東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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邯鄲之夢 1
険峻な山を持ったふたつの島が門のようにそびえ立っていた。
波はおだやかで、規則正しい潮騒が聞こえる。
青天白日、白砂青松。夏の日にぴったりな景色なのだが、海を渡る風は冷たい。どうやら季節は現実世界と同じく晩秋か冬。あるいは、ずいぶんと寒い地域のようだった。
小島が点在する様は日本の瀬戸内海に似ていなくもないが、より起伏に富み、けわしい印象を受ける。
「夢、だよな……」
「夢、よね……」
「それにしちゃあずいぶんと寒い、こんなところまでリアルに再現しなくてもいいのにな」
ひと組の男女が奇岩の上に立ち、あたりを見渡している。
男のほうはわずかに青みがかった黒――烏羽色をした服を、女のほうは白い服を着ていた。デザインは同じで、平安時代の公家の運動着だった狩衣を、さらに機能的した作りになっていた。
デイドリーム枕くんで夢幻の世界へと降り立った賀茂秋芳と倉橋京子だ。
「体感時間にして一日ほどで帰れる――目が覚めるはずだから、それまでゆっくりとこの世界を堪能しよう」
「い、一日も!? ずいぶん長く設定したのね」
「俺達の鑑定と枕の機能に誤りがなければ、かなり長くいてもリアルじゃ数分しか経たないはずだし、そのくらいの時間じゃないとゆっくり楽しめないと思ってな。博物館や美術館だって丸一日ないと全部観て周れないだろ?」
「ここはなにが起こるかわからないエキシビションだけどね、悪夢展覧会になる可能性だってあるわ」
「夢だと認識していても覚めない悪夢とか、たしかにいやだよな」
「そういう体験て、ある?」
「ないな。怪物と戦う夢や自分自身が怪物になって暴れる夢ならたまに見るが、一方的に怖いと感じるような悪夢は見た記憶がない」
「あなたらしいといえば、あなたらしいわね」
「君は? 最近なにか怖い夢でも見たとか」
「う~ん、そうねぇ……。最近見た夢だと――目の前に道があって、どこかへ行こうとしてるの。しばらく進むと道が二つにわかれていて、さらに行くと開かれた場所があって、目の前には列車や飛行機やバイクといった乗り物がならんでたわ。で、そのどれに乗ろうか迷っている。でも結局は乗り物に乗らずに歩いていくことにして、長い道を進む途中で目が覚めちゃった」
「ほほぅ……、夢は心の奥にしまわれた意識の象徴。昔から夢は神のお告げ、魂の働きだといわれている」
「卜占全般。夢占いもあたし達陰陽師の分野よね」
「陰陽師として今の夢はどう見る?」
「ん、そうね……。どこかへでかけるというのは旅立ちや人生の漠然とした予告を、乗り物や歩くと言った行動はその人の人生の過ごし方や行動の仕方をあらわすわ。列車はレールに乗った無難な人生、バイクは機動性と自由と危険、飛行機は解放を、歩くということは自分の力で人生を切り開くという選択のこと。でも途中で目が覚めたってことは、どこかに迷いでもあるのかしら……」
「陰陽庁のトップを目指すといっても進む道はいろいろあるしな。祓魔局か呪捜部、どっちに入る気だ?」
「問題はそこよねぇ……」
「それで思い出した、陰陽塾のカリキュラムのことだ。一年は座学中心、二年は実技中心、三年はより実践的な授業内容。これはいいんだが、三年に進級するさい、修魔官や呪捜官、霊視官、そして陰陽医など、それ以外の分野。それぞれの希望就職先に合わせてクラス分けしたほうが良いと思うんだよな」
「そうね、呪具師や符術師みたいな技術職を希望してる人に霊災修祓や対人呪術戦の授業って、あんまり意味ないもの」
「陰陽師としての最低限必要な能力は二年までに身に着けてもらい、三年からは専門的な授業を受けられる。汎用性を高めるのも結構だが、より細分化して好きな分野を学べる自由があったほうが良い」
「でもそうすると二年までの授業がハードになるし、なにより講師の数が足りないわ。専門分野を教える講師の人を新たに雇わなくちゃ」
「そうなんだよなぁ、そうそう専門家なんて見つからないよなぁ」
呪術界はどこもかしこも人材不足だ。定年退職したあとも嘱託で同じ職場に残ることを強く求められる傾向がある。
「……秋芳君は、このまま陰陽塾で講師になるつもり?」
「さて、どうしたものか……」
「人財の育成も大切だし、それも良いと思うんだけど、特にこだわりがないようならあたしとおんなじ道を歩いて欲しいなぁ……」
そんなやりとりをしつつ、崖を下りてゆく。
断崖絶壁。一歩でも足を踏みちがえれば落下や滑落してしまう危険な場所だが、二人ともまるで危うい様子がない。
秋芳は山篭り時代に身につけたボルダリング技術――壁虎功を駆使して軽やかに下り、京子のほうは呪術を使って舞うように下りている。
土行の気をメインに周囲の霊気をたくみにあやつり、重力を制御する落下制御(フォーリング・コントロール)の呪術だ。
ふたりともここが夢の中、仮想現実の世界だと認識してはいるが、だからといって無謀な真似はしない。ここでの死は現実の死につながるからだ。
たとえ幻覚幻術であっても本人がケガをしたと思えば肉体は傷つくし、『死んだ』と思えば、死ぬ。
人の意識とはそういうものだ。
「風は冷たいが日差しのおかげで動いているとそんなに寒くはないな。なぁ、京子。遠慮なく呪術を使って遊んでみないか?」
「いいわね。たまには塾以外の場所で派手に使いたいわ」
今の時代、陰陽庁の定めた陰陽法により甲種呪術の使用は陰陽師の資格を持つ者に限られ、またその使用に関しても厳密には細かい規定がいくつも設けられており、公共の場で好き勝手に使用しても良いものではない。
陰陽庁が公式に認可している陰陽師育成機関である陰陽塾の塾生は陰陽Ⅲ種の資格者、いわゆる準陰陽師に近い権利が特別に与えられ、機関の最高責任者の責任下。たとえば授業内などでは特別に甲種呪術の使用が認められている。
もっとも秋芳も京子も普段からおかまいなしに呪術を使っているが、それでも人目をはばかり、塾の敷地外で使用する時は周囲に気をくばっている。
だが今はその必要はない、なにせここは現実の世界ではないのだ。
「以水行為不沈、疾く」
「以水行為不沈、急急如律令」
水行を以て不沈と為す、浮かべ。
目標を水に沈まぬようにし、濡れることすらさせない水行の術。
ふたりはフィギュアスケートの選手が銀盤を舞うように海上をすいすいと軽快に駆けて、術を飛ばし合った。竜や麒麟、鳳凰などの瑞獣を象った無数の水流水塊が乱舞し、時にみずからを乗矯術で浮かせて宙を飛ぶ。
これらは夢の中だからできる芸当というわけではない、秋芳はもちろん京子もすでに呪術をもちいてこのくらいの〝遊び〟ができる域にまで高まっているのだ。
「楽しいな。やはり呪術は実践してなんぼだ、一年でももう少し実技の授業を増やせばいい」
「そうよね、あたし天馬や春虎を見て思ったんだけど、甲種呪術に対して妙な苦手意識を持ってる子ってわりといる気がするのよ。そういうのをなくすためにも、こういうお遊びって必要だと思う」
「ああ、いつだったかの簡易式の紙相撲や射覆のあてっこみたいにな」
「隠形してかくれんぼしたりね」
「かくれんぼ……、いっそ鬼役は本物の鬼を使役してやるか」
「いや、さすがにそれは危険すぎるでしょ」
急に京子の表情がかたくなり、一瞬おくれて秋芳も眉根をよせる。
剣呑な気を感じる。それも生半可なものではない、流血をともなう破壊と暴力、死の気配を濃厚にただよわせる気配。
だが霊災や呪術の類ではない、これは――。
「軍気だ」
人が人を傷つけ、殺そうとする殺意の衝動。それがぶつかり合っているのを感じる。
すぐ近くで多くの人が戦っているのだ。
「いってみよう」
「ええ」
蜗牛水井。地面に穿たれたすり鉢状の斜面には井戸に降りて行くため螺旋型の歩道が作られており、その形状がカタツムリを思わせることからこう呼ばれている。
周りを海に囲まれたこの土地では地下水を汲み取るにも、このように深くまで井戸を掘る必要があるからだ。
その貴重な水源を守る守備隊は敵の奇襲にあい壊滅の危機にひんしていた。
突如として四方に喚声がわきおこり、間断なく矢の雨をあびせられたのだ。
反撃するいとまもなく一人、また一人と味方の兵士が倒れていく。
守備隊を率いる王平の掲げた盾には無数の矢が突き刺さり、重くなる一方だ。
ぐらり、と身体がかたむいた。矢傷を受けた右肩を中心にして全身から力が抜け落ち、盾が下がる。
(毒か!)
意識はあるが痺れが広がり身体が言うことを聞かない。
数十本の矢が自分目がけて飛んでくる様が妙にゆっくりと見てとれた。
「ここまでか……!」
次の瞬間。全身を矢で射貫かれ、ハリネズミのようになった自分の姿を想像し、戦慄した。
「以木行為風陣防、疾く!」
木行を以て風陣と為し防げ。
だれかの声が響いたその時、一陣の風が巻き起こり、王平ら守備隊をつつみ込んだ。飛来した矢はことごとく風に防がれ、地に落ちた。
(!?ッ)
これはいかなる僥倖か、だが幸運を天に感謝する間もなく剣光白刃をきらめかせて敵の軍勢が殺到してきた。
こちらの二倍や三倍どころの数ではない、十倍か二十倍か、あるいはそれ以上。王平は今度こそおのれの死を覚悟した。そのとき――。
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令」
また誰かの声がすると、迫りくる兵士達がばたばたと倒れ伏し、昏倒した。
だが倒れた兵士の後ろから次々と新手の兵が押し寄せてくる。
するとまばゆい光があたりを照らし、かぐわしい匂いが立ちこもる。見れば空に螺髪に白毫。青い蓮華のような瞳をした菩薩が左右に金と銀の竜をはべらして浮かんでいた。
「アヒンサ~、不殺生戒。人を害してはいけない」
澄んだ声が朗々と響く。
「哎呀~!?」「ヤーナ!」
まったく予期せぬ菩薩様の顕現に殺気立っていた兵士達は呆然自失。ある者はひざまずいて念仏を唱えだし、ある者は一目散に逃げ出した。いずれにせよ戦闘意欲は完全に失ってしまったようだ。
「武器を捨てて家に帰りなさい。槍や剣で人を害するかわりに鍬や鋤で畑を耕して平和に暮らしなさい。両親に孝行し、お年寄りをいたわって、人の子どもでも大事にしなさい。女性を貴んで炊事洗濯家事全般を手伝い、祖母と母親と姉と妹、伯母と叔母、従姉妹と嫁さんには週に二回は食事をおごりなさい。あと――」
仏の声を大音声がさえぎる。
「ええい、逃げるな! すでに滅びし宋の残滓を救いに御仏が参られるわけがない。これなるは幻。妖術によるまやかしぞ!」
騎兵が一騎、槍を手に進み出た。装備からして一般兵ではなく、一軍を率いる将官のようだ。
「哈ァァァッ!」
気合いとともに菩薩目掛けて槍を一閃。菩薩の身を守ろうと金竜がその身ごと割り込んで防御すると、全身をおおう鱗が霞のごとくぶれる。
ラグと呼ばれる現象だ。
「この罰あたり者めが~」
菩薩が身をひるがえし、槍を手にした将官の頭に掌打を打ち込み、馬上から放り投げたあと、ストンピング蹴りを何発も喰らわした。
「どうだ、仏罰を思い知ったか!」
「ひぃ~、なんという説得力のある仏罰。者ども逃げろ!」
攻めてきた軍勢は蜘蛛の子を散らすように退散した。
やがて菩薩と二竜の姿はかき消え、呆然とする王平の前に奇妙な格好をした二人の男女が姿を現す。
「木気は『震』だから雷や風などの揺れて伝わるものがあてはまる。ああいうふうに飛び道具を制する使いかたができる。さらに土気を剋すという意味で地震にもつながる」
「応用の幅が広いのね、水生木の五行相生は相殺するとき注意しなくちゃ」
「傷ついている人がいる、助けよう」
倒れた兵士らに近づいてなにやら呪文を唱えると、血の気を失った顔に活力が戻り、その身を害した傷が癒える。
(嗚呼……、あれはいかなる神仏の化身か神仙か。窮状を見かねた天が我らに救いの手をさしのべてくださったにちがいない!)
王平が平伏して進み出て感謝の意をあらわすと、二人は謙遜の言葉を口にしたのち、困惑気味にここはどこかとたずねたので王平は正直に答えた。
この地は崖山。自分達は侵略者たる元軍の魔の手から宋朝の皇子を護り奉る者だと――。
崖山。
中国大陸の広州湾にある島で、河口部はいくつもの分流があり、多くの三角州を形成している。
片方を海が広がり後方を水路に遮断された大きな岬のような地形をしている。
島の形や海流も気流も複雑で、低い丘陵が南端で急激に高く盛り上がり、海にむかって急角度で落ち込む。周囲にも無数の小島があり、陸と海とが入り乱れている。
首都であった杭州の臨安を落とされ、まだ幼き宋の皇帝・恭帝は元の軍門に降った。
首都陥落と皇帝が降伏を受け入れたことで宋朝はここに事実上の滅亡をむかえたわけだが、降伏を認めない残存勢力は恭帝の兄である趙昰を皇帝に擁立し、趙昰の死後は恭帝の弟である趙昺を皇帝として抵抗運動を続け、ここ崖山にまで追いつめられた。
たいして広くもない地に行宮を建て、官署や兵舎や簡易住宅を造り、宋国再建を誓い元への抵抗を続けている。
崖山の港口は崖門といい、水路の左右に山がせまり、巨大な鉄門を思わせる。港の背後にはけわしい 山々がつらなり、陸上からの攻撃はまず不可能で海上から攻撃するしかない。
宋軍は二千艘の船を鎖でつなぎ合わせて水上に要塞を築き鉄壁の防御陣を敷いた。
船同士を鎖でつなげる、連環の計というやつだ。
赤壁の戦いに倣ったのか、それを見た元軍は強風の日を待って火攻めを決行。藁や柴を満載した数百の小舟に油をかけ点火して宋軍の水上陣にぶつけたのだが、あらかじめ火攻めを予測していた宋軍は船体に冷たい泥を塗りつけてあったため火の手は上がらず、元の火計は不発に終わった。
それどころか長く太い棒で火船の群れをつぎつぎと突き離し、押しやり。変化した潮流に乗った火船は逆に元軍に殺到。自分達の放った火によって損害をこうむった。
初戦こそ勝利した宋軍ではあるが、海上は元の軍船に封鎖されて補給の道は閉ざされ、昼夜を問わず敢行される元軍の波状攻撃に消耗する一方だった。
「なるほど、お二人は賀茂秋芳(ファマオ・チュウファン)と倉橋京子(ツァンチィアォ・ジンズー)様という修行中の道士でしたか」
王平の話す言葉は日本語ではない。中国語に似ていたが奇妙なことに耳に入る音は異国の言語なのだが、頭には日本語として伝わってくる。
夢の中ならではの摩訶不思議な現象だった。
「ここは宋軍二十五万の喉を潤す唯一の水源なのです。もしこの場所を占領されれば我が軍はおしまいでした。秋芳様と京子様には感謝の言葉もございません」
「二十五万人もいるんですか!?」
「はい。元の支配を善しとしない気概ある文武百官や民百姓が皇上の下につどい戦っているのです」
「しかしそれだけの大所帯ですと糧食をまかなうのも大変でしょう」
「……そうです。正直なところ、ここから採れる水だけでは不足でして、我が軍は渇きに苦しんでおります」
「たしかに、見たところ井戸の水位はかなり下がっていて底が見えるくらいです。干上がるのも時間の問題でしょうね」
「それにただ飲む水がたりないだけでなく米を焚くこともできず、乾した米や肉を飲み下すのさえ苦労するありさま。耐えかねて海の水を飲む者もいますが余計に渇きが増して嘔吐して苦しむだけ。給水船の水槽もほとんど空になり、まだ幼い皇上すら欲しいだけ水を飲むこともできずにいるのです。ああ、おいたわしい……。せめて五日に一度でも雨が降ってくれればここまで渇きに苦しめられずにすむのですが」
「私達の学んだ方術が役に立つかもしれません」
「本当ですか!?」
「はい、たとえば……」
秋芳はそう言って井戸のほとりに下りた。
木でも火でも土でも金属でも水でも、呪術によって生じるモノは本来この世には存在しないかりそめの物体、ないしエネルギーであり、一時的に呪力が姿形をもったあやふやな現象にすぎない。
それを現実の物としてしっかりと形作るには、より複雑な術式を組んだり余分に呪力をくわえる必要がある。
かつて秋芳は水天の真言をもってプールいっぱいの水を創り出したことがあるが、その時がそうだった。
さて今回はどうするか――。
地面に落ちていた剣を拾うと導引を結び、口訣を唱える。
「此水不是非凡水、水不洗水、北方壬癸水――」
さらに呪文を唱えつつ、手にした剣の平を指でなぞる。
「一点在地中、雲雨須臾至、病者呑之、百病消除――」
そして指先で剣身をはじくと、水滴が生じた。
二度三度と剣身をはじくたびに水滴は大きく、その数を増し、剣身からはまるで水瓶を逆さにしたかのように水が流れ出てくる。
「金生水――、疾く!」
気合いとともに井戸の底に剣を投げ込むと、数拍の間ののち間欠泉のような勢いで水が湧きだし、井戸をいっぱいにするどころか縁からもあふれだし、すり鉢状の斜面は泉の様相となった
「おおっ、これは……!」
水が尽きかけているとはいえせっかく水気のある井戸だ。一から創るのではなく水脈に活を入れて水を増やすことに成功したのだ。
弘法大師空海には水にまつわるエピソードが多い。
日照りに苦しむ人々を救うため雨を降らせたり、水を湧かせたりといった逸話が日本各地に数多く存在する。
ひょっとしたらこのような呪術をもちいて湧き水を生じさせたのかもしれない。
「ありがたい、これでまだまだ戦えます。その神通力でどうか宋朝をお助けください」
「わかりました、微力ながらお手伝いしましょう」
義を見てせざるは勇無きなり。秋芳はふたつ返事で承諾した。
「ねぇ、ここは昔の中国なの?」
王平に案内されて海上要塞にむかう道すがら、京子が小声でたずねる。
小首をかしげて、のぞきこむようなかわいらしい仕種。耳元をくすぐるような愛らしい声とともに香水のかすかな香りが鼻孔に流れ、なんともいえない心地良さになる。
「そうみたいだな、崖山の戦い。だいたい七百年以上前のできごとで、この戦いで南宋は元に敗れ、滅亡してしまう」
「元てのはモンゴルのことよね、鎌倉時代に攻めてきた元寇の元。南宋は二十五万人もいたのに負けちゃったの?」
「二十五万といってもそのほとんどは文官やその家族、宮女に宦官、市井の人々で、実戦に参加できるような兵士の数は一万に満たなかったとか。それにサバを読んでる可能性もある。なにせ白髯三千丈という誇張表現をするお国柄だからな、長平の戦いの捕虜四十万人虐殺とか、官渡の戦いの袁紹軍七十万とか、あきらかに盛りすぎだろう」
「じゃあ元のほうは?」
「およそ二万。南宋側の非戦闘員を除外すると約二倍の兵力差になる」
「……二十五万は盛りすぎとか非戦闘員ていうけど、それでも相手の十倍くらいはいるんじゃない? みんなで力を合わせてやっつけられなかったのかしら。一人一殺どころか十人一殺じゃない」
「だれもがみんな戦う意思を持っているわけじゃないし、さっきの王平さんの言葉のように消耗が激しくて戦意を失い、そんな気概を持つどころじゃないんだろう。腹が減っては戦はできぬ、補給もなしに精神論だけで戦争に勝てるわけがない」
「たしかに、それはあたし達日本人がよ~く知ってるわ」
「それと南宋は皇帝が、祥興帝・趙昺が戦陣にいる。余剰兵力のない状態で下手に攻勢に出て負けてしまい皇帝の身に危険がおよぶことは万が一にもあってはいけない。鉄壁の守りこそ最上の戦法だと判断したんだろう」
「でも籠城戦て外からの援軍が来てくれることが前提でするものなんじゃないの? そうでないならジリ貧じゃない」
「中国大陸の各地で反元運動は盛んだったし、たしかベトナムやタイに援軍を要請していたから、救援のアテがまったくなかったわけでもないんだけどなぁ……」
鎖で繋がれた二千艘からなる船団はさながら木で造られた島のような偉容を誇っていた。
まさに要塞。これを武力で落とすのは非常に困難なのは想像にかたくない。
まわりの潮流はかなり激しいはずだが、船上はほとんど揺れておらず、陸にいるのと大差ない。これなら船酔いの心配もなさそうだ。
だが建物の堅牢さとは逆に配置につく兵士達は見るからに疲労の色が強い。
連日の攻撃に不眠不休で応戦し、水不足による体力の低下は深刻なもののようだった。
「こちらに陸宰相と張将軍がおられます」
陸宰相と張将軍。歴史に名高い南宋三傑。張世傑、文天祥、陸秀夫ら三人のうちの二人、陸秀夫と張世傑のことだ。
「有名な人物なの?」
「ああ、滅びゆく南宋に最期まで殉じた忠臣だよ。陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、張世傑は再起をはかろうとベトナムに逃れる途中、嵐に遭って水死した」
「壮絶な最期ね……」
船の上に築かれた幕舎の中から人々の話し声が外まで聞こえてくる。
「应该攻击!」「不! 应该坚固守护!」
こちらから打って出るべきだ。いいや、守りに徹するべきだ。
軍議のようだが意見はまっぷたつに割れて収拾する気配がない。
「なんだか小田原評定って感じ」
「どうもこの亡命政権は一枚岩とは言いがたいようだな」
武装をした男達と官服を着た男達がわかれて座り、喧々囂々と意見が飛び交っている。
彼らが元の支配を潔しとしない、南宋に使える文武百官だ。
王平に連れられて来たものの、どうも横槍を入れる雰囲気ではない。かといって軍議の内容を立ち聞きするのもなんなので、終わってから顔を出そうかと言いかけた時、文官の一人が秋芳と京子に気づき、声をあげた。
「おお、王隊長。そちらの二人が噂の道士様か?」
さわがしかった幕舎内がしんと静まり、無数の視線がふたりの男女にむけられる。
「俗世を離れて方術修行に明け暮れる身、正式なご挨拶の作法を知らぬ無礼をおゆるしください」
秋芳は軽く抱拳して自己紹介した。
ちなみに抱拳とは拱手ともいい、カンフー映画などで片方の掌にもう片方の拳をあてておじぎをするあれだ。
男性は左手で右手の拳を包み、女性は右手で左の拳を包むのが正しいとされ、お葬式などの凶事の場合は左右を逆にするのが礼儀だ。
ほかにも君主からの命令を拝命する時におこなう、両手を組んで頭を深くたれる拝礼。
普段の挨拶など、両手を組み軽く頭を下げるだけの揖礼。
君主への直訴や重い謝罪にもちいる、頭や額でもって地を叩く頓首などがある。
「秋芳どのといったな、道士といったがいずれの宗派に所属か? 太一教か真大道教か全真教か?」
太一教、真大道教、全真教。この時代にもっとも著名だった道教の宗派の名だ。
「そのいずれでもありません、瀛州にある陰陽塾という洞府に属する遊歴の道士です」
瀛州。すなわち日本のことだ。
瀛州、方丈、蓬莱は中国の東海にあるとされる仙境、神山だが、瀛州は日本をさすこともあるので秋芳はそう答えた。
「陰陽塾とは聞かぬ名だが、元の兵らを追い払った術はたいしたものだったとか。さらに尽きかけていた井戸の水をあふれるほど湧かせたとはありがたい」
「うむ、我ら宋の兵士がいかに強くとも、渇きには勝てぬ。よくやってくれた」
「そのことですが、一つの井戸だけで二十余万の人々をまかなうのは大変でしょう。私達の呪術で雨を降らせてみせます」
「おお! まことか!? それは重ねてありがたい!」
「みごと雨を降らせてくれたあかつきには好きなだけ褒美をあたえよう」
「……君子は怪力乱神を語らず」
静かだがよくとおる声が喜びはやる人々を黙らせた
「道教の教えを否定はしないし実際に元兵を退かせた道士の実力をうたがう気はないが、これは国家の一大事。みだりに雨乞いなどという神頼みにすがるのはいかがなものか。あわれ宋朝は妖術の助けをこうほど落ちぶれたかと、後世の笑い者になるかもしれませんよ」
「なにをおっしゃる陸宰相」
どうやらこの静かで落ち着いた声の持ち主が陸秀夫のようだ。
「名を取るより実を取れとも言うではありませんか。雨が降り水を得られるのなら、このさいどんな妖術奇術でもかまわないでしょう」
「……たしかに、実があるのならそれこそ妖術の類でもかまわないでしょう。しかし実がなければこまる。……市井には種も仕掛けもある手品を神通力や方術と称して商う者もいる。そのような目くらましや小手先の技を披露されてもこまるのです。このような話を聞いたことはありませんか――」
泥を金に変える術を持つと称する男がいた。黄金を欲する富豪が男を呼び出し、金を作るよう命じた。男は泥を壺に入れて呪文を唱えて手で混ぜると、はたして壺の中からわずかではあるが金が見つかった。
喜んだ富豪は男を召し抱え、金を作らせた。ある日のこと、より複雑な儀式と時間を要するが泥の代わりに黄金をもちいれば十倍に増やせる術もあると男が言う。男のことをすっかり信じ込んでいた富豪は全財産を金に換えて男に渡したところ、男はその金を持って消息を絶った。逃げられたのだ。
あとになってわかったことだが、その男が泥を金に変えられるなどというのは大嘘で、あらかじめ爪の間に砂金を入れて泥をこね混ぜ、あたかも泥から金が生じたように見せかけていたのだ。
「――かような細工の手品でぬか喜びしている場合ではありません。王平、あなたは井戸からあふれた水がすべて本物の真水か確認しましたか?」
「え? い、いえ。ですが井戸から大量の水が湧くのはこの目ではっきりと見ました。あの勢い、あの量。小手先の手品という域を超えています」
「人は信じたいものを信じる生き物。神仙の秘術で窮地を救われたと思ったことによる心理が、たんなる水芸をそう見せた可能性もあります」
「いや、しかし……」
(この人はあたし達の呪術は乙種だって言いたいみたいね)
甲種呪術と乙種呪術。甲種は陰陽庁によって確かな効果が認められた〝本物〟の呪術で、乙種はそれ以外の呪術を指し、おもに思い込みや暗示などによる精神的な束縛などがあてはまり、手品の類もこれにあたる。
(ああ、この時代の人にしては合理的な考えをする。さすが科挙に受かった進士はちがうな)
「では陸宰相はこの道士らに雨乞いをさせることに反対なので?」
「実は私も反対だ。さきほど宰相も言ったが君子は怪力乱神を語らずというではないか」
「いやいや、蜀漢の諸葛孔明も赤壁の戦いで風を呼び勝利にみちびいたではないか。なにもそうかたくなにならなくても」
「あれは祈祷で風を起こしたのではない、季節風が吹いて風向きが変わることをあらかじめ予測していたのだ」
「しかし普段から河川に親しんでいる呉の諸将がその時期に風向きが変わることを知らず、よそ者の孔明がそれを把握しているのは不自然ではないか?」
「呉の諸将も四六時中船の上にいるわけではない。孔明は毎日船に乗る地元の漁師に聞いたのだ」
「儒者はなにかと怪力乱神を語らずと言うが――」
話題が二転三転し、またもや喧々諤々の様子となる。
(ここの人達って議論が好きねぇ)
(言論を以って士大夫を殺さずという宋の国是が生きているな。この精神のおかげで宋朝は文化的に隆盛したんじゃないだろうか)
今の日本は宋の時代に似ているところがあると秋芳は思う。
風流天子こと徽宗皇帝の御世に中国の経済と文化は高く発達した。徽宗皇帝はすぐれた芸術家で書画に通じていて個人としても悪人ではなかったが、みずらの贅沢のため民衆に重税を課したり、国費を使って南方から造園用の巨石や巨木を運ばせるなど、政治家としては無為無能どころかそれ以下の人だった。
貪官汚吏がはびこり政治は腐敗し社会は荒廃し、やがて北方に起こった女真族の金王朝の前に宋の首都開封は陥落し、華北の地を奪われ、北宋は滅ぶ。以降は南方の臨安に都を移して南宋の時代になるわけだが、この南宋もまたモンゴル族の元によって滅亡することになる。
文化と経済はそれなりだが、お世辞にも政治は一流とは言えず、外交下手で軍事面に不安があり(なにせ半世紀以上も実戦を経験したことがない)しばしば外国に領海領空を侵犯され、夷狄におびやかされる日々――。
宋の時代の中国といろいろとかぶる。
「陸宰相にもうしあげます」
これでは埒が明かない。秋芳はみずから場の収束に乗り出した。
「先ほど怪力乱神とおっしゃいましたが、私達の使う呪術はそのようなものではありません。神はともかく怪、力、乱はあてはまりません」
怪力乱神の怪とは怪異を、力は怪力を、乱は道理にそむき世を乱すことを、神は鬼神のこと。理性では説明のつかない超常現象の類の総称だ。
「ほう、それはどういう意味ですかな?」
「荒唐無稽な神頼みではなく、かといって手品のような種や仕掛けがあるわけでもございません。天地自然にある陰陽五行の気の流れを見て読み、自在に組み替えたりすることで風を起こしたり火や水を作ったりと、様々な変化を生じさせることができますが、それらは荒唐無稽な怪異でも道理に反するものではなく、きちんとした術理術式に則った人の技です。もっとも呪術に縁のない人から見れば摩訶不思議な怪奇現象に映るかもしれませんが、それはみなさんにそなわった力も同じことです」
「我々にそなわった力、とは?」
「ここにいる文官のみなさんは難関である科挙に合格した進士。四書五経をそらんじるだけでなく、みずから考えた詩賦や策もお書きになられる」
ここでいう策とは時事問題などについて書く作文のことだ。
「たとえ文字の読み書きを学んでも、おいそれとできることではありません。才能のある者かさらに研鑽を重ねて到達できる領域。一般人からしてみれば超人的な能力だ。同様に武官の方々も武科挙に受かった武進士」
武科挙。あるいは武挙。その名のとおり科挙の武官版の登用試験だ。
「馬を駆っての騎射や数人張りの強弓を引く試験などがあったと思います」
「うむ、そのとおり」
馬上から矢を三射して的を射る騎射、五十歩離れた的を射る歩射、百斤の弓を引きしぼる開弓、百斤の青竜刀で演武する舞刀などの実技試験のほか、孫子や呉子といった兵法書を清書する筆記試験があったという。
ちなみに斤という重さの単位は時代によってかなりちがう。三国志の時代の一斤はおよそ222,4グラムで、関羽の振るった重さ八十二斤の青竜円月刀は約十八キログラムになる。
これが宋代になると596,8グラムになるので『水滸伝』に登場する魯智深の振るった重さ六十二斤の禅杖は約三十七キログラムという超重量になる。
「それらもまた才能のある者がさらに努力して身につけることができる技術。一般人から見たら達人の技です。まして傷害無傷で敵将を素手で生け捕った唐の尉遅敬徳、一日に五百里を走る隋の麦鉄杖や肉飛仙の沈光、鎧をつけたまま宙返りして飛ぶ鳥をつかまえた楊大眼、石を射貫いた前漢の李広など、入神の域に達しています」
「……我ら武にたずさわる者から見てもかの英傑たちの武は計り知れぬ。まして常人から見れば人の域を超えているだろうな」
「ですが彼らも私達も同じ人です。智恵と技術に雲泥の差があり、とぼしい者から見れば異類異形、蛟竜毒蛇、怪力乱神、人外魔境に見えますが、それはあくまで人の智恵と技術にすぎません」
「道士どの言いたいことはよくわかった」
静かでよくとおる声、たが陸秀夫ではない。陸秀夫よりも低く臓腑に響く重たさと、どこか〝こわい〟感じのする、武人の声だ。
「その正統なる技で困窮にあえぐ我が宋朝を救ってくれるなら、ありがたい。感謝しよう。だがいたずらに我らを惑わすなら、その首もらい受ける」
堂々たる体駆に見事な長髭。おそらくはこの男――。
「わかりました張将軍、みなさんが納得できる量の雨を降らせてみせましょう。できなければこの首をさしあげます」
秋芳は張世傑にそう約束した。
後書き
麦鉄杖も沈光も、コーエーの新武将作成でいつも作っています。
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