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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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観念

 室内に一枚の絵画が飾られていた。
 小さな川が流れ込む沼のような水辺で、草や竹なども描かれている。高い山が背景にあり、あたりの景色は霧や靄にかすんでいて、よく見えない。
 絵の中ほどに、もじゃもじゃの髭面をしたみすぼらしい姿の男が立って、その両手に大きな瓢箪をもっている。その瓢箪を差し出した先の水面には一匹の巨大な鯰が描かれている。
 瓢鮎図。
 室町時代の画僧、如拙の描いた作品で国宝に指定されている絵画だ。
 もっともここに飾られてあるそれは本物ではなく精巧に写された模写で、僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年がその絵をじっと見つめてなにか考え込んでいる。
 賀茂秋芳だ。
 そんな秋芳の横顔を見つめている少女がいた。
 亜麻色の髪をハーフアップにし、長身でスタイルが良く、自信に満ちた勝ち気そうな表情をしている。
 倉橋京子だ。
 恋人の寝顔はずっと見ていても飽きない。以前読んだ少女漫画にそう書いてあったが、真剣な面立ちで沈思黙考する恋人の横顔というのも同様に見ていて飽きないものだと思った。

「……どう思う?」
「え? あ、ええ~っと……。瓢箪を売ったお金で人を雇って捕まえてもらうってのはどうかしら?」
「おお、なるほど! その発想はなかったな。俺は瓢箪で捕まえることに固執していた」

 ふたりはこの瓢鮎図に課せられたお題のことを話しているのだ。
 小さな瓢箪で大きなナマズを捕まえてみせよ。という禅問答を題材に描かれており、今まで多くの禅僧たちがそれぞれの答えを出してきた。
 いわく、瓢箪を二つに割ってはさみ獲る。瓢箪で水をすべてすくってかき出せばいい。瓢箪の中の酒を飲ませて酔ったところを捕まえる。などなど。
 著名な禅僧の答えのなかには、瓢箪でおさえた鮎ナマズでもって吸い物を作ろう。ご飯がないなら砂でもすくって炊こうではないか。という、まともな回答を放棄したようなものまである。
 禅の公案。すなわち禅問答には決まった答えはない。みながそれぞれ空想することを善しとしている。
 答えではなく、想像や思考をめぐらすという、その過程が重要なのだ。
 禅宗のなかでも臨済宗のお寺にはよく枯山水があるが、これも空想することの役に立つ。たんなる砂の模様を、あれは島、ここは海。などとイメージするのだ。
 空想は右脳の領域だが、人は日常生活において右脳をほとんど使わない。この右脳を極限まで活発化させた状態を、俗にいう『悟りを開いた』状態だという。
 いっぽう曹洞宗では逆に無になることで左脳の活動を止め、それにより右脳を活性化させる方法で覚りを得ようとする。
 普段からあれこれ想像しているせいか、臨済宗出身の僧侶には一休、白隠、沢庵など。ユーモアに満ちた僧侶が多い。
 このように空想や想像を働かせて観念の世界にひたることも呪術の修行の一つなのである。

「あと、男の人はもうすでにナマズを捕まえていて、瓢箪のように見えるのがナマズで、ナマズのように見えるのが瓢箪だったりして」
「おー、なるほどなるほど。京子は賢いなぁ」

 ここは陰陽庁の中にある一室で、禅についての資料が展示されている。
 二人はなぜ陰陽庁にいるのか?
 今日は巫女クラスの刀会が陰陽庁に隣接する呪道館で開かれるので観戦に来たのだが、せっかくなので陰陽庁に足をはこび、先日のハロウィンの大霊災。万魔の大祓えについての意見を伝えにきたのだ。
 陰陽師側が力任せの強引な方法で祓魔しようとしたことで霊災が強化、変容した可能性をうったえ、ハロウィンの作法にのっとりお菓子を捧げたり、みずからもお化けの仮装をするという〝儀式〟をおこなうことで被害もコストも最小限にできるはずだと、文章にしたためて提出した。
 お菓子を出せば動的霊災はおとなしく従った。京子の名こそ出さないし、あの日のすべてを記したわけではないが、陰陽塾に籍を置く賀茂秋芳の経験談として書いて渡した。
 陰陽庁は世間に対してオープンな組織であることをアピールすることに余念がなく、呪術師やそうでない者の意見も広く募集している。
 そのための窓口はつねに開かれた状態だ。
 じゅうぶんに余裕をもって出発したため、刀会開催にはまだ時間があった。なので時間まで普段はあまり見る機会のない陰陽庁の内部を見学してまわっているのだ。
 あいかわらず笑狸は陰陽庁の空気が苦手らしく、庁舎の近くにある喫茶店で時間をつぶしている。
 秋芳と京子がともに陰陽庁に来たのはこれで二回目。最初に来た時に見なかった場所を中心にまわっている。
 この陰陽庁庁舎という建物は戦後間もない頃に造られた古い建造物で、幾度となく増改築を繰り返しているが、残された部分や引き継がれた個所も多い。
 霊的、呪的な理由で手を入れることが困難な場所や機能があって、実際の施行に合わせて変更することができないからだ。
 さらに増改築のさいに現場の陰陽師たちが特殊かつ細かい指示を出しているため、工事のたびに特異な構造が増える一方だった。
 庁舎内で普通に働いているぶんには問題ないが、ちょっとでも奥まった場所には結界や封印があたりまえのように敷かれており、壁一枚へだてた隣の部屋は異空間につながっている場合さえもあるという魔宮だ。
 そのような場所をふたりで散策しているうちに『観念と呪術』なるコーナーのしつらえられた場所にたどりつき、少しのぞいているのだ。
 瓢鮎図のほかにも様々な展示物が置かれていて、禅庭園での瞑想を擬似体験できるという呪術装置を見つけた。四方を白い布におおわれ、中央にあるハマグリのような貝の形をした呪具に呪力をそそぐと布に幻が投影されるという物だ。

「蜃気楼というわけか」

 蜃気楼は蜃という巨大なハマグリの吐いた気の作る幻。そのような伝説をモチーフにデザインされたことは想像にかたくない。

「どれどれ……」

 ためしに動かしてみた。
 周囲の景色が一変し、日本庭園が浮かび上がる。京の都は嵯峨の嵐山にある天龍寺の曹源池庭園のようだ。
 いつぞや遭遇した果心居士を称する怪老の幻術にはおよばないが、なかなかのできだった。
 小さな庭からでも無限の宇宙を感じとるのが観念の修行だ。まして天龍寺の庭園ともなればいくらでも想像できる。
 池は大海、そこに浮かぶ岩は蓬莱島、上下に連なる巨石は滝、水面をたゆたう魚影は鯉ではなく竜……。
 秋芳と京子はしばしのあいだ、変幻自在の象徴の世界に意識を飛ばして遊んだ。

「……あたし小さい頃はよく空想のごっこ遊びをしたわ。鯉の泳ぐ池はドラゴンの棲む湖で、松の木は魔女がいる塔。自分はそんな国のお姫様なんだって」
「それは良いことだ。空想好きが長じて作家になる人は多い、そして作家という無から有を生み出すことのできる人はある意味で呪術師以上の呪術師だよな。……そうだ、こんど創作の授業でももうけて、巫女クラスの連中に小説でも書かせるか」
 ふたりは同床異夢ならぬ同立同夢の幻想にひとしきりひたったあと、装置を止めた。
 すると聞きなれぬ声がかけられる。

「――観念の修行なんてして、まだ若いのにえらいねぇ」

 ふりむけばそこに年配の男性が立っていた。よれよれにくたびれたスーツ姿だが不潔な感じはしない、身なりには無頓着だが清潔さには気を使うタイプのようだと直感した。

「最近の若い陰陽師はとかく実務的な技術ばかりおぼえようとしてイメージトレーニングをないがしろにする傾向にあるからね、なげかわしいことだよ。……おっと失礼、私はこういう者」

 差し出された名刺には津守という名と陰陽庁広報課の文字があるが、それに続く文字は一読ではおぼえられそうない。

「長ったらしい肩書きだろう? ようするに閑職に追われた窓際族さ」
「窓際族だなんて、そんな……」
「すばらしい、現代の貴族ですね」

 とっさの返答に窮する京子と素直な感想を口にする秋芳。

「ハハハ! 貴族か、ちがいない。仕事に忙殺されずにこうして好きなことをしていられるんだからね」

 そう言ってあたりを手で指差す。この津守という人物は『観念と呪術』コーナーの責任者で、職務に必要と称してあれこれ融通してもらっているらしい。

「ははぁ、その手がありましたか。よし、俺もこんど……」

 授業に必要な教材と称していろいろと工面してもらうか。

「ちょっと秋芳君、あたしが言うのもなんだけどお祖母様はケ…、倹約家だから、そう旨くいくかわからないわよ」

 津守は自分の仕事の内容と展示品の数々を二人に説明する。禅をはじめとする精神修養や観念の大切さと呪術との関連性を人々に知らしめるのが彼の仕事だそうだ。

「茶道もまた精神修養の一つ。お茶を点てさせてくれないかい?」

 津守氏はどうも話し相手に飢えているようだ。ことわる理由もないので、ありがたく馳走になることにした。
 一服し、茶飲み話にひとしきりつき合ったあと、秋芳と京子は自分達が陰陽塾に在籍する臨時講師と生徒だと説明すると津守は妙に納得した表情を見せた。

「なるほど、倉橋長官の娘さんに、あの賀茂家の……。たしかにお二人とも非凡な霊力をお持ちだ」

 菩薩眼の力に覚醒し、龍脈の気を自在にあやつれるようになったとはいえ普段は自前の気をまとう京子だが、もとより平均以上の霊力の持ち主だ。それにくわえて秋芳との修行でさらに自身の霊力に磨きをかけている。
 秋芳もまた必要以上におのれの霊力を誇示するのをきらい、普段は押さえているが、それでも並の陰陽師にくらべれば高い部類に入る。

「……お二人さんは現代の呪術と土御門夜光以前の呪術の大きな相違点とはなんだと思うかい?」
「術式の簡易化や普遍化ですか?」

 教科書にはそのように書かれている。京子は優等生然と答えた。

「それも大きな特徴だね。でももうひとつ、そのような特徴を生み出す要因になった『宗教色の排除』てのがある。呪術の前提条件から信仰心のたぐいを切り捨てたことにより本来曖昧模糊としていた呪術の因果性を明確化することができ、それ以降の呪術の技術的発展を助けた」

 この人はいきなりなにを言い出すのか? 二人はだまって話の続きを聞く。

「けれどもそれにより、それまで呪術の主たる目的のひとつだった、ある系統の技術や方法論を呪術体系の中から除外する結果となってしまった。さぁ、これがなんのことだかわかるかい?」
「魂関連の項目ですか?」
「そう! それだよ。魂に対する方法論、霊魂の存在。さらには冥界や神界といった異なる世界へのアプローチだ」
「たしかに汎式にはそっち系の呪術はふくまれていませんね」
「そう、汎式には。しかし帝式、帝国式陰陽術には魂の概念がしっかりと残っている……」
「帝式の研究もなさっているのですか?」
「まぁ、独学でね」
「独学ですって!?」
「……それ、ちゃんと許可は得ているんですか?」
「ははは、まさか。こんな閑職の身にそんな大層な権限をくれるわけないでしょ。上にも横にも下にもだま~って研究してましてね、それでも多少は成果ってやつを出してるつもりだよ。もっともおおやけにはできないけれど」
「そうでしょうね。内容にもよりますが、発表したところで禁呪に手を出した罪で裁かれるのは確実でしょうし」
「それでね、つい最近ひとつの呪具をこしらえたんだ。魂に作用する効果のある物を」

 そう言うと奥から一基の箱枕を持ってきて見せた。朱塗りの箱台の上にくくり枕がつけられている時代劇でおなじみの枕だが、台の高さは低く、これなら普通に使っても首が痛くなることはなさそうだ。

「まぁ、視てちょうだいよ」

 呪具の鑑定には見鬼の能力が必須であり、より精確に機能を知るには高い見鬼の才を求められる。秋芳と京子は霊視に集中し、箱枕にそなわる力を調べてみた。
 
 ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… …………。

「……これは、望んだ夢を、いや予知夢を見せる効果か? いや、少しちがうな……」
「幽体離脱? なんか意識を飛ばす機能がない?」

 あれこれ探るうちにたどりついた答えは『はっきりとした意識をたもったまま夢を観ることのできる機械』というものだった。いわば仮想現実、バーチャルリアリティを体験させる呪具だ。
 ただしその夢というものが通常の夢のように自身の意識のみから生じる夢とはかぎらない。阿頼耶識や集合無意識にリンクし、夢を観るというのだ。
 他者、それも特定の個人に限らず広大な精神世界に侵入して観る夢。その夢の内容をこちらで決めることはいっさいできない。

「まるで荘子の胡蝶の夢だな。我、夢に胡蝶となるか、胡蝶、夢に我となるか」
「仮想現実っていう点じゃあ、邯鄲の夢みたいよね」
「ああ、そうだな。……しかし漢民族というのは大したものだよなぁ、二千年以上も前に内宇宙、インナー・スペースと実存との関係を哲学にまで昇華させるだなんて」
「精神だけじゃなく物質的にも進んでいたのよね、世界三大発明も中国が発祥でしょ」

 火薬・羅針盤・活版印刷術。これらはルネサンスの三大発明などと言われ、いかにもヨーロッパ人が発明したかのように言われるが、実際には中国で発祥したものだ。
 この三大発明に紙をくわえて四大発明とも呼ばれるが、その製紙技術もまた後漢の蔡倫という人物の発明だとされる。
 ちなみにこの蔡倫、宦官である。宦官というと秦の趙高や宋の童貫。『三国志演義』の十常侍など、とかくマイナス面ばかり強調されがちだが、鄭和や秦翰や張承業、張蚝ちょうしといった英傑たちも存在したことをわすれてはいけない。

「そう、夢だ! さすが呪術界の名門出のお二人さんだ、よくわかりましたね。その夢を観る呪具をようやくこしらえることができたんだが、いかんせん使用がむずかしくて実際のできぐあいがわからんのだよ」
「でしょうね。これ、かなりの霊力がないと危険ですよ。夢に、別の世界に魂をもっていかれる」
「そもそも一定以上の霊力の持ち主にしか反応しないようになっていますよね。あと作動術式もけっこう複雑で呪具のあつかいに慣れた人でないと動きそうにないわ」

 鑑定してだいたいの効果はわかった。

「はい、おっしゃるとおり。誤って一般の人や未熟な陰陽師の手で作動しないよう、そういう仕様にしてある。ただ難易度を上げすぎたようで、私自身でも動かせないという次第でねぇ。……お二人にお願いだ。どうかこいつを実際に試してみて、効果のほどを教えてくれないだろうか?」
「会ったばかりの人間に、無許可で作った帝式の呪具の実験を頼みますか普通」
「非常識なのは百も承知だよ、そのうえでお願いするよ。もうずっと外来もなく、来年の定年退職までこいつを独りでながめるだけかと思っていたら、ここにきて人並みはずれた霊力のお客さんが二人も現れた。こいつはきっと天の配慮だとびびっと直感したね、きっと引き受けてくれると。頼むよ、このとおり!」

 両手を合わせて拝み倒さんばかりのいきおいで懇願する津守。
 秋芳と京子は顔を見合わせた。
 どうしようか?
 年配の人にここまでお願いされて無碍にはできない。なによりこの呪具はなかなか興味深い。純粋な好奇心から試してみたい気がする。

「ただとは言わない、もし引き受けてくれたら報酬としてここにおさめられている物をなんでもあげるよ」

 ここには先の瓢鮎図のようなたんなる美術品の模造品のほかにも数多くの呪具があった。それらのひとつでもけっこうな額になるだろう。近年でこそ陰陽庁やウィッチクラフト社が人造式や呪符の販売をしているが、呪具の販売は基本的にやっていない。
 なにせ呪具というやつは大量生産のできない、一般市場にはそうそう出回らない代物で、欲しがる人ならいくらでもお金を出す類の物なのだ。

「……さっきのお茶、黒楽茶碗でしたよね」
「ああ、さすがに利休や長次郎の作じゃないが、安土桃山時代に作られたちょっとした名物だよ」
「あのような本格的な器でお茶を飲んだのは始めてです。貴重な体験をしました、報酬はそれでけっこう」
「おお! では引き受けてくれるか!」
「あたしも。器についてはよくわからないけど、津守さんの点ててくれたお茶は美味しかったわ。それにお茶菓子もね」

 話はまとまった。さっそく津守作成の夢枕をあずかる。

「誘眠効果があるから今すぐここで寝てどんな案配か教えてくれ。と言いたいとこだが、さすがにこんな場所で会ったばかりの者に見られて眠るのは気が乗らないだろうし、今晩はそいつを使って休んで、明日にでも結果を知らせてくれ。頼んだよ!」
「わかりました。ところで、この枕、なんて名前なんです?」
「デイドリーム枕くんだ」
「なんだかデビルーク星の王女様の発明品みたいな名前ですね」





 デイドリーム枕くんを手にひとけのない陰陽庁の廊下を歩く。

「……ねぇ、今夜はそれを試すでしょ?」

 あたしも一緒にしたいな。その一言がのどまで出かかり、ぐっと飲み込んだ。それは二人が同じ枕でともに眠ることを意味する。これは少し、いやかなり気恥ずかしく、ちょっとした覚悟が必要だった。

「ああ……、いや……、うん……」
「どうかしたの? あ、ひょっとして迷ってる? まぁ、たしかにそうよね。さっきはああ言ったけど、無許可で作った帝式の、魂に関連する呪術の実験につき合うのって普通に陰陽法違反だもの。……なんだかあたし、秋芳君に会ってからすごい勢いで不良娘になってる気がする」

 外出してお酒を飲んだり不法侵入したりは序の口で、極めつきはハロウィンの日の大騒動で、あの夜だけで何件の犯罪行為を重ねたことか。

「気にすることはないさ。なにせ日本は収賄や粉飾決算の犯罪者が平然として政治改革や道徳教育を説く、ありがたいお国柄だからな。俺が迷っているのは……」

 歩きを止め、あたりをうかがう。

「……陰陽庁の地下には『公には存在しない』とされるフロアがある。けっして表沙汰にはできない、陰陽庁舎の暗部、呪術界の闇。ごく一部の幹部にのみ代々伝えられてきたその場所は『ワケあり』の呪術犯罪者を拘束しておく呪的牢獄だ」

 たしかに、そんな場所があっても不思議ではない。陰陽庁とはそういうところだ。京子はだまって秋芳の話の続きを聞いた。

「幾重もの結界によって厳重に封印されたけっして開けてはならぬ牢獄と恐ろしい拷問部屋がある。陰陽庁には拷問のコースがいくつかあるんだが、たとえば富士コース、浅間コース、箱根コース、蔵王コース、別府コースなどなど」
「はぁ!?」
「さて、この中でひとつだけ他とちがったコースがあります。それはどれでしょう?」
「え、ええと別府だけが九州で他は本州よね。あ、でも富士だけは温泉がないし……」
「正解は別府」
「やっぱり九州だから?」
「いや、あとの四つには俺は行ったことがあるから」
「なんなのよ、もう!」
「冗談はさておき、そこの壁の向こうは空き部屋だ」
「……そうみたいね」
 
 京子は見鬼を凝らして内部を視た。いわゆる透視、クレアボヤンスの一種だが視覚でもって物理的に透視しているのではない。対象の気を見ることで姿形を感じる、射覆せきふと呼ばれる術だ。
 見鬼に長けた者は生物・無生物をとわず、そのモノのまとう気を見ることができる。

「あら、でも変ね。扉がないわよ」
「陰陽庁名物、謎の増改築でできた空間だろう。ちょっと見てくるから、まっててくれ」

 言うやいなや呪を唱えると壁の中に入っていった。
 禁壁則不能遮。壁を禁ずれば、すなわち遮ることあたわず。
 空を飛び、海を渡り、土に忍び、火にひそむ……。呪術師がその気になればたいがいの場所には入っていける。もちろんそれだけの術を会得するのは困難だが、呪術というのはつくづく便利なものであり、霊災修祓以外の一般分野での使用がおおやけに認められれば、社会の利便性は飛躍的に上昇するだろう。
 父であり陰陽庁の長官である倉橋源司はそのようになるよう、陰陽法の改正を進めているらしい。
だがそれに頼ってばかりではいられない。なにせ陰陽庁という組織は霊災によって街ひとつが消滅した事実の隠蔽をこころみるくらい〝後進的な〟組織なのだ。
 あれ以外にも表沙汰にできないような暗い所業があるかもしれない。ほうっておけばあらぬ方向に突き進む可能性がある。そうさせないためにもみずからが立って行動する必要があるのだ。

(呪術界全体の社会的地位の向上はけっこうですけど、そうでない人達の立場が相対的に貶められたりとか、絶対にあっちゃいけないわ)

 異能の力を持った一部の人が絶対的な支配者として君臨するディストピア。そういった世界を描いたサイファイ作品は枚挙にいとまがないが、現実をそのようなフィクションと同じ社会にしてはいけない。
 そんなことを考えていると秋芳が壁の中からもどってきた。

「案の定、中はほこりまみれだったがきれいにしてきた。空調ダクトが活きてたから窒息する心配もない。入ろう」

 秋芳は京子の返事も待たずに手を引いて壁の中へと入る。
 椅子や机が全撤去された学校の空き教室。そんな感じの部屋だった。天井あたりで明るい光を放っている火は呪術によるもので、たった今秋芳が点けたものだろう。

「烏枢沙摩明王の真言で清潔にしたから寝ころがっても平気だ」

 そう言って簡易式でふとんを作り、デイドリーム枕くんを床に置くとなにやら操作しだす。

「こんな面白そうな物を手にして今夜までまてるものか。京子、俺はたった今こいつのできを試すぞ。五分ですませるから見ていてくれ」

 津守の願いを聞き入れた時からすぐにでも使いたいと思ったが、無防備に横になれる場所がない。見知らぬ人に寝顔を見られるのもいやだ。
どうしたものかと迷っていると出入り口のない部屋を見つけたので、これ幸いと使わせてもらうことにしたのだ。

「刀会が終わって家に帰るまでまてないの?」
「まてない。とりあえずちょっと様子を見るだけだから、危険がなさそうなら京子にも貸すよ」
「そうじゃなくて……。それ、あたしも一緒に使いたいのよ。さっき鑑定したらふたり同時に使っても問題ないみたいだったし、秋芳君と同じ夢を見たいの」
「枕をともにする、か……。良いねぇ」

 思わずにやけ顔になる秋芳。

「だ~か~らぁ、こんな場所じゃなくてもうちょっと雰囲気のあるところで横になりたかったんだけど、まぁいいわ。現代呪術の総本山である陰陽庁を枕に夢を見るってのも、あたし達にはお似合いなのかも」

 京子はそっと腰を下ろし、秋芳に身体をよせる。

「もう準備はいいの?」
「ああ、いいとも。――いざいかん、夢の世界へ」
「いざ、おともつかまつらん。夢の世界へ」

 デイドリーム枕くんに頭をのせてあおむけに横になる。ぴたりと身体をよせ、たがいの片手をつなぎ目をつぶったその姿は親密な恋人同士というより仲の良すぎる兄妹のようだった。
 こうしてふたりは天下の陰陽庁の秘密の一室で褥をともにしたのだった。  
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