単に倒れた。

「……動くなよ。容赦なくその首を斬り飛ばすからな」
「クソ……クソ……ッ、あと少しで殺せたものを……!」

 怨嗟の言を口にするジュンの首筋に蒼風を当て、縄で手足を拘束すると、マサキはストレージから紫色の結晶を取り出した。

「回廊結晶……!?」
「ここへ来る途中に、エギルの奴に売りつけられたよ。場合によってはPohが相手になることも有り得た。奴は病原菌みたいな男だからな、曰く、『ここでPohを捕まえられれば、今後オレンジやレッドになる奴を減らせるかもしれん』だと。出口は黒鉄宮だ」
「あっ、ちょっと待って!」

 回廊の入り口を開けようとしたところで、エミが待ったをかけた。

「向こうにジョニーブラックを捕まえてあるから。送るなら、あいつも一緒にしないと!」
「っ、おい!」

 踵を返して駆けていくエミの背中にマサキは逡巡すると、ジュンをその場に放置して追いかけた。ジュンに逃げられてしまう可能性はあるが、今の状況でバラバラになる方が悪手だ。特に、それがエミならば。仮にジョニーブラックが四肢を喪失した状態で檻に閉じ込められていたとしても、マサキは追いかけただろう。そのくらい、今彼女を一人にするという選択肢はマサキにとって有り得ないものだった。
 ジョニーブラックはすぐ近くの部屋で腕と足をロープで縛り上げられ、身動きが取れないでいた。マサキとエミを見るや大声で喚いて威嚇してくる少年を二人がかりで運び、ジュンのところまで戻ったところでまとめて黒鉄宮に投げ込む。その後二つの空間を繋ぐ門が閉じた時、マサキは全身の力が抜けるような安堵を感じた。
 バランスを取ることを放棄し背後の壁に倒れこむマサキの体をエミに抱き締められる。マサキの存在を確認するかのように強く締め上げられ、首に鼻筋を擦りつけられる。その度にマサキの鼻の間近で黒髪が舞って、桃のような香が立った。

「ずっと……会いたかった……来てくれるって、信じてた……!」

 体を万力に締め付けられながら、マサキはエミを抱き締め返せないでいた。エミの目から零れた涙がじんわりと熱を帯びてマサキの肩に滴る。しかしそれは、マサキの身体が冷え切っていることの裏返しでもあった。

「でも、怖くて、申し訳なくて……《還魂の聖晶石》を見た時、凄く嫌な予感がしたの……。ひょっとして、マサキ君が……マサキ君が、死んじゃうんじゃないかって……!」
「……そんなことで」
「そんなことって何よ!?」

 ぽつりと零した言葉に鋭く噛み付いてきたエミと目が合う。
 一杯に涙を溜め、瞬きする度に溢れさせる大きなブラウンの瞳の底には、表面の涙を通しても濁ることのない純粋な怒りが灯っていた。

「マサキ君のばか。ばか、ばかばかばか……! わたしが来た時、マサキ君死んじゃうところだったんだよ!? 突き刺されて、もうHPがなくなって、今にも消えちゃいそうなマサキ君を見つけて……もう、本当にっ、本当に心臓が止まりそうなくらい怖かったんだからぁ……っ」

 再びエミに強く抱きしめられた瞬間、マサキは指先を小さく痙攣させた。緊張でも期待でもなく、ただ凍りつくような恐怖のみによって。マサキはこの時、自分が抱いている感情をようやく正しく理解した。

「……止めてくれ」

 エミの肩を両手で押すと、意外なほどにあっさりとエミの身体が離れた。マサキは壁に背を預けてその場に座ると、無意識に目を瞑り、頭を抱えるように耳を両手で塞いだ。

「マサキ君……?」
「もう沢山なんだ」

 エミの手が差し伸べられかけたのを察して、声でそれを押し止める。
 また彼女の体温に触れたら。そう考えただけで胸の奥がじんわりと熱を持ち、四肢が凍えてガタガタと震えた。
 呼吸が小刻みに痙攣しては、干からびた喉の奥で引っかかって高音を鳴らした。暫し、口腔内に溜まった唾をえずきながら飲み込むことだけに集中すると、外界からの情報が上手い具合に遮断されて少しだけ楽になった気がした。
 次にこの目を開けた時、そこにエミがいないことを強く望んだ。
 もう彼女の声を聞きたくなかった。
 もう二度と、彼女が笑いかける姿を見たくなかった。
 握られた手の温もりを知らないままでいたかった。
 それなら、失くしたって痛くないだろうから。
 マサキは古新聞をくしゃくしゃに丸める時のようなしわがれ声を搾り出した。

「これ以上俺に触れないでくれ、声を聞かせないでくれ。これ以上、俺に思い出させないでくれ……!」

 本当に、酷い言いようだ。命の危機を助けられ、死の間際に望んだ相手に向かってこの台詞とは。

「……中学一年の冬に、交通事故に遭った。そして、記憶が消えなくなった」

 そして、全てが中途半端だ。孤独に生きたいのなら黙って消えればいいのに。追いすがってくるなら、罵声でも浴びせて嫌われてしまえばいいのに。そうだ、いっそのことなら、死んでしまえばいいではないか。だというのに、エミのことを足蹴にしながら、断ち切れない。繋がれた手を必死で振りほどいているように見えて、その実手を握って離さないのは自分の方だ。
 目を開けると、エミのショートブーツはまだマサキの足のすぐ先にあった。
 安心して、馬鹿馬鹿しくなって、自嘲で少しだけ笑った。

「だから、俺はもう一生、何も忘れられないんだよ」



 アインクラッドに暮らしていると、SAO開発チームの技術力の高さと、一切に妥協をしない茅場晶彦のこだわりの深さを感じることがままある。この城の気象もまた、そのうちの一つだ。
 アインクラッドには雲の量から気温、湿度、雨量風量、大気の埃っぽさに羽虫の量といった数多くの気候パラメータが存在し、その組み合わせによってその日の気候が決定される。それらのパラメータは一つ一つ独立して抽選が行われるため、どれかが好条件ならば別のどれかが悪条件、と、偏らないことが多い。しかし、何度も振ったサイコロの目が全て一になることもあるように、全てのパラメータが好条件を示す日も年に何日かという割合で存在する。逆もまた然りだ。
 そしてその日――二○二三年三月二十八日は、気象パラメータの全てが最悪の値を示していた。

「うへぇ……嫌な天気だなぁ」
「謹慎中なんだから関係ないだろ。こんな天気の中を攻略に勤しむ勤勉な攻略組の皆々様をそこの窓越しに労ってやればいい」
「そうかもしんないけどさあ……」

「そんな嫌味な言い方してると、またアスナにどやされるぞ」と苦笑するトウマをよそに、マサキはウィンドウを呼び出して時計を見た。午後一時半、今しがた宿のレストランで遅めの昼食をとったばかりで、普段ならこれから午後の活動を始めるところだが、音を立て窓打つ雨粒を見ているととてもそんな気分にはなれそうになかった。先ほど一度外に出て天気を確認してみたが、それはもう酷かった。四月も間近だというのに気温は冬に逆戻りしたかのように低く、そこへ氷のように冷たい雨粒が強風に揺られて四方八方から襲い掛かってきて容赦なく体温が奪われる。塔になっている迷宮区内部では雨は降らないが、行き帰りにこの天気の中を通ることすらしたくはないなと、マサキは木枠で四つに区切られた窓ガラスに映った自分を眺め思った。

「しっかしさぁ……謹慎ってのも暇なもんだよなぁ。いつ終わるんだろ、これ」

 トウマは伸ばしていた腕をだらりと投げ出して宙を仰いだ。
「マサキとトウマの二人組が二十二層のボスを倒した」という事実は瞬く間に広まり、二人の名を知らしめたと同時に様々な厄介ごとを巻き起こした。フロアボスはプレイヤーの生還とゲームクリアを阻む門番であると同時に、討伐した際膨大な量の経験値にコル、レアアイテムをばら撒く非常に「美味しい」エネミーでもある。通常レイドパーティーを組んで攻略するフロアボス戦をたった二人で倒したということは、そこから得られる利益も二人が独占したということであり、「リソースの独占は攻略組内での著しい戦力不均衡をもたらし、ゲームの攻略を阻害する」という表向きの理由で問題提起されたのだ。実際それには一理あるのだが、この件が議題に上がった時に大手ギルド幹部連中から向けられた憎しみの視線を思うに、抜け駆けをしたマサキたちに対する恨みつらみも多分に入り混じっていたことだろう。
「二人がフロアボス討伐で得た全アイテムとコルの没収」などという過激な案も一部から噴出したが、最近《血盟騎士団》副団長として急激に攻略組内での発言力を増しつつあるアスナの生真面目さに助けられ、「二人の取り分を除いた取得アイテムのオークション出品と、他の攻略組が二人のレベルに追いつくまでの謹慎」という処分で決着した。謹慎といっても四六時中監視されているわけではなく、あくまでフロア攻略参加に対する謹慎であるから、宿に引きこもっている必要もなければフィールドに出てレベリングしたところで捕まるわけではない。しかし、主要なレベリングスポットには大手攻略ギルド所属のプレイヤーが来ているだろうし、そんなことをして見つかれば攻略組からより重い処罰を受けることになる(と、会議の後に目をつり上げたアスナから散々っぱら言い含められた)ため、休暇も兼ねて大人しくしているというのが現状だ。

「まあ、そのうち終わるだろう。噂じゃ、二十五層の攻略に手こずってるらしい。案外ボス戦前に呼び戻されるかもな」
「ボス戦……ボス戦ねぇ……」

 ぶつくさと文句を垂れるトウマをよそに、マサキはストレージから金属製のコーヒーポットを取り出すと、一緒にオブジェクト化させたコーヒーカップに中の液体――無論コーヒーである――を注いだ。
 最近入手したこのポット、一見何の変哲もないドリップポットなのだが、その実無限にコーヒーが湧くという魔法のポットなのだ。しかもホットとアイスの両方を選べ、好みで砂糖やクリームの量、酸味や苦味といった味のバランスの調節が可能で、果てはブレンドコーヒー以外にもエスプレッソとカプチーノが淹れられるという、まさにコーヒー好き垂涎の品である。ただ一つケチを付けるならば、これでコーヒーを飲む度にこのポットを入手するまでの経緯を思い出してしまうことだろうか。出来ることならば、コーヒー豆の渋皮と一緒に捨ててしまいたいところだ。

「うへぇ……」

 マサキがコーヒーに口を付けると、トウマのげんなりした声が聞こえた。目線を上げると、テーブルの向こうで上を向いていた頭が回転して外を向き、もう一度「うへぇ」と呻いた。舌の上に強い苦味が広がるが、コクはあまり強くなくてサッパリしている。朝目覚まし代わりに飲むのに適しているだろうか。

「あー……そうだよなあ、行くしかないよなぁ……」

 マサキが悠々と好みの味を探して調整を続けていると、トウマが跳ね返った茶髪をわしゃわしゃとかきながら立ち上がった。

「どうした?」
「いやあ、ちょっと今日中に行かなきゃいけない用事でさ。ちょっくら行って来るから」
「そうか」

 短いやり取りの後、トウマは宿を出て行く。マサキはコーヒーを飲みながら、特に何かを思うこともなく、それを見送るのだった。



 日が沈む頃になると、天候は未だ回復の兆しを見せずにいたものの、家路につく人々でそれなりの賑わいが戻った。今頃は宿のレストランも混み合っていることだろう。マサキは朝と昼を遅めに食べたためそれほど空腹というわけではないが、できればそろそろ何時頃食事にするか決めておきたいところだ。しかし、相方のトウマは昼に出かけたきり帰ってきていなかった。
 フレンドリストからトウマの場所を確かめると、どうやら彼は二十四層の西のはずれにある針葉樹林帯にいるらしいことが分かった。ダンジョンでないならメールの送受信機能も使えるはずだ。夕飯をどうするのかだけでも聞いておこうとホロキーボードに手を伸ばしたマサキだったが、その瞬間に割り込んできたメール受信画面を見て眉をひそめる。
 差出人は、今まさにメールを送ろうとしていたトウマだった。それを見て一旦緩んだマサキの顔が、文面を読んだ途端に張り詰めた。
「おれんz 終われてる」
 短い上に打ち間違いの多い文だったが、「オレンジ、追われてる」と打ちたかったのだろうということは容易に想像がつく。マサキは大慌てで転移結晶を取り出すと。トウマの現在地から最も近い街を叫んだ。
 転移が完全に完了するのを待ち切れずに走り出す。開けた視界はやはり土砂降りで、灰色に濁った世界は湿った土の匂いに満ちていた。
 濡れた路面を考慮せずに飛び出したせいで、一歩目の着地と同時に足を滑らせるが、すぐに立て直す。
 そこはひどく寂れた村だった。碌に舗装もされていない道の両側に腐りかけの看板を出した宿とアイテムショップがある他には店らしきものも見えない。雑草が生え放題になった平地にぽつぽつと民家が並んでいて、全て北欧風の木造建築だった。しかしそこに人が出入りする様子はなく、夕方の一番賑わう時間帯だというのに一人の姿も確認できない。これではトウマの援軍になるようなプレイヤーなど夢物語でしかないだろう。
 土が剥き出しになっている道は雨でところどころがぬかるんでいて走りにくい。スピードを上げようとするが、路面状況の悪さが足を引っ張っていた。気ばかりが急いて体が追いつかない。服が雨を吸って重くなっているのか。
 雨粒が何度も目に入った。
 それでも、先のボス戦で手に入れた膨大な経験値によってレベルを上げ、そこで得たポイントのほぼ全てを敏捷に振り、《ブラストウイングコート》で強化したマサキは間違いなく攻略組で、SAOに存在するプレイヤーで最速だ。そして何より、トウマは強い。自分が辿り着く前に死ぬはずがないのだ。必死に自分へ言い聞かせながら、マサキは走ることだけに集中した。
 簡単な門すらない村の果てを何の感慨もなく西へ抜けると、クリスマスツリーのような円錐状に枝をつけた木々が並ぶ針葉樹林が広がる。高い密度で群生する木のせいで直線にラインを取れずスピードが落ちるが、頭上を覆う葉が天然の傘になってくれたのは有難かった。方向感覚を失わぬよう、常にトウマの位置を確認しながら駆けていくと、視界にトウマのカーソルが映った。マサキの心臓が跳ねたのと同時に視界が開ける。
 背の短い草に覆われた半径五十メートルほどの円形の草原で、十人以上のオレンジカーソルが中央の小高い丘を囲んでいた。丘の頂点には周囲の森のものと比べて一際立派な大木がそびえていて、トウマはそれを背に一メートル以上はある愛用の大剣を構えていた。
 目が合ったような感覚。トウマからもマサキのカーソルは見えているだろうから当たり前かもしれない。そして、マサキが次に考えることも、彼なら正確に汲み取れるはずだ。

「さあ、鬼ごっこはここで終わりだぜっ!」

 トウマが大剣を振り上げるのに合わせてマサキが駆け出す。それまでの単なる移動ではなく、明確な目標を持った襲撃として。《ブラストウィングコート》の特殊能力を用いて姿を消す。手に握るのはエクストラスキル《風刀》専用武器、《蒼風》。未確認のスキルである風刀スキルは、騒ぎになりかねないため未だ公開していない。それがこの戦闘で露見してしまう可能性もあったが、トウマの命と天秤にかける気はさらさらなかった。
 鬱陶しい大雨も、この時ばかりは足音を消す最高のノイズとして機能した。息を潜め、最寄の襲撃者までの三十メートルほどを一息に疾駆し、長槍を持つ右腕の肘から先を切り飛ばす。

「ぎゃあああああっ!? お、俺の右腕が急にぃぃィッ!?」

 突然味方から上がった悲鳴にオレンジ達がぎょっとしてこちらを向くが、マサキのスピードの前ではその時間すら命取りになる。近くの盾持ち片手剣士に踊りかかり、肘から先と一緒に武器を飛ばす。そのタイミングでトウマの方からも悲鳴が上がった。無論敵のものだ。突然現れたマサキが周囲の注目を引いた一瞬を逃すことなく動いたのだろう。継戦能力を喪失した男を突き飛ばしてマサキは笑みを浮かべた。全く、打てば響きすぎて気分が悪い。
 左手で投擲用の短剣を抜き、マサキとトウマの中間点付近にいた片手剣士の男に投げつける。毒も塗られていないただの投剣だ、命中したところで大したダメージも与えられないが、敵が状況を把握できていない今ならば、面白いようにこちらの意図したとおりに動かすことができる。

「な、何だ、煙が!?」

 人はパニックになると、まず足が動かなくなる。その状態で差し迫った危機に対応しようとした結果、男は短剣を盾で弾き、噴き上がった煙に囚われた。それを見てマサキは迷うことなく白煙の中に飛び込む。それによりマサキもまた視界を失うが、マサキは短剣を投擲する際に男を見た一瞬の間に、男までの距離とそこに到達するまでに必要な歩数を計算していた。その計算どおりに現れたシルエットに《体術》スキルで拳を打ち込み、怯ませつつ腕の位置を確認したところで、一人目と同様に武器を持つ手を斬り飛ばし無力化する。

「マサキ!」
「分かってる!」

 人数差があるとは言え、敵はトウマをここまで追い込んだ。そのことから、少なくとも敵は烏合の衆ではないだろうと踏んでいたマサキは、奇襲の続行を諦めてトウマの声がした方角に駆けた。煙から抜けると、マサキが考えたとおり、敵はこの煙とトウマから距離を取って集まっていた。丘の斜面でトウマと合流を果たしたマサキは、小さく息を整えて敵の集団を見下ろす。

「悪い、助かった」
「全くだ。お前といるといつもこうだな」
「それはちょっと言い過ぎじゃねぇ? 今回は、アルゴから情報を買ったんだって」
「何の」
「そりゃ……ここに、俺の探してたブツがあるっていう」
「こんな辺鄙な場所にか? ……まあいい。そういうことなら、後であの鼠をたっぷり非難してやろう。周辺の脅威調査に漏れがあるのは情報屋の失態だからな」
「危険な輩が出没してるから注意喚起しとけって情報提供に行くんですね分かります」

 こんな状況だと言うのに、二人の間には軽口が飛び交う。その最後にマサキが渋い顔をしたところで、オレンジカーソルの集団が割れ、黒のポンチョを着たシルエットが出てきた。

「Wow……今日はつくづくツイてるぜ。しがない服屋に糸を垂らしてただけで、今をときめくSuper Starコンビが釣れるとはな」
「金目当てならさっさと失せろ。さもないと、途轍もなく高い授業料を支払う羽目になるぞ」

 ポンチョの男――声で性別が分かった――は、マサキの脅しに対してチッチッチ、と指を振った。この雨音の中でも、彼の声は不思議とすんなり耳に届いた。

「俺たちはそんなチャチなモンが欲しいわけじゃあない。俺たちが欲してるのはな、純粋な命の取り合いだよ」
「……何?」

 マサキの背筋を雨よりも冷たい雫が伝い落ちた。これまで、オレンジプレイヤーの目的は他人の持つ金目の装備やアイテムを奪うことであり、決して命を奪うことではなかった。しかし、男はそれこそが目的だと言う。それがこちらを脅すためのブラフであることも考慮したが、男の言葉はその可能性を直感的に否定したくなるような説得力と狂気を内包しているように聞こえた。

「このSAOというゲームには、PKというシステムがある。だが、プレイヤー間での殺し合いを嫌い、ゲームクリアだけを目的にさせるならこんなシステムは必要ない。むしろ邪魔、反目するものだ。でもここにはそれがある。つまりこの世界は、人が他人を殺すことを許容してるのさ。それがゲームデザイナーの――神の意思と言ってもいい。つまりPKってのは、このアインクラッドに生きる全てのプレイヤーに与えられた権利だ。俺たちはゲームの中で、プレイヤーに与えられた機能と権利を行使しているに過ぎない。Right(だろう)?」

 男が振り向き、オレンジたちに問いかけると、そこかしこから口笛や歓声が上がった。その光景に、マサキの脳裏で眼前の男と、今や攻略組最強とまで言われるようになった一人の男が重なった。二人のベクトルは完全に逆方向を向いているが、強烈なカリスマによって人を惹きつけ、導くところは同じなのかもしれない。

「……トウマ。気を抜くなよ。こいつらはただのオレンジじゃない」
「ああ。今分かったよ」

 マサキたちの声も、緊張で低く、硬くなった。男は再びこちらを向くと、さながらスポットライトを一身に浴びた舞台俳優のように芝居がかった動きで、ポンチョに隠れた両腕を大きく広げてみせた。

「さあ、俺たち《ラフィン・コフィン》の初舞台だ。派手に行こうじゃないか」

 ポンチョのフードから僅かに覗く口元が三日月のように歪められた。その端に雨粒が落ち、輪郭を伝っていくが、マサキにはその透明な雫が、男の牙から垂れた真っ赤な鮮血のようにさえ思えた。
 男は続けて言った。短く。しかしはっきりと。

「イッツ・ショウ・タイム」 
 

 
後書き
 主人公がトウマ君と一緒にいると途端にイキイキするのが辛い。これがヒロイン力か……(錯乱) 
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