黒魔術師松本沙耶香 紅雪篇
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18部分:第十八章
第十八章
「だからよ。いいわね」
「わかりました。それでは」
その言葉を受けて頷く。
「同じでいいですよね」
「ええ、リープフラウミルヒ」
彼女はその名を三度口にしてきた。
「それをお願いね」
「はい、それでは」
「それにしてもね」
「ええ」
三本目を頼んでも話は続く。沙耶香はさらに言うのであった。
「中々。上手くはいかないものね」
「はあ」
寂しげな笑みにバーテンは少し戸惑いを覚えた。
「ワインはこうしてすぐに手に入るけれど」
「お金を出せばですか」
「まあね」
バーテンの言葉に応える。
「お酒も身体も手に入るのよ。けれど」
「心はそうはいかないと」
「そうよ」
そのワインを飲みながらの言葉であった。
「それはね。どうしようもないわ」
「上手くはいかないものです」
バーテンはグラスを磨いていた。磨きながらの言葉であった。
「全くもって」
「仕方ないことだけれどね。それでも」
沙耶香は飲み続ける。ワインには酔っても心は酔ってはいない。
ワインをかたむけながら沙耶香は時間を過ごした。飲み終えた後で彼女が向かったのは新宿ではなかった。上野の方であった。
そこを一人歩く。白鬚橋のところを歩いていた。隅田川にかかっている橋で名前の由来は橋の東岸にある白鬚神社にある。元は渡しがありここで在原業平が言問の歌を詠んだという。
少し登校時間からずれていたので道行く学生はいない。いるのはまばらに背広姿の男だけだ。紅の雪の中で魔都はシンと静まり返っている感じであった。
コンクリート造りで中央に鉄筋のアーチがある橋の左側を一人進む。進んでいるとそこに一人の少女が通り掛かった。
見れば白いコートを着て黒く長い髪をストレートにした少女であった。眼鏡をかけていてそれが清楚でかつ知的な印象を与えている。鞄を持っているがその手も手袋に覆われている。年齢は中学生といったところであろうか。小柄で華奢な身体がコートの上からでもわかる。
顔が紅い。それを見た沙耶香は少女に声をかけてきた。
「待って」
「はい?」
少女は沙耶香の言葉に顔を向けてきた。沙耶香はそんな彼女に対してさらに声をかけてきた。
「貴女、風邪をひいているわね」
「いえ」
「隠さなくてもいいわ」
顔を背けた少女に対して述べた。
「顔を見ればわかるわ。微熱ね」
「それは」
「よくないわね」
沙耶香は静かに述べる。
「こじらせたら大変なことになるわよ」
「けれどお薬ももう飲みましたし」
少女はそう述べて沙耶香の気遣いから避けようとする。しかし沙耶香は逃しはしない。何故なら気遣いとは別の狙いもそこにあったからだ。
「駄目よ」
少女に追いすがってきた。
「無理をしては。いい?」
「はあ」
捕まってしまった。それで沙耶香を見上げた。運の尽きであった。
一瞬だが沙耶香の目が赤く光った。その目で少女の目を見る。それで終わりであった。
「いい。風邪をすぐになおしてあげるわ」
「お願いします」
その言葉にこくりと頷く。そして沙耶香の手の中に落ちた。
「それでね」
コートの中に少女を包み込んだうえで声をかけてきた。
「お家は何処かしら」
「すぐ側のマンションです」
少女は夢うつつといった言葉で答えた。
「今はお父さんもお母さんもいません」
「そう。なら好都合ね」
その言葉を聞いて目を細めさせる。
「じゃあいいわね。一旦お家へ戻るわ」
「ええ」
言われるがままに頷く。頷いたのは操られてであろうか。それとも自分の意志であろうか。それは沙耶香だけが知っていることである。
「それでなおるわ」
そのまま彼女を自宅へ連れて行く。マンションのエレベーターを二人で上がっていく。
「随分いいマンションね」
「そうですか?」
「そうよ。場所もいいし」
少女に対して答える。
「景色もいいわ。今は人によっては残念と思うでしょうけれど」
くすりと笑って述べた。
「それでもこれはこれでいいかもね」
「そうなんですか」
その言葉に半ば感情が消えた言葉で返した。まだ沙耶香の術が残っているのであろうか。
「そうよ。けれどね」
彼女は言う。
「これから少しの間はその雪が関係ない世界に入るわよ。いいわね」
「雪が関係ない世界ですか」
「そうよ」
声の響きが妖しくなった。右手で少女の顎を取ってその白く可愛らしい顔を見る。幼さが残りあどけない感じである。美少女と言ってもよかった。妖精に似た感じの。
「それでね」
沙耶香はその少女に問うてきた。
「貴女、付き合っている男の子か男の人はいるかしら」
「いえ」
少女は顎を取られたまま首を横に振ってきた。その顔はじっと沙耶香を見ている。
「そう、いないのね」
「ええ。そんな人は」
「じゃあまだ何も知らないのね。それもいいわ」
目が細まる。獲物を手に入れた鷹の目になっていた。
「青い果実を食べるのもまた」
「青い果実?」
「いいのよ。こちらの言葉だから」
それには答えない。ここで少女の部屋のある階に着いた。
「もうなのね」
「はい、ここです」
少女は答えてきた。
「家の中ですよね」
「そうよ」
沙耶香は答える。
「そこでね」
「風邪をなおしてくれるんですよね」
「ええ。私がね」
答えながらも少女を見ている。エレベーターから出て部屋に向かう間その肩を抱いている。顔を近付けて少女の香りを楽しみながらだ。それは淡いミルクの香りであった。
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