もったいない。
ネージュは彼女と話した時、真っ先にそう思った。
それは今も変わらず、伏し目がちに話す彼女を横目でチラチラと見ながら、内心で「もったいない」と呟く。
夕日に紅く染まる肌。風でふわりふわりと靡く美しい髪。ほっそりとした顔の輪郭。すっと通った鼻筋。形の良い唇。
女性をジロジロ見るなんてかなり失礼だけれど、しかしそうせずにはいられないほど、彼女は美しかった。
――――そう、美しい。
可愛い、とは少し違う。
幼さが色濃く残る顔に、不釣り合いなほど大人びた表情。オブラートに包みながらもハッキリとした言葉。一歩どころか何十歩も後ろに引いた態度を取りつつも、冷淡になりきれない彼女の優しさ。それらが、彼女のことを“可愛い”と形容させない。
外見の幼さと、凛とした表情。毅然とした態度と、今にも溶けて消えてしまいそうな儚さ。あまりにアンバランスで、不安定で、脆い。まるで氷彫刻のようだ。少しの衝撃で欠けてしまう芸術品。短命で、すぐ消えてしまう。幻のように無くなってしまうのに、記憶に残る美しいもの。
それが、ネージュの瞳に映る“キカ”という少女の姿だった。
「ちょっと、ネージュ。何急に黙ったのよ」
「あ、ごめん。ちょっと考え事」
「あなたって本当、いつもぼうっとしているわよね」
「あはは……」
キカのことを考えていた、なんて言ったらどんな表情をするのだろう。少し意地悪をしてみたくなった。しかしこれで嫌われてしまったら、多分、落ち込むどころの話じゃない。
彼女と出会ったのは一週間くらい前。道に迷い、どうしようかと思案していたところで、彼女――――キカの後ろ姿を見つけた。
見つけた時、思わず、息を呑んだ。それほどの衝撃だった。鈍器で思い切り殴られたような、そんな激しい衝撃。
煌々と光る草原にポツンと座り込むキカは、有名な芸術家が描いた一枚の絵のようだったのだ。
しかし、非現実的な雰囲気を内包していた少女の影からは、今にもあの外周の向こうへ飛び込んで行ってしまいそうな、危うさを感じた。けれどそれに引き寄せられるように、吸い寄せられるように、ふらりと足は前へ傾いたのだった。
そして、真後ろに来た瞬間、バッと振り返った彼女の瞳に、“美しい”を体現したかのような少女に、ネージュは文字通り射抜かれてしまった。
濡羽色の髪。カモシカのような足に、白魚のような手。意志の強さを滲ませる柳眉に――――、彼女の全てに目を奪われた。
そう、それを一言で簡潔に表すのならば、“一目惚れ”というやつだろう。
それほどあっさりと、地面で口を開けた落とし穴に気付かずはまるように、ピッタリと合わさるのが当たり前のパズルのピースのように、ストンと心の奥まで落ちてきた。
ああ、僕は、彼女のことがもっと知りたい――――、と。
それからのネージュは、笑えるくらい必死だった。何とかしてキカとの関係を繋ぐことが出来ないか、彼女の心の中に少しでも良いから居座れないか……。
結果としてキカとの距離を縮めることには成功したと……と思うのだけれど、いかんせん上手くいかない。
笑わないのだ。
確かに、彼女は大口を開けて笑い声を上げるようなイメージは無い。しかし、それにしたって、笑わないのだ。浮かべるのは、良い所をだけを切り取った“美しい”笑顔だけ。ネージュは、もっと、色々な表情を見せてほしいのに。
警戒されているのか、緊張しているのか、本当は嫌われているのか、嫌々付き合ってくれているのか、それは分からない。判断する材料を彼女は与えてくれない。
だけど、そうやって悩めば悩むほど、ますますキカという少女に惹かれている己がいるのも事実だった。決して底を見せないキカを、楽しませようとあれこれ考える時間は、ひどく心が躍る。
呆れられたくない。疎ましく思われたくない。だが、何もしなければ、前へは進めない。それどころか、キカのような人だったら、どんどん距離が空いてしまうだろう。そんな、確信めいた予感があった。
幸い、まだ嫌われてはいない……と、思う。特に約束を交わしたわけではないのに、あの出会った草原にキカは現れるのだから。
でも、そうは言ったって不安なものは不安だ。
キカは優しい。見知らぬ人間をわざわざ主街区まで送ってくれるくらいには。まあ本人にそれを言えば、多分もの凄い勢いで否定されるだろうけれど。
「ねえ、ネージュ?」
「……ん、何?」
「あなた、大丈夫? 疲れているなら……」
ああ、やっぱり君は、すごく優しいじゃないか。何でその言葉を拒んでしまうのだろう。
いくら頑張ったって、冷たくなりきれないというのに。
「キカちゃん、一つ聞いていい?」
対して、自分はなんて酷いのだろう。醜いのだろう。
「え? ……ええ」
「…………キカちゃんはさ」
こんなこと聞いたって、キカを困らせるだけなのに。
「毎日ここに来て僕と一緒にいてくれるけれど、……どうして?」
「どうして、って……、それは」
ほら、やっぱり。
案の定、彼女は不可解気に黙り込み、目を細めて僕の方を見た。強い眼差しに、ネージュはさっと視線を逸らす。聞くべきではなかった。
ここへ来ることに、それほど深い意味は無かったのかもしれない。
冷静になって考えてみれば、あの日と同じ時間帯にこの草原に座っていたではないか。
もしかしてこれはキカの生活に組み込まれた習慣の一つで、ネージュはそこへ無理やり入り込んでしまったのではないか。彼女はネージュのことを、本当は迷惑に感じているのではないか。そうでなくとも、景色の一部とでも思っていたのかもしれない。
ネージュは一気に恥ずかしくなった。あまりに見当違いな方向へ突き進んでいたことに。自分だけ楽しい気分に浸っていたことに。
「……ご、ごめん。今のは忘れ――――」
「あなたがここへ来るからよ」
「へ?」
ネージュの声に上から被せる形で発せられたキカの言葉に、顔ごと逸らしていた視線を戻す。けれどキカは広く紅い空を見上げていて、表情は分からない。
耳がかすかに赤く染め上げられているように見えてしまっているのは、さすがに良い方向へ考え過ぎだろうか。
「そ、それって……」
「私がわざわざ時間を割いて、こんな所でのんびりするとでも思っているの? 時間の無駄だわ」
「……ッ」
口調や言葉選びはキツいのに、その内容は。
改めてキカの横顔をまじまじと見つめてしまうけれど、気遣っているような雰囲気は無い。その代わりに、すごく不機嫌そうだ。
ネージュは震える唇を何とか動かし、さらに言葉を紡ぐ。
「き、キカちゃん、もういっこ聞いてもいい……?」
「何よ」
「その理由って、夕日を見るため? ……それとも」
キカがこちらに顔を向けてくる。その眉は、ぎゅっと吊り上げられていた。いつもの、あの美しい笑顔は無い。
「愚問ね。私、一言もそんなこと言っていないじゃない」
「でも」
「ああもう、面倒くさいわね。……私、景色を眺めながら休むことなんてほとんどしないわよ」
ツンと尖った口調で言い放つと、スカートの裾を直しながら立ち上がってしまう。ネージュも慌てて腰を上げ、村へ向かって歩き出した小さな背中を追った。今日はもう帰ってしまうのだろうか。
ここで有耶無耶にしたくない。ちゃんと聞きたい。知りたい。
強い気持ちに突き動かされ、ネージュは腹の底から声を出した。
「待って、待ってよ! キカちゃ……ッ」
「――――私は、自分のしたいことをするの」
振り返ったキカの顔には、いつになくイライラとしたような色が浮かべられていた。足を止めた彼女に合わせてネージュもその場に立ち止まり、正面から見据える。
「必ずそうしなければいけないようなものだったらまだしも、行く、行かないの、そんな下らない問題でわざわざ自分の意思を曲げないわ」
そうして、コテンと首を傾げ、
「……悪い?」
問いかけてきたキカの声音は、どこか楽しげだった。
「う、ううん! 全然!」
「そう」
ああ、でも。
笑ってくれたなら、もっと嬉しかったのに。
* * *
好きだった。心の底から愛していた。
その細い身体を抱き寄せて、あたためてあげたかった。ずっと一緒にいたかった。
キカの心の拠り所になりたいと、本気で思っていた。
「…………ごめんね。約束、守れそうにないや」
死なないって言ったのに。
ずっと、守っていたかったのに。
そんな顔を、君にさせたくはなかった。笑顔が一番似合うだろう顔を、歪ませたくは無かった。苦しい思いも、哀しい思いも、キカにはしてほしくなかったのに。他でもない己が、それを与えてしまう。
ごめん。ごめんね。守ってあげられなくてごめんね。一人残すことになってしまってごめんね。
――――ああもう、時間が無い。
死の宣告が、視界に浮かぶ。キカの目が、落ちてしまうんじゃないかと一瞬危惧してしまうほど見開かれた。その悲痛な表情に、身体が抉られる。喉が痛い。目の奥が熱い。
けれど同時に、溢れそうな愛おしさに胸を突かれた。彼女の頬に触れる。ほとんど無意識のうちに、自身の口から言葉が滑り落ちた。
「キカちゃん、好きだったよ」
僕の眼に映ったあの瞬間から、きっとこの後すぐ訪れる最期まで。
好きだったんだ。
偽りもなにも無い。ただ純粋に、キカのことを思っていた。
――――だから、どうか。
どうか、笑っていて。
音の無い言葉は、ちゃんと伝わってくれたかな。
……伝わっていると、いいな。
キカの笑顔は、どんなに高価で美しい宝石よりも、夜空で瞬く星々よりも、輝いているのだから。
* * *
キカちゃんへ
キカちゃんがこの手紙を読んで、もし嫌じゃなかったら……、今日のフロアボス戦が終わった後伝えたいことがあるので、いつもの草原に来てください。待っています。
面と向かって誘えなくてごめんね。きっと言葉が出なくなっちゃうと思ったので、手紙にしました。
……あのね、僕は、キカちゃんと出会えて本当に幸せだったと思うんだ。
キカちゃんと一緒にいるだけで、僕はとてもあたたかくなるんだよ。この前笑ってくれた時は、嬉し過ぎて倒れそうだった。
多分君は知らないだろうけど、僕、結構必死なんだ。キカちゃんに笑ってほしいなって、どうすれば笑ってくれるかな、って。
どうすれば、キカちゃんと少しでも長く時間を過ごせるかな、って。
僕たちが初めて出会った日のこと、覚えていますか。
君はすごく僕のことを警戒していたよね。けれど、それでも主街区まで送ってくれて、正直驚いたんだ。あの時は、自分から「送ってほしい」って言おうと思っていたから。
キカちゃん、あのね、絶対否定しちゃうだろうけど、君はすごく優しいと思うんだ。
君が何故そこまで頑ななのかは分からない。でも、無理やり知ろうとは思うわないよ。出会ってまだそんなに時間が経っていない相手に、全部曝け出せっていうのは無茶だし。
だけどねそうは言っても、キカちゃんのこと、もっともっと知りたいです。キカちゃんと、もっとずっと一緒に居たいです。隣に立っていたいです。
だからそのために、僕も一歩踏み出したいと思います。
ネージュより
「キカちゃんは、どんな反応をしてくれるのかな」
怒るかな。それとも、照れてしまうのかな。
うん、でも、どんな反応でも良いや。……この手紙を読んだ上で僕と会ってくれるなら、何でも良い。
ネージュはペンを机の上に置き、息を吐きながら肩を回した。すでに日付は変わっている。宿の外は、確かな闇に包まれていることだろう。
「……う……ん」
すると、ベッドの方から気持ちよさそうな少女の声が寝息とともに漏れてきて、思わず苦笑してしまう。よく眠っているみたいだ。モゾモゾと動く布の塊に、こちらまで和みそうになる。
よし、決めた。今度キカに彼女を紹介しよう。前は食事を断られてしまったけれど、今度は受けてくれそうな気がする。
いつにしようかな。
今日のことが終わったら、誘ってみようか。予定聞いてさ。無事に2層に行けるようになったなら、そっちで良いお店を探すのも……。
「はは……」
というか、告白が上手くいかなかったらどうするんだ。会ってくれなくなるかもしれないのに、変な余裕がある。
これはあれかな。テスト前の根拠の無い自信みたいなものか。……いや、ちょっと違うか。
完全に脱線したどうでも良い自問自答を脳内で回す。再び苦笑いを浮かべながら、先ほどまでペンを走らせていた便箋を二つ折りにする。白い封筒に入れ、封をした。明日は多分主街区に出てきているだろうから、その時に渡そう。
しっかりとストレージに入ったのを確認し、ホッと胸を撫で下ろした。無事に書けて良かった。机の上に目をやれば同じような紙が何枚も積み重なっているけれど、すべて文面が若干違う。けれど自分の名前まで書きいれたのは、さっきの一枚だけだ。これらは全て、納得いかなくて途中で書くのをやめたもの。間違えて渡してしまう前に捨ててしまおう。
容赦なく削除作業を進めながら、ふと視線を滑らせる。そこには、淡い光を反射して輝く銀色の物体があった。
――――雪の結晶のチャームが付いたネックレスと、一対の指輪。
ネージュはその内から指輪を一つ手に取り、自身の指にはめた。決意の意味を、込めて。
彼女がネージュの気持ちを受け取ってくれなくても良い。キカの隣で、支えになりたいのだ。
だけど、もし、もしもこれからの未来で、彼女がネージュに応えてくれるなら。
「……この指輪を、いつかキカちゃんに渡せるといいな」
そんなことを思いながら、もう一つの指輪をスタンドライトにかざして、ネージュは笑った。
その時は、この指輪に刻む文字をキカちゃんに決めてもらおう。
君は、どんな言葉にするのかな。