軍楽
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3部分:第三章
第三章
「逃げろ!」
「こっちだ!」
あちこちで逃げ惑う人々の声がする。
「娘は何処、娘は!」
「お母さん、こっち!こっちだよ!」
煙と火の中で叫び声が木霊する。夜の暗闇は火によって燃え上がり真っ赤に染まっていた。それはまるで血で染まったかのようだった。
B−29の大編隊は東京を襲い焼夷弾で下町を中心として攻撃を仕掛けた。木造の家は焼夷弾の前に次々と燃え上がり紅蓮の炎と化した。人々はそこから逃げ惑い川に飛び込み家族を求めた。
だがやがて一人また一人と煙に倒れ迫り来る炎に焼かれていく。東京は地獄絵図となり断末魔の声と阿鼻叫喚の叫びに支配された。森宮もまたその中にいた。
「先生」
一人燃え盛る家の前にいる彼のところに駆けつけたのは服部だった。彼も顔や服のありこちが黒くなって顔中に汗をかいている。その彼が来たのである。
「御無事でしたか」
「服部君か」
「はい、原稿を受け取りに来たのですがそれどころではないですね」
肩で息をしつつ森宮に告げた。
「それは。とても」
「原稿か」
「向かう途中でこれです」
周囲を見回す。黒い世界は最早なくあちこちが紅蓮に染まっている。炎と叫び声が支配する赤い地獄になり果ててしまっていた。
「ここに来るだけでも必死でした」
「曲はある」
森宮はその彼に対して告げた。
「それはな。安心してくれ」
「そうですか。それは何よりです」
「あそこにある」
ここで彼は前にあるその燃え盛る家を指差したのだった。
「あそこにな」
「あそこっていいますと」
「実は少し外に出ていた」
こう話すのだった。
「それでな。空襲に遭いここに戻ったのだ」
「燃える家から出られたのではなかったのですか」
「まさかな。ここまで激しい空襲になるとは思わなかった」
「ですが逃げられなかったのですか?」
「逃げる?」
今の服部の言葉に目を顰めさせてきた。
「俺がか」
「この有様ですよ。とても」
「言ったな。兵隊さんは命を賭けている」
ここでもこのことを言うのだった。
「必死にな」
「それはそうですが」
「俺も同じだ」
今度はこう言った。
「俺もな。だからだ」
「先生、まさか」
「すぐ戻る」
ここでまた家の方を見た。最早巨大な炎になり果てている。
「少ししたらな」
「馬鹿なことは言わないで下さい」
流石に服部もこれは止めた。
「あんな中に飛び込んだらどうなるか」
「だが。曲はあの中にある」
彼は聞こうとはしなかった。
「靖国の英霊に捧げる歌がな」
「それはそうですが」
「行って来る」
毅然とした言葉と態度だった。
「少しな」
「先生・・・・・・」
「死ねばそれまでだ」
その言葉に迷いはなかった。
「そういうことだ。それではな」
「・・・・・・・・・」
服部はもう何も言えなかった。森宮はその間に身体を燃え盛る家に向けそのうえで家の中に飛び込んだ。紅蓮の炎と化しているその家に。
これが東京大空襲の時のことだった。これにより帝都は焦土と化した。あちこちに完全に炭化して男か女かさえわからない躯が転がり川の中では溺れて亡くなった人達が漂っている。地獄の後には無残な廃虚と死者の無念の声が木霊していた。服部はその中で沈んだ足取りで靖国神社に進んでいた。
「まさかあんなことするとは思いませんでしたよ」
「そうか」
「はい。本当に」
隣にいる若い将校に対して話す。二人でその焼け落ちた道を進む。建物もどれもこれも焼けてしまい落ち果ててしまっていた。本当に何もなくなってしまっていた。
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