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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
  ―6―



 6.

 交戦開始からどれほど経ったかわからない。兵士たちの会話に注意して耳を傾ければ多少の状況はわかるだろうが、ラプサーラはその程度の事すらする気になれなかった。
 後方に第一線突破の報が入った時にはもう日が高くなっていた。森の中は蒸し暑く、汗が出る。カルプセスの市民達は行動開始に備え立ち上がらされたが、それからも長い待機が続いた。
 痺れをきらした市民が囁く。
「新シュトラトのセルセト軍は何をやっているんだ」
 グロズナ軍はセルセト軍が駐留する新シュトラトを背に布陣していた。彼らにとって新シュトラトは脅威ではないという事だ。
 セルセト軍は日和見を決めこんでいるのか?
 それならまだ救いはある。でもそうじゃなくて、新シュトラトは既に陥落しているんじゃないか?
 そんな残酷な話があるか。ここまで来て。だとしたら前線のセルセト兵は何の為に戦っている? 布陣を突破しても意味はなく、待ち受けるのは市内での殺戮だけ。そんな事があってたまるか。
 ついに市民たちの移動が開始された。森の中をのろのろ進んだ先に、痩せたセルセト兵達が待っていた。両手に持つ木の大楯は、過去にグロズナ軍から奪ったものだ。
 一列に並ばされ、森を出た。大楯を構えた兵士たちが壁となり、列の左右を守る。絶叫が平原を埋め尽くしていた。セルセト兵達は痩せ、やつれ、数を減らし、衰弱した体に重い鎧を纏わせ、その中で汗をかき、失禁し、涙を流し、それでも体力を振り絞り、市民たちを守り戦っていた。
 足許の草だけを見て、ラプサーラは歩いた。
 矢が上から降ってきた。
 大楯を持つ兵士がよろめく。矢は止む事なく降った。兵士らは左右の間隔を縮め、自然と護衛される市民達も密着しあう形となり、前進速度は否応なく落ちた。矢は楯に刺さる度、殴りつけるような音を立てた。やがてより破滅的な暴力が、風を切り飛んできた。その風切り音は余りにも間抜けに聞こえ、しかしラプサーラの目の前に現れた瞬間、ぐちゃ、と惨い音に変わった。
 兵士の兜を陥没させ、石がその頭にのめりこんだ。投石器だ。頭を潰された兵士は楯を持ったまま倒れた。感情も人間らしさも失った筈なのに、死んだ兵士の横を通る時、ラプサーラは引き裂かれるような痛みを感じた。何故彼が死ななければならなかったのか、わからなかった。答えがあるとしたら、生きているから、という答えに違いなかった。
 石はひっきりなしに降ってきて、列の近く、あるいはただ中に着弾しては、人と土くれと石つぶてを飛ばした。隣を歩く兵士の腕は震え、楯を持ち続けるのも限界が近いように見えた。楯の内側には貫通した鏃が幾つも見え、新たな矢が当たる度、兵士の肩は酷く揺れる。
 負けやしないわ。ラプサーラは思いこみの力に頼った。負けない、こちらには魔術師が三人もいる。ドミネに、リヴァンスに、ミューモット。後方からベリルが追って来ているかもしれない。もしかしたらもう合流しているかも。いいや、本当は勝とうが負けようがどうだっていい。自分だけでも生き残れればいい――自分さえ良ければいい――。
 不意に前方が活気付いた。やはり状況はわからない。それでも明るい狂乱が確かに波及してきた。
 気付けば敵の弓射部隊が沈黙していた。
「『エシカの党』だ!」
 兵士たちの伝言が前方から伝わってきた。
「ペニェフの義勇軍だ! 『エシカの党』が動いたぞ! 助かったんだ!」
 隊列が乱れた。助かった。その一言で自制の振り切れた市民達が、統率を失いてんでに走り出したのだ。何の事はない、皆考える事は同じだった。自分だけでも助かりたいと。
 後ろから押され、転ばされそうになりながら、ラプサーラも小高い丘を駆け上がり、逃げ惑った。すぐ近くに投石器の石が着弾し、土の柱を打ち立てる。その土を頭から浴びようが、口の中が土まみれになろうが、関係なかった。
 道を守れ! 兵士達が叫ぶ。小高い丘。地平線。
 その先に壁が見えてきた。
 夢に見た新シュトラトの市壁だった。
 生存へ続く確かな一本道が見えた。投石と、抉れた大地と、踏みにじられた草と、転がる骸の道が。
 顔に異和感を受けた。魔力の疼きだ。汗で洗い落とされたベリルの血。それによって描かれた模様が激しく熱を放つ。
 丘の上で振り返った。
 ベリルが見えた。白い長い髪。若草色のマント。彼はただ一人の護衛もつけず丘陵に立っていた。
 緑の界の圧力とベリルの殺意が額を圧迫する。彼の周りにはセルセト兵達が倒れている。
 護衛たちは皆、魔術師を守り死んだのだ。
 ベリルは遠くの敵に集中するあまり、自分のおかれた状況に気付いていないように見えた。
「ベリル」
 彼の後ろの草の道を、グロズナ兵が上ってくる。
 ラプサーラは声を上げる。ベリル! 渇いた喉は裂けて血が出そうだった。ベリル! 逃げて、と叫んだ。声は、大地の底の夏の澱を僅かにかき混ぜただけであった。ベリル!
 グロズナ兵が五、六人、魔術師の背後に迫る。
 ラプサーラは白く光る剣がベリルの背に突き立てられ、彼がよろめくのを見た。魔力も殺意も消えて、額が軽くなる。
 二人、三人と、ベリルに斬りかかった。ベリルは草の上に両膝をつき、ゆっくりと倒れ伏した。白髪が赤く染まっていく。
 ラプサーラは待った。奇跡を信じた。緑の界の力が、慈悲の神マールの力が、ベリル自身の魔術の才覚が、彼を救う事を信じた。
 グロズナ兵達は何度もベリルの背に剣を突き立てた。何度も。ベリルは無抵抗だ。グロズナ達は魔術への恐怖ゆえ執拗に攻撃を加え続けた。ベリルはまだ動かない。逃げも戦いもしない。
 もうそんな事をする必要はないと、グロズナ兵に知らしめているのだ。自らの死を。
 後ろから襟首を掴まれた。
「走れ!」
 ミューモットだった。ラプサーラは己を取り巻く状況のただ中へと意識を連れ戻された。真後ろに立つミューモット。その肩越しに新シュトラトの市壁が見える。セルセト兵に守られた、一本の道と小さな門。そこにカルプセスの市民が殺到し、横に広がり、セルセト兵達の統率が乱れ、ここぞとばかりにグロズナ兵が襲いかかり、恐慌状態の市民はグロズナ兵に殴りかかっては群の中に引きずり込む。何人かのグロズナ兵が人々の足許に消え、見えなくなった。
「ベリルが、ベリルが……」
 あんな所には行けない。ラプサーラは口をぱくつかせた。この場所から離れては行けない。ベリルを置いて行くなど――助けもせず行くなど――。
「ミューモット! ベリルを助けて!」
 ラプサーラはミューモットの上衣を掴んだ。
「助けて! 助けてよ! 何ぼうっと突っ立ってんのよ! 早く行ってあげて!」
「奴は死んだ!」
 ミューモットはラプサーラを引きはがし、市壁がある方へ突き飛ばす。ラプサーラは転んだが、たちまち立ち上がり、掴みかかった。その俊敏さにミューモットはたじろいだ。
「ベリルを助けて!」
 顔を真っ赤にし、歪めながら、ラプサーラは泣き叫ぶ。助けてよ!
 叫びは長い悲鳴となった。それはラプサーラがくず折れ、髪を掻き毟り、地に伏すと途絶えた。

 ※

 グロズナ達はついに、カルプセスの市庁舎を巡る堀に橋を架けた。そうなれば木兵たちがいかに矢を射かけたところで効果はなかった。風上では蜂達が嫌う種類の香草が焚かれ、煙の中でセルセト兵たちが殺されていった。ペニェフの老いた男たちが、先に殺された懐かしいグロズナの隣人達を追うように殺された。ペニェフの女たちが、どこに行ったかわからない、生きているかもわからない、そして多くは悪い予感の通りの末路を迎えた息子や恋人や夫や父や兄や弟たちの後を追うように殺された。
 ペシュミンはその目で見たわけではない。見たい筈などなく、ナザエも、見せたいと思わなかった。
 グロズナ達の攻撃が始まった時、戦いは今日で終わるとナザエは理解した。わかっていた事だ。
 この引き延ばされた余生とは何だったのだろう。逃亡先にカルプセスを選択した時に。村に残るか出るかを皆で話し合い、頑なに村に留まる老人達を残して難民の身となった時に。いいや、それより前、故郷の村にグロズナの民兵達が来て、男達が連れて行かれた時に。それを言うならペニェフに生まれただけで、この時代、この地に生まれただけで、違う、ただ生まれた、それだけで、死は決定づけられていたのに。
 何故生まれたのだろう。何故生きたのだろう。
 何故生んだのだろう。何故生かしたいのだろう。
「ペシュミン」
 ナザエはしゃがみこんで娘を抱いた。市庁舎の最上階、左翼の賓客用の居室。やつれた娘は青い絨毯の上に虚ろな表情で棒立ちになり、されるがままだ。ナザエの頬が顔を濡らしても、もはや何も感じぬ様子だった。地獄の階下を省みず、ナザエはペシュミンを離さない。もう二度と会えないのに、どうして放す事ができる?
「ママ?」
 どこか眠そうな調子でペシュミンが呼ぶ。ナザエは手で顔を拭き、濁って深みのない、知能が後退したようなペシュミンの瞳を見つめた。
「大丈夫、ペシュミン。あなたは神様が守ってくれる」
 髪を撫でた。そのまま細い肩に触れ、二の腕へ、肘へと手を滑らせ、最後に掌を握った。
「セルセト人のお兄さん達が守ってくれるから、みんなが逃げ道を探してるから、それに、神様が――」
 ナザエは娘を抱き上げ、衣装戸棚に隠した。
「ママ、どこ行くの?」
「神ルフマンに祈りなさい……感謝なさい、大丈夫、大丈夫だから……」
 戸に手をかける。自らの手で、娘と自らを隔てなければならなかった。それは辛かった。けれど、今は別れの辛さに勝てる強さがあった。ペシュミンが娘だから。自分が母親だから。
「いい? ここから出ては駄目よ。誰が来ても、何が聞こえても駄目よ」
「ママ、ママどこ行くの? ねえママ」
 ナザエは耳に届く物音から、階段のすぐ下で戦いが行われている事を察した。これ以上ここにいてはペシュミンが危険にさらされる。ここには誰も来なかった。ここには誰もいない。そう思わせなければならない。
 衣装戸棚が閉ざされる。
 母親の気配が遠ざかって行った。
 ペシュミンとてもはや戦争の意味がわからぬ筈がない。だから待った。暗闇で膝を抱えて静けさが戻るのを待った。
 きっとママは帰って来ないのだ、あの日村から連れて行かれた父親と同じように。
 けれど、神が信徒を守るというのなら、信仰が自分を守るというのなら、それを信じたかった。
「瑠璃の界にまします神ルフマンよ、ねがわくはみくにのへいわがちにもたらされんことを――」
 物心ついた頃から唱えていた祈りを繰り返す。
 花がないと思い至る。ルフマンに捧げる花がない。ああ、花がないと。花がないと聞いてもらえないかもしれない。助けてもらえないかもしれない。
「ママ」
 ペシュミンは涙を流す。
 母が恋しかった。どこにいるともわからぬ神よりも。
 物の焼ける臭いが戸の向こうから漂ってきた。豊作を祈る祭りの篝火に少し似た、けれどそれより色々な臭いの混じった、脂っこい臭いだった。
「ママ!」
 少しだけ、少しだけ、ママを捜すだけ。言いつけを破って衣装戸棚を出た。部屋の大きな窓の外は煙で何も見えなかった。
「ママ、ママー!」
 呼び始めると我慢できなくなった。母親がどこに行ったかなど知る筈もなかった。ペシュミンは叫びながら廊下にさまよい出た。歩廊から風に乗って流れてきた煙が辺りに充満していた。視野を塞ぐ煙はペシュミンを恐怖に陥れるには十分だった。
「ママぁ」
 顔をくしゃくしゃにし、泣きながらあてどなく煙の中を歩いた。どの方向から母に連れられて来たのか思い出せず、何となくそうだと思う方へ歩いていく。泣いていれば、いつも通りにママが来て、泣きやむまでそばにいてくれると期待した。
「ママー! ママ、どこぉ」
 手が見えた。煙を布のようにかき分けて、ロロノイが現れた。
「おい、チビ!」
 目を大きく見開いたロロノイの後ろ。
 剣が振り上げられた。ロロノイは気配に気付き、剣をかざすが遅かった。ロロノイの剣は敵兵の剣を弾く事なく虚しく空を切り、空中で動きを止めて、しばし後手から滑り落ちた。
 ロロノイはペシュミンを振り返った。
 何か言おうとした。代わりに口から血が溢れた。彼が言葉を残そうとする度、泡立つ血が顔を汚し、ついに横ざまに倒れた。
 血が筋を描く剣を手に、グロズナの若い兵士が立っていた。兵士はロロノイが最期に見たものを、即ちペシュミンを見た。彼は硬直し、顔に恐れを滲ませて立ち竦んだ。彼はペシュミンが無力だから恐れた。ペシュミンが無害だから恐れた。立ち尽くしていれば、その存在が、一つの惨い運命が消えるのではないかと期待して、兵士は動かない。あるいは動かずにいれば、己が殺すべき相手が無力ではなくなる事を、かくも幼くはなくなる事をどこかで期待して。
 殺戮が階段を上がって来た。それは煙の向こうから迫り、呆けている若い兵士を突き飛ばし、彼に怒号を浴びせてペシュミンの眼前に立った。
 ペシュミンは自分を殺す兵士の顔を見なかった。誰であれ、どのような顔であれ、関係なかった。
 運命も、受け容れるという事も知らぬ幼子に、なお運命の剣は振り下ろされた。
 蜂が見えた。
 それは、最期に惨いものを、あまりにも惨いものを見ずに済むよう現れた慈悲であった。ペシュミンは天井付近に滞空する一匹の蜂を凝視した。ゆえに、剣の鈍い光も、それが振り下ろされる軌跡も、刃が己の皮膚と脂肪と肉を袈裟掛けに切り裂いて、幼い体をその一撃で破壊する様子も見ずに済んだ。ただ突き飛ばされるような衝撃を感じ、その力の強さに驚いた。痛いとは思わなかった。熱かった。
 蜂はまだ高い所からペシュミンを見守っていた。
「蜂さん」
 命の暗闇の中で、ペシュミンは動かぬ手を伸ばす。出ない声で呼ぶ。蜂は暗闇の底へ沈むように消えて行った。
「蜂さん、待って。どこに行くの?」
 ペシュミンは歩いて蜂を追った。
「蜂さん、蜂さん」
 光射す。蜂を照らす。闇が消え、熱さも消えた。
 野の花が咲き乱れる丘に、ペシュミンは立っていた。
 弾ける夏の光と風が花々を香り立たせる。見下ろす川は故郷のカルプス川。川向こうに緑の麦が実り、のどかに昇る煙は、村の炊事の煙だ。
「お花!」
 ペシュミンは両腕を広げ、振り回しながら踊り、駆け、飛び跳ねた。
「お花がいっぱいだよ! ねえ、ママの分もあるよ! パパの分もある! 見て。神官長様や、ミハルや、おじさんの分もあるよ!」
 蜂は、ペシュミンの顔の近くを飛んでついて来る。
「ねえ、こんだけ沢山あったら、神様もお願い事聞いてくれるよね? 死ななくてもいいんだよね?」
 ペシュミンはしゃがみこみ、右手で野花を摘んで、左手に握りしめる。握りしめた端から花は消えていく。摘んでも摘んでも消えていく。
 頬に光るのは涙ではない。悲しみ、絶望するほどの、生きる事に対する答えをまだ、ペシュミンは何も知らないから、涙であるとは思えなかった。
「蜂さん、蜂さん」
 ペシュミンは立ち上がった。笑顔で踊る。くるくる回る。頬に雫を光らせて。
「ね、蜂さん。どうして人は生まれるの? 死ぬ為に、生まれるの? 苦しむ為に、生まれるの?」
 ペシュミンの笑う口の横を伝い、光が痩せた顎に達し、野に落ちた。
「どうして私は生まれたの? 泣く為に、生まれてきたの? 殺される為に生まれたの?」
「罰を受ける為だ」
 蜂は思いのほか明瞭な声で答えた。
「罰? 何の? 存在する事の罰だとでも?」
「自ら命を絶った罰だ」
「自ら命を? してないわ、そんな事。するわけないじゃない」
「今なら思い出せるはずだ。君が自らの命に犯した罪を。君はかつて水相で侍祭の子として生まれた。君は生きる意味を探し求め、見出せず絶望した。知っていただろう。生きる事を放棄した者は輪廻転生からの解脱叶わず、再度生き直さなければならない」
「それは水相での話でしょ? ここは収相よ。私、あのシケた、臭い、馬鹿げた、しみったれた世界からは、とっくの昔におさらばした筈よ」
「ここは水相だ」
 蜂の言葉が相を、ペシュミンの――ウラルタの世界の認識領域を広げ、しかる後すり替えた。
 丘は消えた。消えて、苔と黴が生えた木の道になった。
 草のさざめきは消えた。消えて、陸のない世界を漂流する町の頼りない軋みになった。
 花の香りは消えた。消えて、噎せ返るほどの潮と水死者の腐臭になった。
 ウラルタは迫り来る夜に怯えて漂流する。命を、肉体を、意識を。
 果てしない夕闇の中を。
「嫌だ!」
 ウラルタは頭を抱え、跪いて叫んだ。かつて祖父が蘇り歩いて来た道で、絶えず緑の波が洗う、その腐った道の端で、ウラルタは絶叫した。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」
「思い出したようだな」
「見たくない! 消してよ!」
 幼い子供のように頭を左右に振る。
「私、水相は嫌なの! 嫌いなのよ!」
 涙で濡れた顔を上げる。蜂はまだ近くにいた。
「こんな世界大っ嫌い――ねえ、あなたはこんな場所で、未来もない、希望もない、ただ滅び損ねただけの世界で何をして生きろと言うの? 私が世界を生きる事に何の意味があると言うの!?」
「意味などない」
 蜂は断じた。
「意味のない所、ならある。君の魂の空白に。その空白を意識する事は難しいだろう。生きる事を意味で測る事はできない。しかし、意味の軛から正気のまま逃れる事もまた困難だ。意味という判断基準を失った人間は狂人でしかない。ウラルタ、君は正しく狂う事ができなかった。だから死んだ」
「じゃあどうすればいいのよ――」
 ウラルタは両手で顔を拭う。長い時をかけて、いつか町をばらばらにしてしまう破滅の歌、波の音楽を聞きながら。
「生きろ」
 羽音を立てながら、蜂は高度を上げる。
「人よ、自ら死ぬ必要はない。じきに全てが終わるのだ。全ての生きる苦しみが終わる――」
 消えていく。飛んでいく。夜の中、恐怖の中へと。そこには闇しかない。そこには死しかない。破壊と、戦いしかない場所へ、蜂は帰っていく。
「己がさだめを生きるが良い、腐術の魔女」
 赤い空、病める太陽。その彼方に小さな点となって吸いこまれていき、ウラルタは手を伸ばすけれど見えず――。
 カルプセスの市庁舎で、死んだペシュミンの体が倒れる。


 
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