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牡丹

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6部分:第六章


第六章

「将軍、将軍は後悔なさらぬな」
「無論だ」
 彼はそれに答える。
「だからこそわしは今」
「そうだったな。ではもう」
 どうしようもないのだと。あらためて思う。既にここまで至っては後は一つしか結末はない。李儒にはそれが見えていたのだ。そしてそれから逃げることもしなかった。
「何があっても後悔されるな。それだけだ」
「わかった」
 李儒の心はわからない。しかし頷いた。
「それではな」
 李儒はそのまま呂布の前から姿を消した。誰もいなくなった自身の屋敷に戻るとそこに一つだけ置かれていた財産を使った。それを酒に入れて飲み干してから一人去ったのであった。

 呂布はもう止まらなかった。次の日彼は董卓の宮殿に向かったのであった。
「なりません、将軍」
 宮殿の入り口で彼は兵士達に前を塞がれた。
「太師は今ここにはおられません」
「ですから後でお願いします」
「貂蝉がおる!」
 赤兎馬の上にいる呂布はこう叫んできた。
「そうであろう!」
「それでもです!」
「まずは太師が帰られてから」
「黙れ!」
 雷のような声で彼等を一喝する。
「貴様等にわしの何がわかるというのだ!」
 そう叫んで兵士達を退ける。
「わかっておらぬのならどけ!」
「ですが!」
 それでも彼等は踏み止まる。
「我々も責務があります!」
「ですから将軍!」
「どけと言っておる!」
 そう言って腕を振るう。剛勇無双の呂布である。兵士達は彼が腕を振っただけで吹き飛ばされてしまった。兵士達を吹き飛ばした呂布はそのまま先へ進んでいった。
「た、大変なことになったぞ」
 兵士達の一人が起き上がって言う。
「将軍が中に」
「太師に御報告を」
 それでも彼等は己の責務を果たさんとする。董卓の下へ人を走らせる。だが呂布はもうそれを見てはいなかった。見ているのは彼女だけであった。
「貂蝉!」
 彼は宮殿の中を足早に動き回りながら彼女の名を呼んだ。
「何処じゃ、何処におる!」
 実は彼女はもう彼が来たのをわかっていた。知っていて姿を隠していたのだ。呂布の姿を見ながら一人呟いていた。
「義父様、これで」
 その手には短刀があった。だがそれは呂布を殺す為でも董卓を殺す為でもなかった。それは全てを終わらせる為であった。彼女はそれを懐に忍ばせてから庭に向かった。
 宮殿の庭には池がありそのほとりに牡丹が咲いている。王充の屋敷の牡丹は白ばかりであるがここの牡丹は赤しかない。呂布は今その牡丹が咲き誇る宮殿の庭に出て来たのであった。
「貂蝉!何処なのだ!」
 貂蝉の名を呼んで歩き回る。するとそこに彼女が立っていた。
「貂蝉、ここにおったか」
「将軍、どうしてこちらへ」
「そなたを連れに参った」
 呂布はにこりと笑って彼女に述べてきた。
「ここにな」
「ですが私は」
 貂蝉は彼の言葉にも笑みにも顔を背けて言った。
「もう太師の」
「太師のことは最早いい」
 だが呂布はここで彼女にこう述べた。
「わしはもうそなただけしかいらぬ」
「私だけが」
「そうじゃ」
 彼はまた言う。
「だからここを出よう」
「二人きりでですか」
「左様、二人でな」
 貂蝉を見詰めている。見詰めるその目の中には彼女しか映ってはいなかった。
 だから彼は気付かなかった。彼女の目に彼は映っていなかったことに。そのことに気付かない程一途に彼女のことを想ってしまっていたのだ。
「では行くぞ」
 呂布は貂蝉の華奢な両肩に己の大きな手を置いて声をかけてきた。
「二人で」
「何処へ」
「そこまではわからぬ」
 すっと笑って述べた。彫の深い顔に穏やかな笑みが浮かんでいた。
「しかし。わしにはそなたがいてそなたにはわしがいる。だから」
「平気だと」
「どの様な者が来てもわしには勝てぬ」
 彼は断言した。
「心配は無用じゃ」
「太師が追って来られても」
「構わぬ。わしがおる」
「左様ですか」
「じゃから。行くぞ」 
 そのまま彼女を連れて出ようとする。ところが。
「むっ!?」
 それは小戟であった。手に持って投げるものである。
 寸分違わず呂布の眉間を狙っていた。しかしその程度のものは彼にとっては造作もないことであった。瞬き一つせずその小戟を右手ではたき落とす。戟は枯れた音を立てて庭に転がった。
「誰だ」
「言うまでもなかろう」
 太い男の声がした。董卓が二人の前に姿を現わしてきた。その顔は憤怒の相になり目からは火が出るようであった。その顔と目で呂布を見据えていた。
「離れよ。二度は言わぬ」
「それはこちらの言葉だ」
 呂布はそう董卓に返す。
「太師匠」
 そのうえで彼を呼ぶ。
「貂蝉を私に譲って下さるのではなかったのですか」
「貂蝉はわしのものだ」
 それが彼の返事であった。
「それ以外の何者でもない」
「左様ですか。それは私も同じこと」
 貂蝉の身体を横に置き両手をその肩に添えながら述べる。
「私もまた貂蝉を」
「他のものなら何でもやる」
 董卓は少しずつ二人に近寄りながら述べる。その腰には剣がある。
「天下ですらな」
「天下は貴方のものです」
 呂布は彼に言った。
「そうではなかったのですか?」
「ふん」
 しかし董卓はここでそれを否定してきた。
「天下か。下らぬな」
「何と」
「確かに今までのわしは天下を追い求めていた」
 驚く呂布にそう告げる。
「しかし。最早そんなものはどうでもよいのだ」
「どうでもよいと仰るのか」
「天下になそ何の価値がある」
 彼は言う。
「一人の女に比べればな。何の価値もないものじゃ」
「天下を捨てられるというのか、貴方は」
「そうじゃ、貂蝉の前にな」
 彼もまた呂布と同じ考えになっていたのだ。それをはっきりと言ってきた。
「栄耀栄華も財宝も。戦いの後の美酒でさえも」
 董卓は戦場で生きてきた男だ。戦場で戦い、戦場で笑ってきた。戦塵と叫び声こそが彼の家であり勝ち鬨と勝利の美酒こそが最高の馳走であった。それが董卓という男であった。しかし今彼はそれを、他ならぬ彼自身を否定してきたのだ。自らの全てをである。
「そんなものはもう要らぬ。わしは貂蝉だけが全てなのだ」
「それはならぬ」
 だが呂布も引き下がらない。
「貂蝉はわし以外の誰にも渡しはせぬ、何があろうともだ」
「何があろうともか」
 董卓は彼の言葉に問う。

 
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