牡丹
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7部分:第七章
第七章
「そして誰であってもか」
「その通りだ」
呂布の言葉には一切の迷いがない。
「貴方であってもだ」
「そうか。ではこれ以上は話しても無駄だな」
董卓は遂に言ってきた。
「そなたは。下がらぬか」
「貴方もまた」
「ならば。覚悟せよ」
董卓は腰の剣を抜いてきた。白銀の瞬きが彼の前で煌めいた。
「苦しませはせぬ。よいな」
「それはこちらも同じこと」
呂布もまた。腰にある剣を抜いてきた。
「下がりませぬな」
「御前と同じこと」
董卓はまた告げた。
「それでわかるであろう」
「確かに。それでは」
二人は剣を構える。二人共微塵の隙もない構えであった。
「お見事です」
呂布は董卓のその構えを見て述べた。
「それだけの構えは。そうは見ませぬ」
「誰だと思っておる」
董卓は轟然として彼に言ってきた。
「かつては北で名を馳せたこの董卓、衰えてはおらんぞ」
「それでは参りますか」
「無論」
その言葉にも迷いがない。
「よいな」
「ええ」
二人は左右に動く。動きながらお互いの隙を探る。貂蝉はその間に二人から離れた。一人何処かへと去ったのであった。
しかし二人はそのことに気付かない。そのまま剣で斬り合う。董卓はその肥満した身体からは想像もできないすばやい動きで剣を振るう。呂布ですらそれは受け止めるのがやっとであった。
「くっ、これは」
「呂布、その程度か」
董卓は剣を繰り出しながら彼に言う。突きをメインに呂布を襲う。
「その程度で天下に武勇を知られたというのか」
「くっ」
呂布はそれを受けながらも退きはしない。董卓は今まで多くの戦場で敵を倒してきている。だからこそその剣は鋭く速い。しかし呂布もまたそれは同じだ。彼は攻撃を受けながら隙を窺っていた。
だがそれも限界に近付いていた。すぐ後ろに池がある。池に落としてそのまま沈めて倒すことも可能であるからだ。状況は董卓に有利になろうとしていた。
「覚悟はいいな」
董卓は呂布に問う。
「このまま」
止めをさそうとこれまでにない一撃を繰り出してきた。しかしここで気合を入れ過ぎてしまった。僅かだがバランスを崩した。それは並の者ならば気付かないものであった。しかし呂布は違っていた。その一撃にある崩れを見ていた。彼はそれに入ってきた。
「もらった!」
呂布は董卓の突きを避けた。危うく彼が池に落ちそうになるがそこで態勢を整える。そのまま右に振り向きざまに剣を振ろうとするが遅かった。そこにはもう呂布がいた。彼は剣を横に一閃させた。それで董卓の胸を斬った。
「ぐっ」
返す刀で縦に斬る。二条の血泉が噴き上がる。これで全てが決まった。
董卓は剣を落とした。乾いた音が鳴る。それから背中から倒れた。重く鈍い音が響く。彼は血の中に倒れ込んだ。
「これで貂蝉はわしのものだ」
呂布は倒れ伏した董卓を見下ろして言った。
「それで宜しいですな」
「御前は勝った」
董卓も言う。敗れたとはいってもまだ覇気をその身にまとわせていた。
「それだけだ」
「はい。ですから貂蝉を」
「うむ」
董卓は頷く。
「それでは」
「しかし不思議なものだ」
董卓はあらためて述べた。
「天下よりもな。欲しいものがあるとは」
「それが貂蝉だと」
「同じじゃ」
彼は言う。
「御前とわしはな。同じだったのじゃ」
「ええ、確かに」
それは呂布もわかる。だからこそ二人は争ったのだ。
「だから。覚えておけ」
そう呂布に述べてきた。死期が今そこに迫ってきているというのにその顔は赤くまるで鬼のようである。とても今死ぬとは思えない。
「わしと同じ破滅にならぬようにな」
「それでも構いません」
呂布はそれに応えて述べた。
「私は貂蝉さえいればいい。だから」
「そうか。そうじゃな」
その言葉に微笑んでみせた。
「では己の道を突き進むがいい。よいな」
最後にそう述べて言葉を止めた。董卓はそうして最後まで董卓として死んだのであった。
呂布はそんな彼に対して一礼する。まだ礼は失ってはいなかった。
「後は・・・・・・貂蝉」
彼女のことを思い出した。周りを見回したがそこに彼女はいなかった。
「何処だ、何処にいる」
咄嗟に辺りを見回す。しかし見当たらない。
辺りを歩いて回ることにした。すると庭の外れ、牡丹の花の側に彼女はいた。その手に短刀を持って倒れ込んでいた。
「馬鹿な、何故だ」
呂布は彼女の姿を見て叫んだ。喉から血を流して死んでいたのだ。
「これからわしは御前と」
貂蝉に駆け寄る。そして抱き寄せる。
「何故だ、それなのに何故」
返事はない。何も語りはしない。
「どうしてなのじゃ、それなのに御前は」
だが貂蝉は一言も語りはしない。しかしその口元は微かに笑っていた。
その微笑みが何故であるのか呂布は見てもわからなかっただろう。その前に彼はその微笑みに気付いていなかった。彼は貂蝉を抱いて涙を流していた。そのまま何時までも彼女を抱いていたのであった。
董卓を倒した呂布はその後流転の人生を送った。戦乱と裏切りを繰り返し最後は徐州での戦いで曹操猛徳に捕まった。その時は冬だった。雪が世界を覆っていた。
「ふん」
彼は縛り首になることになった。後ろ手で縛られ今城内の刑場へ引き立てられていた。彼は鎧のまま連れられ憮然とした顔で歩いていた。刑場も雪で白く染められている。既に何人かの処刑が終わっている。彼等は皆城門に吊るされている。呂布の番というわけだった。
「呂布よ」
絞首台の前には曹操が配下の武将達と共にいる。鋭利な顔をしており紅の鎧と戦抱を身にまとっている。その彼が呂布に声をかけてきた。
「これが最後だな」
「わしを生かすつもりはないのだな」
「残念だがな」
曹操はこう返してきた。傲然とした目で呂布を見上げている。呂布の身体は後ろ手で縛られているがそれでも大きさは変わらない。だからこそ彼を見上げているのであった。
「御前は配下にはできん。裏切られては困る」
「裏切りか」
「左様」
曹操は答える。
「わしは自分の下に虎を置くつもりはない。だからじゃ」
「虎か」
「豹でもよいぞ」
彼は言ってきた。
「どちらにしろ何時心変わりするかわからぬ獣。そんなものを買うつもりはない」
「心変わりか」
呂布はその言葉に眉をピクリと動かしてきた。その濃く猛々しい眉を。
「確かにわしは多くの者を裏切ってきた」
「自分でわかっておるな」
「二人の義父もな。この手で殺めた」
丁原に董卓のことである。このことが彼の悪名を決定的なものにしたのだ。その為に彼は信用されてこなかったのである。
「そして」
曹操の隣にいる大きな耳の男に顔を向けてきた。劉備玄徳である。一応は皇族ということであり呂布は彼のところに身を寄せていたこともあるし裏切ったこともある。浅からぬ因縁のある相手であった。
「貴殿にもな」
劉備は何も語らない。ただ呂布を見ているだけであった。
「しかしだ」
それでも彼は言う。
「ただ一つだけ裏切らなかったものがある」
「ほう」
曹操はその言葉を聞いて声をあげてきた。
「面白い。それは何だ」
「花だ」
それが彼の言葉だった。
「わしが裏切らなかったただ一つのものはな」
「花を裏切らなかったというのか」
「そうじゃ」
また曹操に答える。
「それだけはな」
「では聞こう」
曹操はそれを聞いて呂布に問うてきた。興味深げに彼を見ていた。
「その花は何の花じゃ」
「牡丹」
彼は一言で答えた。
「牡丹の花じゃ。それだけはな」
「裏切らなかったと申すか」
「そうじゃ。だからわしは」
上を見上げた。空を見ている。その空は灰色の厚い雲に覆われている。だが彼はその雲を見てはいなかった。
「牡丹を持って死にたい」
「そうか、牡丹をか」
「それでよいか」
「春の花なのでないが。しかしじゃ」
曹操は言う。
「赤い布で作らせる。それでよいな」
「赤い牡丹をか。ならばそれでよい」
曹操の言葉を受けることにした。こくりと頷く。
「それでな」
「わかった。ではな」
「うむ」
呂布はその作られた赤い牡丹を服に入れられて処刑された。その顔は不思議と穏やかで満ち足りたものだったという。それから牡丹は中国では貂蝉を現わす花になった。そこにはこうした悲しい話があったのであった。
牡丹 完
2007・3・1
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