トシサダ戦国浪漫奇譚
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第一章 天下統一編
第四話 初出勤
緊張する。今日は俺の初出勤日だ。
今、俺は聚楽第の中にいる。聚楽第の政庁区画は人が多い。秀吉の生活区画は人を見かけるのは疎らだったがここは違う。忙しそうに人が行き交っている。
俺は石田三成の執務部屋を知らないため、行き交う人を呼び止めてはそこへの行き方を教えてもらった。それでも政庁区画が広大すぎて迷うことがあった。だが、石田三成の執務部屋に近づいているという実感はあった。
寧々叔母さんに会いに行く時とは勝手が違いすぎる。少しでも気を抜くと道に迷いそうだ。初日から迷子になるのは洒落にならない。昨日の治胤の話では石田三成は気難しそうな性格らしいから初印象が大事だと思う。
「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」
俺は石田三成の部屋の前に到着すると腰を落とし正座する。そして、襖越しに部屋の奥に向かって声を発した。返事が返ってこない。
部屋の中の気配を探ると人がいる気配を感じた。人がいないわけでない。俺の声が聞こえなかったのかもしれない。
「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」
俺は一段声を大きくして、もう一度部屋の奥に向かって声を発した。だが、返事が返ってこない。
人が声をかけているのに無視ですか。石田三成はやっぱり嫌な奴みたいだな。俺は心の中で石田三成に毒突いた。
「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」
無視されようと石田三成に会わないと何もはじまらないため、気を取り直して部屋の奥に向かって声を発した。
「中に入ってくれ」
中から男の声が聞こえた。いるんじゃないか。
俺は声に促されるまま座ったまま襖の引手に両手をあて、襖をゆっくりと右側にずらした。そして一度平伏して部屋の中に入っていく。
「私は石田治部少輔だ。小出藤四朗、お前のことは殿下より話を聞いている。そんなとこに座らずこっちにこい」
俺が部屋に入り着座すると、部屋の一番奥に座っている男が名乗った。俺は石田三成に促されるままに部屋の中を進んで行く。この部屋の中には十人位の武士がいた。武士達の年齢はばらばらだったが下は十代前半から上は二十代後半だろうか。彼らは石田三成の部下だろう。
部屋には文机が一番奥の石田三成と対面する形で配置され、石田三成の部下達は各々の文机に向かい、書類に目を通し忙しそうに筆を走らせていた。
俺は石田三成と文机を間に挟む形で対面した。俺の石田三成に対する第一印象は仏頂面な反っ歯だ。喋ると前歯が凄く目立つが不細工な顔じゃない。石田三成は座っているため身長はわからないが、俺より一回り大きいくらいだろう。そして、彼の体つきは武芸と縁遠そうな優男だ。彼が賤ヶ岳の戦いで一番槍の手柄を立てたことに驚くと同時に俺にも戦功の機会の可能性はあると自らを奮い立たせた。
俺はふと石田三成の身体的特徴を思い出し、彼の頭の上に視線を向けた。石田三成の頭の形は木槌型と後世に記録されている。実際はどうなのだろうか。
「どうしたのだ?」
俺の視線を感じとった石田三成は俺に怪訝な表情を向けた。初対面の相手に頭の上を凝視されれば変に感じることは当然と言えた。本当のことを言うのもどうかと思うのでお茶に濁すことにした。
「石田治部少輔様の茶筅髷が見事でしたので目を奪われてしまいました」
俺は石田三成の髷から顔に視線を戻し、心にもないことを言った。だが、石田三成の髷が居様に均一に整っていたことは事実だ。本当の茶筅のように均一なバランスを保っていた。どうすればこんな髷になるのか少し興味が湧いた。
「お前には分かるか」
石田三成は仏頂面から笑顔に変わり口元に笑みを浮かべた。俺の咄嗟に繕った言葉は彼の琴線に触れたようだ。その証拠に彼は意味深な笑みを浮かべた。
「石田治部少輔様のような茶筅髷を結う秘訣はご教授いただきたいです。やはり鬢付け油が違うのでしょうか?」
俺はいつも自分で茶筅髷を整えているが、石田三成のような茶筅髷にはならない。石田三成は大名だから自分の小姓に手先の器用な者がいて、その者に髷を結わせているのかもしれない。
「何も特別なことはしていない。早起きは三文の得という。私は日の出とともに起き自分で髷を整えることが日課だ。人任せにせず些細なことも手を抜かない心積もりで生活していれば難なくできることだ」
石田三成は俺に真顔で淡々と当然のことのように言った。俺は石田三成が何故人から嫌われるのか何となく理解できた。
「石田治部少輔様の言葉に心から感銘いたしました。私も元服を機会に弛んだ気持ちを一新し精進しようと思います」
「美辞麗句は無用だ。そう思うなら行動に移すがいい」
石田三成は俺の返答に人を突き放すような物言いをしてきた。彼からは人間関係を円滑する気持ちが一切感じられない。
「精進いたします」
俺は大人しく短く返事した。すると石田三成は満足そうな表情に変わった。根が歪んでいるわけじゃなさそうだが、人格に問題がありそうだ。それと若くして秀吉の吏僚として権勢を得たことで傲慢な部分があるのだろう。
でも、今の石田三成は未だ秀吉の弟、秀長が健在だから絶対的な権勢を持っているとはいえない。
「殿下のために精進いたせ」
石田三成は一度言葉を切った。
「殿下からお前を与力として使えと仰せつかっている。お前達仕事の手を休めろ。紹介したい者がいる」
石田三成は俺から視線を彼の部下達に声をかけた。彼らは石田三成の命令に従い筆を置き仕事を中断した。そして俺と石田三成を見た。
彼らは石田三成を前にして緊張していた。それが傍目からでも分かる。俺に対して緊張している様子はなく、石田三成に対して緊張しているように見えた。
先程までの俺と石田三成の会話の遣り取りで、石田三成が神経質な性格であることは理解できた。部下である彼らは石田三成に対して気苦労が堪えないに違いない。
「この者の名は小出藤四朗俊定という。今日から私の与力として働くことになった。それと藤四朗は北政所様の甥である。私は北政所様から藤四朗をよしなにと頼まれている。お前達は藤四朗が分からないことがあれば何でも教えてやれ」
石田三成は真顔で彼らにに命令した。それを側で見ていた俺は言葉を失った。
こいつ何を言っているの。皆さん凍りついた顔で俺のことを見ているぞ。俺の背後に天下人の正妻と上司の顔が見えたら怖くて堪らないだろう。俺の職場環境は居心地の悪いものになりそうだ。
「みんな仕事に戻れ。藤四朗、お前は何が出来るのだ?」
石田三成は彼らに仕事に戻るように言うと、俺の方を向いて聞いてきた。
「算術と読み書きは問題無いと思います」
「思いますだと」
石田三成は憮然とした顔で俺を睨みつけると、石田三成は自分の文机の上にある書類を一枚二枚と取り俺に手渡した。
「それを読んで見ろ」
「分かりました」
石田三成が俺に渡した紙には日付と文字と漢数字が書いている。あれ複式簿記じゃないか。こんな時代にどうして複式簿記が使われているんだ。俺は戸惑った顔で石田三成のことを見た。俺は大学生の頃、資格に興味を持ち簿記二級を合格している。仕事は経理をしていたから何が書いているかは分かる。
「なんで複式簿記が使われているんですか?」
俺は衝撃のあまり狼狽し石田三成に尋ねた。彼は俺の言葉に目を見開き驚いている様子だった。
「藤四郎、それの意味が理解できるのか?」
「天正十八年一月十七日、近江屋に米を売却した記録が書いています」
現代の複式簿記のように横書きでアラビア数字も使っていないが、渡された二枚に分けて書かれている情報は間違いなく複式簿記だ。
「何故、理解できるんだ?」
石田三成は俺を困惑した顔で見ていた。俺は驚きのあまり余計なことを口走ってしまったようだ。石田三成になんと答えようか。
うろ覚えだが、複式簿記は十六世紀頃には西洋の商人の間で一般的な知識だったはずだ。だから、ポルトガル人やスペイン人を経由して複式簿記の知識が日本に入っていてもおかしくはない。ただ、その知識が日本で有用であると気づくかは別物だが、先見性のある日本の商人なら有用であると気づくはず。
俺は石田三成に嘘をつくことを止めた。ここで嘘をつくと更に墓穴を掘りそうな気がした。
「石田治部少輔様、お許し下さい。私に複式簿記の知識を得た出所は話せません」
「私に教えられないというのか」
石田三成は眉間に皺を寄せ憤り俺のことを睨んだ。
「誰に教わったか明かさないことを条件に複式簿記を教えてもらったのです」
俺は苦しい言い訳だがこれを通すしかない。この時代、複式簿記の知識が入る可能性がある組織は堺の会合衆くらいだろう。彼らが複式簿記の有用性に気づけば、自分達の利益のために複式簿記の知識を秘匿して独占した方が好都合なはずだ。三成が堺商人と繋がりがあったなんて知らなかった。
「分かった。これ以上は詮索しない」
俺が沈黙を守っていると石田三成はどういう訳かすんなりと引いてきた。さっきまでの剣幕とは真逆の反応であるため俺は拍子抜けする。だが同時に石田三成の反応に警戒感を抱いた。
「お前には私の仕事を手伝ってもらう。仕訳していない伝票がある。それを仕訳するのを手伝ってくれ。仕訳したものは私が内容を確認する。付いてこい」
石田三成は立ち上がり、右側の襖を開け隣の部屋に入っていった。彼の後を追って部屋に入ると整然と配置された棚に書類が納められていた。部屋の入り口近くに紙の束が整理されて床に山積みされていた。これを処理するのか。ちょっと伝票の数多すぎないか。
「お前の力を確認したい。これを頼む」
石田三成は紙の束一つを掴みとり俺に差し出してきた。千枚以上はあるんじゃ無いか。
「これは?」
「伝票だ。さっさと受け取れ」
俺は石田三成に促されるままに伝票の束を受け取った。石田三成は先に部屋を出て行く、俺も彼に付いていきながら元の部屋に戻った。
「藤四郎、お前の机はそこだ。必要なものは全部用意しているからそれを使え。最初の数枚の仕訳が済んだら私のところに持ってこい」
俺は部屋に戻るなり石田三成は俺の席を指し示した。そこは石田三成の席から一番近い正面右に位置する。書類部屋の直ぐ側である。
新人の俺の席位置おかしくないだろうか。俺は心の中で独白しながら席についた。俺の隣に座る同僚は二十代後半の冴えない男だった。だが、この中では最年長に見える。
「よろしくお願いします」
俺はとりあえず隣の男に挨拶した。
「小出様、よろしくお願いいたします。私は中島彦右衛門と申します」
中島は俺に対して丁寧に挨拶してきた。俺は机に座り初仕事を始めた。俺は伝票を確認すると勘定科目を何にすればいいか思い悩んだ。この時代と俺の前世の勘定科目が一致するか疑わしい。俺は仕事に没頭する中島に勘定科目のことを確認した。中島は俺の質問に丁寧に答えてくれた。お陰であっという間に石田三成から言われた二枚の伝票を仕訳できた。俺は意気揚々と石田三成の元に向かった。
「石田治部少輔様、二枚の伝票を仕訳しました。確認をお願いいたします」
石田三成は仕事を中断し、俺から伝票と仕訳した紙を受け取り、それに目を通していく。石田三成は納得した様子で何度か頷いていた。
「藤四郎、お前は簿記が完全に理解しているようだな。勘定科目については独自の知識を持っているようだな。ここで使う勘定科目については、お前なら過去の帳簿を見れば分かるだろう」
石田三成は俺の書いた伝票と仕訳を見ながら俺に言った。彼は俺と中島の遣り取りに聞き耳を立てていたようだ。部下達の行動は終始監視しているようだ。
「お前に渡した伝票は責任持って自分の力でやれ。書類棚に置いている仕訳を綴じた帳簿は自由に読んでいい。お前の力だけでどうにかしろ」
石田三成は顔を上げ平然と俺に言った。彼は暗に「中島に聞くな」と言っていた。憶測だが中島の仕事が滞ると困ると考えているに違いない。三成の考えは理解できたが、それを納得できるほど俺は人ができていない。
新人の俺に初日から要求する仕事と思えない。俺は態度で怒りを表すことはせず、心の中で「パワハラ上司!」と罵り机に戻っていく。俺は石田三成の命令により、机で伝票を確認して書類棚の帳簿を読み漁ることを繰り返し行った。その行動を何度したかすら覚えていない。ただ言えることは凄く非効率だということだ。
石田三成の部下達は日が暮れるとさっさと帰り支度をはじめ帰って行く。彼らは俺の元に来て挨拶をし帰って行った。俺は彼らに笑顔で応対した。本当は恨めしい目で見てしまいそうだったが、彼らが俺を気の毒そうな目で見ていたため理性が働き大人の行動を取ることができた。俺が本当に十二歳の子供なら石田三成の横暴に堪えることは出来なかったことだろう。
日が完全に沈む少し前、小姓らしき者達が数人現れ部屋の灯りに火を点けて行く。俺はその様子を見る間も惜しみ筆を走らせていた。
「藤四郎、どの位終わった」
完全に日が落ちた頃、石田三成は俺に声をかけてきた。
「三分の一位は捌けました」
俺は石田三成を睨みつけそうな気持ちを必死に堪え彼のことを見た。
「中々やるな。初日にそれだけ捌けるとは。殿下がお前を買っていた理由も納得できる」
石田三成は感心した様子で俺の顔を見ていた。
「藤四郎、お前の歳は十二であったな」
「はい、石田治部少輔様」
「その歳でその器量とはな」
この流れは「今日はこれ位で帰っていいぞ」の展開に違いない。しかし、石田三成は何も言わず彼の席に戻り仕事を再開していた。俺は肩透かしにあい呆然と石田三成を凝視しながら落胆した。俺は徐に自分の周囲を見た。俺と石田三成以外に誰もいない。灯りがあるといっても薄暗い。俺の扱いは理不尽過ぎる。
「もう遅いですし帰ってもいいでしょうか?」
俺は思い切って石田三成に言った。
「駄目だ。それが終わるまで帰ることは許さない」
石田三成はきっぱりと俺に言った。彼も俺が仕事を終えない限り帰るつもりはなさそうだ。俺は石田三成に恨みを抱きながら仕事を再開した。
「終わった」
俺は最後の一枚を積まれた仕訳の紙束の上に置くと文机の上に突っ伏した。
「仕訳が済んだら、こちらに持ってこい。確認する」
石田三成は疲労感を感じさせない声音で突っ伏す俺に声をかけてきた。俺は睡魔と戦いつつ必死に身体を起こししばし三成のことを見ていた。背を伸ばし正座し黙々と筆を走らせていた。
「何をしている。さっさと持ってこい」
こいつは何なんだ。俺は石田三成の仕事ぶりに戦慄を覚えてしまった。石田三成の語調に少し苛立ちが籠もっていたため、俺は渋々と立ち上がると仕訳と伝票の束を抱え彼の元に歩いていった。そして、石田三成の横に抱えていた物を降ろす。
石田三成は俺の置いた伝票と仕訳の束を手早く確認していった。時々、俺の書いた仕訳に修正を入れていく。全ての確認を終えると、俺に訂正した仕訳の紙の束を俺に差し出した。
「間違いがあった。訂正したから書き直してくれ」
「紙が勿体なくありませんか?」
俺にそれを書き直せというのか。数十枚はあるじゃないか。俺が書いた仕訳の総枚数からすれば大したものじゃない。でももう書き直す気分になれない。
「その無駄になった紙の代金をお前が払うか?」
石田三成は真顔で俺に言った。彼は本気そうだ。間違う度に代金を払わされたら堪ったものじゃない。今回の紙の枚数は大したことも無くても、今後もずっと代金を払うことになればそれなりの金額になるに違いない。
「冗談だ。紙の代金を払わされたくなければ書き直せ」
石田三成は真顔で俺にもう一度差し出した。彼の命令に従うしかない。
「わかりました」
俺は石田三成から訂正を受けた仕訳の紙を受け取り自分の机に戻ると書き直しはじめた。
石田三成は俺が机に戻ると彼の仕事を再開した。彼は陰日向無く怠けず仕事に没頭する。彼は秀吉が好みそうな人物だな。秀吉の弟・秀長が亡くなると、彼が秀吉の元で権勢を欲しいままになる理由も頷ける。
俺は石田三成に心の中で呪いの言葉を呟きながら仕訳を書き直した。
「石田治部少輔様、書き直しました」
俺は石田三成に書き直した仕訳を確認してもらった。
「藤四郎、全て問題ない。帰っていいぞ。出仕は今日より半刻(一時間)前に来るようにしろ」
石田三成の無慈悲な言葉に俺は完全に切れそうになった。
「どうした? 帰ってもいいぞ」
怒りで静止した俺に石田三成は顔を上げると平静な表情で声をかけてきた。彼からは悪意は全く感じられない。これが素の石田三成なのだろう。
「石田治部少輔様、お疲れ様でした」
俺は石田三成に頭を下げ部屋を退出した。全ての伝票を捌ききり俺はようやく石田三成から解放された。俺が聚楽第の軒下をとぼとぼと歩いていると東の空が白みはじめていた。俺は石田三成の下で働くことにくじけそうだ。
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