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ソードアート・オンライン 舞えない黒蝶のバレリーナ (現在修正中)

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第一部 ―愚者よ、後ろを振り返ってはならない
第1章
  第10話 黒染めの化け物(後編)

 
前書き
 旧第5話の修正版です。
 挿絵:描き直し1枚有。 

 
  痛いほどの冷気が包む。私はルークのうしろに身を隠しながら、何も出来ずに、ただ存在を無くそうとしていた。
 目の前には、一人の黒い少年。先ほどのボスからドロップしたのであろうコートを纏っている。……刺すような視線は、すべて“彼”へ向いていた。
 事の始まりは、ボスがその姿を光の欠片に変えてすぐのことだ。 歓喜の雰囲気でそのまま終わってしまえばよかっただろうに、いや、どう足掻いてもそういう結末にはならなかっただろう。一人の命が掻き消えたという事実はあまりにむごく、精神を切り刻む。
 それが、今回のリーダーであったのならば、なおさら。
  誰が最初だったかは、いまいち記憶にない。おそらく、ディアベルのパーティメンバーだったと思う。その人が、ぶつけたのだ。
 ディアベルの死に対する怒りや、悲しみや、やるせなさを、元ベータテスターに矛先を向けて。
 むろん、ベータテスターのせいだ、なんてとんだ言いがかりだ。もっとその脳みそをフル回転させて、状況を論理的に整理しろと彼らに浴びせたくなる。
 しかし、頭に血が上っている状況では、焼け石に水だ。最悪、ベータテスターへのわだかまりに火薬を足し、誘爆する結果に終わる。
 ……おそらく、“彼”も解っているのだろう。哀しい事に、悟ってしまったのだ。その聡明な頭は、結論を弾き出してしまったのだ。
 このままでは、ベータテスター全員に牙がむかれる、と。十中八九、ボスの攻撃を読んでいた“彼”も、そうなのだろうから。

 だから、“彼”はそれを選択した。
 あまりに身勝手なそれらを、すべて受け入れて。
「そうだ。俺は、≪ビーター≫だ」
  冷笑を湛えながら、あくまで冷酷に、無慈悲に。……しかしそれでいて、悲しげに、苦しそうに言い放った。
 ――――なんていう、ことを。
体温が一気に上がった気がした。何かを詰め込んだ風船が膨れ上がっていき、針へ迫っていく。
「……馬鹿じゃないの……」
 そんなことをすれば、非難の視線や声を一身に受けることは必至で、もしかしたら物理的な危害を加えられるかもしれないのに。
 ……たとえそれが目的だとしても、“彼”はなんて馬鹿なのだろう。本当に、どうしようもない。
 だが、そんな馬鹿な人が起こした行動の裏に隠されたものに気づかないで、安易に悪意を向ける者たちは、彼よりも馬鹿だ。大馬鹿どもだ。
 歯軋りをしながら俯けていた視線を上げれば、ちょうど黒い少年が螺旋階段の一番下の段に足を掛けていた。それを見止め、また視線を落とす。
 私は元ベータテスターではないし、きっと今の場面で何も出来なかった。出ていけば一発で“彼”にバレてしまうのだから、それを理解している私は、私利を優先して一歩も動けなかっただろうけれど。
 それに、ああする以外の方法は私も思いついてはいなかった。――――否、ディアベルの死に対する鬱屈だけならば、ベータテスターに対するそれを緩和、あるいは対象まで移す術を、私は持っている。
 ――――もし分からず屋たちを大馬鹿と形容するのならば、私は馬鹿の極みだろう。







 ルークの陰から出た。正面に周り、彼を見上げる形で目を合わせる。
「さっきはごめんなさい」
 おそらく、先刻戦っている際に弾き返されたのは、彼と勢いよく接触してしまったためだろう。ほぼ同時にバランスを崩したのだから、確かなはずだ。
 きっと、これっきりで縁は切れてしまうだろうから、ここで謝罪した方がいい。
「あ、あぁ、いや、大丈夫……」
突然のことで首に手をやりしどろもどろになるルークをくすりと笑ってやってから、一歩後ろへ下がる。けれども、わずかな変化に彼は気づかない。
 ふと視線を外せば、先ほどまで栗色の髪が美しい少女と何やら話していたエギルが、こちらに歩いてきた。エギルは私たちを視界に捕え、表情を緩める。私は彼に向き直り、
「……エギル」
「ん、何だ?そんな真剣な顔して……」
「いえ…」
 ごめんなさい、と心の中でつぶやく。
「……パーティーを組んでくださって、ありがとうございました。短い時間の間に色々あったけれど、あなたたちと一緒に戦うことが出来て、本当に良かった」
 エギルが眉根をよせ、いぶかしむような表情になる。
「いや、別に礼を言われるようなことはしていないが。……ていうか、次のボス戦また……」
「いいえ、……もし組むのであれば、あの2人を入れてあげてください」
  彼の言葉を遮り、言い放つ。その言葉にさらに表情を硬くして、
「2人?」
「ええ。……さっきの黒いソードマンの男の子と、栗色の髪でフェンサーの女の子よ」
「あ、ああ、それは構わないが……。しかし、お前は?」
 私は、気遣ってくれるその言葉に微笑みを作り、向けた。
 ……本当にこの人は、最初から最後まで。
「私は、しばらく身を隠すわ」
 どうせ、“彼”の方面でもどうにかしなければいけないし。
 さらに一歩下がる。さすがに私の雰囲気が変わったことに気付いたようで、エギルをはじめとした、見開いた5つの目がこちらへ向く。
 私はそれらを尻目に掛けながら、ウィンドウを操作し、――――彼らのパーティーから脱退した。
 それはすぐに、システム伝いで伝わったようで、彼らの目がますます開いていき、驚愕に顔を歪めた。ルークが何か言い寄ろうとしてきたので、それを小さな手の動きで制する。
「私は、最初からこのパーティーではなかった。“仲間”では、無かった」
「…………は?」
 左手に弓が現れ、腰に重みが増す。
「だから私が今からやることと、あなたたちは髪の毛一本分も関係ない」
 今から起こす馬鹿の極みな行動で、私が一番恐れているのは、この人たちにも火の粉が飛んでしまうことだ。彼らには全く非は無いことなのに、巻き込んでしまうのは忍びない。
「さようなら」
 私は、手を伸ばしてくるエギルをさっと避け、ポニーテールを揺らしながら背を向けた。後ろで何か言う声がしているような気がするが、意識は向けない。すべて関係の無いものとし、認知しない。
 矢を数本つがえた。今度は、スキルは発動させない。そのかわり、筋力値にものを言わせて弦を引いていく。
 狙うは、たったひとつ。
 誰かが、「あっ」と驚いたような、悲鳴のような、なんとも判断の付きにくい声を上げた。
 ヒュッ。
 軽い、そんな風を切る音を纏いながら、自らのウィンドウを開いて難しそうに話しこむ男たちの足元へ向かう。そして、狙いと寸分違わず、ずかずかと突き刺さった。
 その音によって、約40人の思考を強制終了させる。
「……え?」
 皆、信じられない、とでも言いたげな顔をしてたり、状況の理解が追いついていないのかきょとんとしている。それは間抜けと言っていいもので、笑いが込み上げそうになった。
 さっきまで、たった一人の少年を糾弾していたというのに。思うまま、毒を吐き捨てていたというのに。そんな顔していたって今の私には何も響かない。
 ――――さあ、ここからが本番だ。
 どんなふうに“演じる”?
 いっそのこと、とことん悪役を突き詰めてみようか。……しかし、それで狂人として通り過ぎては意味がない。強い負の感情とともに、私を彼らの記憶に焼き付けなければならないのだ。
 ならば、冷酷に。
 ありのままの事実を、突き付けてやろう。そして、あの黒い少年よりも残忍で、冷淡に、残酷に。恐怖すら覚えるように。
 ≪ビーター≫の存在すらもかすれて、霧がかかって、塗りつぶされてしまうように。
 私こそが“悪”だと、植え付ける。≪ビーター≫以上の存在になるのだ。
 矢の標的に選んだ男たち――――、ディアベルのパーティーメンバーだった者たちへ近づく。軽く睨みを利かせただけなのに、彼らはたじろぎ、全体的に後ろへ下がった。
 しかし、黒い少年を強く糾弾していた内の一人だった男が一歩前へ出てきて、こちらを睨み据えてくる。怯んでなんかいないと言わんばかりに、その男が負けじと目に角を立てて、唸るように低い声音を発した。まあそれも、若干迫力は欠けていて、私にはあまり効き目はなかったが。
「……な、なんだ、お前」
「私が、ボス戦中にあなたたちへ矢を放った張本人よ」
 ピクリと、男の眉が上がった。
「……≪弓術≫を習得したことを、自慢したいのか」
「そんなわけがないでしょう。わざわざそんな面倒くさいことはしないわ」
 さらに、ピクピクと上がっていく。もう少しで青筋が立ちそうだ。けれども、私はそれを知らぬふりをして続ける。
「私が言いたいのは、私が放った矢のせいでディアベルが体のバランスを崩した、ということよ」
「な……っ」
 まったく考えがついていなかったようだ。それなのにも関わらず、ベータテスターたちを中傷したのだから笑えてくる。腹がよじれそうだ。馬鹿馬鹿しい。
「私は危険を知らせるつもりだったのだけれど、ちょっと手元が狂ってしまってね。私が余計なことをしなければ、彼は攻撃を回避出来ていたかもしれないわ。……いえ、彼なら出来ていたでしょうね」
 つまりそれは、彼が死ぬことは無かったかもしれない、ということ。
 ただし、もちろん手元が狂ったなんていうは嘘だ。確かに、命中率云々の関係で狙いよりも少しばかりずれたが、それも許容出来る誤差の範囲内だった。
 だが、それでも、それが分かっていても、私は平然と嘘を吐く。そして、彼を嘲笑うような笑みを作り、嫌味たらしく、なおかつ毒針を突き刺すように言い放った。

「つまり、――――ディアベルを殺したのは私よ」

 しぃんと、急に静まり返る。こんなにも大勢人がいるというのに、面白いくらい物音一つしない。けれども、うめくような声がそれを破った。
「……お前のパーティーはどこだ」
  拳を握りしめ、震えさせながら、押し殺すように問うてくる。私はそれを鼻で笑ってやってから、
「仲間はいないわ」
 蔑んでいるのがハッキリと伝わる口調で言ってやった。
 瞬間、首元を強い圧迫感が襲った。目を瞬かせると、胸倉が掴みあげられている状況を認識する。
「そんなわけがないだろう! ……リーダーは誰だ! そいつが指示したんだろうが!」
「だから、仲間なんていないと言っているでしょう? …まあ確かに、組んではいたけれどね」
「だったら!!」
「あなた、相当な阿呆なのね」
「……どういう……」
「簡単よ。――――脅していたの」
「……は?」
  力がすっと抜けた。その隙に、男の大きな手を払いのける。
「自分の利益のためだけにパーティメンバーを脅して、しかも騙していたのよ。……だから、本当の意味でのパーティは組んでいないわ。彼らのことは責めるより、こんな私に踊らされたことを憐れんであげた方がいいじゃないかしら?」
 うぐ、と声を詰まらせる男は素知らぬ顔で、服の乱れを整える。そして今度は、私が男の襟元をぐっと掴み、顔を近づけた。クスクス、と笑い声を作る。
「私を殴りたい?」
「んな、お前……」
「私がいなければ、ディアベルは今ここにいたのよ。さぞ頼もしく、みんなを率いてボス部屋から出て行っていたでしょうね」
「――――ッ」
 重いものがぶつかるような、鈍い音。左頬に鋭い衝撃が走る。視界が揺れた。首から上が、体の構造上の限界まで曲がる。
  素晴らしいくらい忠実なシステムが、サラウンドエフェクトを生真面目に発したのだと理解した後、自分が床に座り込んでいるのも続けて認識した。
 視線を上げれば、男が苦虫を噛み潰したような表情で私を見下ろしている。顔を思い切り歪め、舌打ちした。だがそれ以上何もするつもりはないのか、身を翻してしまう。
 ――――まだ、足りない。全然、足りない。
「……これだけ?」
「…………あ?」
 ゆっくりとまるで幽霊のように、重い動作で男が振り返る。けれども、今にも吹き出しそうなものを必死に抑え込んでいるのは見え見えだ。コップの水が溢れるまで、もうひと押し。 私は再びクスリと笑ってやってから、
「もう満足なのかしら。ずいぶん、お安いのねぇ」
「お……まえ……」
「ふーん、そう。あのディアベルって人、ご立派な騎士さんみたいだったけれど、結局はその程度だったのね」
 ブチリ。
 もし今の男の感情を正確にトレースしたいのならば、そんな効果音が一番適しているだろう。もはや感情のセーブは利かないようで、顔をこれでもかと――――タコでも負けたことへの恥ずかしさに壺へ引っ込んでしまうだろう――――真っ赤にし、ズカズカと苛立ちを隠しもせずに歩いてくる。
「このアマ……、舐めた口利きやがって! 出来るなら、殺して――――」
 私は、その言葉を待っていた。
自然と浮き立つ気持ちを抑え、内面とは対象に表情の色を意図的に消した。そして、声の抑揚を無くして機械的に言い放つ。
「殺せば?」
「……は」
 ポカンと、呆けたように口を開けた。しかも、目の前の男だけではなく、私の視界に入る限りだと、全員だ。……どうやら、内容がいまいち呑み込めていないらしい。 私は、解らせるべく口を開く。
「そのままの意味なのだけれど……。なんなら、デュエルでもする? もちろん、≪完全決着モード≫で」
 それは、デュエルのモードの内の一つ。言わずもがな、これはどちらかのHPが0になるか、同様にどちらかがリザインするまで続く。
 つまりこのモードは、この世界で最も選んではならないもの。理由は小学生でも解ることだ。にもかかわらずやろうとするヒトは、相当の阿呆か、感覚がおかしい者だろう。
 すなわち、その“おかしい奴”というのが私ということだが。
「……狂ってる」
 誰かがそうつぶやいた。それを皮切りに、だんだんとざわめきの波が大きくなっていく。
 ひそひそ、ひそひそと周囲の者と話しながら、私を睨みつけてくる。奇怪なモノへ向ける、恐れが滲んだ目。その瞳には、明らかな嫌悪の色が宿っていた。
 何だ、アイツは。どうしてこんな女が、俺たちと一緒に居たんだ。何で、どうして…………。
「お前……、自分が何をしたのか分かっているのか!」
「私は、ただ危険を知らせようとしただけだもの。何も悪いことはしていないわ。上手く避けられずに死んだディアベルが悪いのよ」
「こ、……いつ!!」
 男がとうとう我慢の限界を迎えたのか、憤怒を前面に出し、額に青筋を立てた。瞬間、腕が私へと伸び、ガシッと首を掴まれる。瞬きほどの時間で空中に吊り上げられた。両脚が完全に浮いて、足先がブラブラと揺れている。息が詰まって、さすがに顔をしかめた。
 これが、仮初の世界で良かった。
「……っ」
「お前が、お前がいなければ……ッ!」
「また……、そう、やって、全体の責任を、押し、つけ……る、のね」
 言葉が途切れ途切れになりつつも、今は下の位置にある男の両目をしっかりと見据える。私は特に抵抗などしていない。けれど、首へ掛けられていた圧力が僅かに緩んだ。
「意味が分からない!」
「……ふふ、愚か……で、かわい、そう」
「――――く、そが!」
 視界がグルンと回った。背中を強かに打ち付ける。一瞬、全ての感覚が遠ざかった。
「謝罪も、反省すらしないなんて……、何て奴なんだ! 自分でやったこと、何とも思ってないのか!」
「…………」
 バラバラと散らばった自身の黒髪が、視界いっぱいに見える。石畳の床を背景に、自身の白い手も映り込んでいた。
 ああ私は、今、地面に転がされているのか。
 認識出来たところで、腕に力が入りそうにない。体の半身が、ひどく冷たかった。このまま寝てしまおうか。……いや、それは出来ないな。ふと浮かんで泡のように消えた滑稽な思考に、くつりと笑う。
 それが、さらに男の神経を逆撫でたらしい。
 大きな影が落ちてきて、それの正体を確かめるべく目だけをそろりと動かす。すると、凹凸の激しい、硬そうな靴底が、眼前に迫っていた。
 これは蹴られるな。痛いのだろうか、ああでも、そうだ、この世界には痛覚は無いのだ。だったら大丈夫か。
 ぼんやりと考えながら、近づいてくるソレを眺める。薄く笑って、目を閉じた。
 訪れるだろう衝撃を、流すために――――。

「もう、その辺でいいんじゃねえか」

 その声に、パッと目を見開いた。慌てて視線を持ち上げれば、そこにはこの数日で見慣れた褐色の肌。
「どう、して……」
 エギル。その後ろには、ルークをはじめとした、己がついさっきまでパーティーを組んでいた面々が居た。一様に表情を強張らせ、痛ましそうに私を見詰めている。
「お前は……、確か、エギル」
「ああ、そうだ」
 ――――まずい。咄嗟に、そう思った。
 エギルは事前の攻略会議で、ベータテスターを庇う発言をしていた。堂々と話した内容のせいもあるだろうが、彼のその容姿も相まって、この男はエギルの名前を記憶していたのだろう。
 いや、それは良い。良くは無いが、まあ良い。今現在、それほどベータテスターへ恨みは向いていない。大部分は≪ビーター≫へと対象が移ったし、その分も今この場では私へと集中している。だから、問題はベータテスターたちをエギルが庇ったことではない。
 あの時、私もエギルの隣に座っていたのだ。エギルと、ルークたちと言葉を交わしていたのだ。もし、それも、この男が覚えていたら。
 嫌な汗が吹き出す。まずい、まずい。
 彼らには、余計な傷を負わせたくなかったのに。汚名を着せたくなかったのに。
「や、やめ……」
「キカ」
 耳元で、自身の名が呼ばれた。ずいぶん声量が抑えられていたが、もし周りに聞こえてしまったらどうするのだ。
 私の身体を支える腕の持ち主を、じとりと睨みつける。
「…………」
 誰かの耳に私の声が届いてしまうのが恐ろしくて、「ルーク」と、心配そうに眉を顰める彼の名前を呼べない。それは彼も分かっているようで、ルークは一つ頷き返してくるだけだった。
「大丈夫か?」
 とても優しい声音だった。思わず溢れ出そうになるものをグッと堪えて、私も首を小さく縦に振る。
 そのまま、ルークの腕に促されるままに壁へ背を付けた。思い切り体重を預けてしまえば、ずいぶん楽になる。
「…………そんな女助けて、どういうつもりなんだ」
 氷の槍のように鋭く冷たい声が、頭上から降ってきた。怒りを隠そうともしていないそれに、肩が大きく跳ね上がる。
 いけない。これは駄目だ。
 どうしよう。どうすれば良い。どうすれば、エギルたちを守れる?
 グルグルと回るのは、そんなとりとめない言葉ばかり。情けないことに、全く妙案が思いつかない。その間にも、エギルの言葉は続いてしまう。
「助けるとかじゃない。ただ、暴力を振るわれているのを黙って見ているわけにはいかなかっただけだ」
 どうして、私を切り捨ててくれないの。見て見ぬふりをしてほしかったのに。何ならその男と一緒に、私に手を上げてくれても良かったのに……。
「コイツが、何を思って矢を放ったのかは知らない。それに、お前らがあの指揮官とどれくらい親しかったのかも知らない。だが」
「ふん。ベータテスターの味方をするくらいだから相当な物好きだとは思っていたが、こんな奴まで守ろうとするなんて……」
「俺は、そんなことを言っているんじゃない!!」
 ガツンと、鈍器で殴られたような感覚。よく通る太い声が、空間をビリビリと震わせた。
 怒っている。あの、温和なエギルが。
 未確認動物を発見してしまったような心持ちで、まじまじと彼の横顔を見詰める。私の隣で片膝を付けているルークの方を見遣れば、口をポカンと開けていた。
「一つ、いいか」
「な、なんだ」
「アイツに対して、お前は“何とも思っていないのか”と言っていたが」
 エギルが一歩前へ踏み込む。それに合わせて、男が後ろへ下がった。
「…………人を殴って、首を絞めて、地面に叩きつけて。しかも頭を蹴ろうとまでして……、――――お前こそ、何とも思わないのか」
 間抜けな表情になった男の顔が、意味を理解したのかじわじわと赤く染まっていく。あれは、憤りではない。羞恥だ。そして少しの焦りと後悔。
「俺からすれば、お前の方がタチ悪い」
 男は黙り込み、肩を震わせ、拳を握りしめると、獣のようにギラギラと双眸を光らせて始めた。ただ一点、エギルをねめつけながら。その凶悪な気配に、サーッと血の気が引いていく。
「……お前、もしかして、あの女の……」
「…………」
「答えろ」
 どくん、と心臓が跳ねる。
 どうにか、しなければ。私が、エギルを、みんなを――――。
 
「失礼ね。そんな人と比べてほしくないわ」
 突然割り込んだ私の声に、一気に視線が集まった。40対以上の瞳が、こちらに降り注がれる。中でも、体格のいい色黒の男が、信じられないものを見るような目をして、私の方を向いた。
 ……ごめんなさい、とそっと心の中で呟く。
「エギル、って言ったわね」
「……あ、ああ」
「どうやら私のことを助けようとしていてくれたみたいだけれど、勝手なこと言わないでくれるかしら」
「…………は?」
 唖然としたような顔をするいくつものそれを見渡し、口角を吊り上げた。嘲るように、突き放すように、恐怖を覚えるように。
 肩に置かれたルークの手をパシリと払い落として、壁に背を預けた状態のまま、再び口を開いた。
「私とそこの男がしたことを並べるな、って言っているの」
 私が何のために、こんなことをわざわざ繰り広げたと思っているのか。お願いながら、邪魔をしないでほしい。最後までやり遂げさせてほしい。
 手を差し伸べてくれた、あなたたちには申し訳ないけれど。
「私は後悔なんてしていないし、間違ったことをしたとも思っていないわ。もちろん、恥ずかしいとも思っていない。……そこの腑抜けと違ってね」
「な……っ!」
「あら、違うの? ちょっと言われただけで、顔を赤くしていたくせに」
 くすくす、くすくす。
 ああ、おかしい。
「あなた、そこのエギルって人に言われて、自分が暴力を振るったことを一瞬でも後悔したのでしょう」
 もはや何も言えないらしい。酸素を求める魚のようにパクパクとさせて、かなり傑作だった。
「…………ねえ、エギルさん?」
 顔を俯けさせた青年から視線を外し、ごつい男の方へ顔ごと向ける。ゴクンと生唾を飲み込む彼は無視し、すーっと目を細め、絶対的な冷たさを纏わせながら放つ。鋭利な、刃物を。
「私が言いたいこと、分かったかしら」
 言葉で、彼を射る。
 とても長いとは言えないけれど、エギル率いるメンバーと過ごした時間が頭を過った。だが、だからこそ、エギルを傷つけなければいけないのだ。
「私ね、今、すごくあなたにイラついているの」
 驚愕の色に染め上げられた厳つい顔が、茫然と私を見詰めていた。「やめろ」と、その口が微かに形作られる。
「そこの人はただ阿呆なだけだから、内心笑っていられたわ。“こんなことにムキになって馬鹿だな”、ってね。けれど」
 ああ、力の入らない手足が悔しい。本当なら、もっと手酷くエギルを罵って、“この女の仲間では無い”と強く植え付けなければいけないのに。
「……けれど、自分がやったことを後悔するような奴と比べられるなんて、これ以上ない侮辱よ。ふざけないで」
 ――――どうか、お元気で。
 そっと瞑目し、心の中で祈る。
「目障りだわ。早く私の前から消えてちょうだい」
 ボス部屋の空気が一気に硬直した。痛いくらいに静まり返る。誰一人として、動こうとしなかった。
 だが、やがて、成り行きを見ていた男が人垣から歩み出てくる。ディアベルの隊だった人物だ。私は咄嗟に身構えるが、チラリと一瞥されただけで、特に何も言われることはなく、
「おい、リンド。もうよせ」
「シヴァタ……」
 リンドと呼ばれたその男が、新たに前へ来た長身な男に肩を叩かれる。気まずそうにチラチラと視線を漂わせるリンドを、シヴァタが背中を強く押して促した。しかしリンドはまだ納得出来ていないらしく、私を不快げに睥睨してきている。
 シヴァタという男がさらに出てきたことによって、場の時間が再び動き出したらしい。ざわざわと、ボス部屋に音が戻って来る。
 ただしそれは、私への悪意だったが。
「なんだよ、あいつ。庇ってもらっておいて、逆に責めるとか……」
「考えられねぇよ」
「こんなの酷過ぎる」
「おい、そんなやつ放っておこう!」
「……そ、そうだ! 早く行こうぜ!」
「もう近づかないほうが良いだろ、俺たちとは違い過ぎる」
「頭おかしいだろ」
「正直≪ビーター≫なんかよりも、コイツの方が――――」
 あまりに慣れ過ぎたそれらは、“私”や、私には届かない。
 いくらでも言えば良いのだ。どうせ、効きはしないのだから。削られるものは何も無いのだから。
 シヴァタが苦虫を噛み潰したような表情で座り込む私を一瞥し、リンドの腕を強引に引っ張った。だが当の本人は、彼の手を振り払い、私を蔑む目つきで見下ろし言った。
「……化け物め」
 これまた、ありふれた暴言をありがとう。お礼に綺麗な笑顔を向けてやる。
「あら、今更気が付いたの? 私は、ヒトの皮を被った化け物よ」
「……っ」
「それにあなたたちの中傷の言葉なんて、私にとって街中の喧騒と等しいわ」
 リンドはさっと顔を歪め、唇をギリギリと音がしそうなほど噛み締めた。
 だが、これ以上言い争うつもりは無いようで、バッと背中を向けると、乱暴な足取りで先刻入ってきたのと同じ扉へ向かっていく。その背中を、まるで親鳥について行くアヒルの子のように、リンドの仲間や他のパーティーの者まで、こちらをちらちらを見ながら釣られるように追っていった。それを確認にして、“私”はふぅ、と息をつき、視線を落とした。多くの足音が、どんどん遠くなっていく。
 しかし耳朶を打ったその足音に、自分の耳を疑った。
 数にして、おそらく5人分。それが、近づいてくるのだ。けれども、誰かは予想できてしまったので、顔を上げずに棘のある声を作って言った。
「……聞いていなかったの。あなた達は、“脅されて”いたのよ」
「だ、だが……」
 私に落ちる影が増えていく。それを認識して、――――否、認めて、ぐっと手を握りこんだ。
 駄目だ。これ以上は、駄目。
 私と彼らとの接点を、リンドが覚えていなかったから良かったのだ。かなり無茶苦茶な言い分ではあったが、何とかエギルが巻き添えを食らうことを防ぐことが出来た。だが、直接こうして話しているのを見られたら、もう言い訳のしようが無い。
「……行って」
「――――き……」
「行きなさい!」
 ビッと出口を指差す。息を詰まらせる気配があった。しかしそれきり、彼らは動こうとしない。
「…………お願いよ、早く行ってちょうだい。何のためにパーティーを解除したと思っているの」
 何のために、わざわざあなたたちを傷つけたと思っているの。
 私は、あなたたちに感謝をしているのだ。こんな私を見切らずに傍に置いてくれた。それだけで、十分だった。
 そんな彼らまで私の下らない茶番に巻き込むことは、自分自身が許さない。
 やがて、大きく息を吸い込む音がした。ハッキリとした、重みのある声が上から落ちてくる。
「……解った」
 それはズシンと響き、私の中でこだまして、掻き消えた。ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように、足音が遠ざかっていく。
 それをぼんやりと感じながら、 “私”はひっそりと、誰にも視えないように、笑みを“零した”。
 これで良い。良いのだ。
 悲しみも、悔しさも、恐怖も、苦しさも、何も無い。大丈夫。
 だいじょうぶ。
 私は、正常に、動けている。
 身体がまだ上手く動かせないのは、少し疲れてしまったから。思考がぼんやりしているのは、さっきまでボス戦をしていたから。戦闘が終わった安心感と達成感に、脱力してしまっただけなのだ。
『大丈夫、キカちゃん?』
「……う……、っ」
 ああ、とうとう幻聴まで。これは意外と疲れが溜っているのか。早く帰ろう。さっさとあの村まで行こう。
 思い出の残るあの村まで、帰るのだ。
『やっと、僕の目を見て笑ってくれたね』
 どうして、身体が動かないのか。足先も、指先も、何故ピクリとも出来ないのか。
 早く立て。歩け。時間は有限なのだ。無駄には出来ない。
「はや……く」
 足に、腕に、力が入らない。
 ――――俺たちとは違い過ぎる。
 痛む胸のコレは何だ。厭われることは慣れているのに。
 ――――ごめんね。約束、守れそうにないや。
 せり上がってくるコレは何だ。私は、こんなもの知らない。知りたくない。だから分からない。分からなくて良い。
「やだ……もう、なんで」
 私の中で何かが暴れまわる。肉を内側から引っ掻きまわされる。
 痛い。
 理由なんて、原因なんて、何も無いはずなのに。
 いたい。きもちわるい。……いたい。
 服の裾を鷲掴む。ぐしゃりと皺が寄っているのが分かるが、気にすることなんて出来ない。
 ただ、痛みを紛らわせたい。胸の中の暴風雨を止ませたい。その一心で、未だぎこちない動きをする手へ無理やり力を入れる。
 これ以外に、やり方なんて知らなかった。唇を噛み締める。
 私は、荒れ狂うものを収める糸口をつかめないまま、ただやり過ごすために、“私”から目を逸らした。

「――――あなた」
 澄んだ、鈴のような声が飛び込んで来た。全く予想していなかったそれに驚きながら顔を上げ、そちらに視線を向ける。
 栗色の髪が、さらさら、きらきらと揺れていた。光を弾いて、瞬いていた。
 息を呑みながら、突然現れたその少女をまじまじと見つめる。
 もう、この場に居た人たちは全員出て行ったと思っていたのに。すばやく目を動かし時刻を確認すれば、あの集団がいなくなってからそれほど経過していなかった。体感時間的には、ずいぶん経っていたのに。
 予定外だ、これは。まさか、まだ人が居たなんて。
「…………あら? フェンサーさん、まだ残っていたのね。黒い人と一緒に、2層へ行ったと思っていたのに」
  彼女の首が、ゆるゆると横に振られる。
「いいえ、私は行かなかったの。……でも、どうしてあなたは一人で――――」
 流れていく視線が、私の隣に転がる弓を見て止まった。端正な顔が、ひそめられる。私はそれを認め、軽く笑みを作ってから、
「別に嘘を言ったわけではないのだけれど、彼らにちょっと教えてあげたのよ」
「教えるって……、あなた、何を」
 ああ、なんて滑稽なのだろう。笑えてくる。

「“ディアベルを殺したのは私です”、って」

 さらりと、しかしいたずらっぽい色を混ぜて言った。けれども、ますます哀しそうに歪められてしまった。どうしたのだろう。
 それからしばらく、何かに迷うように彼女の目線が動いた後、小さな、つぶやきのような声が聞こえた。
「……どうして」
「責める対象を間違えていたからよ。私は、ただ修正しただけ」
  淡々と、事実を口にする。
 そう、彼らは嫌悪を向ける対象を完全に誤っていた。ディアベルが死んだ責任をベータテスターに押し付け、愚かにもたった一人の少年を責め立て悪者にし、満足しようとしていた。その姿があまりにも馬鹿らしかった。無様だったのだ。
 だって、ゲームを全く嗜まない私が、ボスの武器の異変に気付けたのだ。もし剣に関する知識を持っていれば、ベータテスターでなくとも気付ける可能性は十分にあった。つまりこれは、ディアベルの死は、全体で背負うべきもののはずだったのだ。全員が、抱えるべき“死”だったはずなのだ。
 それなのに彼らは、認めたくない、目を逸らしたい、責任を負いたくない――――そういったものに駆られ、矛先を、ベータテストを経験した者たちへ向けたのだ。何故なら、“簡単”だから。言い逃れのしにくい人たちへ――――手頃な対象へ押しつけて、自分たちは逃げようとしたのだ。特にあの少年の場合、記憶力が良く、ボスのスキルを読むことが出来てしまったから、拍車を掛けることになってしまった。
 結果、あの少年が全てを引き受けることになったのだ。
 向こうの世界では、良くも悪くも、頭の回転が速かった彼のことだ。このままいけば元ベータテスターが危険に晒されると、勘付いてしまったのだろう。
 ……まあ私は、彼が≪ビーター≫と呼ばれようがどうでも良いのだけれど。
 もし私が矢を放っていなければディアベルは生きていたかもしれない。これは別に彼らを挑発するために発した言葉ではなく、私が実際に思っていることだった。
 C隊は、自分たちの横をスレスレで通り過ぎた矢に驚いて後ろへ跳び、後退した。しかし急な動きだったためバランスを崩し、結果ディアベルは死亡した。これは事実だ。何も間違ってはいない。
 そりゃあ、私が手を出さなくても、彼が死ぬ未来は変わらなかったかもしれない。しかし、寸でのところで気付いて後退していた可能性だってあるのだ。だが、こんな「もしも」をいくら考えたところで何も変わらない。大切なのは“事実”だけ。未来を予測して行動するのは重要だが、終わったことをあれこれ考えていても時間を無駄にするだけだ。
 今回必要なものは、“私が矢を放ち、ディアベルが死んだ”、という至極簡単な現実のみ。
 彼の死の責任は全員で負うべきなのかもしれないが、原因を作ったのは明らかに私だ。
 ディアベルの死を目の当たりにしたメンバーが、誰かに責任を押し付けて楽になりたいのなら仕方がない。どうせ真正直に「これはみんなの責任だ」などと説いたところで、頭に血が上った人間たちに受け入れてもらえるわけがないのだ。
 ならば残された方法は一つ。それが向かう対象を、より正しい者へ向けさせるのだ。
 だから私は、訂正した。この状況へ追い込んだのは≪ビーター≫ではないのだと。正しいことを、教えてやったのだ。
「私が彼を殺したのよ。私の、せいなの」
 ――――あの人のせいじゃない。
 限界まで目を見開く少女から逃げたくて、視線を外した。口元に笑みを刻む込む。






 彼女がこちらにゆっくりと近づいてきた。
怒るのだろうか。それとも、罵るのだろうか。けれど、どんなことでも甘受しよう、と思って顔を俯けると――――、予想外のことが起きた。
「……大丈夫。一緒に街まで帰りましょう?」
 頭の上に、あたたかい手が乗せられた。優しく、慈しむように、ゆっくりと私を撫でる。じんわりと、かわいた何かに染み込んできた。
 そして、彼女もしゃがみ込んで私と目線を合わせる。茶色の瞳の中に、私の姿が映った。
「私はアスナ」
 すっと、躊躇いなど感じさせない手が差し伸べられてきた。
 真っ直ぐで、よどみのない光。
 どうしてこの世界には、こんな人たちが多いのだろう。
 あんなに動かなかった腕を持ち上げ、“私”は、吸い寄せられるようにその手を握った。
 小さくつぶやく。
「……キカ、です」



*   *   *



 迷宮区を出て、フィールドをアスナと連れ立って歩く。やはり暗くて閉鎖的な所よりも、風が吹き抜ける外の方が気持ちがいい。
 そんなことを思いつつ、途中モンスターと遭遇しながらも、彼女と話しながら歩いていた。そして、話題は先ほどのこと――――と言ってもほぼ愚痴りだが――――に移り――――、
「……って、キカ、その男がデュエル申請を受諾していたらどうしていたのよ!」
「……どうって……、開始後すぐに、リザインしていたわよ」
 当然でしょう、と付け足すと、アスナはポカンと口を開け、呆れたのか深いため息をついた。
「それ、すごく怒るんじゃ……」
「最初から、“怒りを買うこと”が最終目的よ。別に戦うことではないわ。……むしろ、それで頭に血が上ってくれた方が、達成されたと言えるもの」
 彼女の綺麗な眉が寄せられる。
「あなたねぇ……」
 また一つため息をつき、そして何か言おうと口を開きかける。 私はそれをすばやく手を動かし、遮った。
 これ以上続けると、彼女のお説教が始まりそうだった。それはさすがに面倒だったので、聞こうと思っていた話題へ無理やり方向転換する。
「……そ、そういえば、あの黒い男の子の名前、なんて言うのかしら?」
「え?」
 虚を突かれたのか、アスナが目を丸くする。しかし、すぐに訝しむような表情になった。私はそれを見て、慌てて真顔で手を振りながら、
「別に何かしようってわけじゃないわよ。あの男の子、ずいぶん肝が据わっていると思ったから……」
「それ、キカが言えるようなことじゃないでしょ」
 もう、と言いながら、軽くこちらを睨んでくる。やっぱり無理があったか。
 だが、出来れば “彼”のこちらの世界での名前を知っていた方が都合がいい。彼とパーティを組んでいたアスナなら、十中八九、……というか必然的に知っていると思うのだが。
 しかし、ゴリ押しはしたくない。どうしようか、と思いながら、間を埋めるために頬を掻き、次の手を考えていると、
「キリト」
 それを、見事に遮断された。まさにクリーンヒット。思考が止まる。
「え?」
  口からそう音が漏れ、思わず隣を見ると、空を遠い目で見上げているアスナの姿があった。そっと、彼女を盗み見ると、どこかやるせなさが漂っていて、しかし再び引き結ばれていた唇が開いた。
「だから、“キリト”よ。あの人の名前」
「……そう。教えてくれてありがとう、アスナ」
目を伏せ、彼女から目の前の風景へ顔を向ける。
 ――――キリト、ね。
音には出さないように、その名前を刻み付けるように心の中でつぶやいた。
 なんて単純なんだろう。本名の最初と最後を取って3文字。
 まあ私も同じように単純と言えば単純だ。ただそれが、自分の名前ではないだけで。
「……私も、同じようなものね……」
 ぽつりと、水滴が一滴落ちるように小さくごちる。
「……ん、何か言った?」
 なんと、落ちたしずくが掬い上げられてしまった。けれども、指の隙間から零れさせる。
「いいえ? 何も言っていないわよ」
 不思議そうにアスナが首を傾けるので、「幽霊じゃないですか」と冗談めかして言ってみた。すると、予想以上に彼女の顔が引きつり、
「……や、やっぱり気のせいかも!」
 上ずった声を上げ、途端に必要以上に手の振りが大きくなり、歩き方もどこか硬い。
 ……あ、こういう話題弱いんだ。
 意外過ぎる一面で、なんだか得をしたような気分になる。 私は含み笑いを作りながら、助け船を出すように正面を指差した。
「ほら、もうすぐ主街区に着くみたいよ」
「そ、そうね。早く休みたいわ」
 まだ若干口調が不自然だが、平静を装いたいのか腰に手をあて、ふぅ、とアスナが息をついた。そんな彼女を横目で見て、苦笑いを作ってから、息を浅く吸った。「じゃあここで」、と、そう別れの言葉を音にするため口を開く。
「……あれ、どうしたのかしら。ちょっと様子が変よ」
 だが、アスナの一言によって閉口することになった。彼女が見ている方向を釣られるように見遣る。
 そこには、何人かのプレイヤーが頭を捻りながら何事か話し込んでいる。その雰囲気は、どこからどう見ても異様だ。
 すると、その数人の内、一人の男がこちらに気付いた。必然的にバチリと視線が絡まってしまう。そのことで、本能的に足が動き、後ろに半歩下がった。アスナと動きが完全に被る。しかし、次の瞬間。
 びゅん!
 そんな音がしそうな勢いで詰め寄られ、すぐに意味はなくなってしまう。
 ……あぁ、この人敏捷型かな。なんて、あまりに呑気に、場違いなことが脳裏をかすめる。だが、すぐにそんなこと考えている場合ではないと、思考回路を修正して、だがしかし、
「な、なあ、君たち、さっきのボス戦攻略戦のメンバーか!?」
「……え、はい」
 質問の意図が全くもって分からないが、過剰なほどの勢いに圧されるようにして、思わず肯定してしまった。心の中で舌打ちする。隣を見れば、アスナが顔を先ほど「幽霊」という単語を聞いた時以上に、しかも不快そうに顔を顰めている。私も同じような表情になっていると思うけれど。
 だが、すぐに軌道修正し、私はにこやかな笑顔を作る。そして、なるべくこれ以上は面倒事を起こしたくないので、波風立てないように和やかに聞いた。
「それが、いかがなさいました?」
「あ、ああ……、実は、さっき他の攻略メンバーが帰ってきたんで、アクティベートしたのは誰だって聞いたんだ。そうしたら、かなり不機嫌そうに“そんな奴いない”って言われちまって」
 ……どういうこと?
 その内容に呆気にとられ、思考が停止する。しかし、そう首を傾げたのはほんの少しの間だけで、すぐに状況を理解した。
 おおかた、≪ビーター≫と蔑むプレイヤーが、イラつきながらつい言ってしまったのだろう。
 本当に、ごく一部の人間だけだろうが、大馬鹿だと思う。まだ言っているのかと、ほとほと呆れてしまった。
 自然と手に力が入っていくのを感じながらも、表面は笑顔を保ち、クスリと笑みを作ってから、男に言った。
「ええ、そうですよ」
 未だに目を丸くしているアスナの腕を引き、その場を逃げるように去った。
 そのまま主街区のゲートを潜り、人の波からある程度離れた所でアスナに向き直り、先ほど言えなかった別れの言葉を口にする。アスナは残念そうに眉を顰めたかと思うと、
「ねえ、キカ。私とフレンド登録しない?」
「……え、ええ、良いけれど」
「決まりね。申請送るから、許可してよ」
 言うが早いか、アスナとフレンド登録をするか否かを問うメッセージタブが現れて、思わず苦笑してしまう。「承認」をタップして、しっかりと彼女の目を見据えた。
「よろしく、アスナ」
「うん。こちらこそ、これからよろしくね。キカ」
 くすくす、くすくす。
 和やかに笑い合って、握手を交わした。
「じゃあ、またね」
「ええ」
 アスナが身を翻す。彼女の背中がどんどん遠くなっていくのを目で追うが、人混みに呑まれ視認出来なくなったところで視線を外した。小さく息をつく。
 闇が増してきた空を見上げてみるが、今日の天気は曇りと設定されたようで、濁っていて星は望めそうにない。 
「……さて、どうしましょうか」
 “彼” ――――、キリトから、どうやって身を隠すか。
 それは、キリトの姿を見つけてから考えていることなのだが、これがなかなか良案が思いつかない。
 極論、どこかに必要最低限以外は引きこもってしまえばいい。幸い、私は食事を取らなくても平気だし、泊まれるような場所をなんとか確保さえ出来るよう、度々フィールドへ出れば、それだけでおそらく半永久的に身を隠せるだろう。しかし、それをやればこの世界に来た意味が無くなるし、私のポリシーにも反する。よって、考える間もなくコンマ5秒で却下だった。
 それ以外ならば、一番手っ取り早いのは、容姿を変える――――、たとえば髪型を変えることだろう。案外、思い込みでなんとかなったりするものである。
 だが、それだけで済むのならば、今日一日中あんなに神経をすり減らしながら、キリトの事を気にはしていない。
 あの人のことだ。やけに聡い所もあるのだから、中途半端には出来ない。本気でやらなければ、足元をすくわれる。
 故に、もし髪型を変えるのであれば、色をピンクやらオレンジやら、私のイメージに絶対に合わないものを選んで変えなければならないだろう。だがそのためのアイテムは、おいそれと手に入るものではないだろう。今こうしている間にもばったり会う可能性が十分にあるのだ。
 私の存在――――、たとえそれがまだ“紅葉”であるとは認識されていなくても、“黒髪の少女”がいると、おそらく知られてしまっている。あまり考えたくはないが、最悪の場合、私の位置取りが失敗して、あるいは人伝いに、“弓使いである”、という情報もキリトに渡ってしまったかもしれない。
 だからこそ、悠長には構えてはいられないのだ。ことは急を要する。即刻対応するべきことなのだ。
 …………ほんの、十数秒でいい。
 それだけ誤魔化せれば、他人のふりをしてすれ違うことが出来る。あとは、私の腕次第だというのに。この壁が、高いのもまた事実。
「“性格”さえ決まってしまえば、そこからは私の得意分野なのだけれど……」
 するりと、そんなことがこぼれた。そんなことを言っても現状は変わらないのに、と自分で突っ込む。しかし、すぐに、別の事から自嘲的な笑みを作った。
「……得意分野、か……」
 昔は、純粋だった。ただ真っ直ぐに、“それ”を楽しんでいた。けれど、今は唯一、別の意味で手放せないものとなっている。
 ――――ふと、幼い日の事を思い出した。
 あれは、家族全員で出かけた日の事だ。とても印象的だったので、全く色あせることなく、鮮やかに記憶に残っている。
 その日、私たちは女性のみで構成されている歌劇団の公演を見に行った。とても優美で、凛々しくて。そして、繊細さや力強さも兼ね備えている。私はすぐにその独特な世界に引き込まれていて、その空間が始終輝いて見えていた。
 そして、和人――――キリトに出したクイズ。あのことも、はっきりと覚えている。といっても、彼は答えが解ることはないだろうし、私が正解を教えることもないだろう。
「……何、思い出しているのかしら」
 今更。
 そう、今更だった。
  息を深く吸い、落ち着くためになるべく長く吐き出す。空から視線をはずし、流れるように足元へ視線を落とした。
 瞬間、発作的にあることが浮かんだ。
「……あ、ああ……!!」
 口から、自然と音が漏れる。どうして、こんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
 昔家族で観たその歌劇団では、女性が男性役もやっているのだ。
 ――――そう、男性役。
 人間の思い込みは、なかなか拭うことが出来ない。外見だけでも男として振る舞っていれば、面と向かわない限り、キリトは私を紅葉だと気付かないはずだ。もしかしたら、女であることすら認識出来ないかもしれない。つまり、第一印象を勝ち取ってしまえばこちらのものだ。
 私ならば、システムの助けなど無くとも、性別をひっくり返すことなど可能だ。余程取り返しのつかない失敗をしない限り、誤魔化し切れるという自信がある。
 それは、私の得意分野なのだから。

 方針を決めた私は、さっそく動き始めた。とりあえず今は何でも良い。別に服装に拘るつもりなんてないのだ。NPCの服屋に入り、適当に購入する。
 店からほど近い宿に滑り込んで、用意された部屋に足早に向かう。おそらくキリトは今第二層にいるだろうが、それでも早く終わらせたかった。
 部屋を閉め、念のため誰も入って来られないように設定する。
 簡素なベッド一式と、机に椅子。最低限のものしか置かれていなく、薄暗い部屋は、実際の面積よりも余計に狭く感じさせる。けれど十分だ。休息を取るだけの場所なのだから、そんなご立派な設備は必要ないだろう。
 ウィンドウを開き、まず上着やらインナーやら、上に着ていた装備を外した。その分の重みは無くなり、冷たい空気が晒された上半身に刺さる。自分一人しかこの部屋にいないと解っていても、何となく居心地の悪さを感じてしまう。さっさと済ませてしまおう。
 そのまま手元を動かし、ここに来る前に購入したアイテムをオブジェクト化する。
 手元を見れば、なんて素晴らしいことでしょう、向こうではありえないだろう早さで、普通のものと比べるとかなり幅の広い――――おそらく目算で幅30センチ程度――――の包帯が現れた。長さは、とぐろ状に巻かれているのでこれも目算だが、おそらく200センチ程度のもの。
 それを、胸部へ巻いていく。静かな室内に、シュルシュルという音がやけに響いた。
そして、そこがなだらかな曲線を描いた所でちょうど布の端になったので、ぐっと内側に押し込んだ。
「……ふぅ」
  第一段階終了。
 巻けるかどうか多少不安があったが、“包帯”はもともと“巻く”と設定されているアイテムのようで、部位に指定は無いらしく、何ら問題などなかった。杞憂に終わって良かったと思う。
  次、第二段階。
 ウィンドウをさらに操作し、先ほど着ていたTシャツやキャミソールのアイコンを装備フィギュアへ移動させる。そして、包帯と一緒に購入した新しい服も、続いて操作し装備した。
  一瞬の光が包んだ後、すぐに着替えが完了した。この辺りはどうしても現実味が欠けてしまうが、これはこれで便利なので良いだろう。
 部屋に備え付けられている、大きめの鏡を見遣る。自分の胸の高さほどまであり、上手く距離を取れば頭の天辺まで写すことが出来た。
 ブカブカで、カーキ色のフード付きパーカー。そして、丈が余りまくり、同じくブカブカとしている黒いズボン。どちらも男物だ。
 ネージュが身に付けていた服装を彷彿させるそれらに、己が選んだものながら苦笑いを浮かべる。けれど仕方ないだろう。一言で男装と言ったって、どういう格好をすれば良いのか分からなかった。そんな中で彼を思い出せる色を見てしまったから、思わず選び取ってしまったのだ。
 いやしかし、全体的にボッタリとしている。とりあえず動けるし、ダボダボとしている方が体形を違和感なく隠せるだろうから、問題は無いだろうけれど。
 先ほどのアスナとの会話で「キカはもう少し服に気を使ってみたら?」なんて言われていたから、何となく彼女に申し訳なくなる。彼女の助言とは正反対の方向へ突き進んでしまった。今の私の姿を見れば、アスナはどんな顔をするだろう。心の中で詫びた。
 まさに馬の尻尾と言えるポニーテールを、服の内側へ入れ込む。こうしなければ、実際は髪が腰の下まで伸びているので、少々つらい。髪をショートヘアにしてしまうという手もあるのだが、この髪型は本当に、何となく落ち着いてしまうし、長い髪の毛の方が私にとっては便利なので、このままにすることにした。それに、フードは割とピッタリとしているので、被ってしまうと少し長めの前髪くらいしかのぞかない。これだけなら、十分短髪に見えるだろう。
「――――終了だ」
 さらに、この世界では、女性にしては低い声になった。……まあ、それでも、混声四部合唱のアルトに分類されるものだろうが、この容姿で行けば変声期前の少年の声に聞こえるだろう。

 さて、どんな人物にするか。
 野蛮? 温和? ……それとも寡黙?
 あまりに突飛すぎると、どこかにほつれが出てくるだろうから、そこは考えなければならない。あくまで、“私”の性質と寄り添うように。……あの日と同じことをすればいいだけのことだ。
 だが、今はとりあえず、この件については保留にしておいていいだろう。


 ここは、孤独な舞台だ。
 客なんてもちろんいないし、私の他には出演者もいない。完全な一人。
 内臓まで凍りつきそうなほど冷たくて、皮膚が捲れるほど熱くて、……だからこそ優しい、そんな空間。
  独りぼっちの世界はいつだってそんな風で、流れて、温かくて、寒くて、熱くて、痛くて、冷たい。だから何物にも干渉されない。
 なぜなら、“私”の存在はないし、私自身でさえそれから目を隠してしまっているので視えない。お互いに知らぬふりを続ける。偽られているのは、ホンモノなどないことは、解りきっているから。
 そんな場所に、他のヒトは入ってこない。入れさせない。
 ホールの中は荒れ果てていて、4年分のホコリが溜まっている。これは片付けかれることはない。ありえない。
 それを解っていても、解っているからこそ、目を逸らす。 “私たち”はそれぞれのニセモノを隠し、庇い合い、知らぬ存ぜぬを突き通す。そうしなければ、何もかもが壊れて、崩れて、終いにはまた幻想を打ち砕かれて、初めからになってしまうから。歪に捻じ曲がったそれが無くなれば、瞬く間に崩れ去ってしまうだろうから。
 しかし、それでも、……いやだからこそ、“私”は嘆く。
 ――――ああ、今日もガラクタばかり。
 網目状に割れた鏡の中で、“私”が見つめている。
 これは、明日も、明後日も、きっといつになっても変わらない。
 月日が増すのと比例して、根を深く張り、もうすでに私から引きはがすことは出来ないのだ。




「――――さて、大変長らくお待たせいたしました。役者の入れ替わりが済みましたので、これより……。」
 開幕を知らせるブザーが、音もなく私の中で、黒い世界で、暗い室内で鳴り響いた。
 そして、私は笑みを作る。
 また明日も、明後日も、いつまでも、この表情を浮かべ続けるのだ。
 
 

 
後書き
 このお話は、眠気と戦いながら修正をしていました。少しでも気を抜くとクラァ……ときてしまって(笑)
 ミンティアにお世話になっていました!



*   *   *



次回の更新は7月4日(18時)を予定しています。


☆誤字脱字など何か気付いたことがありましたら、教えていただけると幸いです。 
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