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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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歌劇――あるいは破滅への神話
  ―1―


 1.

 そして牢獄が開いた。少女は窓辺にいた。鉄格子の向こう、雪を汚した血と手首に、なお止めどなく雪が降り積もるのを見ていた。輪郭もおぼろな影が、二、三、ちぎれた手首に群がり覆い隠した。影たちが散った後、血の痕だけが残った。
 少女は暗い牢獄の、とりわけ暗い鉄扉へと顔を向けた。そこに、外にいたものと同じ影が揺らいでいた。
「きっと職人だったわ」
 薄闇をかき集め、ぎゅっと濃縮したような、かろうじて人の形をとどめ揺らいでいる影に、少女は語りかけた。
「そう思わせる手だった、今のは。豆だらけで荒れてて。何の職人でしょうね。あるいは船乗りかしらね」
「広場へ来い」
 影は無視した。
「『根』がお呼びだ」
 少女は廊下に出た。陽の差さぬ廊下は独房より寒かった。円い建物の内部に張り巡らされた円い廊下。廊下の柵の向こうは奈落で、遥か下から水の流れる音が聞こえてきた。薄い靴底越しに、水の震動を感じた。
「でも、やっぱり職人だと思うわ」
 影に導かれながら、無視されようと構わず少女は語り続けた。
「彫刻家かもね。音楽家ではないと思うわ、勘だけど。いずれにしろ、手を大事にしていたのよ。だって、ねえ、四散した記憶を寄せ集めて、ようやく実体化した姿が手だなんて」
 影と少女は、緩やかなスロープになった廊下を下り続けた。ドアのない出入り口が、スロープの下の方で、仄かな雪明りを集めていた。
 その出入り口は矩形で、水道橋の上に続いていた。外に出るや、少女の縮れた髪はたちまち凍りついた。
 水道橋は白く、膝まで積もる新雪の下には氷が張っていた。鈍色の雲が、向こうの分水塔の更に向こうまで果てしなく続いていた。
 少女は手を伸ばし、前を行く影に指を入れた。
 砲塔が見えた。
 古い亡霊だわ、砲兵だったのね、陸があった時代の。きっと、漂流によってしか戦争を終わらせられなかった事を悔いて啜り泣いていたような亡霊。少女は影に触れたままでいた。後の記憶はいずれも断片的であった。焼けていく麦畑。薄汚れた農民。そして、煌めきながら飛んでくる鉄の鏃によって、一連の記憶は終わった。
 分水塔が近付いてくる。
 塔を巻く鉄路が目に飛びこみ、少女は血が沸き立つのを感じた。顔がかっと熱くなり、興奮に任せ、影に叫んだ。
「あれよ! 私が首を吊った手すりは!」
 影は立ち止まった。
「私、覚えている……古い腰飾りの端を首に巻いたの。それからもう一方の端をあの手すりに巻いた。あれよ、あれ。あの踊り場、直角に折れ曲がるところ。私はあそこに両足を載せて、暫くしゃがんだ姿勢で下を覗きこんでから、飛んだわ」
 影は歩き出そうとしない。少女は続けた。
「ものすごく後悔した……。その一瞬、すごく……。そしたらね、首ががくんってなって、まるで、ちぎれたみたいな感じで……」
「名は何だ」
 唐突に影は尋ねた。少女は黙り、気まずさを噛みしめた後答えた。
「ウラルタ」
「覚えておけ、名を持つ者。記憶を垂れ流すな。それは我らの輪郭を崩壊させる。それゆえお前は監禁されたのだと、忘れるな」
 影は歩き出す。少女は喋らない。喋らず、心で繰り返す。私はウラルタ。イグニスのウラルタ。監獄塔の少女。命への反逆者。
 凍る鉄路を伝って、影とウラルタは地に降りた。
 広場は暗かった。中央に常緑樹が鋭く立ち、枝といわず葉と言わず白い雪をいっぱいに載せ、乏しい空の光を遮っていた。
 有害な蒸気のように、影が四方から湧き上がってきた。足許まで伸びてきた影に、ウラルタはしゃがみこみ触れた。おぼろな記憶が見えた。男が暖炉の上に旗を飾っている様子をじっと見ている記憶だった。
「監獄塔の娘……」
 影が語る。ウラルタは別の影に触れた。血で汚れた手の記憶が見えた。
「何故私を呼んだの」
「お前はここから出て行かなければならない」
 ウラルタは唾を呑む。
「わかってたわ、いつかそう言われるって。厄介払いがしたいんでしょ」
 意外にも、「違う」、それが影の答えだった。
「我々は消えつつある」
 ウラルタは続きを待った。
「かつて世界は無数の相に分かたれていた。相は収縮し、星は消えた。厚い雲の奥に隠れた。我らは肉を失い彷徨うおぼろな影となった。お前を除いてだ、ウラルタ。名を持つ者」
「誰しも名を持っていたわ。あんただってそうでしょ」
「私はいない。私は『根』。無数の影の寄せ集め。個の集合体でもなければ、集合体から生まれた個でもない」
 ウラルタはぞっとして雪雲を見上げ、数秒、影がいない場所へと意識を逃がした。
「影たちは望んで根に吸収され、そうでなければ記憶をかき集めて無理な実体化を試み、死を迎える」
 そうして我々は消えつつある、と、影は繰り返した。
「何故そのような死を迎えるのだ。過去とはそれほど甘美なものなのか」
「知らないわ。私にとってはそうじゃない――」
「神と星が消えた世界にお前は落ちてきた。その姿のまま落ちてきた。過去生の記憶を保持したまま。その事の意味は分からぬが、意味を与える事はできる」
 ウラルタは再び足許を見た。影は広場いっぱいに広がっていた。
「もしも過去に希望があるのなら、お前はそれを探し出せ。世界が変遷する意味があるのなら、それを探し出せ」
「もし両方ともなかったら?」
「世界を破壊しろ。肉体を持つお前にはそれができる」
 ウラルタは突っ立ったまま途方に暮れた。
 私は過去にだって希望がない。素晴らしい記憶もない。だから死んだ。
 あるいは、自殺という罪を犯したウラルタなら、もう一度世界の自殺という罪に手を染める事ができると、影達は期待しているのかもしれなかった。
「私はそちらの道を選ぶかもね」
「どちらでも構わない」
 ウラルタは足首で影をかき分けて歩きだした。
「お前は幸せだ。運命を受け入れる時間が残された。ウラルタ、お前は選ばれた――」
 いずれにしろ、もうこの町にいる気がないのなら、歩くしかなかった。生前、一時は希望であったその場所が見える内に。
 広場を抜け、通りに出る。まっすぐ続く道の向こうに、雪雲に刺さる尖塔をもつその建物が見えた。
 歌劇場。
 ウラルタは、雪道にまっすぐ足跡を刻み歩いた。
 私はウラルタ。世界を壊す者。意味と希望が存在しないのなら。
 影達は私を幸せな少女と呼ぶ。
 選ばれた少女。


 
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