軍楽
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1部分:第一章
第一章
軍楽
森宮音矢は作曲家だった。だが普通の作曲家ではない。彼は軍歌を作曲していた。
「俺の曲が兵隊さん達の心になるんだ」
彼はよくこんなことを言っていた。
「戦場に行って命を賭ける兵隊さん達のな。心になる」
「だからいつもそれだけ根を詰められるんですね」
「詰め足りない」
彼にしてみればそうだった。
「まだな。全くだ」
「全くですか」
「何度も言うが兵隊さんは命を賭けている」
彼はこのことを常に意識していた。その意識の中で作曲し楽譜に曲を書いていくのだった。
「命をな。賭けているんだ」
「だから森宮さんもですか」
「兵隊さんが命を賭けているんだ」
彼も必死だった。
「だから俺も。曲に魂を込める」
こう決意して作曲していくのだった。彼の曲はその込めてある魂通り戦場にある兵士達の心を打ち感動させ奮い立たせた。それこそが彼の誇りだった。
時代は辛い時代だった。第二次世界大戦も終盤で日本の敗色は濃厚となっていた。だがその中でも彼の作曲は続いたのだった。
「皆戦っているんだ」
彼はまた言うのだった。
「特に戦場では。兵隊さん達が」
「ですが森宮さん」
作られた曲を受け取りに来た陸軍省の若い文官が心配する顔で彼に声をかけてきた。
「それでも。あんまりにも根を詰め過ぎですよ」
「何度も言うぞ」
何日も碌に寝ておらず食べ物も取らず痩せ、やつれた顔をその文官に向けて告げた。元々痩せていた彼の顔は最早幽鬼を思わせる鬼気迫るものになっていた。
「兵隊さん達は命を賭けているんだ」
「それはそうですけれど」
「だから俺もだ」
彼の考えはこれに尽きた。
「俺も命を賭けるんだ」
「音楽にですか」
「君だってそうだろう?」
ここでその若い文官に顔を向けて問うた。
「君も軍属だな」
「はい」
それはこの文官も否定しなかった。例え文官であっても軍属だからだ。それだけの気概は持っている。そういうことであった。彼にしろ。
「それはもう」
「俺もだ。軍人じゃないが」
「それでもですね」
「この曲で兵隊さんを奮い立たせる」
言いながら楽譜に曲を書いていく。音符やシャープが次々と書き込まれていくのだった。
「俺の曲で。何があってもな」
「では先生」
文官は森宮のその言葉を聞いて澄み切ったような、それでいて強い顔で言ってきた。
「この服部時三郎もまた」
「覚悟はできているな」
「先生の曲、何があっても受け取らせて頂きます」
こう言うのだった。
「そして陸軍省に届けますので」
「頼むぞ。しかしだ」
森宮は一枚書き終えたところで顔をあげたのだった。
「最近な」
「そうですね。何か随分と空襲が」
「激しくなってきたな」
この時は昭和十九年だった。サイパンが陥落したのだ。
それによりB−29が襲来することになった。この爆撃機の空爆により日本は焦土になろうとしていたのだ。
それは今彼等がいる東京も同じであった。空襲は日増しに激しくなっていた。
「今日も来るかな」
「どうでしょうかね」
「最近昼に来ることが少なくなった」
こう言う森宮だった。
「むしろ夜にな」
「しかも工業地帯だけを狙うわけじゃないですし」
「俺達が今いるこの場所にもな」
「はい。爆弾を落としてきます」
「厄介な奴等だ」
森宮の言葉が忌々しげなものになった。
「全くな。次から次にな」
「全くです。ですが日本は」
「ああ、負けはしない」
今度の言葉は確かでかつ強いものだった。
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